ずいずいずっころばし
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2004年12月30日(木) れんこんと柚子と鶴見和子

れんこんをお隣にお裾分けしたら、律儀にもすぐ「ゆず」やら何やらお返しにみえた。
お隣の奥様は年の頃は60代。珍しいものをいただいたときお裾分けをしたりする程度のおつきあい。
花友達でもある。塀際に植えた花やプランターの花に水やりをしているとき、花談義をする。
まちがっても近所のうわさ話などしない。本談義やら音楽談義もできるなかなかの人。

昨日は門の前で頂いたばかりの「ゆず」の袋をさげて小一時間も立ち話をしてしまった。
上野千鶴子さんの話をしたついでに鶴見和子さんの著書について水を向けてみると鶴見俊輔から水俣問題にいたるまで話題が広がってけんけん諤々。
打てば響く手応えに嬉しくなった。年の瀬だっていうのに女二人、寒風の吹きさらす中、鶴見和子の話で熱くなれるのだから嬉しいじゃないか!それも年代がかけ離れた母のような人と。

「おおさむっ!」と震えながら家に入って袋の中身を見ると、柚子の他に手指のクリームが入っていた。
「ピアノを弾く指をお大事に」と別れ際に言った言葉の意味がやっと分かった。
やさしい母のような心づかいに胸が熱くなった。

もしかしたらこのハンドクリームを渡したくて「ゆず」をくださったのかもしれない。
なぜなら「ゆず」はたったの3個しか入っていなかったもの・・・。


2004年12月16日(木) 「五衰の人」

水仙の花が高貴な香りを放って楚々として咲いている。

水仙の花というと三島由紀夫の「唯識説」を思い出す。それはこうだ:
世の中のあらゆる存在は、識すなわち心のはたらきによって表された仮の存在にすぎない。しかし、、それだけなら、単なる虚無になってしまう。一茎の水仙は、目で見、手で触れることによって存在する。だが眠っている間、人は枕もとの花瓶に活けた水仙の花を、夜もすがら一刹那一刹那に、その存在を確証しつづけることができるだろうか?人間の意識がことごとく眠っても、一茎の水仙とそれをめぐる世界は存在するのだろうか?

『暁の寺』では三島由紀夫は「世界は存在しなければならない」と何度も書いている。世界がすべての現象としての影にすぎず、認識の投影に他ならなかったら、世界は無であり存在しない。「しかし、世界は存在しなければならないのだ!」と繰り返す。

難しい陽明学をもとにした考え方なのだろうか?こんなことを考えながら日々を過ごしていた三島由紀夫という人物は早くから五衰の人となってしまっていたに違いない。

不可解。
水仙の花をみながらふとこんな小難しい文章を思い出した今日一日だった。

明日も今日も、あさっても単純に生きていくであろう私には虚無も実存もない。

三島由紀夫が「五衰の人」であるなら私は「午睡の人」である。


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