ずいずいずっころばし
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父親が不在がちだった私にとって父親という人物は謎だ。 今もって謎の人物。
父がアメリカから帰国した頃は、知らないおじさんが家にいるようで馴染めずむしろ嫌いな存在だった。 それは大好きな母を父親にとられてしまうようなきがして疎ましく嫌いになっていった。
それなのに父親の心を欲しがる私だった。 父を嫌悪し、心の奥ではその影を慕って、理解しようともがいた。
読書家だった父は常に本を読み、著述をした。 溢れかえる本と新聞の山を、古本屋のオヤジが3ヶ月に一度、トラックを乗りつけて山をさらって行った。
父を知りたくて、 席をはずしたときに父の読みさしのページをこっそりと読み、何を読んでいるのか、何を考えているのか知ろうとした。
きっと空白の時間とその心を私の心の中にとり込みたかったのだろう。
そして父も同じだった。 宿題をやりながら寝てしまった私のノートの間違い個所が、父の字で訂正されていたりした。
不器用な父と娘。
そんな父親が病気になって入院した。 父の体を熱いタオルで拭きながら少し痩せた背中を見たとき、私の中の「見知らぬ父」が消えた。 あんなに偉大で近寄りがたかった父はもうそこにはいなかった。
私のつっぱった気もちが瓦解してしまった。 世の中に突っ張って、父親に突っ張って、露悪的なまでに自暴自棄になった気持ちがすっかり失せてしまった。
父親なんかに頼るものか、今に見ておれ、超えてやる・・・・
謎の多い父親に理想の父を、理想の男像を描いてその影を追っていた私。
男友達をいつしか父と比較している私。
完全な父親コンプレックスだった。
そんな呪縛から解き放たれてみれば、良かったかと言うと、そうでもない。 むしろさみしく虚しい。
偶像なんて奴は心が勝手に生み出した蜃気楼。
男も女も、強く逞しく見えても、弱く女々しい部分をみな持っている。 また、弱く折れそうな柳も実はしなやかで安々とは折れたりはしないものだ。
亡くなってからのほうが日々父と心の中で対話することが多くなってきた。 あの沈黙は何だったのか? あの時の苦悩の様子はこうだったのだろうかとか・・・ あの栄光の陰には人知れぬ努力があったのだろうかとか・・ こんな時はどうすべきだろうか? などと自問自答する。
自分の中にいつのまにか父親が根付いている。 亡くなってから子供に与え残すことが多い父からの遺産。 死は悲しいことばかりではない。生前与えられなかった対話。心の中でいつもいつも父と対話する私。 死は人の心に死者を不老不死の者として生かすことなのかもしれない。 自らの心に静かに端座して深く思索を与えるもの。それが死者が残されたものに与える心の遺産なのだろう。
私が父にお願いしたかったたった一つのこと。
それはね、お父さん よそんちの子みたいにね お父さんと手をつないでね その辺をぶらっとね お散歩したかった たったそれだけなの
たったそれだけをどうして生涯言えなかったのだろう・・・・・・・
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