ずいずいずっころばし
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2005年02月20日(日) |
カラスウリの花と書評 |
本の最後のページを閉じるとき、深い吐息と共に目をあげる。 その目をあげたとき、それまでの世界が違って見える本がある。 そんな本はそう多くない。その感動をすぐ誰かに伝えたくなるとき、感動をしるしたくなるとき、書評というものができあがる。 しかし、読んだものすべてを書いてきたかというとそうでもない。むしろ書かないで胸の内で温め、反芻し、咀嚼する事の方が多いような気がする。 大好きな作家などは特にそうだ。 反芻や咀嚼の期間は数日の時も在れば、数年になるときもある。 焦点がぼんやりしていたものがある日突然その意味が分かったりするときもある。 誰かが書評を書くのはその作品にけりをつける事だと書いていた。でないと先にすすめないからと。 確かに一理ある。しかし、けりをつけなくたって、いつまでもひきずったって「悪かぁ〜ない」と私は思う。 「からすうり」の花をみたことがあるだろうか? 信じがたいほど幻想的で夢の世界にいるような花を咲かせるのだ。 それも夜咲くので咲く瞬間を目撃することはよほど注意していないと遭遇しない。 能・歌舞伎の「土蜘蛛」をポピュラーにしているのは、いうまでもなく、ぱっと舞台に広がる「糸」の演出。舞台一面に投げた「糸」が美しい放物線を描き、花が咲いたようになる。 カラスウリの花もそれに似ていて繊細な白い糸が網状に世にも幻想的に咲くのだから驚く。 こんな幻想的な「カラスウリ」の花を見ていると誰もがこの花の秘めたる物語に想いをめぐらせるのではなかろうか。 さて、話を本論に戻そう。なぜここで「カラスウリ」の花の話がでたかというと、『家守綺譚』に「カラス瓜」の章がでてくるのだ。 梨木香歩さんは私が好きな作家だ。 いつか「カラスウリ」の花についての物語を書いてみたいと思っていた私はこの章を読んでまさに「カラス瓜」の花を描いてこれにまさるものはないと思った。 この本についての想いは深い。 深いだけにそそくさとその書評を書くにはしのびないのである。 しかも、いまだに心の中で各章を味わっているので誰かが言ったように「書いてけりをつける」などという思いには到底なれないでいる。 いつまでも温めていたい本なのだ。 書評を書くのは難しく、書評を読むのは楽しい。
愛犬の散歩にでかけるいつもの公園には早くも紅梅が咲き始めた。 梅は桜のようにはなやかでそしてはかない風情はない。 けれど白梅などはその気品に満ちた風情と馥郁とした香りがあたりを静謐にする。 去年美術館で観た「和漢朗詠集」の本物には冷泉家の当主の水茎も鮮やかな文字が印象に残った。 そこにはこうあった:
池のこおりの東風(とんとう)は 風渡って解く 窓の梅の北面は 雪 封(ほう)じて寒し (藤原 篤茂 )
(立春のひ)東風が吹き渡って、池の氷も東の岸から解けはじめる。 だが、まだ冬の景色は残っていて、窓の外の梅は北側の枝など、 雪がかたく封じこめてなお寒い
寒さが残るなか、昔の人はこうもうたっている。 「梅一輪 一輪ほどのあたたかさ」
芭蕉の句、 「梅が香に 追ひもどさるる 寒さかな」 こうして春は三寒四温をくりかえしながら花に暦を教えるようにやってくる。
そう言えば梅の異名を知っている人は少ないのではなかろうか。 梅の異名を「好文木」と言う。 この言葉はその昔、中国の皇帝が『文を好めば梅開き、学を廃すれば 梅閉づる』と云ったことからつけられた。 茶の道ではこの季節、梅の透かし模様のある棚を出してお茶を点てる。 好文棚 その名も「好文棚」と言う。そしてまた、特別の釜をだす。それは「吊り釜」。 天井から鎖をたらし、小振りの釜を吊って茶を点てる。 ゆらゆらわずかに揺れる小さな吊り釜を囲んで客と亭主(茶を点てる人のこと)が一期一会の一時を楽しむ。 釜からしゅんしゅんと湯がたぎる音(松風と呼ばれる)を聞きながら一服の茶を嗜むとき、俗世界をすっかり忘れ、自分さえも忘れる瞬間だ。 茶室にわずかに差し込む日の光が梅の透かし模様に陰をつくり、赤のすり漆が鈍い光沢を放つ。
つくばいの根方に植えてある我が家の紅梅はまだ咲いていない。 枯れ枝につがいのめじろが止まって「チチチ」と鳴いた。 春はまだだろうか・・・
日溜まりにたゆたう午後が静かに過ぎようとしている・・・
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