ずいずいずっころばし
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2007年05月14日(月) |
野の花とジョージ・ギッシング |
私の随筆「センセイの鞄とジョージ・ギッシング」にも書いたように、 ギシングの文が年を追うごとにぴったりと身になじんで行くのが分かる昨今。
特に「ヘンリー・ライクロフトの私記」は西洋の徒然草のよう。
あんなに嫌だった田舎暮らしも終の棲家として愛着がわくようになった。
近くの牧場には乳牛が草をはみ、きじの「つがい」が散歩していたりする。
このひなびた所から20分ほど車で行ったところに大きな公園がある。 この公園が愛犬と私の唯一の憩いの場。 毎日出かけて、同じ風景のはずなのにこれが一つとして同じでない。 それはお天気にもよるし、私の心の風景が違うからかもしれない。
この公園はイギリスにいた時毎日学校まで近道して通った公園の風景とそっくりなので愛着がひとしおなのかもしれない。
この公園の池を一周する間に色々なことを考え、つぶやき、涙したりする。
春のまだ浅き頃、小さなすみれを見つけた時の喜び、空の青から切り取ってきたかのような可憐ないぬふぐり、クローバーの絨毯、ヤマモモの赤い実、蛇イチゴ、蓮の花、など、など。
ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中で、「今日は遠くまで散歩した。行ったさきで小さな白い花をつけたクルマバソウを見つけた。それは若いトネリコの林の中に生えていた」とある。 英国の美しい田園、デヴォンシャ−の四季の美。
ギッシングはその文を季節の綾な衣装にまとわせてライクロフトに語らせる。
それは日々自然の中にある私の身にまとう唯一の美しい言葉の衣装となり、季節の衣装となる。
無為徒食な私も、ただひたすら咲いている花や草の美しさに癒され、これを日々愛す心が、ライクロフトのそれと重なって一つとなる。
また、ライクロフトの本への陶酔的な描写(本を持つ幸福)が心を打って一人うなずく私。
高校生の時に読んだ、いや、読まされたジョージ・ギッシングはやたらにつまらなく、退屈極まりなかった。 それが時を経て今読み返してみるといぶし銀のような光を放って私の心を捉えて離さない。
私も年をとったということなのだろう。 そうしてみると年をとるということもそう悪くないものだ。
「人には添ってみよ」という言葉がある。 一人の人間の中には善も悪もあるものだ。 それを踏まえて添ってみようか・・・と最近思えるようになった。
あの野の花のように何のけれんみもなくただひたすら咲く花になりたいものだ。
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