ずいずいずっころばし
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2004年 岩波「図書」8月号に佐藤正午が寄せた文がある。 氏は三島由紀夫作『豊饒の海』中の蝉の声の直喩に注目。
『豊饒の海』四部作の『天人五衰』の最後に「数珠を繰るような蝉の声がここを領している」という直喩がある。
数珠を「揉む」ようなだとシュワシュワ、グリグリのような音でおそらく熊蝉だろうと推察できるが「数珠を繰る」とは数珠の一つ一つの珠を順にずらして指先で送っていくことである。はたしてどんな蝉なのだろうか?
仏壇からお数珠を出してきて私も手で繰ってみた。 水晶も、紫檀もサンゴのお数珠も珠がずらせない。繰ることもできず、音もなることもない。
はたして「数珠を繰るような蝉の声」とはどんな蝉なのだろうか?
「数珠を繰るような蝉の声」という蝉はいったいどんな蝉なのかも興味をひかれるけれど、 それよりも何よりも『豊饒の海』にはおびただしい数の直喩がなされている。
まったく三島由紀夫という作家は「言葉の達人」に他ならない。 直喩、つまり何々のように、何々するような、何々するようにという表現がおびただしいのである。
佐藤氏が調べただけでも「旗のように風のためだけに生きる」「緑の羅紗の上に紅白の象牙の球は、貝が足を出すように丸い影の端をちらりとのぞかせて静まっていた」などなど。
擬音語はありがたい。 例えばミンミンと言っただけで蝉を思い浮かべるだろうし、ジャージャーと言えば水や雨が勢いよく流れる様子がすぐ浮かぶ。
しかし、かの薄田泣菫や三島由紀夫のように、高雅な筆遣いでその趣や鳴き声やそのものの様子を描くことは言葉をつかさどるものの極みなのではなかろうか。
名にしおう名人と肩をならべようなどと大それたことを言っているのではないけれど、100に一つでも擬音語を使わず蝉の鳴き声を現すことができたなら、文を書く者の矜持が一歩前に進み出ることができるというもの。
「言葉の達人」にあらためて敬意をあらわしたい。
蝉。
なんと文人の感性を試す奴なのだろうか?
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