ずいずいずっころばし
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お能の稽古に通い出してから何年経つだろうか?
中断してはまた通い、通い、して久しい。
稽古するには遅まきなスタートだったかもしれない。
高校に「謡曲」クラブがあり、そこで謡曲と仕舞いを始めたのがきっかっけだった。
クラブ員はおおむね子供の頃より家族共々稽古に通っていたという連中が多かったような気がする。
私の両親、特に母は幼少の頃から宝生流に師事しており、父は結婚後母の影響で同じ派に所属していた。
私はそんな両親に逆らって観世流。
違いなど分からないまま、ただ逆らってみただけだった。
今は稽古場を3箇所も通っている。
一箇所は集団で稽古するカルチャーセンターのような所。(月に2回だけの稽古)
ここは個人で稽古をつけてもらえないが、兎に角先生が素晴らしくてやめられない。
名人がかならずしも良い指導者とは限らない。
このカルチャーセンターの先生は中堅どころの先生だけれど、教え方がぴか一!
苦労して習得した人だけに、素人の私達がどうして出来ないのかを良く心得ていて、憎いばかりに的を得た指導で私は涙がでそうになるくらい納得してマスターして先に進めるのが嬉しい。また、素人が到底しりようのない伝統の世界の裏話、能舞台での苦労話, 芸談義などが聞けて、面白くて、やめる人は皆無と言って良い。
この稽古が済むと昼御飯をそそくさと済ませ、バスを乗り継いで次ぎの稽古場へ向かう。
そこは、おおだなの呉服屋の2階。
百畳敷きの広い所で一人づつ稽古をつけてもらう。先生はこの道では画期的な女性能楽師。
中年になろうとしている凛とした人だが、名人の誉れ高い人。
能に生涯を捧げて独身。
1階にいると階上の師の謡いの声がガラス窓をびりびりと鳴らせて今にも割れそうなすごさだ。
稽古はとにかく厳しい。
なぜか私の仕舞いの稽古には厳しさが並のものではなく、音をあげそうになったり、泣きべそかきそうになる。
しかし、稽古を待つ間、弟子の一人であるおばさまがお抹茶を点ててくださり、おいしい御菓子が頂けて嬉しい。
食い意地の張っている私は実はなにを隠そう、このひとときが大好き。
お弟子さんはご高齢の方が多く、謡曲歴数十年という人ばかり。私は超若手で皆に可愛いがられていて幸せ。
しかもこの待ち時間に貴重なお話を弟子の長老方から聞けるのでゆめゆめ耳をおろそかには出来ないのである。
古老方は教えたがり!
待ち時間に能の鑑賞の仕方、名人の芸についてぼそぼそ語ってくださる。
私は御菓子に半分気を取られながら半分の注意を半分の耳で聞く。
その話しの中でも白眉なものは「橋懸り」について。
能舞台で能役者が出てくる橋のような場所を「橋懸り」と呼ぶ。
私は能鑑賞するとき、「あ!いよいよ登場だわ!」などときゃぴきゃぴしているだけだが、この長老は名人はその橋懸りを1歩出た瞬間に分かるとおっしゃる。
その1歩に若い女か翁か、もののふか、年齢や心情すべてが込められているからそこを見なければならないとのたまう。
そうかぁ・・・知らなかった・・・
っと私はそこで始めて能の深さを学ぶのであった。
また、たかだか素人の稽古とあなどっていてはいけないという場面に遭遇したことがある。
それはこの長老が先生に「影清」という重習いを習っていた時に起きた。
私はまたまた恥ずかしながらおいしい御菓子を口に頬張ってにんまりしていた時、突如、高弟の一人のおば様が忍ぶようにすすり泣きをしたのであった。
稽古と言ってもさすがに長老はすでに枯淡の息に達しており、稽古と言っても全霊をこめて「影清」を演じていたのである。
年齢もこの平家の流人、悪名高い「悪七兵衛影清(あくしちびょうえかげきよ)」の年齢と同じ。
さて演目をかいつまんで説明すると、盲目になったかつての勇将、影清が九州日向の地にて、見る影もなく老いさらばえてあばらやに住んでいる。そこへ鎌倉に住む娘が訪ねてくる場面。
要約すると、過去を封印して生きている昔の武将「影清」が思いがけなくも現われた娘を前にしての心の動揺を描いたもの。
封印していた過去(屋島の合戦で敵将三保の谷との力戦の顛末)を娘に心をこめてじかに語り明かすことで強い「父」を与え,自らは独り盲目のまま辺地に留まることを選ぶ。
この甘えのない非情とも言えるかたくなさ、自己抑制の見事さがみどころ。
語ることによって、勇ましい合戦での強い武将の父の像を娘の胸に焼きつかせる。
しかし、現実は盲目の老いさらばえた乞食となっている悲惨。
この対比のすごさが演じての技とも言えるかもしれない。
強い父を娘の胸に焼きつかせることで草庵独居の盲目の淋しさを決してみせようとしない「父」のかたくなな誇り。
たけだけしい過去、現在の零落した盲目の孤独、娘への父としての心情。
これらを演じるのは枯淡の境地に達した名人でなければ、出せないものである。
話しを前にもどすとしよう、
この有名な「影清」を稽古する弟子の長老の謡いは、今まさにお茶を淹れ様としていた瞬間の高弟のおば様の胸に感動を呼び起こしたのである・
老いた影清の心情を想い
そして哀感のこもった謡いの素晴らしさに
おばさまは忍ぶようにすすり泣いた。
あたりにいた弟子達も落涙。
素人が稽古で喚起した感動。
芸の素晴らしさがそこにあった。
素人、玄人の垣ねなど超えた感動。
私は体が震えて声がでなくなった。
忘れ得ぬ稽古だった。
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