見つめる日々

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2003年10月31日(金) 
 起き抜けに、突然、身の程知らずという言葉が心の奥底から浮かんでくる。あぁそうだったかもしれない、と思う。思わず夢中になって我を忘れていた、自分の分際を忘れていた、そんな気が、する。徐々に明るくなる窓の外をぼんやり眺めながら、心の内に突然浮かんできたこの言葉を、私は小さく声に出して何度か反芻する。

 高い空。娘に言われて見上げると、薄い筋を引くような雲が、空を斜めに裂くように走っている。澄んだ青色に真綿のような真っ白な色が美しく映える。
 そういえば、じぃじとばぁばは今頃二人で何処を走っているのだろう。東北地方に墓参りついでに旅行に出た二人、まぁ二人揃って行動しているのだから、私が心配することもあるまい。しかし、もうそれなりの歳なのだから、携帯電話の一つでも持ってくれたらいいのにと思う。そうすれば、もう少しは私も安心していられるのだけれど。

 私の前を横切っていく子犬の口に、茶褐色の塊がくわえられている。あぁ、あれはスズカケノキノミだ。もうそんな季節になっていたのか。私の胸に急に懐かしさが込み上げてくる。そういえば、もうずいぶん長い間、あの樹に会いに行っていない。一瞬足が樹の方へと進みかけ、やっぱり私は足を止める。今は駄目だ、もう少し心が落ち着いたらまた君に会いたい、そう思う。その頃にはもう、君は葉をすっかり落とし、裸ん坊で風に晒されているのかな、それとも若芽を全身にくっつけ、さぁこれからだと力強く大地にそそり立っているのかな。
 季節はそうやって、黙って私たちの周りを流れてゆく。

 身の程知らず。そうだ、自分の身の程をしっかりわきまえなくては。肋骨を折るほど体中傷ついた友の今の痛みに比べたら、私のこれらの発作の痛みなんて、きっとたいしたことはない。私はちっぽけで、不器用で、多分、昔夢見た空を渡り海を渡るあの鳥のように軽やかに生きることはできないけれど、でもきっと、地を這う虫くらいにはなれる。地を這って、地を這って、はいつくばって、それでも道を進んで。
 身の程知らず。今度私が迷ったら、この言葉を思い出そう。自分の気持ちが暴走して、誰かを巻き込んでしまいそうになったら、この言葉を思い出そう。
 身の程知らず。それはこの、私のことだ、と。


2003年10月23日(木) 
 なんて美しい空。辺りは光に溢れている。木々の枝に張られた蜘蛛の巣には、昨日の雨が透明な滴となってあちこちにくっつき、光がそれを煌かせている。
 それにしても、昨夕の稲妻は美しかった。真っ黒な空から世界を切り裂くように落ちてくる光筋。ああした時、空は一体何を思っているのだろう。
 いや、勿論、空に心などないことは私も知っている。それでも思うのだ、君は今一体何を思っているのか、と。
 怒りだろうか。私たちへの、或いは歪んでゆく世界への怒りだろうか。
 それとも歓喜だろうか。普段穏やかでいることを強いられている者が今こそと絶叫し、自らの内を露わにする時の、歓喜の叫びだろうか。
 どちらにしても、稲妻は、いつでも私を魅了する。誰かの激情が今目の前で露わになる、私はそれを目前で知らされる、一人の証人であるかのような、そんな清々しさを私は味わう。
 雷雨の後の空がこんなにも美しく見えるのは、きっとそのせいだ。体内に溜まっていた毒が、稲妻に姿を変えて外界へ吐き出される、だから雷雨の後の空は、すかんと抜けて美しい。
 今、空を見上げれば、流れてゆく雲が私に教えてくれる。世界は動いている、と。
 どんなに私の心の中が滞っていて、救いようのないほどどす黒い膿で溢れかえろうと、こうして一瞬一瞬、間違いなく世界は動いているのだ、と。
 だから私の内奥に蠢くモノたちにも、必ず出口が在るのだ、と。世界はただそこに在って、在りながら常に動き、変化し、そうして黙って私を見つめている。
 そう、私はいつだって、世界に見守られているんだ。私がどんなにちっぽけで、どんなに穢れ惨めな存在であろうと、それでも。
 世界はそんな私を、いつも見守っている。


2003年10月16日(木) 
 プランターの中の薔薇の樹のひとつが、花を咲かせた。明るく澄んだ、ちょっと朱色がかった赤色である。花は、咲いたと思ったそばから瞬く間に花びらをぐいぐい広げ、翌日にはもう、花芯が丸見えの状態になってしまった。
 樹にこれ以上の負担をかけないようにと思い、鋏を持ってベランダに出た私を、娘が慌てて遮る。きれいに咲いてるよ、ね、切っちゃだめだよ。真剣にそう訴える彼女の顔を見、私はやりかけていたことをごくりと呑み込む。そうだね、じゃぁ、薔薇の花が散るまでこうしていようか。うんっ、そうしよう! 途端に満面の笑顔。
 だから、あれから十日間、窓の外には赤い花びらがちろちろと揺れている。開ききるのがあっという間だったくせに、それから先がなかなかしぶとい。なるほど、彼女がくれたモノらしいしぶとさだ、と、私はちょっと笑う。
 これはそう、Kさんからもらった花束の中にあった薔薇。挿し木で増やした。あっちはNさんにもらった花束の中にあった薔薇。まだ一度も花をつけてはいないけれど、枯れている気配もないから、このまま待っているしかない。向こうは、もう名前は忘れてしまった、よく日に焼けた顔に団栗眼がかわいらしい年下の女の子からもらった薔薇。その向こうは。
 もしかしたらただすれ違っただけなのかもしれない人からであっても、そうして私のもとへやってきた薔薇は、ここにこうして生きている。花をくれた人の名を私がこうして忘れても、薔薇は季節になれば美しく咲き、私の心に灯りを燈す。
 こうやって、連綿と続いてゆく。連なってゆく。「それ」を最初に与えてくれた主の名はやがて記憶の外に溶け出しても、「それ」はこうやって、何処かから何処かへと流れ続ける。そして時折々に鮮やかな花を咲かせ、誰かの心をあたため、続いていく。流れてゆく。伝えられてゆく。
 いつかこの河の果てで、誰かが拾うかもしれない小石は、きっと、丸く丸く、その手のひらをほんのりあたためてくれるような、そんな密やかな結晶に、なる。


2003年10月15日(水) 
 外国から絵葉書が届く。その国の名はもちろん、それが地球儀上で一体何処に位置するのか、全く思いつかない。私は絵葉書をそっと掌で抱きながら、そこに記された一文字一文字を辿り読む。
 私たちはそれぞれに、或る時、同じ種類の犯罪被害者になった。それを境に、私たちの世界は反転した。それはもうものの見事に、くるりん、と。
 輪郭ばかりが浮き出る色の失せた世界で、私たちは足掻き苦しんだ。その間をここまで生き延びてくるために、私たちの体はずいぶんと切り刻まれた。これからだって多分、折々に、私たちは自分の手で自分の体を傷つけてゆくのかもしれない。
 でも。
 これだけは言える。
 私たちは自分を殺すことだけは決してしないだろう。どんなに困難であろうと、私たちは、最期まで生き延びるだろう。
 そのしぶとさはきっと、私たちの力になる。味方になる。
 掌の上の絵葉書一枚。吹けば飛ぶような重さかもしれない。でも、それが実は、とてつもなく重く大きく、そして尊いものか。私はそのことを知っている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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