浅間日記

2009年09月30日(水)

十代前半、といえば竹馬の友というには少し年齢がいっているかもしれない。
まあでもしかし、そんな幼なじみの一種のようなTちゃんから、
久しぶりに連絡が入る。

旧姓にもどりました、中目黒で犬と暮らしています。

深夜に受け取るメールにしては、ちょっとヘビーだ。
否、深夜に受け取ったからこそ、ヘビーな本質が丸出しになる。
彼女の帰し方行く末を思う。



私の誕生日が近づいて、Hはやけに張り切っている。
もうずっと、Hがこの時期に日本にいるのは数年に一度だ。

プレゼントは何がほしいのか、食事は何がいいのかと、問い合わせが相次ぐ。

特段ほしいものは無いし食事も普通でいい、と言うと、
張り合いがないと文句を言われる。Aも、そうだよ派手にやろうと後ろで言う。
あんまりうるさいから、それじゃ豪邸でも買ってくれ、とやっつけておく。



何にもいらない、これ以上は。

家族と楽しく一緒にいられて、みな元気で子どもは健やかに成長し、
とにもかくにも生活が成り立っているのだから、本当にもう何もいらない。

人がいとも簡単に孤独におちいる現代社会で、自分は極めて贅沢に幸福に人生を生きていて、誕生日だって迎えることができる。

だからもう、これしか要らないし、これだけは絶対に失いたくない。

2007年09月30日(日) 
2006年09月30日(土) 贅沢な祭信頼の明日
2005年09月30日(金) 毒入り林檎パイ
2004年09月30日(木) 日記の初日観察日記



2009年09月29日(火) 生活の隅々に入り込むゲーム的思考

 早稲田大学の投資サークルOBらのデイトレーダーグループによる相場操縦疑惑で、グループが親族名義を含む複数の証券口座を使い、株取引を行っていたことが28日、捜査関係者の話で分かった。うその買い注文を出す際、名義を分散するなどして、不正な株価操作の発覚を逃れようとした疑いがあるという、というニュース。



大学に投資サークルなるものが存在するのか、と、まずそこで驚きである。
何のために?



このOBの人達は、投資で金を増やしたとして、一体何に使うんだろうか。
難病の治療のために多額の金が必要なのだろうか。
あるいは、油田の開発でもしようと野望に燃えているのだろうか。

それとも、ただ増やすことが目的だったのか。



私たちの社会は、もう十数年も、ゲーム的思考で埋め尽くされている。
与えられたレギュレーションの中で、何かと戦ったり、勝負したり、
点を稼いだりすることに、無意識のうちに訓練されている。

「ゲーム」は、人と人との緊張を開放する遊びという、元々の役割を遠く離れ、
生活の隅々に入り込み、優劣や競争心理を生み出す思考のシステムになった。

現代というのは、そのように訓練−教育−された人間集団が社会を形成しているに他ならない。

私達は、歯の磨き方から箸の上げ下ろしに至るまで、勝ち負けという結末を求め、
誰に勝って誰に負けているかで自分の「立ち位置」を推し量る。

一方で、自分でゲーム−挑戦−をつくり、挑む能力は衰退し、
定められたレギュレーションなしには生きていかれなくなっている。



こんなことを背景においた上で件の事件について言うと、「金稼ぎ」というのは究極のゲームとなる要素があって、うっかりすると自分のレギュレーション−人生−を作り出せない未成熟な人間の玩具になってしまう。

そういう風に、私は考える。



どうすれば、この干からびたゲーム的思考社会から抜け出せるか。

これは多分、どうすれば人々が幸福になるかと同義である。

2005年09月29日(木) 
2004年09月29日(水) ルナティックタイフーン



2009年09月28日(月) 川と企業

鳩山由紀夫首相が国連気候変動首脳会合(気候変動サミット)で表明した2020年までに1990年比で25%削減を目指す温暖化ガスの中期目標は、国内外に政権交代を印象づける「第一声」となった。厳しい目標設定で産業界や米中など主要国との調整のハードルもその分高くなる。というニュース。

キャノンの御手洗会長は、さぞや苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。



どうして国内に山積する環境問題にふれずに、地球環境問題への対応にばかり奔走するのか、と常々思っていたら、同じように言う人がいた。
環境省のマンパワーがここに偏りすぎて、国内の問題がなかなかすすまない、という言葉に、我が意を得た思い。



企業の経済活動と環境配慮は、国内では次のステージに向かおうとしている。
私はそう思う。

環境省と経済産業省の真っ向勝負である。



2008年に成立した生物多様性基本法では、生物多様性に配慮した事業活動の促進を企業の責務と明記している。
企業がトンボやメダカに対して一体なにができるというのだ、と思っていたが、ある時はっと思い至った。

どうもこれは−色々な情報を総合して私が想像するに−、環境基準の見直しを念頭においているのではないだろうか。



環境基準は、大気や水質、土壌などに関して設定された有害物質の管理目標値で、そのだいたい十倍が、企業等が守らねばならない排出基準となっている。

排出基準は健康項目と生活環境項目に分かれていて、健康項目とは、人が健康を害さない−死なない−程度に、有害物質の排出を抑えなさいよ、とされている。つまり、人間以外の生き物がどうなるかは、保障されていないのである。
人間以外の生き物については、生活環境項目、という基準で管理されているのだけれど、ここへ最近、新しい規制対象物質の追加がされるなどの動きがある。

最初の話にもどると、件の法律に「生物多様性に配慮した事業活動」と明記されているのは、とどのつまり、この生活環境項目や基準値を強化しますよ、という宣言なのではないか、と思うのである。

言いかえれば、環境省が企業の責務として期待していることは、海のゴミを拾いますとか、森に植林をしますとか、子どもに環境教育を施します、というようなボランタリーな活動のことではなく−少なくとも本丸はそこではない、という意味で−、今までどおりの操業はできなくなりますよ、という痛みの伴う変化を要求しているのではないかと思う。

消費者だって、消費生活の然るべき変化を迫られるかもしれない。



それにしても、国の政策理念というのは、見事なまでに真綿にくるまれている。
極めて現実的で厳しい内容を狙いとしてもっているのに、それをはっきり言わないのは、
頭の良い人が考える、スマートでずるいやり方だなあと思う。
ひがみっぽく言えば、これで分からないならお前の能力不足だ、という態度が感じられる。

例えそれが、生物多様性を回復するという、何か響きの良いことであっても、国家の計画性という冷徹な側面が浮かび上がる。

2005年09月28日(水) あきらめ
2004年09月28日(火) 声と花



2009年09月26日(土)

Aを連れて早朝に上京す。

Aは、地下鉄のザジのごとく、立川駅で然るべき保護者に託される。
映画と違うのは、私の目的が愛人とのランデブーではなく、
それと比べればかなりフランス的気配のない、研修だということ。

夕方に、遊びつかれたAと駅で再開。夜汽車に乗り込む。
東京で過ごした時間をお互いに報告しながら、
こういうのもたまには面白いねと言うと、答える間もなく眠りこんでいた。

2007年09月26日(水) fly me to the moon
2006年09月26日(火) 夏に飲み下したもの
2005年09月26日(月) 



2009年09月23日(水)

連休も本日で終了のはこびとなり、万歳三唱である。
もう二度と、連休にこの付近にいるのはやめようと確認する。

さっさと山の家へ行けばよかった。

2006年09月23日(土) 
2004年09月23日(木) 気づいてしまう日



2009年09月22日(火) 物見遊山者

街の中が、異常なまでに観光客であふれかえっている。
夏休みだって、五月の連休だってこれほどではなかった。

物見遊山というのは、結構恥ずかしいのである。
きょろきょろしたり、ウロウロしたりして、非日常感満載の感じが、
その場所で日常を過ごすものにとっては、洗練されてない感じに映るのだ。

物見遊山者は、原宿にいようが、信州にいようが同等に恥ずかしい。

絶対それは不要だと思う、という変な土産物を購入したり、
普段は誰も入らない、小麦粉ばかりの蕎麦屋が行列だったりする。

そんな恥ずかしさに巻き込まれたくないという動機かは知らないけれど、
京都の一見さんお断りといういけずな態度も分からなくもない。

そうかといって、この土地の観光業に携わる人々のサービスの悪さを
認めるわけでもない。

その点、沖縄というのは凄い。
海の向こうから来るものはよいもの、という精神性と相俟って、
外来者に対するホスピタリティが完成されている。

内面に抱えている複雑さを微塵たりとも外に出さないし、
郷土に対する誇りをウェルカムに置き換えることができる。

2004年09月22日(水) 先達はあらまほしきかな



2009年09月20日(日) 稲刈り

Sさんが始めた田んぼへ、稲刈りの手伝いに。

稲刈り機は性能がよく、刈った端から縄で束にしてポトンポトンと落としてゆく。
風で倒れた稲だって、ちゃんとそうしてくれる。

人力でやるのは、その束をはざ掛けしていく作業だけなのだが、
程よい労働で、楽しいアクティビティである。
子どもも大人も、わっせわっせと運んでは吊るし、を繰り返す。
刈田には隠れ場所を失ったカエルがぴょんぴょん跳ねている。

田というのは眺めるもの、米というのは買って食うものという認識が
心地よい響きを立てて崩れていく。

シルバーウイークは、稲刈りするには格好の休みである。
グルメと温泉に邁進する外来の方をよそ目に収穫作業に精を出すのが、
ここ信州の本当の連休の過ごし方なのである。

2007年09月20日(木) 経験と真実
2006年09月20日(水) 任侠の話
2005年09月20日(火) 
2004年09月20日(月) 山からの不労所得



2009年09月18日(金)

怠惰な日々が終わり、持ち場に戻る。

AはHとそれなりに楽しい日々を送っていたようであるが、
私には言えないほどカレーを食べ続けたという報告など聞くと、
まかせた私が愚かだったのか、という後悔がよぎる。

2006年09月18日(月) 
2005年09月18日(日) 事始め50歳上限論
2004年09月18日(土) 「的」的考察



2009年09月17日(木) 実家という名の天国

まだ東京に居る。
この数日間、一度も洗濯というのをしていない。

衣服のメンテナンスに気をつかわなくてよいというのは、
なんと怠惰で、幸せなことか!


Sちゃんがこの夏生まれた三女をはじめ、子ども達皆と遊びに来てくれた。
女の赤ちゃんの、繊細な感じが懐かしい。

何しろ我が愚息には、生まれた時からずっと「でかいね」という形容詞しか使っていない。
今にして思えば、新生児の小ぶりな感じをもう少し楽しんでもよかったのかもしれない。

それにしても、何というか、我が愚息とSちゃんの三女には、
四コマギャグマンガと少女漫画ほどの違いがある。

2007年09月17日(月) 
2006年09月17日(日) 源流と河口の取扱い
2005年09月17日(土) 
2004年09月17日(金) 気配



2009年09月16日(水) みんな同じ

神田で研修。

女性の少ない分野とはいえ、いつもいつもいつもいつも、
中年以上の男性、つまりおじさん又はおじいさんばかりの集団にいる。

同じ専門性の集団ということもあるが、この年代の男性というのは
どうしてこうも、ひどく個人の識別が難しいのか!
本日は、そういう愚痴の日記である。

この人達と三日三晩一緒に過ごしたとして、四日目に会っても分からないだろう。



昼になると、あちらこちらのビルからおじさんやおじいさんが昼食をとりに街へ出てくるが、これもまた識別が難しい。

大変失礼ながら、完全に、みんな同じに見える。
もっとも、彼らも「おばさんは皆同じに見える」と思っているだろう。

このことを公平に解釈するとすれば、ビジネスパーソンとして存在する時、人は個性が埋没するということなのだろう。

2005年09月16日(金) 人の世で仕事がしたい
2004年09月16日(木) ワークアウト実感



2009年09月15日(火)

AとHに留守宅を頼み、幼子を連れて上京す。
本日から都内某所で研修である。

2006年09月15日(金) 紀尾井町と私
2004年09月15日(水) 減れば平和か?増えれば繁栄か?



2009年09月11日(金) その神様の管轄は

私は神だ、という風変わりな老人に向かって、
その孫である男が、それではなんの神様ですか?と問うと、
選挙事務所の神様じゃ、と答える話。

マンガの話である。

私が気に入ったのは、男が、何の神様か?と訊ねたこと。

日本には八百万の神様がおられるのである。
神とは、そういうものだったのである。

けれども最近めっきり、この世に神様というのは、
絶対的な力をもつ一人しかいないと思われてしまっている。
そんな気がする。

そのほうが、宗教において-宗教法人において-、
君臨と平伏の構図を描きやすいからである。

そんな構図に嫌気がさしたものは信仰を自分から切り離し、
お好みの向きは、教祖を求めて彷徨う。

そしてどちらのケースも、日本人の心の安定を遠ざけているような気がする。祈りをなくするということも、特定の何か一つに服従的に祈りを捧げるということも。



神様は色々な場所にいる。
水のあるところ、火のあるところ、子どものいるところ、商売をするところと、
きっちり管轄が決まっているのが、日本なのである。

寿司屋にだって「小僧の神様」がいるのだから。

2007年09月11日(火) 馬謖を斬れ
2006年09月11日(月) 他動詞との戦い
2005年09月11日(日) 生は希望
2004年09月11日(土) 死と悲嘆の必要性



2009年09月09日(水)

仕事の早くて速い方と仕事。
何しろ時速200kmであるから、とうていついてゆけぬ。

2006年09月09日(土) 
2004年09月09日(木) ペンは剣



2009年09月03日(木) think globally act locally

Hのところに、新しいスポンサードの話が来た。
来たのはよいが、アメリカから来た。

早々に英文のメールが届いて、our teamとか書いてある。

英語アレルギーに加えて事務手続き嫌いのHは、この二重苦三重苦に、心底ゆううつそうである。
もう俺は辞退しよう、と早くも店じまいの姿勢である。

言っては何だが、世間一般には悪くない話のようにみえる。
皆からそう言われるが俺は全然嬉しくないんだよ、という。

ちょっと不甲斐ないんじゃないですか、と進言する。
せめて辞書の一ページぐらい引いてみたらどうなのか、と。

曰く、そんな面倒くさいことをする時間があったら、
来年のヒマラヤに向けたトレーニングにあてたい。

俺は登りたい山に登れさえすればいいのだ、という態度である。

2008年09月03日(水) 丸儲け坊主の血
2007年09月03日(月) 愚か者と知の欲求
2006年09月03日(日) 
2005年09月03日(土) 
2004年09月03日(金) 屈折した人の話



2009年09月01日(火) 票田の土壌汚染対策

総選挙の後夜祭はまだ続く。

今回の選挙で、最も憤懣やるかたないことの一つは、
日本を混乱に陥れた小泉、安倍、福田の3元総理大臣の本人、
またはその後継者が、落選しなかったことである。

彼らは、国民からNOの烙印を押されなかった。
方や党の幹部でもない下っ端議員は、自民党の看板だけで落選した。
組織は退場するけれど、組織の責任者だった人物は生き残る。
大変なねじれ現象である。



本当に私達の目的は、自民党政権を終わらせることだったのだろうか。

確かにそうには違いないが、不適切な人間にもう二度と権力を与えたくないというその気持ちは、
シャボン玉みたいに、こわれて消えてやしないだろうか。



気持ちの矛先を、神奈川県11区、山口県4区、群馬県4区に向けたくなる。

2004年の米国大統領選挙では、世界中の人が、ブッシュ大統領を再び大統領にしないでくれ!と米国の有権者に向かって叫んだ。
イギリスでは有権者へ電話で依頼するというムーブメントも起こった。

今回の選挙で、それに勝るとも劣らない国民の気持ちをまったく意に介せず、「ぼっちゃんセンセイ」に票を入れる土地とは、一体どんな人が住み、暮らしているところなのだろう。

ちいちゃな街の、しがらみにまみれたわずかな人間の意志だけで、国や世界に大きな影響をもつ人間の行く末が決められてしまうのは、どうにもやりきれない。

そういう理由で、選挙における首相経験者乃至は閣僚経験者の取扱いは、
他の候補者とは別にしてもらえんだろうか、と思う。

2006年09月01日(金) 防災と体力
2005年09月01日(木) 男ジャム
2004年09月01日(水) 転籍日記


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