絶対安定多数の議席数をもって、民主党政権が誕生した。
私達は、「変化によってあなたに得を」という、前の選挙と同じ人参をぶら下げられたまま、意気揚々と投票所に向かったわけである。
「チェンジ」というキーワードなど、小泉政権の煽り文句そのもので辟易とするのだが、世の中にはあまりそう思われていないらしい。
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政治というのは、因縁の深い商売であり、 そうした資質の人間が自己実現の場として集まってくる。
だから、それぞれの思想信条を程よくバランスして政治に反映させないと、 それがどの方向への作用であれ、その反作用を国民が背負う羽目になる。 例えば、ある日突然、戦争に行って死んでくれ、ということになるのである。
自民党は派閥政治というお家芸で、実際、その辺りを上手くこなした。 一昔前の温泉観光レジャーホテルみたいに何でもありにして、客を一歩も外に出さなかった。
民主党がそうしたバランス装置を首尾よく据え付けることができれば長命政権になるかもしれないし、そうでなければ早晩終わりが来るだろう。
しかし国民にとって早晩終わりはどうでもよく、その前の民主党の暴走の方がシリアスなのである。
マスコミもその辺は承知のようで、図に乗るなと釘を刺している。 しかしこれが図に乗らずにおられようか?
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レアメタルのようにベースメタルの化学反応を促進する少数政党の存在は必要だ。絶対多数の一党独裁政権というのは回避しなければいけない。
今回の選挙結果でこう気付いた国民も、いるかもしれない。
政治の世界も多様性が保たれていることが大切で、 ブラックバスばかりになった河口湖みたいじゃ困るのだ。
だが悲しいかな、選挙のレギュレーションがそのようにできていない。
自民:民主:公明:社民:共産:その他=○:○:○:○:○:○ というように議席配分を意思表示することは、できないのである。
もっと現実的にみて、小選挙区制は少数政党が姿を消すようにできている。 それを何とか防ぐとして、こうした少数政党については基本的に、 まあ政権をとるほど票は集まらないだろうという変な見込みの元でしか票を投じられない。
何とか多様性を確保する方法はないものだろうか。 来年日本で開催されるCOP10-生物多様性条約第10回締約国会議-でも審議していただきたい。
2004年08月31日(火) リピート日記
竹中平蔵氏がパソナグループの会長に就任した、というニュース。
社長だろうが会長だろうが、これは一つの 小泉内閣での経済財務担当大臣の「成れの果て」である。
大臣に登用される民間人というのは、なんだか使い捨て感が否めない。
使われる当人も、政策の責任を一生涯背負わされるという政治の重みに気付かず、まるで舞踏会に招待されるシンデレラの姉みたいに浮かれて就任するから、どちらもどちらである。
そうだから、竹中氏の件のニュースには、こんな会社ぐらいしか引き受け手がなくなってしまったんじゃないか、とさえ思う。
彼は、民営化や改革によって生活を損なわれた国民からこれからもずっと後ろ指をさされ続ける。逃れられない試練がおそらく死ぬまで続くのである。もちろんいつか彼が死んだら、新聞の死亡記事にも書かれるだろう。
えらい学者先生で大臣経験者で、社会的立場のある人かもしれないが、 私は彼の人生を羨ましいとか見習おうという風には全く思わない。
2006年08月27日(日) 衝撃吸収プール 2004年08月27日(金) 男と女戒厳令
新聞のテレビ欄に、なじみの蕎麦屋の写真。 そして、宮本文昭さんが写っている。
ああ、SKFが始まったからだな、と即座に理解する。 この街で「えす・けー・えふ」と言えば、それは「サイトウキネンフェスティバル」のことなのである。 これからしばらくの間、この街は音楽関係者で賑わうのだ。
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件の話、理解はするが、納得するのは難しい。
我が家においてオーボエ協奏曲はすべからく、「ミヤモト」とよばれる。 自動車のジープとか、海岸保全施設であるテトラポッドと同じで、 今日はミヤモトでも聴くか、と、いう按配で用いられる。
オーボエの音色について、この人の奏でる音以外とは生涯縁がなくてもよい、とさえ思っているし、決して聞き流すということをしない大事な音楽のひとつとして扱っている。
その愛してやまない音色の生みの親が、ウチから数分の蕎麦屋で、丸首のシャツを着て、 蕎麦の香りが絶妙ですねえ!あ、蕎麦湯もらえますか? と言っているのかと思うと、どうにも複雑な気持ちである。
写真をみるだに、どうにも緩んでおられる。 もっとも、美味なものを食べて緩まない人はいない−美しい音楽を聴いた人と同じように−のだが、しかし、私は私の、ファンと言う立場がある。 いつ何時でもストイックであってほしいと願う心と蕎麦湯は、悲しいほど親和性に欠けるのだ。
あなたのミラノの午后はどこへ行ってしまったのですか!と詰め寄ったとして、 もうそういうことはやめたんだよ!と言われてしまうのだろうか。
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でもまあこれは、SKFをきっかけとして、宮本さんほか音楽家の方々が、 十数年の間に、この土地や人間にすっかり親しんで下さっている何よりの証なのかもしれない。
夏に田舎の実家に帰ってきたようなそんな気持ちで、音楽以外のことに はしゃいだりくつろいだりして下さるのなら、それは光栄なことなのだ。 そう、蕎麦屋は音楽ホールじゃない。
クラシック音楽にあかるくない地元の人々も、「うちの親戚にオーボエ吹く人がいてさあ」と言う感じで彼に親しみを感じていることだし、まあいいのかもしれない。
2007年08月21日(火) リスクと安全保障の在り処 2004年08月21日(土) 日焼けオヤジの放物線
天下の台所で仕事。
2時間のために7時間かけて出かけるというわけである。
business personとしてよりも、passengerとして存在する時間の方が長いから、どうしたってそういう風に過ごしてしまう。
つまり、高野山のごま豆腐とか、京都の和菓子とか、 西の土産品をあれこれ物色したり、 乗り換えの名古屋で味噌カツに舌鼓をうったりしてしまう。
2007年08月20日(月) 未来は過去になる 2006年08月20日(日) 急速冷凍、急速解凍 2005年08月20日(土) 何者かになりたい症候群 政治編 2004年08月20日(金) 「うちの社長は駄目社長」と客に言う社員
2009年08月19日(水) |
存在感のない投票用紙 |
最高裁判所裁判官の国民審査が18日、中央選挙管理会から告示された。総選挙と同じ30日に投票される。15人の裁判官のうち、審査を受けるのは05年9月の前回総選挙後に任命された次の9人、というニュース。
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衆議院議員総選挙の情報量に比べて、こちらは恐ろしいほど密やかである。それぞれの職務履歴が小さく記載されているだけだ。
私は、この方々が法の番人として適切かどうか、一体どうやって審査すべきなのか。 情けない話であるが、正直言って何のチェックリストもないまま、有権者として長年過ごしてきてしまっている。
これまでに国民審査で罷免された事例はないそうであるが、それは悪代官が存在しなかったのか、それともこの制度が上手く機能していないということか。
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弁護士を量産するべく、司法試験の制度も新しくなった。 よいか悪いかは別として、裁判員制度がスタートした。 かように、司法のシステムは、ゆっくりと変化している。
さらに、国の根幹を成す憲法の改正が議論されている。
そうであるから、この最高裁判所裁判官の国民審査だって、今は高等学校の教頭先生ぐらい国民の権利としての存在感が薄い制度だけれど、早晩-ひょっとしたら今回の選挙を契機に-人々の関心を集めるのではないだろうか。
例えそうでないとしても、少なくとも過去に関わった判決や、そうした事実から汲み取られる憲法に対する向き合い方ぐらいは知っておいて、判断の指針としたいものだ。
2006年08月19日(土) テンカウントをダウンして待つ 2004年08月19日(木) 教育クライシス
ようやく訪れた夏の暑さであるが、既に残暑のそれである。 鈴虫の音色がそれを後押しする。
大したこともできずに、もう夏も終わりだなあと思う。
自分はもう少しきびきびと活動しているはずなのだけど、 実際の成果は、山の家でぼさぼさに伸びた槿を刈り込んだぐらいだ。
まあ、そういう年もあるのだろう。 それにしても緩慢に過ぎる。
2006年08月17日(木) 電源の町、風雪の土地 2005年08月17日(水) 何者かになりたい症候群
ある専門誌の「科学の安全確保と被害者救済の課題-水俣病事件、第四の問題点」という論文。 以下備忘録として引用す。
「…「すでに登録されている化学物質が500万種、10年後には600万種になる。毎日2〜300種の新物質が世界中で造られ登録申請されている」と記されたのは1986年のことである。それが05年には登録2585万種、1日あたり3000種になり、09年の現在、登録4645万種、1日あたり12000種という。この膨大な数字は、化学物質の際限のない未知を示すものにほかならない。…(化審法の)施行前から使用されている約4万種の化学物質のうち安全性が評価されているのは約1300種類という。つぎつぎ開発される化学物質から、人間生活に利用されるものが選択される過程で、安全確保の営みがあり、しかし安全確保の努力を重ねてなお、未知のリスクは不可避である。」
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「科学(化学)の未知」の存在は、社会の中で曖昧にされている。 被害が生じ、さらに被害者が社会に訴えることに成功してやっと、 「過失」との混載便となって世の中に届けられるが、科学の未知は、過失とは別の要因として取り扱われるべきだと件の論文に書かれている。
検証が十分でないまま新たにつくられる物質の数をみると、科学(化学)の未知は、万が一、などという確率のものではないどころか、現代社会は真っ黒な「科学の未知」のど真ん中をドライブしているのではないかとすら思う。
2007年08月10日(金) 夏の光の観覧車 2006年08月10日(木) 2004年08月10日(火)
古いつきあいの会合に、家族で出席。 ヒマラヤの話をしてくれと頼まれて、Hはスライド上映会を引き受けたのである。
ヒマラヤ高所登山の映像やエピソードは、結構な驚きをもって受け入れられた。 その驚きを見て、私やAはこうした世界に-一歩も足を踏み入れていないにも関わらず-、随分と慣れてしまっているのだなと思う。
終了後なぜか、大変面倒なことに、亭主がこんな危険な場所に行くことについてどう思っているのか?ということに関心が注がれてしまった。 中年男性がこぞって、浪花節の回答を私に期待している。
こういう場面は、苦手である。
「愚問だね」という答えを呑み込んだまま、家に帰り、夜更けにその理由を考える。
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「あなたは何故、伴侶のそうした生き様に理解を示せるのですか」と言う問いは、連れ合いを持つ者全てに、等しく価値のある質問である。
それは、大企業の部長であれ、大学教授であれ、専業主婦であれ、 人が人生に向き合う態度には、何らかの色や輝きがついているからだ。
そうだから、パートナーである夫婦お互いがそれを認め合い、高めあうことについて、 他人に美談を求める熱意があれば、それを自分のパートナーへの思いやりに向けてほしいと思うのである。
もう一つ。 問いかけというのは、安易な気持ちでしてよいものと、そうでないものがあると思う。 「ダンナは死にそうなスリルがやめられないんでしょ」などと不躾に決め付けてくる男性などには、むしろこちらが、その奥方に問いたいぐらいである。 「あなたは何故、伴侶のそうした生き様に理解を示せるのですか」、と。
2006年08月08日(火)
学校のプールに遅刻したAは、肩を落として帰ってきた。 やりきれないからプールに連れて行けとリクエスト。
午後になってHがプール行きを引き受け、本日の無念は晴れそうに見えた。 が、いざ出発と言うその時に、遭難救助のコール、という不幸が訪れた。
Hは、すまないごめん、と侘びの言葉を残し、山岳会の詰所へ風のように去っていった。 土壇場のキャンセルをくらい、Aは哀れ、一人取り残された。
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うちは医者の家ではないが、こういう突然の呼び出しが時々ある。 Aと二人プールに向かいながら、こういうのは「貸し」にしておくといいんだよと、 いらぬ大人の知恵を授けたりする。
2004年08月03日(火) ブログディスクロージャー
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