修論など一文字も書いていない - 2004年08月27日(金) 大学をやめたい、と言う人が周りに二人いる。 ひとりはもう休学届けを出して、その後は退学するつもりのようだ。 もうひとりは、就職先が見つかり次第、退学するという。 二人とも院生。 もちろん二人とも学士号は取っているし、ひとりは修士号も取っている。 それに直接詳しい理由も聞いて、勉強が嫌でやめたいわけではないということはわかる。 こういう人たちを目の当たりにすると、 自分はどうしてこんなふうになっても大学にいつづけるんだろうと思う。 もう今のわたしの目的は卒業することだけになってしまった。 やっぱりあのとき退学したほうがよかったんじゃないのかと思う。 彼女は高校の後輩だ。 これまで近くにいたのに、全然力になれなかった。 歩いていける距離にお互いの実家があって、地元でもこちらでもすぐに会える距離にいたのに、大学に入ってからはすっかり疎遠になってしまった。 それはたぶん、わたしがひどい生活をしている頃に彼女が入学してきたからだと、今になって思う。 あの頃に、いろんな人と離れ離れになってしまった。 でも今になって、わたしが彼女にしてあげられるかもしれないことは、あまりにも少なくて、 それでも偶然会った彼女が「話を聞いてほしい」と言って話し出したことに、 わたしはどう応えられるのかと考えた。 彼は大学に入ってからの先輩だ。 彼が博士課程に進むことを決めるまでには、紆余曲折があった。 勉強を続けるか止めるかは、彼にとって、彼自身の選択ではないとも言える。 とてもじゃないがこれ以上は書けない。 ただ願うことは、自分自身で決めてほしいということだ。 そしてわたしが、少なくともこのことに関して、彼のためにできることは、何もない。 わたしはどうしてここにいるんだろう。 - 行ってみてよかった - 2004年08月26日(木) おにいさんはやっぱりおにいさんだし、 「おまえ」って呼ばれる感覚も懐かしい。 置いてきたものは何もないと思っていたけど、 間違いだったみたいだ。 - またか。 - 2004年08月23日(月) だから嫌だったんだ。 できれば話したくなかったことを、言わなければ納得しないだろうと思ったから話したのだ。 それをどうして、他の人に話すんだろう。 他人に話されたことでどういうふうに嫌な気持ちになっているのかも、仮に説明できたとしても、わかってもらえないだろう。 わたしは自分で決めると、本人にもきちんと言ったし、気遣いに対してはわたしなりに感謝もしているから、きちんとお礼も言ったつもりだ。 それで、他になにが足りないのだろうか。 - 傷つけないでと要求することはできない - 2004年08月20日(金) わかっていることは、 わたしがあのひとのことをどう思っているかということは 今さら誰かに説明できるほど簡単なことではないし わたし以外にその気持ちをよく知っているのは 他ならぬその相手、本人だということ。 そして、 あのひとがわたしをどう思っているかということは 今さら誰かに説明できるほど簡単なことではないし あのひと以外にその気持ちをよく知っているのは 他ならぬその相手、わたし本人だということ。 苦しいと言うと嘘だし、 満足だと言っても嘘になる。 でも、 わたしは絶対に、このひとに関することだけは、 間違えない。 - 最近の会話から - 2004年08月11日(水) 本当は、もっと個人的なことですごく大事なことがあるのだけれど、 つまりだいじな人と喧嘩をしてしまって、その後相手からメールが来たのに、 わたしが実家にいて落ち着かないというのと そのことについて何からどう考えていいのかさっぱりわからないというのとで ろくな返事が書けません。 それでこの日記にはまったく違うことを書こうとしているわけです。 先日、知り合いと話していたときに 「仕事に本気になるか」という話をしていました。 それはバイトでも同じことです。 たかがバイト、と思って「ある程度以上」であればいいと設定する人もいれば、バイトだろうと関係なく本当に真剣に取り組む人もいるでしょう。 もちろん、当人にとって「やりがいのある内容かどうか」という要素は大きいでしょうけれど、わたしは、とても個人的に、「仕事が自分を本気にさせてくれる」という考え方は好きではないのです。 それと同じように、「残りの学生生活に希望がない」などと発言するのも好きではありません。わたしは絶対に言わない。 なぜなら、自分頼みの姿勢ではないと思うからです。 やりたいことをやって、いやな思いをしたとしても何の後悔もなく、何かひとつでも打ち込んだことを胸に抱いて学生生活を終えられると思っていれば、希望なんて言葉は出てこないはずだと思うのです。 これは、「学生生活ももう少しだから、今しかできない何かをしたい」と言うのとは、違う種類の発言だと思っています。 それから、複数の人を束ねるポジションに立って、その人たちに「わたし」についてきてほしいと思うとき、「わたし」に必要なのはカリスマ性ではないと思っています。 カリスマ性があれば、確かに人はついてくるでしょうけれど、それは天性のものであり、誰もが身につけられる、あるいは持っている、というものではないと思います。 必要なのは「仕事をしているのだ」という気持ちではないでしょうか。 それはたとえばリーダーではなくても、つまりどんなポジションにあっても、同じだと思います。 自分の意見、発言は、属する集団(が目指す目的)にとって有益であるか? どのような言動が、仲間も含めた周囲の人間にとって有益か? という問いを持ち続けることができれば、「仕事ができる」し、結果的に人はついてくると思うのです。 集団において人のこころを掴みたいという話で「仕事」などというととてもドライなようですが、むしろそう考えることで、一緒にいる仲間のことを最大限に思いやることができると、わたしは思います。 そして、頭は、立場が上のときに下げてこそ効果がある、これは本当だと思います。 本当に必要で、それが最善であれば、きちんと頭を下げられる人間になりたい。 本当には必要でなく頭を下げるのなら、きちんと下げられなくてもいい。 そう思ってしまうわたしは、やはりまだ甘いのかもしれませんが。 少なくとも、仕事は、わたしは本気でやります。 石の上にも三年。 ああそういえば、就職活動中に面接で「リーダーシップと聞いて何を思うか、なるべく短く答えてください」と言われました。 わたしの答えは「お互いを信じること」です。 - 辞退する。 - 2004年08月07日(土) ええ、もう、お断りするつもりではいましたが。全く別の理由でね。 しかしその気持ちを加速させたことに違いはありません。 内定者のみ閲覧可能なコミュニティサイトでは何の動きもありませんが、社外の別のサイトでは、やはり辞退を決めた人の声が出てきます。あれは本当に内定者なんだろうか。もう顔合わせも済んで、迂闊なことは口にできないはずだが。 けれど内定者同士のメールのやりとりはもっとすごい。少なくとも自分が知る限りでは。 会社に勤めるというのはこういうことなんだと、この一ヶ月の経済界の動きで少しわかりました。 会社は潰れはしないでしょう。では社員は? - やっぱりそうだ - 2004年08月04日(水) 自分が傷つくとわかった瞬間から、本当のことが言えなくなる。 そして自分勝手に傷ついて、人を傷つける。 思うようにならないからと包丁を振り回しているのと、何ら変わりはない。 思った通りだ。 - きゅーん - 2004年08月03日(火) もうひとつの日記の8月2日付にもしっかり書いたのですが、現在、何度めかの「ひとり小沢健二ブーム」が到来中です。しかも今回のはなかなか大きい。 小沢くんの歌詞については、いろんな人がいろんなところでいろんなことを言っているので、敢えて何か言うこともないです。それぞれです。わたしが全部目を通しているとも思えないし。 でも小沢くんを聴いていると何か、このひとは今も独りなのかなあって、すごく勝手に、思ったりします。 ひっくるめて言ってしまうと、やっぱりちょっと病的なところってことになってしまうんだけど、喋りだすと止まらないところとか、ぜんぶ丸出しにしてる歌詞だとか、それこそ、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件のあった年に「さよならなんて云えないよ」と「痛快ウキウキ通り」を出してしまうところとか、そういうのも全部、独りだからなんだろうなーなんて思ってしまうわけです。恋愛がうまくいってるとかいってないとかそんな話じゃないんだろうなって。 なんてことを思うと結構きゅーんとなったりするわけです。あほみたいだけど。 で、もういっこきゅーんってのが、今朝来たメールです。 無事でよかった。 - あらら - 2004年08月01日(日) 先生の日記はこまめに見ているんだけど。 ゆーやが、唯一か… ゆうも、あんなに頑張ってるのにね。 先生のことすごく考えてるのにね。 そういう子なのにね。 ゆうはどうやら、今はわたしのサイトを見ていないらしい。 学校に行ってないからかな。 七夕祭りの期間は仙台にいないと言ってたから、 実家からだと見るのかもしれない。 いずれにしても、あの日記を見たら、やっぱり落ち込むだろうと思う。 何もできないし、するつもりもないけれど。 そんなことがなくても、 今が、大学生活のなかでいちばんつらい時期だと思う。 だから、がんばれ。 言わないけど、そう思っておくよ。 がんばれ。 -
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