星降る鍵を探して
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2003年09月30日(火) |
星降る鍵を探して4-4-8 |
*
パン、パン、パパン。 破裂音はまだ続いていた。 マイキはその音に引き寄せられるようにして廊下を走った。その音は壁の向こう側、あの扉の向こうから聞こえてくる。 この音が何を意味しているのか、マイキは良く知っていた。恐らく、卓よりも詳しいはずである。マイキが生まれ育ったのはこの国の政治を掌握する、最高機関の本拠地である。数々の政争が陰に陽に繰り広げられる政治の世界には、あの音はつきものだった。彼女自身があの音の脅威にさらされたことはほとんどなかったが、恐ろしさは充分良く知っていた。 あの音の聞こえるところには、怖い人たちがいる。 でも。卓を連れていったのは、その怖い人たちなのだ。 怖いけど。でも。卓にもう一度会うためには、あの怖い人たちに会わなければ。 扉にたどり着き、マイキの手がノブに伸びた。ノブの形は新名家のものと同じく、下に押し下げる形式のものだ。今にも力を込めようとした時、しかし後ろから走ってきていた男が待て、と言った。 「鍵がかかってる。それに危険だ」 マイキは構わずノブを押し下げた。しかしがちん、と硬い抵抗が返ってきた。長津田の言葉通り、鍵がかかっている。 「下がれ。危険だ」 男は白衣のポケットから、一枚のカードを取り出して、マイキの前に出た。マイキは押しのけられないようにと足を踏ん張った。この向こうが危険だと言うことはわかっている。江戸城にいたとき、マイキの周りにいた人たちは、この音が聞こえる場所には絶対に近寄らせてくれなかった。でも、今日はそうはいかない。この人がマイキをあの音の聞こえないところに追いやろうとしても、絶対にここを動くわけには行かない。 卓の居場所のヒントを掴むまで、絶対に動かない。 長津田はマイキの強情の意味は分からなかったに違いない。しかし長津田はマイキの表情から何かを悟ったものだろうか、ため息をついてかがみ込んだ。マイキと視線を合わせて、長津田は言った。 「いいか? この中は危険だ。映画やドラマじゃないんだ。本当に危険なんだぞ」 マイキはこくりと頷いた。そんなこと、わかっている。 「俺はこの中に用がある。だから今から鍵を開ける。君は離れて」 マイキはきっぱりと、首を振った。黙ったまま、長津田の目を見つめる。長津田はため息をついた。 「君もこの中に用があるのか」 こくり。 「どうしても、中を見たいのか」 こくり。 「けどな、この中には危険な人間がいる。君がもしこんなところにまで入り込んでいることを知ったら、君を殺すかも知れないよ。俺は、君みたいな小さな女の子が殺されるなんて厭だ。だから君が後ろに下がらない限り、ここは開けられない」 「……」 マイキは、視線を落とした。 そう言われても、と思う。どうしても、この中の様子を探らなければならないのに。この中にいる怖い人たちに捕まるのは別に怖くはなかった。捕まったら、卓のいる場所に連れていってくれるかも知れないから。でも、と考えて、マイキはため息をついた。殺されるのは厭だ。死んだらもう卓に会えなくなる。……のだと、思う。死んだらどうなるのかなんて、卓はまだ教えてくれていなかったから、わからないけれど。 「だからさ、」 とマイキを覗き込んでいる長津田の口調が変わり、マイキは顔を上げた。長津田はその無精ひげをにっ、と持ち上げた。笑ったのだ。 「君は小さい。俺は大きい。中にいる男たちは俺には発砲しないだろう。だから、君は俺の白衣の中に隠れているといいよ」 ただし、と長津田はまじめな顔に戻って付け加えた。 「俺がいいと言うまで、絶対に白衣の外に出たらダメだ。それさえ約束するなら、この扉を開けよう」 マイキは頷いた。そして、破顔した。この人はとても頭がいい、と思った。 マイキの笑顔を見て、長津田も照れくさそうに笑った。ギャング映画に出てきそうな悪役顔が照れくさそうに笑うのは、マイキの目から見ても、可愛い、と思えた。
2003年09月29日(月) |
星降る鍵を探して4-4-7 |
「誰か、探してるのか?」 訊ねると、彼女はこちらを見上げた。 そしてきっぱりと、頷いて見せた。長津田は思わず頷き返した。何だ、聞こえてるんじゃないか――そして、理解も出来るんじゃないか。そう思うと何だか非常に嬉しくなってきてしまうのが不思議だ。長津田は頬を緩めた。目尻が下がるのが自分でもわかる。 「しかしこんなところではぐれるなんて、ついてないな。君、名前は? どこから来たのかな?」 これじゃ、まるで子供に話しかけてるみたいだな。 長津田は苦笑した。顔立ちを見ると少なくとも高校生にはなっているだろうと思われるのに、仕草や動きを見ていると、どうしてもずいぶん小さな子供に語りかけるような口調になってしまう。全く話さないと言うこともその雰囲気に拍車をかけている。しかし今時の高校生にこんな口調で話しかけては叱られるだろう。長津田は咳払いをひとつした。 「えーと。この先はな、一般の人は立入禁止になってるんだ。君の探している人が誰にせよ、この先にはいないと思うけどね。迷って入り込んでしまったとしても、すぐ追い出されるから。そもそもこんな夜遅くに、家に帰らなくて大丈夫か?」 ふとそのことに思い至り、彼はひょいと頭を傾けて左手にはめた腕時計を覗き込んだ。非常に苦しい体勢だが、腕を動かすとまたファイルを取り落とす危険があるので仕方がない。辛うじて覗き込んだ文字盤は、夜中の九時を指していた。九時。小学生なら寝ている時分だ。いや今時の小学生はどうだか知らないが、いやこの子はどう見ても小学生ではないだろうが、いやそれにしても若い少女が外をうろうろしていて良い時間ではない。それもこんなところを。 ――今日は学生に縁のある日だな…… 長津田はそう思って、少女の黒い頭のてっぺんを眺めた。先ほど会って一緒に食事をしたあの風変わりな二人も、こんなところには全く似合わなかった。長津田から見れば学生はひどく健全な生き物だ。こんなところには足を踏み入れて欲しくない。 と。 何かが破裂するような音がした。長津田はあっさりと聞き流した。彼はもともと研究と珠子とカップラーメン以外の物事には、ほとんど注意を払わない性質である。その破裂したような音は確かに彼の耳朶にひっかかりはしたものの、さしたる感銘も与えずに消えた。しかし少女はびくりとしたように顔を上げた。音のした方角を探すようにきょろきょろと辺りを見回すのを見て、長津田は、そう言えば何か音がしたな、と思った。 「どうした?」 「……、」 少女は口を開きかけた。しかし何も言わなかった。再び先ほどの、あの何か破裂するような音が聞こえたからである。それも続けざまに二回……三回……四回鳴って、数える内に少女が走りだしたl。預けたファイルをしっかりと抱えたまま、存外素早い動きで前方に走っていく。前方には長津田が目指していた場所へ続く扉がひとつあるきりで、その音はどうやらその扉の向こうから聞こえてきたようだ。 パン! パパン! 破裂音はまだ続いている。長津田はようやくその音の正体に気づいた。あれは銃声だ。信じがたいことだが―― 「……なんてこった……!」 彼はファイルを放り出した。ファイルを抱えたままでは上手く走れない。
2003年09月28日(日) |
星降る鍵を探して4-4-6 |
しばらく後―― マイキがようやくハンカチから顔を上げた時、その不思議な大男は、散らばった膨大な書類をかき集めているところだった。 マイキはすぐ目の前に落ちていた書類を覗き込んだ。不思議な図形がびっしりと、所狭しと書き込まれたその書類は、マイキの目には単なる悪戯描きにしか見えなかった。図形の脇に走り書きされた字は、長津田の部屋の惨状を知るものが見たら驚くほどに几帳面にかっきりと書かれている。だが数式や外来の文字がほとんどなので、意味は全く分からない。 マイキが泣きやんでいるのに気づいた長津田は、ホッとしたように顔を上げた。 人相はそれほど良いとは言えないのに、とても人の良さそうな表情だった。しかし顔を上げた拍子に、せっかく集めた書類が再び床に散乱した。ばさばさばさっ、と、渇いた音がする。 沈黙が流れた。 マイキはきょとんとして長津田を見つめた。この人はいったい何をしているのだろう、と彼女は思っていた。遊んでいるのだろうか。いや、それにしては長津田の表情はひどく深刻だ。 「……て、手伝ってくれるかな」 言われて、マイキは頷いた。こんなすがるような目で見られては、拒否など出来るはずがない。 書類の右はじには二つ並んだ穴が開いている。ファイルを開いてみると、その穴がちょうど入りそうな器具が右はじにある。ここにあの穴を入れればちゃんと揃いそうだ。 しばらくかさかさと書類を集める音が響いた。マイキも、そういうファイルを扱うのは初めての経験であり、初めの内はなかなか上手く行かなかった。それでも彼女が二冊のファイルを作り終えたとき、長津田は一冊のファイルをようやく揃え終え、慎重な顔つきで留め具と格闘しているところだった。マイキは思わずじっと見守ってしまった。長津田の無骨な巨大な手は全くそういう作業には向いていないらしい。力任せにはめようとするものだから、ぎしぎしと厭な音がしている。 しかし何とか壊すこともなく留め具が無事にはまり、二人はほっと息をついた。 「ありがとう。器用だね、助かったよ」 長津田にそう言われて、マイキは微笑んだ。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
*
「それで、どこへ行こうとしてたのかな」 しばらく後、二人は並んで歩いていた。長津田がファイルを二冊持ち、少女が一冊持っていた。先ほどから長津田はしきりと少女に話しかけているのだが、この風変わりな少女は返事をしなかった。一体どこの何者なのだろうか、と長津田は思う。血の気がないのかと思うほどに白い肌と、そこだけが不思議に赤い唇、そして驚くほどに整った顔立ちが、少女を人形のように見せていた。普段ならこんな風変わりな少女、しかもこちらの問いかけに全く答えようとしないような子に、かか煩うようなことは――特に今は勤務中だ――しないのだが、長いつややかな黒髪が、珠子を思い起こさせるのである。そしてこの子は泣いていた。泣きながら走っていたのだ。珠子によく似た風貌で、あんな風に泣かないで欲しいものだ。背筋がむずがゆくなって来るではないか。 「誰か、探してるのか?」
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2日も休みました。申し訳ありませんでした……! 長津田さんとマイキだと、会話が弾まなくて困ります。物理的に不可能だ。早くあれとかこれとか書きたいのに!(どれだ)
2003年09月25日(木) |
星降る鍵を探して4-4-5 |
と―― 「お……わっ!?」 低い男の、驚いた声が聞こえて、 どんっ! マイキの体は、急に前に出現した大柄な男にぶつかった。それはマイキの倍はあるかと思われるほどの、背の高い男だった。背が高すぎるためだろうか、ひどくひょろりとしているように見える男は、いきなりぶつかってこられた勢いでバランスを崩した。しばし持ちこたえようとするかのように大きく腕を振り回したが、無駄な抵抗だった。どころか三冊の分厚いファイルを抱えていたことを忘れて腕を振り回してしまったものだから、 どっすん。 仰向けに倒れた男と、その腹の上に俯せに倒れたマイキの上に、ファイルから外れた書類が滝となって降り注いだ。更にがっ、ごん、がん! と硬いファイルが床に激突する音が響いて、辺りはようやく静かになる。 「だ……」 男はしばし呆然としていたが、急にがばっと起きあがった。 「大丈夫か、君!」 「……」 マイキは男の腹のところに顔を埋めていたが、男に覗き込まれて顔を上げた。そして男は、マイキの顔が涙で濡れているのを見て盛大に誤解した。 「な、な、泣くほど痛かったのか……!」 男はがばりと跳ね起きると、自分の体のあちこちを探り始めた。ズボンのポケット、シャツのポケット、そして白衣のポケット。しかし男は非常に不器用な質であるらしい。長い両腕を制御し切れていないかのようにめちゃくちゃに動かすものだから、白衣に腕が絡まった。いや、逆かも知れない。腕に白衣が絡まったのだろうか。マイキにはその辺の判断が付かなかったが、とにかく男は非常に窮屈そうな、珍妙な姿勢でしばらくもがいた後、すがるようにマイキを見た。 「……」 「……」 「……ほ、解いてくれるかな」 マイキはきょとんとしつつも、この体勢では男がいかにも辛そうだったので、ひとつ頷いて男の白衣に手をかけた。人間の体って、こういうことも出来るんだ。彼女にそんな間違った知識を図らずも与えた男の胸には、『長津田敏彦』というネームプレートがかかっていた。
数分後、ようやく体の自由を取り戻した長津田は、照れ笑いをしながらようやくハンカチを取りだした。 「ごめんな、驚いただろう」 言いながらハンカチを手渡してくれる。マイキはそのハンカチをじっと見つめた。それは偶然にも、灰色チェックの柄だった。卓と出会った頃に、卓が同じように差し出してくれた、あのハンカチとよく似ていた。見るとそれを差し出している長津田の手も、ごつごつして骨張っていてマイキのよりもずっと大きくて、卓の手に少し似ている。 「お、おい……」 いっそう涙がこみ上げてきた。それを見た長津田が狼狽えた声を上げた。そしてハンカチをマイキの手に押しつけた。 「ほら、拭いて。参ったな、そんなに痛かったのか。ごめんな。どこが痛い?」 長津田はどこまでも誤解している。しかしマイキには、その誤解を正す術がなかった。
2003年09月24日(水) |
星降る鍵を探して4-4-4 |
何か重いものを、地下から引きずり上げている感じなのである。 梨花は戦慄した。こう言うときの梨花の勘は泣きたくなるほどよく当たる。そして今度も当たった。 彼らが数人がかりで担ぎ上げているのは、卓だったのである。 俯せにされて運ばれているところをちらりと見ただけだが、見間違いようがなかった。卓はぐったりとしていて、抵抗する素振りもない。梨花は食い入るようにそれを見ていた。階段の上から手すり越しに見下ろしているという今の体勢では、本当にちらりとしか見ることが出来ない。現に彼らの姿はすぐに視界から消え、勝ち誇ったような言葉を交わす男たちの群が向こうの方へ移動していく。視界はすぐに空になった。 ――マイキちゃんは……? 梨花は階段を更に降りた。マイキの姿は見えなかった。でも、あんな小さなマイキのことだ、ここから見えなくったって…… 「梨花」 流歌が追いついてきた。梨花は二の腕に手のひらを当てた。冷え切った二の腕は、ぞっとするほど冷たかった。
* * *
たたた…… 静まり返った暗い廊下に、自分の立てる足音が響く。 マイキは闇雲に廊下を走っていた。もう、ここがどこなのか、何階なのかすら、わからなくなっていた。脇腹が痛い、と頭のどこかで考えた。それから、呼吸も苦しい。 体のあちこちが痛かった。いつの間に怪我をしていたのだろう。肩の辺りがじんじんと疼くし、右足の付け根の辺りも痛かった。走れないほどではないにせよ、膝も痛い。それは剛の肩の上から振り落とされたときと、高津に叩きつけられたときに出来た打ち身だったが、マイキにはその記憶はほとんどなかった。そもそも彼女は自分の体調に気を配るという習慣がなかった。痛かったら痛いと思うだけで、痛みを軽くするためにどうすればいいかがよくわからない。 (すぐる) 考えるだけでたまらなくなる。 どうして卓がああいうことを言ったのか、ああいう目でマイキを睨んだのか、どうしてあの場所からマイキを遠ざけたかったのか、マイキには全てわかっていた。卓は何とかマイキだけは逃がそうとしてくれたのだ。いくら他の人が知ってる様々なことを知らなくたって、それくらいのことはわかっている。 (でも、かなしい) 卓に嫌われたわけじゃないって、わかっているから。 (かなしい) 卓にあんなことをさせてしまったことが。 卓にいつも守ってもらうしかできない自分が、哀しいのだ。 頬が濡れていた。これが涙だと言う知識はあった。卓が教えてくれたからだ。哀しいときに目から出る水は頬をぬらして顎を伝わり、水滴となって床に落ちる。邪魔だな、と思う。濡れた頬をいちいち拭うのは走るのの邪魔になるし、涙は目を腫らして見えにくくするし、鼻がぐしゅぐしゅになるし、しゃくり上げながら走るのはとても苦しい。でも、涙が出るのはマイキに感情があるからだって、それはいいことなんだよって、卓が教えてくれたから。いいことなのだ。きっと。 (すぐるのばか) ひくっ、と喉が引きつった。マイキはぎゅっと目を閉じた。溢れた涙が頬を滑り落ちていく。卓は頭がいいのに、とマイキは思う。卓は何でも知っているのに。それなのに、何にもわかっていないのだ。マイキには卓しかいないのに。ひとりだけ助かったって、卓に二度と会えなくなったら、嬉しくなんて全然ないのに。
2003年09月23日(火) |
星降る鍵を探して4-4-3 |
先生。 という言葉は、流歌の口から何度か聞いたことがある。流歌が昔、一年学校を休んだとき、病院と家で家庭教師をしてくれたという人の話だ。流歌はそのことについてはあまり話したがらなかった。ただ、圭太と一緒に怪盗家業をしているのは、その人が嫌いだからだ、というようなニュアンスは掴んでいた。 でも。 先生が、流歌に一体何をしたのか――ということまでは聞けなかった。 七年前。否、六年前になるのだろうか。流歌の怪我がほとんど治り、一年遅れで学校に復帰する直前に、何かがあったのだ。何があったのだろう。六年という長い月日が経っても、流歌は『先生』について話すとき、今のように辛辣な、それでいて不思議な危うい表情を見せる。 中学生の頃に、自分が何を考えていたかなんて、梨花はもうほとんど思い出せないくらいだと言うのに。流歌は未だに、その頃のことに縛られているのだろうか―― 「梨花?」 先を行く流歌が振り返って、にこっとした。その表情はいつもの流歌のものだ。梨花はホッとして、いつの間にか止めていた足を早めようと、して。 その物音に、気づいた。 梨花は足を止めた。そして振り返った。何だろう、今の――? 「梨花?」 流歌の不思議そうな声が聞こえる。その声にだろうか、先を進みながら、低い声で言い交わしていた剛と圭太の声も止んだ。それであたりに静けさが落ちる。 ――…… ――……た。 ――……まえた。
捕まえ、た。
「梨花!?」 流歌が上げる声を背にして、梨花は今来た道を駆け戻った。聞こえた。階段の下から、男たちが言い交わす言葉が、ざわめきになって聞こえてきたのだ。男たちの言葉はほんの低いもので、耳鳴り程度にしか聞こえなかったのだが…… きゅっ、とスニーカーが音を立てる。階段を駆け下りる。先ほど剛に首根っこを掴まれた辺りを通り過ぎ、手すりに身を隠すようにして下を覗き込むと――下の階段のあたり、地下へ続く階段のところに、黒い服の男たちが数人固まっているのが見えた。
2003年09月22日(月) |
星降る鍵を探して4-4-2 |
ともあれ、ここまで順調に降りてこられたのは、敵が一階に固まっていたためらしい、と言うことがこれでわかった。圭太は思案深げに手すりに寄りかかって、ため息をついた。 「やつら、人数はそれほど多くないからね。捕まえるよりも逃がさないようにした方が確実ってことなんだろ」 流歌も頷いた。 「出口を固めるのは、人数そんなにいらないもんね」 「でもそれじゃいつまで経っても金時計が戻ってこないじゃない」 と梨花が口を出すと、二人は揃って頷いた。 「そう、だから、警告したのよ」 と流歌が言った。 「見つけたっていう『ひとり』が掴まったら、ここに電話がかかって来るんだろう」 と圭太は言って、どこからかシルバーピンクの携帯電話を採りだした。あ、と流歌が声を上げる。 「あたしの電話、取り返してくれたんだね」 「あとハンカチと、キーホルダー。靴まではポケットに入らなかった。悪いな」 「ううん、充分。ありがとう」 と流歌がにっこりして、受け取ったものをポケットにしまう。梨花は腕を組んで、今言われたことについて考えた。 「てことは、誰かが捕まったら、交換条件として金時計を返せって、連絡が来るってわけ……?」 そのためにわざわざからかうようにして警告してきたわけなのか。ようやく少し腑に落ちた。圭太が頷く。 「でもお兄さんがそう簡単に捕まるわけはないし、放って置いても大丈夫だろ。心配なのはマイキちゃんだけど、新名くんと一緒なら滅多なことはないだろうし。なら早いところ合流しちまって、何とか出口を見つけて外に出ればそれで片が付く。新名くんたちは地下だっけ?」 「……そうね」 梨花は頷いて、ふと、不安になった。克の方は全く心配はいらない、と梨花も思う。でも、卓とマイキの方は……? 普段の卓ならば確かに大丈夫だろうけど、先ほどの辛そうな様子を思い出すと、いてもたってもいられない気分になってくる。 「で、金時計と言うのは一体何なのだ」 梨花の不安をよそに、今まで沈黙していた剛が口を出してきた。剛は剛なりに、現状について考えていたものらしい。しかし圭太はさて、と言って二階に戻った。そのまますたすた歩いていく。 「地下に降りられる道を探さなくちゃな」 「待てい、須藤圭太」 と存外素早い動きで剛が圭太に追いついた。 「貴様我々をここまで巻き込んでおいて、肝心なことはちっとも話さないではないか。言え。この金時計は一体何なのだ?」 と話しかけながらも二人の進む速さは止まらなかった。圭太のマントを掴んだ剛の巨体が、ずるずると引きずられていくのである。圭太はちっとも力を入れているように見えないのに、あの巨体が止まらずに引きずられていく様は何だかひどく、異様だ。 「だから鍵だって言ってるじゃないか」 平然と圭太が答えている。だからあ、と剛が声を荒げた。 「だから何の鍵だと聞いておるのだ!」 「だからそこまでは知らないって」 「嘘をつけ! 怪盗ともあろうものが何の鍵かも知らずに盗むわけがない、そうだろう!」 「珍しく鋭いね、どうしたんだ」 というような会話を交わしながら、ずるずると音を立てて二人が遠ざかっていく。梨花と流歌は顔を見合わせた。何となく、追いかけるタイミングを逃してしまった。二人は同時に苦笑して、何となく同時に歩を進める。 「流歌、知ってんの?」 訊ねる、と、流歌は首を振った。 「知らないよ。ただ、」 一瞬、言葉が途切れる。 そして流歌は、呟くように言った。 「……ただ、あの『先生』が守ってるんだから。ろくなもんじゃないと思うよ」 そう言った流歌の言葉は、普段の流歌からは想像もつかないほどに、ひどく辛辣に響いた。
2003年09月21日(日) |
星降る鍵を探して4-4-1 |
4章4節
四人は、ようやく二階まで降りてきていた。 ここに至るまで一度も誰とも出会わなかったというのは、かなり異様なことなのではないだろうか、と梨花は思っていた。もう遙か以前のことのような気がするが、とにかく梨花がひとりで屋上からこのビルの中に潜入したときには、即座に高津に出会ってしまった。その後高津に連れられて降りる途中でまた『玉乃さん』に出会った。また高津の後をつけて地下まで降りていって見たら、下にはマイキと卓と高津を除いても四人もの男がいた。こういうことを考えてみても少なくともこの建物は無人ではないはずだし、玉乃の話に寄れば研究者が大勢いるということだったし、流歌を捕まえて閉じこめておいたということを考えてみても無人と言うわけではないだろうし――なのにどうして、先ほどから、人間の気配すら感じられないのだろう。 と、先頭を行く怪盗姿の圭太が、一階へ続く階段の上で立ち止まった。 「さー、ここからが問題だ」 「ここまで降りてこられたんだから、窓から出た方がいいかもね」 と流歌が相づちを打っている。先ほどから思っていたのだが、この兄妹はどうやらこの建物の中にとても詳しいようなのだ。さすが兄妹というべきか、もっと言えば双子だからなのか、言葉に出さずに意志疎通が出来てるんじゃないかと勘ぐりたくなるほどに息があっている。もしかしたら記憶まで共有してるんじゃないだろうな、と思ってしまうのは、圭太と流歌が二人で何かしているところに居合わせるのはこれが初めてだからかも知れなかった。 今まで、全然似てるなんて思わなかったのに。 梨花の所属する『隠密活動部』と、圭太の率いる『怪盗研究会』はとても親密な関係にある。非常時には助け合うばかりでなく、構成員の貸し借りすら行われている。だから梨花は圭太のことを、『一風変わった先輩』という目で見てきた。友達のお兄さん、だなんて目で見たことはなかったし、流歌と圭太が兄妹だなんて、流歌に言われるまで知らなかったほどだ。 でも、こうして見ていると……本当に血がつながってるんだ、本当に兄妹なんだ、本当に、双子なんだな、と。変なことに感心してしまう。それはちょっとくすぐったいような、そして妙に寂しいような、おかしな気分だった。 横目で見やると、同じ気持ちなのだろうか、剛が複雑な表情をしている。否、恋愛感情が絡んでいるだけ、剛の方が複雑な気分かも知れない。この単純な男は、自分の感情がまるまる表に出てしまっているということに、全く気づいていないようだ。梨花から見ればとてもわかりやすい。流歌がどうして剛の感情に気づかないのかがとても不思議で、剛が少し哀れになってくるほどだ。 ぽん。 梨花は剛の背中を叩いた。 剛がいぶかしそうにこちらを見下ろしてくる。 「何だ、飯田梨花」 「負けるなよ、先輩」 「……何に?」 「いえ別に。ねえそれ、どういう意味?」 梨花は二人の背中にそう訊ねた。この兄妹は、今は二人揃って階段の手すりから身を乗り出して、下を窺っているところだった。背中が、というより仕草が、本当にそっくりだ。何だか、変な感じ。 梨花の言葉に、二人は揃ってこちらを振り返った。 「やっぱり、いるみたい」 と流歌。 「どの出口もこんなだろうな」 と圭太。だから二人で納得するなっての。梨花は仁王立ちになって腕を組んだ。 「説明してください」 「そ、そうだそうだ」 先ほどの梨花の激励をなんと解釈したものか、剛が横から口を出した。圭太が階下の方へ顎をしゃくってみせる。 「ここへ降りてくるまで、人がいなかっただろ?」 「うん」 と梨花と剛の相づちが重なった。 「一階にほとんど全員が集まってたからなんだろうな。うじゃうじゃいる。見てみな」 梨花は剛と顔を見合わせた。そして同時に手すりに駆け寄って、下を覗き込む。しかしどんなに身を乗り出しても上への階段が邪魔で見ることが出来ず、もっと身を乗り出したら落ちてしまいそうで、移動しようかと思ったとき、剛が唸った。 「……うーむ、なるほど」 「清水さん、見えました? あたしまだ見え」 言いかけると剛がいきなり梨花の首根っこを掴んだ。ぐいっと手すりから引きずり下ろされそうになって思わず息を飲む。視界が逆さまになる。揺れる視界に、なるほど確かに、下をパトロールしている黒づくめの男の影が見えた。 「……見えたか?」 剛の声が聞こえる。こくこく、と頷いたが、首根っこを掴まれているため上手く行かない。手をのばしてぽんぽん、と手すりを叩いた。空手に『参った』があるかどうかは知らなかったが、それで通じたようだった。再び首を引っ張られて、元の階段にどすんと落とされる。 「お前さあ……」 圭太が呆れたように呟き、流歌がとんとんと梨花の背中を叩いてくれ、梨花は喉元を押さえて大きく息をついた。剛は三人の反応の意味がわからないようできょとんとしている。悪い人じゃないんだけど、でもやっぱりあんまりもてそうもない人だよなあ。梨花は思って、もう一つため息をついた。
2003年09月19日(金) |
星降る鍵を探して4-3-11 |
* * *
男がゆっくりと、近づいてくる。 卓はタイミングを計っていた。何としても、もう一度だけ、この痛む体を酷使しなければならない。男はゆっくりと近づいてきている。マイキはその男から卓を庇うように立ちはだかっている。その小さな背中越しに、卓は男の足音を聞いていた。一発勝負だ。後ろの男が近づいてくる前に。発砲されないように。ここが薄暗くて本当に良かった。 こつ、こつ。 男が階段を下りきった。男の腕がマイキに届くまで、あと、ほんの数歩。 ――できるかな。 今から自分がしようとすることを、本当に自分に出来るのか、ひどく不安だ。けれど、と卓は全身から力を抜きながら、心に決めた。できるかな、ではない。やるのだ。 それで、マイキから嫌われたり、怖がられたり、してもだ。 「お嬢ちゃん――」 男がゆっくりと、マイキに手をのばす。びくり、とマイキの小さな背中が震える。卓は大きく息を吸った。 ――ごめん、マイキ。 そして卓は、マイキを突き飛ばした。 「!」 マイキの小さな体が横に飛んだ。長い髪が舞い上がって、細い体が倒れ込む。ああ、と、卓は、目の前にいた男に飛びかかって押さえつけながら考えた。マイキにこんなことをする日が来るなんて。倒れ込んだマイキの体の立てた音は、地面に倒れた勢いにも関わらずひどく軽く聞こえる。大丈夫だろうか。骨が、折れたりしてないだろうか。 「こ、この……っ」 「走れ、マイキ!」 うなり声を上げる男を全身の力を込めて押さえつける。体が痛かった。力を込めるだけで全身がバラバラになりそうだ。でも卓は構わなかった。今だけ動ければ、それでいいのだ。 マイキが起きあがった。その顔が、この薄暗さにも関わらず、驚愕に見開かれているのがよく見えた。見えてしまった。卓は声を励ました。言いたくはない。でも、言わなければならない。 「走れってば、聞こえないのか、この馬鹿!」 その声は、ありがたいことに、ひどく苛立って、怒っているように響いた。こちらに戻って来ようとしていたマイキが、棒立ちになる。 「行け! 行かないと、」 「このくそ餓鬼!」 後ろから来ていたもうひとりが駆け寄ってくる。勢いの乗った拳が飛んできた。顎のあたりに衝撃が走って、目の前に火花が散った、気がした。抑えていた卓の手が緩んで、押さえつけられていた男が起きあがろうと、する。それを必死で押さえつけながら、卓は叫んだ。 「逃げろったら! 行かないと嫌いになるぞ!」 我ながら、何を言ってるんだろう、と思う。 でもマイキには効いた。卓は一瞬狼狽えた。マイキが蒼白になったのが、本当に目に見えたのだ。マイキは顔をくしゃくしゃにして、卓の言葉に押されるように、一歩、足を踏み出した。その時卓の下にいた男が卓の胸に蹴りを入れた。一瞬せき込むほどの衝撃。肋がみしり、と音を立てた。 「……!」 「おい! その子を捕まえろ!」 下にいた男がもうひとりに叫ぶ。その男が卓の後ろを通って、マイキの方に足を踏み出す。その足に卓はしがみついた。どう、と男もろとも倒れる。マイキはまだ走らない。 「行けってば!」 「こんの……っ」 起きあがった男が卓の鳩尾を蹴り上げた。目が回る。口の中に血の味がにじむ。でも卓はマイキから目を逸らさず、睨み続けていた。卓は今までこんな視線をマイキに向けたことはなかった。向けたくなんてなかった。咎めるような、なじるような、視線だ。 マイキがまだまだ、自分の能力のせいで、自分の存在に自信を持てないでいることを、卓は良く知っている。 マイキにこんな視線を向けることが、マイキにとってどんなに辛いことかって、言うこともわかっている。 でも。 「行け! 逃げないと、二度とマイキとなんか口聞かないからな!」 声を励まして、叫ぶ。すると、ようやく、マイキが動いた。彼女は顔をくしゃくしゃにして、そして、きびすを返した。たたた、と足音が響く。 再び鳩尾に衝撃が来た。でも卓は自分の体を庇おうとはせず、ただ、先ほどマイキを捕まえようとした男にしがみついていた。死んでも放さないつもりだった。マイキがちゃんと逃げるまで。 でも、大丈夫。マイキはちゃんと逃げた。軽い足音が階段の下にたどり着いて、走り去る音がちゃんと聞こえる。 と、その足音が、止まった。 「すぐる……っ」 マイキが叫んだ。それが、卓が意識を手放す寸前に、聞いた最後の音だった。
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3節終了。 初めて「 」つきでちゃんとした言葉を喋りました!(ぱんぱかぱーん!) 明日のこと。明日は理事会なので、一日仕事に行ってまして、夜にちょっと用事が入ったので、更新できるかどうか分かりません。できなかったらごめんなさい。
2003年09月18日(木) |
星降る鍵を探して4-3-10 |
逃げ道はひとつだけあった。正面に見えている、スチール製の扉だ。 「あれはどこへ続いてる?」 「非常口よ。下までずーっと階段が続いてる。一階まで行けるわ」 「ありがとう」 言うと玉乃は目を丸くした。 「信じるの?」 「もちろん」 「呆れた。早死にするわよ」 ――騙されても別に支障はないし。 とはもちろん口にせず、克は恐らく聞き耳を立てているであろう、桜井の気配を窺った。しかしなんの気配もなかった。相変わらず気配の希薄な奴だ。 「いいこと教えて上げましょうか」 絶妙なタイミングで玉乃が邪魔をする。 「あたしが……あなたが敵だとわかったのは何故なのか、知りたくない?」 「玉乃」 と背後で、桜井の声が聞こえた。 「出てこい。怪我するぞ」 くす、と玉乃が笑う。答えた声は、ほとんど揶揄すると言っても良いような、楽しそうなものだった。 「いやよ」 「どうして? 新名に寝返るのか」 「出ていったら撃たれそうだもの」 すると桜井も笑った。 「勘がいいな」 何て会話だ。 克は体勢を整えた。座り込んでいた体勢から、しゃがみ込む姿勢に変える。玉乃を抑えた手はそのままで、背中を机の裏に当てる。こういうのは卓の方が得意なんだけどな、と思いながら試しに力を込めてみると、机がわずかに持ち上がった。 玉乃が目を見開いた。 「すごい。力持ちね。ね、放しても大丈夫よ? あたしは指一本動かさない。もちろん起きあがったりしない。誓うわ」 全身の力を込めている克は返事をする余裕はなかった。この机は恐ろしく様々な機械が乗っている。ひっくり返すだけといっても、ひとりではなかなか骨が折れた。 「……玉乃」 後ろから桜井の咎めるような声がする。玉乃は微笑んだ。 「今だけよ。お礼がしたいの」 「お礼?」 「あなたの撃った弾から、あたしを助けてくれた、お礼」 ――気づいてたのか。 克は一気に机をひっくりかえした。玉乃が上手く足を引っ込めて挟まれるのを防いでいる。 「持ち物を」 そうしながら玉乃が囁いた。 「もう一度チェックした方がいいわよ」 桜井の発砲した弾が克の頭上、ほんの数センチ上をかすめていった。机の影に身を隠しながら手近にあったキャスター付きの椅子に蹴りを入れる。椅子は勢い良く、先ほど玉乃から聞いた『非常口』の方へ滑っていく。椅子が飛び出したのとタイミングを合わせて克は逆方向、つまり桜井のいる方に飛び出した。桜井のような男でも、先ほどの会話を聞かせて置いた上、勢い良く飛び出した椅子に一瞬騙された。一瞬あれば充分だった。桜井の隣を走り抜けざま、克は玉乃の持っていた銃を発砲した。当たらないのは覚悟の上だ。 不意をつかれた桜井が体勢を崩すのを尻目に、克は手すりから――あの地球儀のある巨大な空間に向けて飛び降りた。 最後に玉乃が囁いてきた、「持ち物をチェックしろ」という言葉が、脳裏でわんわん鳴り響いていた。
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持ち物チェックは基本ですね。 文章が恐ろしく乱れている。骨格だけって感じだ。すみません。サイトアップ時に直します。
2003年09月17日(水) |
星降る鍵を探して4-3-9 |
* * *
克は次第に焦り始めていた。 今自分が押さえ込んでいる女は全くの無抵抗で、何か思い出しているような、目の前にいる克のことなど忘れたかのような瞳をして、黙って壁にもたれていた。先ほどまであんなに手強くて、『落とす場所を選べ』と言ったときにはひどく妖艶な、抗いがたいような雰囲気を醸していた彼女は、今は何だか抜け殻のように見えた。かすかに開いた唇も、整った顔立ちも、眼鏡の奥で伏せられた睫毛も、今は不思議と作り物のように見える。 こうなってしまうと『気絶させて逃げる』とか『縛り上げて逃げる』とかという、当然取らねばならない手段が取りにくいではないか。 かといって、黙って手を放すということは出来なかった。頭では、今手を放しても玉乃は暴れないだろうと理解はしていても、長年の間に培われた本能が克にそんな賭のような手段を取ることを許さない。 つまり克は間抜けなことに、玉乃を押さえ込んだままその場に立ち尽くしているしかないわけで。 ――どうしようか、本当に。 玉乃はいい匂いのする香水をつけていた。克は別に香水に詳しくもなく、興味もほとんどなかったが、この女性が選んだ香水はどういう種類のものだろう、とぼんやりと思う。甘すぎず、きつすぎもしないその香りはほとんど自己主張をしておらず、玉乃というこの女性の体の一部みたいにしっくりと落ち着いていた。 と―― ふ、と風が流れた。風は入り口の方から吹いて玉乃の香りを揺らした。玉乃がわずかに伏せていた睫毛を持ち上げた。ただそれだけの異変が、克の本能にひっかかった。
ほんの刹那、周囲から完全に音が消える。
深く考えている暇はなかった。克は何も考えなかった。玉乃の腕を掴んだまま壁を蹴り、仰向けに身をのけぞらせる。引っ張られた玉乃の体が克を追いかけるように倒れ込む。そしてほんの一瞬前まで玉乃の頭のあった場所に銃弾がめり込んだ。 後から轟音が聞こえる。 「――!」 息を飲んだのは玉乃だろうか、それとも自分だろうか。時間が急に音を立てて流れ出した。二発目の銃声が聞こえたときには克は床に落ちていた玉乃の銃を拾い上げ、三発目が聞こえたときには複雑な機械を乗せた机の下に、玉乃を引きずり込んでいた。 ――桜井だ。 足音も気配も全く克に気取らせないような人間が、この世にそう多いとは思えない。 考える内にも続けざまに発砲音が鳴り響く。この机の下はひどく狭いが構っている暇はなかった。跳弾が部屋中をはね回る甲高い音を聞きながら、克は右手で玉乃の銃を確認し、左手は玉乃を押さえつけて、目は逃げ場を探していて、頭では考えていた。 いきなり発砲するなんて、何を考えてるんだろう。玉乃に当たったらどうするんだ。 轟音はまだ鳴り響いている。よほど頭に来ているようだ。そう考えて、克は、先ほどまでの自分と玉乃の体勢を思い出した。大いなる誤解というものだが、あのガラス戸の方から見たら、抱き合っているように見えた、かもしれない。 「妬いたかな」 呟くと、床の上に倒れ込んだままの玉乃が言った。 「どっちに?」 「……怖いことを言わないでくれ」 呻くと玉乃はこちらを見上げて不思議な笑みを見せた。 「あたしに人質の価値はないわよ」 「やってみないとわからない」 「わかるわ。あたしがあなたを人質にした方が効果があるかも」 そんなバカな、と言おうとしたとき、ようやく銃声が収まった。 そこここに穴があいて硝煙が漂っている、その煙の音さえ聞こえそうな沈黙が落ちる。 「新名」 と、桜井の楽しそうな声が聞こえた。 「出て来いよ。遊ぼうぜ」 玉乃がこっそり囁いてくる。 「聞いた? 楽しそうなこと。妬けるわね」 「……怖いって、だから」 呻きながら、克は、目だけ動かして、この様々な機械の乗った机の脚を確認した。幸いなことに、床に固定されているわけではない。
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人気投票ご利用ありがとうございます〜! 兄ィが最近少し追い上げ気味でしょうか。マルガリータの足元にも及びませんが(笑)。マルガリータは今何してるんだろう。ていうか卓とマイキはどうなるんだろう(おい)。
で。 「なかよし」で育ったんですね……!(笑) 反応ありがとうございます。和みました(笑)。
2003年09月16日(火) |
星降る鍵を探して4-3-8 |
* * *
いくら『底なしみたいな体力の持ち主だ』という評価を受け続けてきたからと言って、卓だって人間だ。そして人間なら、否生き物なら、動き回っていればいつかは限界がやってくる。 卓の限界は唐突に来た。しかも階段を駆け下りている最中だった。かくん、と膝が抜けたかと思うと、ぐるりと気色が回って―― 「!」 目を見開いたマイキの顔が斜めに見える。 卓は無意識のうちにどこかに掴まろう、と大きく手を動かしたが、マイキがその小さな両手を差し出したのを見てとっさに手を引っ込めた。マイキに比べれば卓の方が遙かに重い。マイキに掴まってしまったら、マイキの力じゃ支えきれない。 「落ちたぞ!」 という追っ手の勝ち誇った叫び声を頭のどこかで聞いてから、痛みと衝撃が襲ってきた。自分が階段を転げ落ちたときに立てたはずの重い音は全く聞こえなかった。感じたのは体のあちこちにぶつかってくるごつごつした階段の感触と、重くて鈍い痛みだけ。 そして気がつくと卓は階段の踊り場に座り込んでいた。無意識のうちに受け身は取ったらしかったが、折れた肋骨には充分すぎるほどにひどいダメージを与えたようで、酷使し続けた肺と足はもはや立ち上がることを許してくれそうもなかった。階段の上に姿を見せた二人の追っ手を睨み上げるしか為す術のない自分が悔しくて、それ以上に、転がるようにマイキが駆け下りてきて、卓を追っ手から守るような姿勢を見せてくれたのが、無性に情けなかった。 「油断するなよ。高津をあんなにしたのはあいつだ」 ゆっくりとこちらに降りてきている男に、遅れている方が声をかけた。先を行く方は「……へえー!」と素っ頓狂な声を上げ、階段の中程で足を止めて、卓をまじまじと見つめ、そして後ろの男を振り返った。 「……ひとりでえ?」 「ひとりでだ」 「へえー!」 再びこちらを振り返り、なるほどねえ、と頷く。 「なるほどねえ、見るからに凶悪そうな顔してるもんな」 ――誤解だ。 卓は何とか呼吸を整えようとしながら、声に出さずにうめいた。 ――凶悪なのは顔だけなのに。 いや、今日一日でしてきた所行を思い返せば、もう誰も信じてくれないような気がするけれど。
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すみません…… すみません………… 魔女書いてました。(懺悔) や、やればできるものだのう。(バカだ!)
2003年09月15日(月) |
星降る鍵を探して4-3-7 |
「まさかここまでだとは思わなかった。すごいのね」 「な……何が?」 こうなった以上彼女を気絶させるなりなんなりして銃を奪って逃げるに越したことはない、と思うのだったが、彼女の反応のあまりの意外さに一瞬その気が削がれた。 「もちろんあなたの腕を誉めているのよ、新名さん」 「……!?」 克は一瞬息を飲んだ。 そして彼女を睨み付けた。名前まで知られているとなると、もう躊躇っている暇はない。すると玉乃はこちらの毒気が抜かれるような、無防備な、開けっぴろげな笑顔を見せた。 「あなたの言うとおりよ。あのひとはね、絶対に、肝心なことは言わないの。ずっとあなたに会いたいと思っていたわ。あのひとが一目置いてる人間って、どんな人かな、って思ってた」
*
「一生懸命調べたのよ」 言いながら、玉乃は、今自分を押さえつけている、この大柄な男を見つめた。本当に、この男は玉乃よりも遙かに背が高い。桜井よりもかなり高い。見た目ひょろりとして見えるのは、恐らく背が高すぎるからなのだろう。こうして腕を掴まれていると、外見よりも遙かに力が強そうなのがわかってくる。 全く動けなかった。 否、動く気が起きなかった。 動いたら即座に首の骨を折られてしまいそうだった。こんなにしっかり押さえつけられているのに、どこも全く痛くないのだ。力など加えなくても相手の動きを封じる術を心得ている。背筋が寒くなるほどにこの人は強い。 高津など問題にもならないだろう。 高津をあそこまで痛めつけたのは、もしかしたらこの男だろうか。一瞬そう思ったが、高津が『若者だ』と言っていたことを思い出した。高津は二十三歳である。目の前にいるこの男は高津よりは年上そうで、こういう相手に対しては、高津は『若者』とは言わないだろう。 「あのひとが、大学生の頃にね、一度聞いたことがあるの」 呟くように言う玉乃の言葉を、男は黙って聞いている。何もじっくり聞いてくれる義理などないだろうに。優しい人だ、と玉乃は思った。いや、余裕があるということなのかもしれないけれど。 「すごい奴がいたって、何だか嬉しそうに話してたことがあった。でもその『すごい奴』についての情報はそれが最後。肝心なことは本当に言わないのよ、その他の、研究室の知り合いの話とかは、聞かれないことまで話すくせにね」 中西さんとか、鶴岡さんとか、東さんとか……あなた方のゼミの仲間、覚えてるでしょう? 数え上げてみたが、男は頷きはしなかった。しかし否定もしなかったので、肯定されたと取ることにする。 「大学の事務所に忍び込んで、名簿を調べたの」 ゆっくりと、玉乃は呟いた。 「面白かったな……名簿を写して、一生懸命調べたのよ。すごく注意して。あのひとに気づかれないように。あのひとが『すごい奴』って言ったのは誰だったのか、推理したわ」 桜井との会話の中で、頻繁に名前が挙がるのは教授だった。それからひとつ上の先輩の名前、同じ学年の女の名前、男の名前。ひとりひとりについて履歴書を作成できるくらいに調べ上げて、ある日、その事実に気づいた。 同じ学年で同じ教授に師事している、新名という男についてだけ、桜井は一言も話さなかったのだ。 「聞き逃しただけじゃないのか」 新名克という、玉乃を今しっかりと押さえ込んでいる男は、初めてぽつりと言った。その目に浮かんでいる色が、玉乃の行動に対する恐怖なのか、それとも桜井にとって自分が『肝心な存在』だったということにぞっとしているのか、良くはわからなかった。玉乃はにっこりとして見せた。 「あのひとの言葉を聞き逃すなんてことはあり得ないわ。一言一句、全て覚えてる」 「……熱心なことだな」 男は感嘆した、と言うように呟いた。玉乃はそうね、と呟き返した。自分の行動が、偏執的なものだということはよくわかっている。 だからこそ、と玉乃は言葉には出さずに呟いた。 だからこそ、あんなに動揺してしまったのだ。この男が、新名克が、玉乃のことを桜井から聞いていない、と告げたときに。 『あいつの性格を知ってるでしょう? 肝心なことは最後まで言わない奴だ』 ――あたしの存在が、あのひとにとって『肝心』じゃないことなんて、わかりきっていたことだったのに。 この男に言われたから、あんなに。動揺してしまったのだ。
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今更ですが、玉乃さんはわたしにとって正しい乙女って感じです。 ……全国の乙女に殴られそうだ。 いやわたしだってりぼんで育ったんですよ……?(抵抗)
2003年09月14日(日) |
星降る鍵を探して4-3-6 |
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「な……何でだよ……」 ぜいぜい、ひゅうひゅう、とうるさい自分の呼吸音を持て余しながら、卓は思わずうめいた。独り言を呟くだけで咳込みそうになる。でも咳込んだらもう走れなくなる。自分の体が思い通りに動かないことにぞっとしながら、それでも何とかよろめくように足を前に踏み出す。少しでも前に進まなければ。マイキに先に行ってくれ、と先ほどから何度も言っているのに、彼女は頑なに卓のそばを離れようとはせず、新たにどこからか湧いて出た追っ手との距離は狭まるばかりだった。 何とか前に進まないと、マイキまでが。 一体どうして彼らには、自分の居場所が分かるのだろう? 先ほどの追っ手は倒した。連絡を取る暇もなかったはずだ。それなのに一体どうしてだろう? どうして彼らは全く迷う素振りもないのだ? 今までいくつもの分かれ道を通り過ぎてきた。その度ごとに、彼らは過たず卓とマイキの取った道を選んで追いかけてくるのである。 かすむ目で辺りを見回しても、監視カメラのようなものは見あたらない。そもそも監視カメラがあっても、この暗さでは卓とマイキの姿をカメラで捉えるのは難しいだろう。それでは何か、赤外線のようなものだろうか? 建物の中の至る所にセンサーが取り付けられていて、それが卓とマイキの居場所を逐一彼らに知らせているのだろうか? しかしこの建物の中をうろうろ動き回っているのは何も卓とマイキだけとは限るまい。 それに彼らは先ほどから一度も、一度たりとも、「何者だ」という言葉を発していないのだ。彼らは卓たちを普通の研究者かもしれないとか、自分たちの仲間かもしれないとか、一瞬たりとも疑っていないようだ。 まるでここにいるのが『敵』以外の何者でもない、と確信しているような―― どうしてそんなことがわかるんだろう? ボイラー室のところで、足音を殺して近づいてきていたことを思い出す。あれは探しているような感じじゃなかった。彼らには、卓とマイキがあそこにいる、とわかっていたのだ。あの辺にいるかもしれない、なんてあやふやなわかり方じゃなくて。 あそこにいる、と。 「何でだよ……」 沸騰しているような脳で卓は必死に考えた。どうして奴らは、そんなにはっきりと、卓とマイキの居場所を知ることが出来るのだろう。 目印がついてるわけでもないだろうに。
* * *
克は目を瞬いた。 「な」 と口を開く一瞬の間に、体が勝手に反応していた。玉乃の左手はまだ克の右腕を掴んでいる。その腕をぐっとひくと玉乃の体がバランスを崩し、彼女が体勢を立て直す前に克の左手が玉乃の右手を掴んでねじり上げていた。同時に左手を握る玉乃の手を外し、こちらも手首を掴み返す。とっさの動きに銃が玉乃の右手から離れて床に落ちる。それを目の隅で追いながら克は既に後悔していた。何てこった。彼女はまだ銃の安全装置を外していなかったのである。 後悔してももはや遅い。勢いのついた体は勝手に動いて、玉乃の両腕を壁に押しつけていた。ダン! と痛そうな音が後から聞こえる。がつん、と銃が床に落ちて転がる。舞い上がっていた玉乃の長い髪がほつれて白い頬に落ちるのをみながら、克はため息をついた。 ――やっちまった。 「……すごいわ」 なにやら嬉しそうな玉乃の声が聞こえる。克に壁に押さえつけられた格好で、彼女はほつれた髪を頬にまとわりつかせたまま、こちらを見上げて微笑んだ。
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不思議ちゃん?(シュール) ああ……自分で何を言ってるんだか分かりません…… どうやら熱があるらしいんですよ、実は。咳止め薬の副作用だかなんなんだか。熱があるときに小説を書くとこうなります、といういい例です。玉乃ちんが何考えてんだか(以下略)。
2003年09月13日(土) |
星降る鍵を探して4-3-5 |
玉乃は真ん中の椅子に座ると、こちらを見上げてにっこり、とした。 「地球儀の方を見ていて。今から動かしてみせるから」 そしてその白い手が、ずらりと並んだスイッチの上を鮮やかに踊った。克は地球儀の方を見るべきか、それとも彼女の手の動きの方を見るべきかで少し悩んだ。ヴ……ン、という音がわずかに強くなったのに気づいて地球儀の方に視線を移すと、先ほどまでゆっくりと動いていたあの巨大な地球儀が、見てわかるほどに速さを増していた。 「標的はどこがいい?」 楽しそうな玉乃の声が聞こえる。 「……標的?」 「そう。ここには優秀な研究者が大勢いてね。ちょっと前までは精度がまだまだ大ざっぱで、日本で言えば、そうね、藩規模でしか照準を定めることが出来なかったの。でも今じゃ建物単位で落とせるようになってるのよ。すごいでしょう?」 ――落とせる……? 何を? 克は地球儀の方に視線を向けながら、玉乃の言葉を聞いていた。視界にはあの馬鹿でかい地球儀がぐるぐる回っている様が映ってはいたが、玉乃の言葉から何とかヒントを得ようと注意を傾けるのが精一杯で、ほとんど何も見てはいなかった。 「さ、どこに落とす? 結構気持ちがいいわよ。どこにでも落とせる。あなたの好きなところに」 鍵が戻ってくれば、だけどね。 そう言う声はひどく甘く、誘うような響きを持っていた。 思わず玉乃の方を振り返ると、彼女は過たず克の目を捉えてあでやかに笑った。その笑顔が余りにも『完璧』で、克は少し背筋が寒くなるのを感じた。そして驚いた。人をこんな風に怖いと思うなんて、最近一度もなかった。 「嫌いな人はいる?」 赤い口紅を塗ったふっくらとした唇が、まるで独立した生き物みたいに、ゆっくりと動いた。 「嫌いな人が今どこにいるかわかれば、そこに落とせる。あなたがやったなんて、誰にもわからない。それどころか『不運な事故』で片づけられる。だって、そんなことが出来るなんて――自在に操ることが出来るなんて、誰も夢にも思わないんだから」 すごいでしょう――? くすくす、と笑う声が聞こえた気がした。玉乃はただあでやかに、微笑んでいるだけなのに。 「さ、決めて。大丈夫よ、まだ鍵は戻ってきてない。セットしない限り、本当には落ちてこない」 その時だった。 ルルルルル、と壁に掛けられた電話が鳴って、克はギョッとして振り返った。ああもう、と玉乃が毒づくのが聞こえる。 「せっかくここから面白いところだったのに」 ぶつぶつ言いながら立ち上がって克のそばをすり抜けて電話に手をのばす、その彼女から、思わず身を引きそうになるのを辛うじて堪える。自分が汗をかいているのにも同時に気づいて、舌打ちしたくなった。 克の目の前で、玉乃が受話器を取った。 「は――」 『何やってる、馬鹿者!』 受話器から聞こえてきたのは、やはりというか何というか、梶ヶ谷先生の盛大な怒鳴り声だった。 『わたしの許可なく動かすな! おいお前! 聞いてるのか!』 梶ヶ谷は、電話に出たのが克だと思ったようだ。 「聞いてます、先生」 玉乃が返事をすると、梶ヶ谷は一瞬絶句した。 そして怒鳴った。 『た、玉乃――! な、何やってた! どこにいたんだ今まで!』 「ちょっと食事を」 『食事!?』 「あたしだって人間です。食事くらいしたっていいでしょ?」 平然と答える玉乃の態度はふてぶてしいと言っても良いほどで、彼女は克を見上げて目で笑うことまでしてみせた。 「そして今はデート中なの。邪魔しないでいただけます?」 『で!?』 「デート。いいでしょう」 『何言ってるんだ、ふざけるな!』 「あらやだ、ふざけてなんか」 『うるさい!』 完全に手玉に取られた形の梶ヶ谷は、とにかく怒鳴って押し切ることにしたようだ。今までよりも一際高い怒声が聞こえて玉乃が受話器を耳から遠ざけ、梶ヶ谷の声が更によく聞こえるようになった。 『お前と話していても埒があかん、とにかくそこはひとりでいい! さっきの奴をこちらに戻せ! いいな!』 「ダメです」 と玉乃が答えたときには、電話は既に切れていた。玉乃は呆れたように受話器を見つめ、ため息をついてフックに戻した。克は少なからずホッとしていた。先ほどの梶ヶ谷の言葉が克にも聞こえたということはわかっているだろう。これでこの得体の知れない女から、遠ざかる口実が出来たわけだ。 「じゃ、俺、これで」 「だめー」 きびすを返しかけた克の右手を玉乃の左手がぐっと掴んだ。有無を言わせぬきっぱりとした動きに思わず足を止めかけたが、立ち止まってはいけないと思い返した。構わず足を踏み出そうとすると、玉乃は逆らわずについてきた。 前に進みながら、腕を振りほどくことも出来ず、仕方なく言葉だけで抵抗してみる。 「ここにひとり残れ、と言ったように聞こえましたが?」 「そうね、そう言っていたわね」 玉乃は平然と答えて、でも留まるそぶりは見せずについてくる。克はため息をついて見せた。 「梶ヶ谷先生を怒らせると怖いと言ったのはあなたでしょう」 「ええ、言ったわ。でも今はどうしても、あたしと一緒にいてもらわなきゃ」 ――え、 「……なぜです?」 思わず足を止めて、振り返ってしまう。 と、振り返った克の胸の中心のあたりに、何か硬いものが押し当てられた。 息を飲む。 玉乃が笑う。 彼女の右手には、いつの間にか黒い小振りの拳銃が握られていて、それが、克の心臓のある場所にピタリと当てられていたのだった。
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兄ィ受難。 ……書きやすい……!(なぜだ) 兄ィが人を怖いと思うというのは珍しいことなのじゃないか、と、思った直後に「両親がいるじゃん……」ってことに気づきました。しかし両親の説明をを今更書くわけにも行かず。兄ィって結構怖がりネ!(結論)
2003年09月12日(金) |
星降る鍵を探して4-3-4 |
――何を? と聞きたいが、聞きたいのだが、聞くわけにはいかない。 「もうほとんど完成してるの。最終チェック待ち、というところかしら」 「最終チェック、待ち?」 「そう。セキュリティをあまり厳重にしすぎたのが裏目に出たの。あの鍵がないと、最終チェックも出来やしないわ。かといってあの鍵を一から作り直すとなると、あまりにも時間がかかりすぎるしねえ」 「鍵って……金時計?」 「そうよ」 玉乃はこちらを見上げて、ため息混じりに苦笑して見せた。 「怪盗があの金時計の価値を本当にわかって盗んだとは思えないわ。あの時計はこの世にひとつしかない。そしてあの時計の値段は、そうね――国家予算の三年分、というところかしら」 「……」 ――あの安っぽい悪趣味な時計が……!? 克は驚愕した。したが、それを表に出す寸前で思いとどまった。玉乃はじっとこちらを見上げている。その視線の前で、下手な反応を見せるわけにはいかない。克はちょっと考えるふりをして見せた。 「三年分か。実感があまり湧かないですね。実物を見てないし」 「そうか、そうよね。見たらビックリすると思うわよ。すごく安っぽくて悪趣味な時計なの」 ま、それもカモフラージュのためなんだけどね。そう言って、玉乃はきびすを返した。こつこつとヒールの音を響かせて、手すりに沿って歩いていく。何となくそのままついていくと、程なく左手、手すりの反対側の壁がガラス張りになっているところまでやってきた。 「ここが操作室」 くるりと振り返って、微笑む。 「梶ヶ谷先生はしばらくここで待機していろ、と言ったのよね? その間暇でしょうから、いろいろ解説してあげる。あたしもね、こう見えても科学者の端くれなの。だからこそここに潜入する仕事を仰せつかったわけだけど」 克は頷いた。そうですか、としか言いようがない。玉乃も頷き返して見せた。 「今ね、梶ヶ谷先生は、遠隔操作の研究に没頭してるわけ。鍵が戻ってくるまでの間に、地球上のどんなところからでも操作できるようにするんだ、なんて張り切ってたわ。――どうぞ、入って。実演して見せて上げるから」
そのガラス戸の中は、複雑な機械で埋め尽くされていた。 その光景は、何か、スポーツの中継などで見るアナウンサーと解説者が座るボックス型の放送席を思わせた。それは恐らく曲がったマイクが数本飛び出ていたからなのだろう。設えられた椅子に座るとちょうどそのマイクが口のあたりに届くようになっていて、これはここから、階下で作業をする人間に指示を出すためのものらしい。 マイクのそばには非常に複雑な機械が置かれていた。様々なスイッチ、様々なつまみが所狭しと並ぶ様は、本当に放送局のディレクター席を思わせる。 玉乃は真ん中の椅子に座ると、こちらを見上げてにっこり、とした。 「地球儀の方を見ていて。今から動かしてみせるから」
2003年09月11日(木) |
星降る鍵を探して4-3-4 |
* * *
その頃の新名卓。 追っ手は銃を使わなかった。この暗さのおかげだろう。 足でも撃たれていたら終わりだったな、と、卓は呼吸を整えながら考えた。足下にはマイキと卓を追いかけてきていた男が二人、倒れていた。角を曲がったところで待ち伏せて、追いかけてきた彼らを倒したのである。卑怯だとか暴力はよくないとか言ってる場合じゃなかった。けれど、しっかり自我を保っている状態のマイキの前で、このような『暴力』を振るったのは初めてのことだ。どう思われただろうか、怖がられはしなかっただろうか、と思っていると、マイキがぎゅっと抱きついてきた。 卓の不安を正しく読んだかのようなタイミング。 「……行こうか」 そう言うとマイキはこくり、と頷いた。一緒に歩き出しながら、卓は、もう誰にも見つかりませんように、と祈った。二人の男を倒すことが出来たのは奇襲のおかげだった。もし面と向かって戦えと言われたら、非常に心許ない。それほどまでに肋が痛い。
* * *
地球儀はヴ……ン、というあの低く思い音を立てて、ゆっくりと回っていた。
『遠隔操作』によって開いたあの扉の向こうは、巨大な空間になっていた。ちょっとした体育館くらいの大きさはあるだろう。克と玉乃は今、その体育館の天井近くに設えられた廊下に立って地球儀を見下ろしていた。その廊下は体育館の壁をぐるりと這うように作られた手すり付きのもので、手すりから見下ろせば、地球儀の北側の部分がよく見える。今克が見下ろしている場所の真下には、日本列島の蝦夷あたりが差し掛かったところだった。 「すごいな」 呟くと、玉乃がそうね、と言った。 「でも本当にすごいのはこれじゃない。これは単にコントロールするための機械だから」 ――何を? と聞きたいが、聞きたいのだが、聞くわけにはいかない。
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書きにくい……!
一日休んでこれかい。ああ、もう。 一度最初から読み直す必要があります。ああ書きたいことはあるのに上手く書けない……!
2003年09月09日(火) |
星降る鍵を探して4-3-3 |
「それで、あなたは――?」 彼女の名前を聞くという、何でもないはずの言葉を口に出せたのは、それから少しの間愚にもつかぬ世間話を終えてからだった。訊ねると、彼女はわずかに小首を傾げた。 「彼から聞いてない?」 克は苦笑して見せた。 「あいつの性格を知ってるでしょう? 肝心なことは最後まで言わない奴だ」 すると。 「……」 彼女の顔に一瞬だけ、不思議な色がよぎった。それはもしかしたら彼女が初めて見せた動揺だったのかも知れなかった。しかし克が瞬きをする間にそれはかき消え、彼女は完璧に微笑んで見せた。 「そうね」 同意した声はこれ以上ない、というほどに朗らかだった。 「それじゃもしかして、あの地球儀がどういうものかも知らないわけなの?」 そこに至ってようやく克は、今自分の背後にぽっかりと口を開けた扉の向こうにあった、あの馬鹿でかい地球儀のことを思い出した。 そして同時に、梶ヶ谷先生に連絡をしなければならなかったことも。 「あ!」 声を上げると、まだ名前も知らない女性は目を見開いて見せた。そういう顔をすると大人びた雰囲気が崩れて、可愛らしい雰囲気になる。しかし克はそれを観察している暇はなかった。あの短気な先生のことだ、今頃怒り狂っているかも知れない。あの地球儀がなんなのか探り出さなければならない今は、梶ヶ谷先生の機嫌を損ねるのは避けたい。 「ちょっと電話してきます」 断りながら彼女の隣をすり抜けて足早に部屋を出、廊下にある内線電話に向かう。彼女は興味深そうにとことことついてきた。 「どうしたの?」 「梶ヶ谷先生にね、電話するのを忘れてた」 「あら大変」 ちっとも大変と思っていない口振りだ。 「あの先生を怒らせたら怖いわよ。……なるほどね、梶ヶ谷先生に言われてここへ来たのね。あたしが席を外していたから」 内線電話のあるところまでたどり着き、受話器を取り上げながら、克はこれでようやく彼女の名前がわかった、と思った。 ――あたしが席を外していたから。 ということは彼女は、あの時梶ヶ谷がいらいらしながら電話で探していた、『玉乃』ということになる。 『遅いぞ、馬鹿者!』 着信と同時に聞こえた怒鳴り声を聞き流しながら、克は、背後で面白そうに眺めている玉乃(推定)の方に神経を張り巡らせていた。
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み……みーじーかーいー…… すみませんやっぱ叔母さんとこ行った日はこれで精一杯です。 腹の探り合いって難しい!(言い訳)
2003年09月08日(月) |
星降る鍵を探して4-3-2 |
敵の真ん中に潜入している状態で、敵から出し抜けに声をかけられたとき、克はいつも一瞬迷う。 初めから気がついていたというような、平静を装うのが良いのか。それとも大っぴらに驚いて見せた方がいいのだろうか。そもそもこの声の主は一体誰だろう、そして何故、『見つけた』などと――? しかし克が振り返るより早く、 「……あら?」 当の女性がしまった、というような声を上げた。 「あらやだ、人違いだわ」 あたしとしたことが、と呟く女性の方へ、克はようやく向き直った。 初めに飛び込んできたのは、長くて艶やかな、黒髪だった。 克の目線よりはだいぶ下に、大人びた美貌があった。白衣を着ている。ぱっと見た雰囲気が、マイキにとてもよく似ている、と思ったのは、その瞳のせいかもしれなかった。眼鏡の奥で、ややつり上がった瞳が振り返った克をまじまじと見、そして彼女ははにかんだように笑った。 「やあねえ、どうして間違えたのかしら。全然似てないわ」 「誰と間違えたんですか?」 頭を働かせながらも、克はそう言った。この女は誰だろう、と克は考えていた。この女は、今克が成りすましている、桜井の下で働いているごく普通の部下が、知っているような存在だろうか? 彼女は克の質問には答えなかった。克を見上げて、まぶしそうに微笑む。しかし克には、彼女があでやかな笑顔の裏に隠している警戒の色がかすかに見えた。 「見ない顔ね。お名前は?」 「山田です」 と言ったのは芸術館のタワーで倒した男の名前をとっさに思い出したからである。彼女はそう、と言った。 「新しく雇われたの?」 「いや、応援に来たんですよ、頼まれて」 「あら、誰に?」 「桜井……さん、に」 桜井の名前を出す、と、彼女の表情が変化する。悪戯っぽい笑み。 「他には誰もいないもの、呼び慣れた名前で呼んで構わないのよ」 「そうですか」 克はホッとした、という顔をして見せた。彼女はにこやかに頷き、言葉を継いだ。 「それで、あなたは彼の、お友達?」 「まあそんなもんです。大学の同級生でね、その縁で、いろいろ」 「あら、優秀なのね!」 「そんなことないですよ、暗記が得意だってだけで」 にっこり、ととっておきの笑顔で微笑んでやると、彼女も満面の笑顔を返した。こいつは手強い、と克は思った。彼女の浮かべた笑顔は、今克が浮かべた『とっておき』と同じ類のものだった――つまり、『営業用』という意味。彼女は今まで一言も固有名詞を言っていないのである。出来るだけ彼女から情報を引き出さなければならないと言うのに、彼女はひどく用心深かった。
2003年09月07日(日) |
星降る鍵を探して4-3-1 |
その頃の新名克。 扉を開けると、真新しいリノリウムの冷たい匂いと、あのリィリィ言う不気味な音とが押し寄せてきて、克は眉をひそめた。ゆっくりと中に入り込むと、こつ、こつ、と靴が渇いた音を立てて、真っ白な部屋に静けさが落ちる。 梶ヶ谷という男は怪盗を捕らえよ、と、どこぞに電話をかけ――恐らく桜井なのだろうが――その後、ここに行け、と克に指示を出したのだった。桜井が来る前にあそこを抜け出したかったし、研究内容を何とか探り出したいと思っていたこともあって、克は従順に指示されたこの場所へと歩を進めたのだったが、 「本当にここだよなあ?」 つい心配になってしまうほど、この部屋には何もなかった。四畳半ほどの小さな部屋はまるで病室のように白々と仄明るくて、床は廊下と同じクリーム色のリノリウム。今まで誰も足を踏み入れていないのだろうかと思わせられるほど、何の汚れもない。埃すらもない。あのリィリィという、人の神経を毛羽立たせるような不気味な音がいっそう大きくなった他は、取り立てて何も言及する印象がない部屋だった。 こつ、こつ。 あんまり静かすぎて、普段ほとんど立てていないはずの克の足音が静けさに響く。 以前就いていた仕事の癖で、こういう部屋の中は本能的に探らずにはいられない克だった。とりあえず扉の外には誰もいないことを確かめてから、部屋の壁を叩いて回る。指の関節でコンクリートの壁を叩くと、ごつ、ごつ、と中身の詰まった音がした。 と―― がつん。 「ん……?」 先ほど入ってきた入り口の正面に当たる壁に差し掛かったとき、克は眉をひそめた。指で確かめてきたこの壁の音が、ここに来て明らかに変わったのである。目が痛いほどに真っ白な壁に目を凝らすと、克の目線よりわずかに高い位置に、ごくごく細い亀裂が入っているのがわかった。 亀裂を指で辿る内に、それが大きな長方形を描いているのがわかってくる。 「扉か」 その場所を忘れないようにしながら、克は数歩、後ろに下がった。梶ヶ谷先生からは、「とりあえずその部屋に行って、作動したら廊下の内線電話で連絡して欲しい」と言われている。何が『作動する』のかはわからないが――桜井の仲間だと思われている以上、質問をすることは出来なかった――万一その扉から何かが飛び出してきても、対処できる位置にまで移動する。 一体あの扉の向こうには何があるのだろう、と、その細い細い亀裂を見ながら考えた。何よりも気にかかるのは、このリィリィという、人の神経を毛羽立たせるような不思議な音だった。先ほどまではよくよく注意しないと聞こえなかったようなかすかな音だったのに、この部屋に入ってからは、はっきりとその音を辿れるほどの音量になっている。セットで聞こえるヴ……ン、という冷蔵庫の稼働音を更に低くしたような音は、鼓膜をふるわせるのがはっきりとわかるような重厚な質感を伴っていた。 その時、 ゴクン、 という、何か重いもの同士が噛み合わさるような鈍い音が響いた。 次いで、壁に埋もれて見えない謎の扉が、ゆっくりと、せり出してくる。克は更に後ろに下がった。ヴ……ンという低い音と、リィリィいう不思議な音が、その動きと共にいっそう強くなる。扉は完全にその輪郭を現した。かと思うとほとんど音も立てずに、すう……っと横にスライドする。 その向こうにあったものを前に、克はしばし呆然と立ちすくんでいた。一番はじめに浮かんだ感想は、『何だこれは』というものだった。扉の向こうには広々とした空間が広がっていて、そしてその中央に、巨大な―― 「地球儀……?」 克が呆然と呟いたのと、 「……見つけたわよ」 優しいとすら言えるような、女性の綺麗な声が投げられたのは、ほとんど同時だった。
2003年09月06日(土) |
星降る鍵を探して4-2-6 |
* * *
圭太とは今日の夕方に別れたばかりだというのに、ずいぶん久しぶりに見たような気がするのは、圭太の姿が夕方とは全く変わっていたからだろう。黒いタキシードに黒いマント、黒いシルクハットに白いマスク。よく大学構内の木の上で見かける『怪盗』スタイルは、馬鹿馬鹿しいほどにあか抜けていた。 ――怒ってる……だろうなあ…… マスクの向こうで、圭太の目が剛を見据える。 剛は観念して、圭太の前に立った。 流歌が心配であるあまり、待てという新名兄弟の言葉を無視し、眠っている圭太を置き去りにして、さらにマイキまで連れて、新名家を出てきたのである。激怒されるのは覚悟の上とはいえ、実際に圭太に見据えられると幾ばくかの気後れは否めない。 しかし圭太は何も言わず、剛から目を逸らして梨花を見た。 怪盗マスクの向こうで目が少し優しくなったのが見える。 「誰にも見つからなかったか?」 声までが違うような気がする。相変わらず女性にだけ優しい奴だと剛は思い、梨花が軽く頷いた。 「うん、大丈夫。流歌も無事、清水さんも無事、新名くんとマイキちゃんは一緒にいる――てことは、『ひとり見つけた』っていうのは、克さんのことなのかしらね? あ、克さんっていうのはあれよ、新名くんのお兄さんね」 と最後の言葉は流歌を見て付け加える。流歌がうん、と頷き、圭太が肩をすくめた。 「お兄さんなら心配するだけ無駄という気がするよな」 「そうね」 と梨花が頷き、剛も頷いた。剛は新名克という男をそれほど知っているわけではないが、怪盗姿をしているときの圭太と同様、変な自信に満ちあふれた男だった。それも根拠のない自信ではなく、しっかりした根拠に裏打ちされているのだろう、と、理屈ではなく思い知らされてしまうような男。単独行動を取っているのは今のところ克だけらしいのだが、なるほどあの男ならひとりで放っておいても大丈夫そうだ。 「あ……でもなあ、梶ヶ谷先生ならともかく、玉乃さんが相手となると、お兄さんもちょっときついかも知れないな」 圭太が呟いたのは、恐らく独り言のつもりだったのだろう。 しかし剛はギョッとした。『タマ』という音に聞き覚えがあったからだ。先ほどまで差し向かいで食事をしていたあのカップルの、男の方はさておき女の方は、剛はあまり信用してはいなかった。今から思えばなぜあそこで食事をする羽目になったのか、どうしてもわからないのである。上手く誘導されたのだとしたら――現に、食事を切り上げて部屋を出ようとしたその時に、『先生』がやってきたではないか――彼女の手並みは驚くほどに鮮やかだった。何しろ食事をして行けと強制された覚えもなく、何気なく、本当に何となく、貴重な時間をつぶす羽目になってしまったではないか。 しかし『玉乃』という名前に反応したのは剛だけではなかった。 剛が宮前と名乗ったあの女を思いだした一瞬の隙に、梨花が声を上げたのである。 「玉乃……さん……!?」 圭太は梨花に鋭い視線を投げた。 「会ったのか?」 「うん」 梨花は脳裏に甦った人影を思い出したのか、ぞっとする、と言うように二の腕に手を当てた。 「白衣を着た、すごい美人の女の人だった」 ――白衣の、女? 「髪の長い?」 と剛は口を出した。流歌があ、というように口を開けたのが目のすみに見えた。梨花が頷く。 「そう、真っ黒の髪。マイキちゃんみたいな。で」 「眼鏡をかけた?」 「うん、そう」 頷いて、梨花は剛を見上げた。 「清水さんも、会ったんですか」 「ち、違うよ」 と口を出したのは流歌だった。流歌はすがりつくような目で、不安そうな顔をして、剛を見上げていた。 「あの人は『宮前珠子さん』ですよ――?」 「本名を告げたとは限るまい」 「でも、」 「ヒールを履いてたよ。赤い奴。で、爪に綺麗なマニキュアを塗ってて、あとそうだ、いい匂いがしてた。高そうな香水の」 梨花が脳裏の人影を確認するように数え上げる。 剛はもともと人の外見にはあまり注意を払わない方だから、宮前と名乗ったあの女が爪にマニキュアを塗っていたかどうか、ヒールを履いていたかどうかということは覚えていなかった。しかしいい匂いがすると思ったのはよく覚えていた。 流歌を見ると、下を向いて、唇を軽く噛むようにして沈黙している。 「須藤流歌」 と、剛は促した。 「ヒールとマニキュア、覚えておるか?」 「……」 流歌は下を向いて応えなかった。でも、流歌のその沈黙は、ひどく雄弁にその質問に答えていた。
2003年09月05日(金) |
星降る鍵を探して4-2-5 |
梨花が圭太と待ち合わせをしたという10階までは、もうあとほんの少しだ。 流歌が少し先へ行ったので、何となく話が途切れる。剛は流歌の後姿を見ながら、ぼんやりと考えていた。何故、圭太のところに、敵から電話が来るのだろう? 『警告だ。ひとり、見つけたぞ』と、言ったって? なんともふざけた言い方ではないか。 その言葉からは、何か、揶揄するような色が感じられる。単なる敵が投げてよこす言葉とは思えない。 ――あの男か……? と天啓のようにそのことに思い至ったのは、剛の嗅覚が『あの男』に関してだけ研ぎ澄まされていたからなのかもしれない。あの男、桜井は、流歌に『先生』と呼ばれていた。既知の仲だったということだ。ということは兄である圭太と桜井も既知であった可能性はあるし、なにより揶揄するような、もっと端的に言えばなぶるような、言葉をかけそうな男だった。これは偏見ではない、と思う。 先を行く流歌が踊り場を回り、刹那、その姿が見えなくなる。一瞬たりとも流歌から目を離したくなかった剛は無意識のうちに足を早めたが、 「清水さん」 飯田梨花が急に振り返ったので、驚いて足を止めた。飯田梨花は何か険しさの混じった真剣な顔をしていた。色素の薄いふわふわの髪が梨花の動きにあわせて頬の辺りで揺れ、アーモンド型のややつり上がった目に見据えられて剛は息を飲んだ。こやつももしかしたらかなりの麗人なのではないか、とその時初めて気がついた。 「さっき、流歌と何を話していたんですか?」 流歌に絶対聞こえないように、梨花がそう囁いてくる。 「さっき?」 「あたしが合流する前です」 合流する前――と脳裏を探るまでもなく、先ほど、駆け寄ってきたときの梨花を思い出した。あのとき流歌を見て一瞬顔をほころばせた梨花は、しかし何か気にかかるものでも見たかのように駆け寄ってきて、そして流歌に尋ねたのだ。『どうしたの』。ひどく心配そうな声音で。 流歌はただ微笑んでいただけだと言うのに。 「あ、お兄ちゃん!」 下で流歌の明るい声が聞こえる。圭太が下で待っていたのだろう。ぱたぱたと駆け寄る音と、圭太の低い声がそれに応えた。重ねてこちらに何か言おうとしていた梨花の言葉を遮るように、流歌の明るい声が聞こえる。 「梨花ー、清水さーん、早くー」 「待って、今行くー」 梨花はそう返事をして、こちらに視線を戻した。一瞬だけ何か考えるような目をしてから、苦笑を浮かべる。 「ごめんなさい、何でもないんです。ちょっと心配になっただけ」 「心配……?」 思わず聞き返す、と、梨花は頷いた。 「あのね、さっき……流歌が、泣いてるように見えたから。それだけです」 見間違いだといいんですけど。そう呟きながら前に視線を戻す。最後に見えた梨花の横顔は、ひどく、心配そうな色をしていた。
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はーようやく合流しました…… 視点をぐりぐり変える書き方は、後で合流したときの会話にひどく苦労する、ということに今更気がつきました。ぎゃふん。
2003年09月04日(木) |
星降る鍵を探して4-2-4 |
「え」 「――何だと?」 剛は思わず割り込んだ。こう言うとき、一発ですんなり理解できない自分がひどくもどかしいのだが、それにしてもかなり意味不明なことを聞いた気がする。梨花もそう思ったのだろう、ひとつ頷いて、解説した。 「あたしも良くわかんなかったんです。どうして須藤さんのところに、敵から、わざわざ警告が来るのかなって。でもあの須藤さんが、珍しくすごく心配そうな声を出してたから、何か心配になっちゃって」 「あやつがか」 剛はふむ、と鼻から息を漏らした。あの圭太が狼狽するなど、なるほど尋常な事態ではない。 「でも流歌と清水さんがずっと一緒にいたのなら、違うわよね。わざわざ『ひとり見つけた』って言ったんだもの。新名くんとマイキちゃんも一緒だから違うし」 「そ、そうなのか? マイキは無事か? 怪我などしておらなかったか?」 と剛が勢い込んで訊ねたのは、マイキのことを今ここに来て一気に思い出したからだった。同時に自分がマイキを『振り落とした』挙げ句『全く気づかず走り去った』ことを卓が聞いたら殺されるのではないか、と思った時の気分まで一気に思い出して青ざめた。しかも流歌に巡り会えた嬉しさで今まですっかり忘れていた。我ながら最低だ。 梨花はそれを聞いて、何か思い出したのか、不快げに眉をひそめた。 「怪我。……そうですね、元気に歩いてたから、大丈夫でしょうけど。あんの野郎」 と毒づいたのを自分のことかと一瞬思ってしまうのは、罪悪感のなせる技だ。 「あ、あんの野郎?」 「高津って男です。あんの野郎無抵抗のマイキちゃんをぶら下げて地面に叩きつけたんですよ、男の風上にも置けない奴だわ!」 「た、叩きつけた……」 更に青ざめる剛。しかし梨花が剛の狼狽に気づく前に、流歌が横から口を出した。 「あの。マイキちゃんって……誰?」 それと『新名くん』だったっけ。と呟く流歌を、二人は同時に振り返った。 「あ」 「そうか」 「……知らなかったんだ……」 二人の声が綺麗に重なる。流歌はぷっと膨れて見せた。 「何かやな感じ。二人の秘密ですか?」 「あ、いやいやとんでもない。うーむどこから話したものか」 と我ながらおかしいほどに狼狽えた剛の言葉を引き取って、梨花が言った。 「あたしと須藤さんの共通の友達なの。前話したでしょ、ほら、江戸城の」 「ああ! 江戸城大落下事件!」 何だそれは。 江戸城、という単語と、大落下、という単語。なにやら非常にそぐわないように思えるのだが、この二つがなぜ合体するのだろう。と思った剛には構わず、梨花が手際よく説明を始めていた。卓たちに話を持っていった経緯、そして高津にひどい目に遭わされているマイキを見つけたこと、更に卓が上から降ってきた、こと。話を聞くに連れ、高津という男に比べれば、悪気がないだけ自分の方がよっぽどましだということがわかってきた剛だったが、それにしてもマイキが高津に捕まったのは他ならぬ自分のせいなわけで、やっぱり卓には知られたくない、と思う。 「――というわけなのよ」 と梨花が話を締めくくり、剛は梨花のよく口が良く回ることに感心した。あれだけ喋ってよく訳が分からなくならないものである。流歌はよくわかった、と言う印に頷いて見せ、階段をぽんと飛び降りた。
2003年09月03日(水) |
星降る鍵を探して4-2-3 |
「――梨花!」 つられて振り返ると、確かにあの飯田梨花が、廊下の向こうから駆け寄ってくるところだった。 飯田梨花は流歌と剛を見て一瞬顔をほころばせたが、すぐに表情を険しくした。あっと言う間に駆けつけてくると、流歌の顔を覗き込む。梨花は流歌よりも背が高い。十センチ近くも高いところから険しい顔で覗き込まれ、 「どうしたの」 と厳しい口調で言われた流歌は、驚いたように目を丸くした。 「え――何が?」 きょとん、とした顔で梨花を見上げる。梨花は、しかし何も言わなかった。まじまじと流歌を覗き込んで、ややあって、ホッとした、というように笑みを見せる。 「――ん、何でもない。元気そうで良かった。何もされてない?」 「うん。梨花も無事で良かった」 流歌はそう言って微笑んだ。その笑顔があまりにも無防備なのを見て、剛は梨花に嫉妬した。
「それにしても、よく会えたよね」 三人で歩き始めてからすぐ、流歌が梨花を見上げてそう言った。梨花が頷く。 「あたしね、十階を目指して降りてる最中だったの、上から降りてきたら流歌の声が聞こえたから。須藤さんと十階で待ち合わせしてるんだよね、今何階だっけ」 「ここは十二階だよ。お兄ちゃんと連絡とれたんだね」 「そうなのよケータイに電話があってね、そういえば電話がかかってきたの流歌からだと思ってたんだけど出たら須藤さんだったんだよね、流歌ケータイどうしたの?」 「取られちゃった。てことはお兄ちゃんが取り返してくれたのかな」 「そうなんだろうね。早く合流しないと」 聞いていると、目が回りそうだ。 三人で歩き始めたと言っても、剛の前を女性二人が並んでおしゃべりしながら歩き、剛は黙って後からついていくという格好だった。女性の、しかも親友同士の会話というものは、こういう状況にも関わらずとても盛り上がってしまっていて、もはや口を挟む気も起こらなかった。どころか二人の会話を追うのすら剛には難しかった。何しろ二人の話題は次から次へと移り変わりすり替わりしながら止めどもなく続いていくのである。一体女性と言うものはこの変幻自在な会話をきちんと理解しているのだろうか、と剛が呆然と思いを馳せている前で、二人は次々と会話を続けている。それはまるで二色の音が奏でるよどみない音楽のようだ。もはや意味のない音のさえずりにしか聞こえない。そのさえずりが耳の中を撫でていくのをぼんやりと感じていた時だった。 「そう言えば、ねえ流歌、清水さんとずっと一緒だったの? 誰かに見つかってない?」 飯田梨花の声が急に頭に飛び込んできた。自分の名前を呼ばれたことで脳が覚醒する。うん、と流歌が頷くのを何となくこそばゆく感じていると、梨花が言った。 「そう? ならいいんだけど……あのね、須藤さんがこんなことを言ってたの。須藤さんのところに、敵のひとりから電話があって――『警告だ、ひとり見つけたぞ』って、言われたんだって」
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す、すみませんすみませんすみません。 話が先に進みません。 あーもう!
2003年09月02日(火) |
星降る鍵を探して4-2-2 |
あと準備ですね、脱出経路に必要なものを上手く隠して置いたりとか。 というような話を流歌は楽しそうに続けている。 いやいや待て待て、と剛は思う。今更何を言うかと言われるかも知れないが、それはれっきとした犯罪行為ではないか。いくらあの怪盗の妹とは言え、流歌は大学では『警邏会』に所属している。しかも『警邏会の怒れる孫悟空』と呼ばれて――大っぴらに呼ぶのは剛しかいないが――恐れられているほどの、会長の右腕と呼ばれるほどの、女傑なのである。構内の治安を守り、『I大学サークル間協定』に違反するサークルへの厳しい制裁で知られる彼女が、一体なぜ自分の兄貴を容認し、どころか嬉々としてその『助手』を勤めていられるのだろうか。 確かに、『人に知られては困るような宝』しか盗まない、と言っていたけど。 「清水さん?」 流歌に下から覗き込まれて、剛は咳払いをした。流歌が怪盗の仕事をしようと、それを楽しんでいようと、自分には口を出す権利はない。圭太も言っていた。『よその奴に口を出されるいわれはない』、あの言葉は今も剛の胸に突き刺さっている。 言ってはいけない。 でも。 「怪盗の仕事は、楽しいか?」 剛はそんな理性の言葉に、簡単に従えるほど器用ではなかった。流歌が驚いたように、目を見開く。 「え――」 「構内では治安を守る側で活躍する貴様が、なぜ怪盗の仕事をそこまで楽しめるのか、俺にはわからん」 内心の沸き上がる感情を持て余して、つい吐き出してしまって――流歌が言われたことを確かめるように目をぱちぱちさせたときには、剛は既に後悔していた。流歌の反応が怖かった。『どうしてあなたにそんなことを言われなければならないのか』と流歌は言うだろう。当然のことだ。もっともなことだ。だが、剛はその言葉が何よりも怖かった。 でも、口に出してしまった。 もう後には引けない。 流歌が自分を見上げている。その視線を痛いほどに感じながら、剛はその視線を避けるように下を向いていた。どうして自分は、流歌が怪盗の仕事を『嬉々として』やっているのが厭なのだろう? 圭太ならば構わない。あいつは怪盗だし、怪盗であるあいつとこの先同級生としてつきあっていくことに抵抗を感じたりはしない。飯田梨花だって、大学構内でやってることは怪盗と似たようなものだ。でも流歌は。流歌だけは。どうしても。 厭だったのだ。 流歌には、剛から見て『間違った行為』であることには、無関係でいて欲しかったのだ。 「清水さん」 囁くような、流歌の声が聞こえた。ぴくり、と剛の腕が無意識に跳ねた。おそるおそる顔を上げて流歌の顔を見ると、彼女は今まで――荒くれサークルを相手にするときにも見せたことのない、鋭い目で、剛の視線を捉えた。 怒っているのだろうか、と、その目の鋭さを見て剛は思った。 でも、続いて囁かれた声は、ひどく優しかった。 「清水さんは、いい人ですね」 「……は?」 予想と全く違った言葉を言われたものだから、剛は思わず口を丸く開けた。そんな剛を見て流歌は視線を和らげた。次いでにっこりと笑った流歌は、花開いたみたいにあでやかだった。 「あたしは――」 流歌が何か、囁きかけた、その時だった。 「流歌! いた! やっと見つけた!」 背後から、聞き覚えのある声がかけられ、誰かが駆け寄ってくる音が聞こえる。剛の目の前でそちらに顔を向けた流歌は、驚いた声を上げた。 「――梨花!」 つられて振り返ると、確かにあの飯田梨花が、廊下の向こうから駆け寄ってくるところだった。
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