・・・というのは、人間ではなくて、パソコンの話である。 私のハードディスクがおかしくなったので、2週間の入院を余儀なくされることになり、それに備えてディスクの中身をCD-ROMに保存することになった。 ここで私が、如何にメカに弱いかという笑い話になるのだが、私は自分のパソコンに写っているものは、パソコンがなくなると、全部無くなってしまうのかと思い、ホームページも、いつも見ているインターネット上のサイトも、こちらが入院している間は、表示されないものだと思いこんでいたのである。 こういうものは、全部ウエブ上にあり、サーバーのところにあるので、私の器械と関係なく表示されるのだと聞いて、ホッとした。 だから、こうして書いているこの日記も、私がいない間、誰かが見ようと思えば、ちゃんと表示されるのだ。 考えてみれば、当たり前だが、アナログ人間は、自分中心にしか、考えられないのである。だから、せっせと、無駄な作業をしていたのだった。 「そんなことも知らないで、よくインターネットなんかやってるねえ」と、家人が呆れて、ファイルのコピーを手伝ってくれた。お陰で無事完了。あとは、ディスクから、それらを削除してしまえばいいのである。 さあ、明日から、しばしパソコンともお別れ、半年付き合ってくれて、入院することになった器械に別れるのは、恋人と別れるような気持ちである。 私の癇癪の的になり、しばしばつらく当たってしまった私のパソコン殿に、「ゴメンネ」と、ひそかに頭を撫でてやった。 退院してきたら、今度は、もう少し大事にしてやりたい。 2002年01月27日 13時45分18秒
昨日から、何度も日記を開いている。 あと2日ばかりしたら、パソコンを入院させなければならず、当分書き込みが出来ないので、思ったことは、書いてしまいたいという気持ちである。 昨日、4,5年前に一日1万件のアクセスを数えたという、人気ホームページを持っていた人の本を読んだ。今、そのホームページが存在するかどうかは知らない。図書館で借りたので、この種の本としては、古い方であろう。ただ、そうした人気ホームページを持っていた人の、考え方というか、ノウハウが、ちょっと面白かった。 ホームページを作る人の行き方は、大きく言って二つに分かれるようだ。 自分のために作る人。 ひとのために作る人。 勿論、両方とも兼ね備えている方が普通だが、どちらに重点を置いているかということである。 この人は、徹底して、後者に属している。ホームページを見にくる人を、大切なお客と見なし、お客をどのようにもてなすかに、大変なエネルギーを使っている。お客が入りやすく、気持ちよく寛いで貰うための、お茶の入れ方から、ちょっとしたお土産まで用意して、次回も来て貰うための工夫を怠らない。その結果、立ち上げていくらもしないうちから、アクセス数は見る見る増え、マスコミにも取り上げられて、大変な繁盛だったようである。仕事を持ちながらの、ホームページの管理も大変だったろうが、この人は、寝る時間も惜しんで、まめに更新し、お客を愉しませるページづくりに情熱を傾けていたらしい。 読んでいて感嘆すると共に、私にはとても真似出来ないなと思った。私は、多分、前者の行き方をとる。ホームページを立ち上げたのは、まず自分のため、自己表現の場としてである。だが、私は自分の表現したものに、人を愉しませるような力のないことを、知っている。その上、現実の私を知っている人には、ほとんど知らせていない。私は、ここでは現実の世界と違ったところで生きたいと思い、そのための場としてこのページをつくったのだから、現実の私を知っている人によって、日常に引き戻されたくないのである。 心のありどころを感じて、私の二面性を理解し、それを大事にしてくれると信じられる人にだけ、ホームページの存在を証してある。現実の私を知らない人は、このページの私だけを見てくれるのだから、それでいいのである。ただ、私は、お客のもてなし方が下手なので、折角、ここを訪れてくれた人が、一度覗いただけで、次は来ないと言うことも多いだろう。 それでもいい。その上で、一人でも、常連のお客になってくれたら、多分、その人とは本当の話が出来るだろう。 さあ、ご馳走はありませんが、どうぞごゆっくりなさってください。 2002年01月26日 00時16分05秒 小朝を聴く きょうは寒いようだ。いまにも雪が降りそうな曇天である。暖かい日が続いたので、これからが本当の寒さになるかも知れない。 小朝を聴きに行った。歩いてすぐの、市の公会堂は、満員だった。小朝をナマで聴くのは始めてである。さすが、話はうまい。私は、落語には詳しくないが、小朝は一度聴きたいと思っていた。 きょうは、「温泉にいきたくない話」という新作、それに越路吹雪の生と死を題材にした人情噺。演目は、当日まで伏せてあったので、古典落語を期待してきた客は、ちょっと失望したかも知れない。私は、それなりに面白く、良く笑わせて貰った。 2時間過ぎて外に出ると、まだ雪は降っていなかったが、今夜は多分、少しちらつくだろう。 ファイルの保存をして、早めに寝るとしよう。 2002年01月26日 16時36分25秒
今朝、テレビで小沢征爾がしゃべっていた。 良く知られていることは、ここでは繰り返さない。ひとつ、「これからの夢は?」と訊かれて、「優秀な若い人たちを育てたい」と答えていた。そして彼は、その夢を実行に向けて、いろいろな試みをしているらしい。今66歳、この秋からウイーン歌劇場の芸術監督という、ひとつの頂点に上り詰めた人の、実現可能な夢であろう。 ヨーロッパのサロンが、音楽や文学などの芸術をはぐくむ土壌をなしていたことは、良く知られている。貴族の婦人たちは、若い芸術家を育てるために、費用を惜しまなかった。いま残っている美しい建築、絵画、庭園、音楽遺産は、その時代の名残である。当時は一部の人たちだけのものであったかも知れないが、お陰で、今日の私たちが、そうした文化的遺産に接することが出来るわけである。 もし私が、とてつもない財産を持っていたとしたら、やはり若い芸術家を育てると言うことをしてみたい。才能を見込んだ若い人を留学でも何でもさせて、教育の機会を与え、あらゆるチャンスを探して、才能を伸ばして貰う。 勿論、こんなことは、絶対実現不可能な、夢の中の夢である。 小沢征爾を、ナマで鑑賞したのは二回ある。最初は、彼がまだ30代半ばの頃、その頃彼の妻であった江戸京子がピアニストで、共演した。演奏が終わって、舞台から退いていくピアニストの後ろから、ねぎらいの拍手をしながら付いていった小沢の姿を覚えている。江戸京子の父、江戸英雄氏は財界人、小沢がヨーロッパ留学中の無名の頃から、何かとバックアップしていたことは、知られている。その後小沢は、別の人と再婚した。 二度目は、一五,六年後のイギリスで。 ヒルデガルト・ベーレンス、クリスタ・ルートヴィッヒといった凄い歌手たちを率いて、ステージ方式によるオペラ「エレクトラ」を演奏した。指揮者と歌手たちが、互角に戦っているような、迫力ある舞台だった。終わって、出演者を交えたパーティーがあり、小沢征爾となんとか話したかったが、彼の周りは人が一杯で、とても近づけなかった。代わりに、出演者の誰かからサインを貰ったが、そのプログラムが、どこかにしまったまま、出てこない。 日本では、チケット代が高すぎて、音楽会へ行く機会も限られてしまう。でもナマの音楽はやはり愉しい。クラシックに限らず、良い演奏に接する事が出来たら、幸せだと思う。 2002年01月25日 11時03分05秒 時候挨拶 年賀状の返事の中には、不祝儀があって、それほど親しくない人には前もって知らせないから、こちらは知らずに、年賀状を出し、その返事として、寒中見舞いや、季節の挨拶が届くことがある。事由を書いてあるものも、わけは書かずに、時候の挨拶を延べているものもさまざまである。 ただきょう来た、挨拶状を見て、ちょっと考え込んでしまった。 差出人は一人、しかし文中には、家族でもない人たちが一緒に記入してある。私の知っているグループのメンバーである。はじめは、グループの中心にいる人たちが、連名で、メンバーの人たちに、時候の挨拶を出したのかと思った。しかし、そのようなことはどこにも書いてない。多分、差出人が、何らかのわけがあって、年賀状を出す代わりに、時候の挨拶状をくれたのだと思う。 しかし、差出人の、挨拶の背景を思いやる前に、私は、文中に共同で載っているほかの人たちの、意味のほうを考えてしまった。 2002年01月25日 13時37分40秒 体磨き スポーツクラブに入って2年、はじめはせっせと通っていたが、だんだん行かなくなり、この一年ほどは、ほとんど行くことはなく、月7000円の会費だけ引き落とされていた。 タオルやエクササイズ用のウエア、スポーツシューズなど、一荷物抱えて、バスで行くのが、面倒になったのである。更に、この一年は、インターネットに費やす時間が増え、なかなかスポーツクラブに行く時間もなくなってしまった。 それなら早く止めてしまえばいいのに、今まで引きずってきたのは、なんとか会費を取り返してやろうと思ったからで、そのうち、ちょいちょい行って、トレーニングを重ね、払った会費の元を取ってやろうと思ったのだった。 しかし、そんなことは出来そうもないので、きょう思い切って、退会手続きをした。折角行ったのだからと、シャワーを使って帰ってきた。 ジムの体重計で測ったら、2キロほど増えていた。正月の食生活と、冬眠にかまけて、体を動かさなかったからである。今後は、せいぜい、散歩でもして、脂肪を減らさなければならない。 家人は、一年前に、私とは違うスポーツクラブに入り、週2回のプログラムを欠かさない。その日は、朝10時になると、荷物を詰め込んで、車で出かけていく。そして、インストラクターの指導でトレーニングをこなして、汗を流し、お風呂に入って帰ってくる。家を出てから帰るまで、約3時間、いい時間の使い方だと思う。 前にも失敗しながら、私がまたスポーツジムなどに入ってしまったのは、ある友達の示唆による。私よりひとつ年上の、その人は、シャンソンを習っていて、いずれライブハウスで唄うのだと張り切っている。いつか、何年ぶりかで会ったら、以前と見違えるようにスリムになり、すっかりあか抜けて、オートクチュールのドレスなど身につけて、婉然とほほえんでいた。そして、私に向かってこう言ったのである。 「あなた、少し体を磨かなくちゃあ、それじゃあタダのおばさんよ」 こんなことを言われて、黙って引っ込んでいるわけに行かない。一念発起して、またスポーツジムに申し込んだ。ところが、見事に挫折したというわけである。 彼女は、自分で思い立ったらやり遂げる人。毎日速歩30分、一日2回というのを、半年続けて、7キロ体重を減らし、若い頃「ローレン・バコールに似ている」と言われた、自慢の尖った顎を取り戻したそうだ。トレーニングをしている期間は、ほかのことを一切止めて、そのことに専念したというから凄い。 私は、意志薄弱、自分に甘いから、とても同じには行かない。恋をして、その相手から言われたらやるだろうか。いや、やっぱりやらないだろう。でも、100万円やるから10キロ減らせといわれたら、やるかも知れない。なんともはや。 2002年01月25日 20時41分53秒
日が永くなった。5時半近くに外を通ったが、薄暮。試験の帰りである。8題のうち、4題選んで書けという、記述式のもの。昨日、おとといと、ノートを読み返したが、もう私の年になったら、暗記はダメ、そんな問題だったらお手上げだが、今日のようなものなら、百点は取れずとも、落第と言うことはないだろうから、ホッとした。さっさと書き上げて、途中で退出。ほかの5人も、相前後して終わった。 試験というのは、好きな人はあまりいないだろうが、人生の節目に、何らかの形で、自分を評価される場面に出会うということは、避けて通れない。入学試験、就職試験、学校での年に何回かのテスト、運転免許の試験、さらには友達や恋人、配偶者、地域の人たち、エトセトラ・・。ペーパーや言葉に寄らない評価まで含めると、生涯に何回試験にさらされるのだろう。 でも、私ぐらいの年になると、かなり図々しくなって、試験をする相手を、反対にこちらから試験してみたりする。今日も、書きながら、「この問題の出し方は、まあまあだ」なんて、お腹の中でひそかに、及第点を、差し上げて置いた。 ここまで書いて気づいた。私らしくもなく、普段禁句にしている「この年になると・・」なんて言葉を使ってしまった。 これで、学業は、4月までお休み。さあ、パソコンの入院に備えて、ファイルのコピーにかからねば・・。 2002年01月23日 18時58分35秒
ガラスの靴女はいつも探してるきっとあるわとおとなになっても (初出「桃李歌壇」) 高校の時、つき合っていた男の子は、大学の付属の男子校に通う、理科系の子だった。当時は、つき合うと言っても、博物館だの、美術館へ行き、街の本屋を覗いたりがせいぜい、喫茶店にも入ったことはなく、何ともかわいらしい、純朴な付き合い方だった。彼は私を喜ばせようとして、自分の興味のある「小西六ギャラリー」とか、「アイソトープ展示会」みたいなものに連れて行くのだが、私はちっとも面白くなかった。 私は、当時の文学少女で、アンドレ・ジイドや、ヘミングウエイなどの外国文学、フランスやイギリスの映画が好きで、そういう話をしたいのに、あちらはまったく興味を示さない。だんだんつまらなくなり、大学に入る頃から疎遠になって、自然に付き合わなくなってしまった。 一度だけ、本屋でばったり出会ったことがあり、「相変わらず、本が好きだね」と、向こうは懐かしそうに話しかけたのに、私は、その頃別の世界が愉しくなっていたので、ろくに返事もせずに、その場を離れてしまった。 それから十数年たって、荷物を整理していたら、高校時代にその人と交わした手紙の束が、そっくり出てきた。人から貰った手紙は、大事にとって置くほうだったから、生活の変化で何度か住まいが変わっても、もって歩いていたのだろう。こういう時代もあったと懐かしく読み返していたら、私は大事なことを見落としていたことに気づいた。 高校生の時、つまらない人だと思っていた人が、文面から、生き生きと立ちのぼって来るではないか。礼儀正しく、人生を真摯に考え、私の心に近づこうと努力し、誠実に言葉を受け止めている、彼の人となりが、良く解るのだ。どうして気づかなかったのだろう。 私は、彼の良さを少しも分かろうとせず、大事なことに気づかずにいたのだ。私はなんと、軽薄な人間だったのだろうと、胸が痛んだ。 この年頃の女の子は、男の子というものを、本当には理解できないのかもしれない。男の子のほうも、多分そうだ。でも、理解しているかのように思い、人生を共にするうちに、お互いの落差に気づいたりするのかも知れない。 街中で、若いカップルに出会うと、ふとよぎる想い出である。 バラ色とはとてもゆかぬがそこそこの水色くらい私の人生 (初出「生方卓の社会思想史」) 2002年01月22日 17時25分12秒
私は、家ではワイン少しぐらいだが、外では、少しばかりお酒をたしなむ。良い呑み相手、いい状況の時だけであるが・・。 しかし、昨日は良くなかった。一緒に呑んだ相手が、悪い冗談を連発して、私の人格を損ねるような誤解を周囲に与えたからである。しかも、帰りの電車まで一緒だったのが、それに輪を掛けた。途中で席を立つなり、はじめから参加しないようにすれば良かったと、つくづく後悔した。それをしなかったのは、その人が、その集まりでの客分だったからで、私は、行きがかり上、彼の世話役になっていたからである。 あまりお酒を飲まない人たちの集まりだったから、彼は、調子が狂ったのかも知れない。いつもなら、呑み仲間の中で、適当にやっつけられるところが、彼の独壇場になってしまい、つい、羽目をはづしたのかも知れない。 ともかく、私にとっては、何とも後味の悪い酒になってしまった。 場をわきまえずに、なんでもしゃべってしまう人、特に、男でそれをやる人というのは、あまり気を許してはいけないと言うのが、私の得た教訓である。 2002年01月21日 10時04分21秒 ネット休暇 最近、パソコンが始終エラー信号が出たり、フリーズして強制終了させたり、などと言うことを繰り返していたが、とうとうスキャンディスクも働かなくなった。メーカーに問い合わせると、ハードが壊れているので、修理しなければダメだという。 ホームページを作るのに、大分間違った操作をしているし、ウイルスバスターのアップデートも、器械の負担ではあるようだ。仕方ないので、来週の月曜日から修理に出すことになり、それまでに、ファイルやフォルダーなど、全部をCDに保存しなければならず、一仕事である。幸いなことに、私はまだネット初心者、メール交信の相手も10人足らず、ホームページも立ち上げたばかりで公開してないから、それほど被害はないが・・。 いつも見ているいくつかのサイトに、参加できないとか、計画中のものを延期しなければならないなど、多少のことはある。 夕べ、関係者にメールで連絡した。「お大事に」などという返信があり、こう言うときには、そういう表現を使うのかと、ひとつ覚えた。ネット中毒になりかけていたので、この際、2週間、そういうものから離れるのもいいかも知れないと、自らを慰める次第。 2002年01月21日 13時06分56秒
歯の値段 テレビで松田聖子と天童よしみが競演していたので、最後まで見てしまった。 聖子は、デビュー当時、なんて歌の下手な子だろうと思っていたが、今やすっかり大人の歌唄いになったようで、ちょっと感心してしまった。 もう一つ注目した理由は、彼女の歯である。ひと頃彼女は、審美歯科医と結婚していて、歯をすっかり綺麗にして貰い、その値段が、500万円とか言っていて、ビックリしたのだが、そんなに現実離れをした話ではないらしい。 家人が、若い頃から歯医者とは縁が切れないのだが、いよいよ入れ歯を作らねばならなくなり、上下あわせて200万円もかかるという。保険の利かない材料を使わないとダメなんだそうで、ホントかいなと思うが、本当なんだという。最近、歯医者へ行くと、ケーキなぞ貰ってくるのでおかしいと思っていたが、歯医者の上客なんである。 「歯のあと、どうやって食べていくのよ」と、言いたくなる。いくら保険が利かないからって、ちょっとおかしいのじゃあるまいか。 でもそんなこと言うのは、わたしが親から貰った丈夫な歯を持っているからで、歯の悪い人は、悩みは深刻らしい。 色気のない話で締めくくる。 2002年01月19日 00時40分20秒 初懐紙 今年はじめてと言っていい大勢の連句会。 土曜日なのでいつもより参加者多く、賑やかな会であった。わたしの席は8人。 いいメンバーで、愉しく過ごすことが出来た。こういう集まりで、メンバーの組み合わせによっては、あまり気の乗らないときがある。 今日は幸せなことに、捌きよし、連衆よし、食事よしの、気持ちのよい一日だった。二次会で、一杯飲んで、帰宅8時半。 昨年は、気の合う人が居ずに、一人寂しく帰ったものだ。 ネットの連句も愉しいが、今日のような集まりに遭遇すると、やはり座の連句の良さを痛感する。最近、2ヶ月近く、あまり座に出なかったが、今年は、なるべく機会を捉えて、出ようと思う。 2002年01月19日 21時47分
夜半、短いシナリオをアップしようとしたが、リンクがうまくいかず、あれこれいじっているうち、また器械がおかしくなりそうだったので、断念、原稿共々削除した。 相手は無機物、腹を立てても仕方がないのに、時々、癇癪を起こしたくなる。 「癇性」とわたしを表した人がいて、その時は失礼な、と思ったが、どうも当たっていそうだ。シナリオは、またあらためて載せることにして、表紙のリンクのボタンだけ、むなしく残してある。 家人に応援を頼めば簡単だが、あまりわたしの世界に侵入して欲しくないので、試行錯誤を重ねつつ、一人で試みている。 それはともかく、昨日読み始めた佐藤愛子「血脈」が、めっぽう面白い。佐藤紅碌を取り巻く家族、それも並大抵の人たちではないが、長男サトーハチローから異腹の末娘佐藤愛子まで、常識では考えられない人間模様を、余さず綴っている。夢中で一巻読んでしまった。全部で三巻の大作、これを描くのは、佐藤愛子にとっては、命を削る修羅の旅だったろうと、つくづく作家の業の深さを感じた。 2002年01月18日 14時35分05秒
ホームページも表紙だけでは面白くないので、(正確には表紙のことをホームページというそうだが)何かひとつ、軽いものを、と書きはじめたら、思いがけず長くなってしまった。 10数年前の、隣人同士のトラブル、200枚ぐらいのシナリオにするつもりで、梗概を書いてあったものに、ちょっと手を入れた。 このころ私は、ひょんなことでシナリオの書き方を練習していたので、ゼミの場に持っていった。 私は、主人公夫婦が、住環境を壊され、近隣関係に不信感が生まれてしまった腹立たしさを、書きたかったのだが、ゼミの仲間の反応は、意外だった。 「大きな家に住んでるんだから、隣に違反建築の家が建っても、いいじゃない」 といった感想、不動産屋への同情のほうが多く、主人公夫婦に共感する人が、ほとんどいなかったのである。私はショックを受けてしまい、そのままお蔵入りにしてしまった。 こんなものを載せたのは、ホームページだからで、私の偏見と独断で作っているものに、人がどう思おうが構わないと言う、開き直りである。 お陰で、さっきから、頭痛、肩凝り、首が回らず、そろそろ寝てしまおうかという気分である。図書館で借りた佐藤愛子「血脈」が、なかなか面白いので、読書に切り替えよう。来週は、期末試験、そろそろネットも休まなければと思いつつ、つい、開いてしまうのは、これも病であろうか。 2002年01月17日 16時17分25秒
N氏からハガキが来た。 彼は20代の青年、「今どきの若者」に珍しく、携帯電話もメールも持たない。何かあるときは手紙をくれる。それも自筆である。急ぐときは電話だが、それはほとんどない。 年末に、私はあることを依頼した。年が明けてから、年賀状と別にハガキが来て、私の頼みを受けられないわけではないが、今の状況で少し無理なこと、もし受けてもかえって迷惑を掛けるであろうことを綴っていた。こちらの気持ちを害さないように、気を遣いながら書いていることは、文の隅々にまでゆきわたっていて、この一通を書くのに、どれほど神経を使っただろうと想像した。 私は、相手の状況に思い至らなかった自分の配慮の無さを、むしろ恥ずかしいと思い、どうぞ気になさらずと、返事を書いた。 今回の便りは、それに対する2度目の返信である。 依頼に応じられなかったために、計画が白紙になったことを気遣い、重ねてすまながっているのである。 なんと心の優しい人だろうと、読んでいて胸が熱くなった。最初の一通だけでも充分なのに、このように、丁寧に、こちらの気持ちを斟酌してくれている。 この頃私は、メールの手軽さに慣れてしまい、本来手紙で書くべきところまで、ついメールに頼ってしまっているが、このような便りを貰うと、その人の人柄が伺われて、とても感激してしまう。 今日は、彼に、自筆で、返信の手紙を書こう。 2002年01月16日 08時45分31秒
賀状の中に、亡き友人の連れ合いからのものがあった。 その友人は、私の仕事仲間で、20年来の親友だった。若いときは、放送局で仕事をし、結婚と子育てで10年ほどブランクがあったが、日本語を外国人に教えるという仕事で復帰した。知り合ったのは、その時である。 仕事だけでなく、お互いの私生活に渡っても、私たちは妙に話が合って、やがて私が仕事を辞めてからも、一緒に都内の文学散歩をしたり、音楽会や、芝居に行ったりした。もう一人、共通の友人と三人の付き合いは、お互いの生活が忙しく、なかなか時間がとれなかったが、それでも、年に2度くらいは会う機会を持っていた。 彼女が癌を患い、手術したときも、彼女は明るく病気に立ち向かい、直ぐに仕事に復帰した。 最後に会ったのは、真夏の暑い日、三人で銀座で待ち合わせた。「和光の前」というのが、待ち合わせの場所になっていた。雨が降り出したので、あまり歩き回ることを止め、どこかのレストランで食事をし、違うところでお茶を飲んだ。どんな話をしたか覚えていない。ただ、私が連句をやっていて、会うと二人にその話をしていたので、その日も多分、話題になったと思う。彼女は「連句」に興味を持っていて、いつかやってみたいと言っていた。 それから5ヶ月後、年が改まって程なく、彼女はかえらぬ人となった。その連れ合いから電話で報を受けたとき、私は絶句した。ちゃんと年賀状が来ていたではないか、どうして・・・。 「正月過ぎて、急に入院しました。本人もまさかそのままになるとは思わなかったと思います・・」と、連れあいの声も震えていた。 こちらも言うべき言葉が見つからない。電話の後、あらためてお悔やみ状を出したが、その後、お連れ合いからは、時々電話があり、あまりにも早く逝ってしまった妻の想い出を反芻しているように見えた。 それから2年、今年の年賀状には、息子夫婦に子供が産まれた喜びと、「最近は友人と海外旅行をしたりして、やっと落ち着きました」と綴ってあった。 間もなく命日が来る。もう一人の友人と、また、花を送ろうと思う。 ありし日の友の言葉の断片の日を追うごとに明らけくなる 2002年01月15日 12時43分05秒
昨日の話に続く。 さまざまのホームページを見ていると、すでに名のある人の物は別として、多くは、ネット上の名前(ハンドル名というそうだが)を名乗って、自分のホームページを運営したり、ひとのサイトに書き込んだりしているようだ。勿論、本名を使っている人も、少なくないので、それはここでは触れない。 私自身も、文芸に関するいくつかのサイトに、参加しているが、いずれもハンドル名である。虚構の世界で違う自分を演ずるという愉しみもあり、違う名前を名乗ることで、かえって本当の自分がさらけ出せると言うこともある。 しかし、いくら別名を名乗ったところで、そこにいるのは、紛れもない私であり、表現したことについての責任は、私にある。だから、むしろ、現実の世界よりも、違った気の使い方、細かな神経の配り方が、必要なのではないだろうか。 実際に顔を見て話をするのと違い、ネット上では書かれた言葉だけで、その人を判断するので、時に思わぬ誤解や、人の神経を逆なでするようなことにも遭遇する。 実際の場では決してしないような不作法な物言いや、初対面の場ではおそらく使わない表現を、ネットでは平気で使ったりする。 グハッ、ガバッ、グシュッといった擬態語、擬声語の不必要な多用、また自分を動物や鳥になぞらえた名を付けるのはいいが、メッセージの中で「ワンワン」だの「カアカア」、「ヒョロヒョロ」といった鳴き声などを織り込む。お互いにそれを共通言語として愉しんでいるところは、それでいい。しかし、私なぞは、その手の表現が大嫌いだし、出来ない。これは、私の偏見で、好みの問題であるから、違う意見があって構わない。 ただ、出来れば、解説無しの日本語で、解り合える場所に、身を置きたいと思うだけだ。言葉ほど、デリケートな物はないのだから。そして、私自身、自分の言葉が一人歩きする危惧をいつも抱いている。 2002年01月14日 12時06分45秒
水の都 久しぶりに連句の座に出かけていった。 賦し物歌仙「江戸百景」。日本橋から始めて、いわゆる「江戸」と言われたところを辿りながら、連句を詠んでいく。 気づいたのは、昔の江戸は、まさに水の都と言うべく、川と橋に囲まれていて、それが交通手段であり、物の流通手段でもあったということだった。そして、庶民が住んでいたのは、主に隅田川などの川沿いであり、川と共に町が作られていたらしい。今、東京のベッドタウンとなっている、中央線沿線などは、当時は、まだ人のほとんど住んでいない山地だったようだ。 広重の絵など見ていると、当時の人たちの生活歳時記が伺われて面白い。 江戸が東京になり、縦横に流れていた川が消えて、町は広大になり、次第に変質していく。 徳富蘆花の「みみずのたわごと」を読むと、明治40年頃の、甲州街道沿いの町の様子が書いてある。すでに人家は今の芦花公園あたりに広がり、蘆花は自宅から4里(20キロ)の道のりを、新宿まで度々歩いて往復したとある。 今日新宿までを京王線に乗っていき、そんなことを思い出しながら電車に揺られていた。 2002年01月13日 01時25分03秒 自己表現と言うこと ホームページを作るに当たって、参考のために、あちこちのホームページを開いてみている。主に、ブックエンドの中を、無差別に訪問しているのだが、あらためて思うのは、世の中に、こんなにも、自己表現したい人がいるのかと言うことである。 小説、エッセイ、詩や短歌などの短詩形文芸、写真やイラスト、表現形式はさまざまあるが、共通しているのは、誰かに何かを訴えたい、訊いて欲しい、知って欲しいと言うことである。 立ち上げたまま、ほとんど更新もされずにほってあるようなページもあるが、はじめは矢張り、表現したい何かがあったはずである。 この私も例外ではない。出版する当てもなく、折に触れて書いていたものや、いま生きている自分が感じていることを、黙って箱にしまっているだけでは、飽き足りなくなってきたのだ。 それはおそらく、他の人にはどうでもいいものであり、取るに足らぬことには違いない。でも、今の時代、誰でもこうした表現の方法が出来たことを、私は幸せだと思っている。 行きずりに、ふと誰かの目に留まれば、それでいいことなのだから。 行く行かぬ来る来ないなど逡巡の振り子を止めて髪を切った日 2002年01月13日 14時30分39秒
年明け早々、ホームページがおかしくなり、いったん全部削除した。ファイルのなかは、日記、ゲストブック、ジオボードだけになった。ホームページ作成ソフトを使ったのが間違いの元かと、HTMLに関する本を、図書館で読んでみたりしたが、全部自力でやるには、かなりの知識が必要のようなので、結局また「制作王」を使い、写真を入れ替え、文字や、イラストの挿入も慎重にレイアウトして、一度に送信した。幸い文字化けも起こらず、上手く表示されてホッとした。しかし、ページのサイズがずれているし、サイズが、原稿と、表示された物と少し違うが、取りあえず、リンクもカウンターも大丈夫なので、後の修正は、また、慎重にやることにする。まずまず。 一週間ぶりの書き込みである。 2002年01月12日 00時20分21秒
暮れに思い立ってホームページを立ち上げてみたものの、なかなか厄介なものであることを感じる。と言ってもまだ準備中で、表紙を作っただけだが、私の技術では、手に負えぬことしばしば。 ジオにアドレスを取り、2週間以内に作れと言うので、ジオにある作成ウイザードの中から一つ選び、取りあえず、最初のページだけ設定した。そのまま、3ヶ月おいておくつもりでいたが、矢張りいろいろ欲が出て、デザインなどを替えたくなり、今度は「ホームページ制作王」を使って編集した。気に入った写真を貼り付け、文字の仕様も替えて作り直し、送信した。ところが、何度かページを上書きしている内に、だんだんおかしくなった。夕べはとうとう、表示されたテキストが文字化けし、そのうち、器械がフリーズしてしまい、強制終了の事態になった。 私のやり方に根本的な間違いがあるらしいことは、想像できる。相手は器械、怒っても仕方がないと分かっているが、もう、窓から放り投げたい気分である。私が男だったら、「この、言うこと聞かぬアマ!」とかなんとか、怒鳴りたいところ。 今朝起きて、ファイルマネージャーを開き、全部を削除した。この日記や、ゲストブックは、別立てで取ってあるので、また気を取り直して、新しい表紙を作り、リンクさせようと思う。いやはや。 2002年01月05日 12時32分49秒 ホームページ消滅 頑固な器械に、遂に根負けして、しばらくホームページの制作は、諦めることにした。 ゲストブックも、まだ誰も書き込んでおらず、表紙だけだったのが不幸中の幸い、この際、元の活字人間に戻っても悪くないか。図書館から借りた本も、手を付けぬままだし・・と、我が身を慰める次第。 2002年01月05日 19時28分54秒
ひととは誠実につき合いたいと思っている。少なくとも、自分が好意を持ち、良い人間関係を持ちたいと思った相手とは、そのための努力をしているつもりだ。しかし、人の心は、単純ではない。こちらの思いが通じずに、些細な誤解や、争いを引き起こすことがある。 この一年の間にも、私にとって残念な、と言うより、寂しい思いをしたことがいくつかあった。それは、自分では良かれと思ってしたことが、良くない結果に繋がったことなのだが、多分相手も善意であることが分かるだけに、トコトン話をすることが、お互いを傷つけるような気がして、途中で諦めてしまったからなのだが・・。 「大人の付き合い」というのが、多分私は下手なのだろう。「どうしてそんなところまでつき合うの。相手を見極めて、適当に合わせていれば、愉しいだけですむのに」と、言われたことがある。そうだなあと思い、時々試みてみるが、やはり性格というのは、直らないらしい。 かくして、私の人間関係は、年々狭まりつつある。 言わでものこと口にせし不快に耐えて眺む満天星は濃く色づきてあり 2002年01月04日 08時33分11秒
テレビで、ニューイヤーオペラコンサート、および小沢征爾指揮のウイーンフィルを見る(聴く)。美しい声、美しい音、そして美しいバレエ。美しいものを見たり聴いたりするのが、私は好きだ。特に、美しい人間の声で歌われた歌は、この世でもっとも素晴らしいものの一つだと思える。 9月に新国立劇場で見たオペラ「トウランドット」、この中で砂川涼子が歌ったリューのアリア「氷のような姫君の心も」は、絶品だった。恋人の命乞いをする切々とした歌、聴いていて涙が出てしまった。帰りの電車の中でも、その歌が心を離れなかった。オペラを見て、涙が出ることは滅多にないのだが・・。 2年ほど前に聴いた佐藤美枝子の歌も素晴らしかった。「ルチア」を得意とする彼女は、その中のアリアを歌って、チャイコフスキーコンクールの声楽部門で、日本人初の優勝を勝ち得た。その後の国内コンサートで、東京芸術劇場の大ホールを満席にして、すばらしい歌唱を聴かせてくれた。チケットがなかなか取れずに、三階席の後ろの方で聴いたのだが、ソプラノのピアニシモが、私の耳元までちゃんと聞こえた。小柄な体のどこから、あんな声が出るのだろうと、あらためて感嘆した。 2月にまた彼女のコンサートに行く。楽しみである。 2002年01月03日 22時52分30秒
私に来る年賀状は、趣味の世界の人からのものがほとんど。現在つきあいのある人、学生時代の友達、親族。 昔の仕事仲間も数人。義理で来るものはほとんどないから、こちらから出すものと、向こうから来るものとが、大体同じ数である。いつも手書きで書くことを信条にしていたが、ここ数年は、ワープロを使うようになった。 何百枚という年賀はがきに、一枚一枚手書きで宛名から本文まで、キチンと書くことを歳末の習慣にしていた父のことを思い出す。 その人の顔浮かび来る賀状かな 暮れに友人から電話。「差出人名を書くのを忘れたの。名無しの権兵衛があったら私だから」というもの。私にも同じ失敗がある。私の場合は、指摘されるまで気づかなかった。「この字はあなただと思ったから・・」と言われ、そういえば、忘れたかなと思い当たった。でも、これは手書きだから分かったことで、ワープロなどになってしまったら、本人が特定されるようなことでも書いていない限り、分からないわけである。 年賀状だけで繋がっている人もある。ひと頃は、そうしたものをだんだん整理したりしたが、今では、むしろ、年一回の消息を伝え合う貴重な機会として、大事にしたい。 2002年01月02日 22時15分27秒
風もなく、暖かい一日だった。夕べは、紅白歌合戦を見たり、家族との団欒を過ごし、おせち料理の点検もして、寝たのが年明けの午前5時。 家族が食卓に揃ったのが、11時を廻っていた。おめでとうの挨拶を交わし、年賀状を一通り目を通す。 さすがに家の外も静かである。 捨てるもの残す物あり去年今年 元朝や離れ住む子を客として 初日記書かず過ぎれど佳き日かな 2002年01月01日 18時29分56秒
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