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2002年11月30日(土) ■ |
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83歳で「現役合格した」大学生。 |
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読売新聞の記事より。
【東京都内の定時制高校に通う83歳の男性が、明星大学経済学部(日野市)の推薦入試に合格した。男性は経済的理由や戦争で中学校にも行けず、勤務する建設会社を退職した1996年、「どうしても学校に行きたい」と76歳で中学校の夜間学級に入学。以来、大学進学を目指して勉強を続けてきた。男性は「あこがれの大学でどんな勉強を教えてもらえるか楽しみ」と話しており、同大では「勉学への熱意を若い学生にも伝えてほしい」と期待を寄せている。
合格したのは東京都立立川高校定時制課程4年の原田義道さん(国立市)。29日に合格の知らせを受けた。
原田さんは32年、岐阜市の尋常高等小学校を卒業したが、経済的事情で進学できず、材木の仲介販売を行う父親の手伝いをしていた。39年には日中戦争で徴兵されて戦地に赴き、終戦後は同市内で建設関係の仕事をしていた。
その後は上京し、別の建設会社に勤務するなどして76歳まで勤め上げた。しかし、学校への思いは消えず、自宅近くのスーパーでアルバイトをしていた教員志望の女子大生の助言もあって、96年に八王子市立第5中の夜間学級に入学。教科書の入ったリュックサックを肩に掛け、64年ぶりの通学を始めた。
「記憶力も悪くなっているし、最近の授業は難しい」と原田さんは苦笑するが、中学時代の成績はほとんどが「A」で、その後に進学した立川高も4年間で5日しか休まなかった。小論文と面接による今回の推薦入試も約1・7倍の倍率を見事に突破。入試当日は現役学生らも受験生と気付かず、「サークルの勧誘も全く受けなかった」という。
21年前に妻を亡くしたが、3人の子供と4人の孫、8人のひ孫に恵まれ、「大おじいちゃん」と呼ばれる原田さん。「若い世代と一緒に勉強するのは本当に楽しい。大学では、時代を動かしてきた『経済』について、大いに学びたい」と張り切っている。】
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僕は子供の頃、「読書が趣味」というお年寄りに疑問を持っていました。 あんな年になってから本を読んだって、そこで得られた知識をどこで生かすんだろう?ということに。 要するに、勉強したり、知識を得ても、それを生かす場所がなければ無意味だし、年をとってからの勉強は意味が無いと思っていたのです。 このニュースを聞いて、なんだかそのときのことを思い出してしまいました。 原田さんは、83歳。大学で経済学を学んだとして、実際にそれを社会に還元できるかといわれると、正直言って難しいのではないでしょうか。 87歳の大学卒業生が就職活動をしたとして、採用してくれる企業があるとも思えませんし、原田さんが今から経済学を極めて、学者としての業績を残すというのも、非現実的な話ですし。 でも、自分が30歳になって思うのは、「本を読むのは、自分が読んでいて楽しいからであって、それが社会に還元できるかというのは、あんまり関係ない」ということです。 もちろん、仕事のために必要ということで、面白くない本を読むこともありますけれど。 「新しい知識を得る」ために勉強するということも、「何かの役に立てるため」という人もいる一方、純粋に「勉強することが楽しい」という人もいるのです。 例えば、「テニス」というスポーツを極めるためにやっている人もいれば、楽しむためにやっている人もいるのと同じこと。 原田さんは、結局は「勉強することが好き」なんでしょう。 失礼ながら、このお年で勉強することに、まわりはいい顔ばかりはしていなかっただろうけれど。 役に立てるための勉強だけじゃなくて、趣味としての勉強。 本人は好きなことをやっているだけなんだから、あんまり騒ぎ立てずに、楽しんで学校に行ってもらえればいいんじゃないかなあ。 学校側も「この姿勢を見習って」なんて、祭り上げる必要ないですし。
しかし、今の大学教育というのは、原田さんに憧れられる資格があるのかどうか? それがいちばんの問題ですね。
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2002年11月29日(金) ■ |
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「巧い文章」と「巧いだけの文章」 |
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「論文・レポートのまとめ方」(古郡延冶著・ちくま新書)より抜粋。
<休憩室>の「書きたいことと書く技術」というコラムの一節。
【書きたいことがなければ文章は書けないのは当たり前のことである。次の例を考えてみよう。
小学校1年生の子供が家に帰ると母親の置き手紙があった。それには、あれこれと指示をした後、「夕食を食べ、さきにねていてね」とある。 母親が帰ってみると、そこに 「ママ、ありがとう。○子はとてもあたたかいきもちです」 という書き置きがあった。
この子供の文章は本当に書きたいことがあって書いた文章の好例である。だれにでも書けるというものではない。たったの二文の中で伝えたいことを実にうまく表現している。】
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このあと、著者は野口英世の母シカが、アメリカにいる英世にあてた手紙を例にあげています。そちらのほうは、とくに僕も異論はないのですが。
さて、この例文なのですが、僕がこの子供の親だったとして、こんな子供の書き置きを見たら、嬉しくてたまらないと思います。 子供の気配りに、というよりは、むしろ「この子は世の中うまく渡っていけそうだ…」という気持ちで。 この手紙、なんだか狙いすぎているような気がして、赤の他人としては、ちょっと嫌な感じがしませんか?えなりかずきが書いてるような雰囲気。 僕は、自分もこういう手紙をわざわざ親に書くような子供だった記憶があるのですが、今から考えると、こういうのは「おいしかったよ」とか「ママもがんばって」というだけのほうが、素直に受け入れられるような気がするんですよね。
巧い文章というのは、確かに他人の心を動かすのですが、巧いだけの文章というのは、なんだかかえって薄っぺらい感じがします。 「巧言令色、少なし仁」という言葉は、いかにも東洋的な発想なのかもしれませんが、読み手としては、あまりに「すごいだろう!」というような表現は、かえってしらけてしまうこともあるのだなあ、とあらためて思いました。 巧すぎる文章よりも、文章は滅茶苦茶でも、何かを書きたいという衝動が伝わってくるもののほうが読み手の心を揺さぶることって、多い。 もちろん、これは私的なやりとりについての話で、公に公開される文章については、別なのでしょうけど。 何年も前、僕は振られた女の子に、当時読んでいた村上春樹風の別れの手紙を長々と書いたことがあります。今思うと、振られた自分に酔っていただけなんですよね。恥ずかしい。もらった女の子は、きっと唖然としたことでしょう。
でも、あのときは自分にでも酔ってないと、やってられなかったもんなあ。
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2002年11月28日(木) ■ |
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自己顕示欲で「死刑廃止を推進」する人道的な人々。 |
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それぞれ毎日新聞の記事です。
【「刑執行、癒やされなかった」 殺人事件の被害者の兄でありながら、犯人の1人である死刑囚と面会を続けて死刑制度に反対するようになった原田正治さん(55)=愛知県東浦町=が24日、人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル日本第45グループの招きで、奈良市東向南町の県女性センターで講演した。「死刑が執行されたことで癒やされることはなかった」と訴え、約40人が聴き入った。 原田さんの弟は83年、保険金目的で殺害された。原田さんは、犯人3人のうちの1人の死刑囚から手紙が届き、拘置所で面会▽死刑執行に反対する嘆願書の提出▽死刑の執行(01年12月)――までの心の動きを語った。 「(死刑囚に)もっと感情をぶつけるなど交流する時間がほしかった」という。加害者が謝罪する機会となり、被害者の精神的なケアにもつながる。「ケアがあった上で死刑廃止を論議してほしい。罪を許すことは当然できないが、犯人が日々反省する中で、自分なりの償い方を考えてほしい」と話した。 同団体は、各国の政治犯の釈放を求める一方で、すべての死刑を廃止する運動に取り組んでいる。
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「僕も君と同じ青森 同じ夢を見た」。小泊村出身の歌手・三上寛さんは、かつて連続射殺事件の永山則夫死刑囚をこう歌った。 三上さんは警察学校を中退して上京した。永山は板柳町の貧しい家から集団就職で東京に出た。法廷で「古里を汚してしまった」と話した武富士事件の小林光弘被告も集団就職組だ。高度成長期、多くの若者が同じ道をたどった。 小林被告は「どこにでもいる普通の市民」(弁護士)だった。小さなきっかけで「市民」からずれ、無限の苦しみを人に与えてしまった。私にも、その可能性がある。恐らく、すべての市民にある。 私は、あらゆる事件で遺族ら以外が「被告を死刑に」と言うことを認めたくない。事件にまつわる死者を1人増やしても、問題は解決しないのだから。
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「死刑廃止を推進する議員連盟」(亀井静香会長、120人)は27日、役員会を開き、「死刑臨調設置法案(仮称)」と、当面の死刑執行停止を求めるための特別無期刑(仮称)新設を盛り込んだ刑法改正案をセットで、来年の通常国会に提出する方針を確認した。
この日の議論では、死刑臨調は、内閣でなく国会に置く方向で調整することになった。有識者らの意見を反映させるためで、衆参両院に置くのか、両院で一つの調査会にするのか今後、詰める。また、犯罪被害者を救済する立法措置も検討するという。
現在、衆院法制局で法案作りを進めており、来月13日の臨時国会の会期末までに法案を固め、議連総会を開催して了承を取り付けるという。】
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まず、「活字中毒。3月15日」をご覧ください。 って、けっこう長いですよね。申し訳ない。 前から読んでいただいている方には「またかよ」と言われる話かもしれないけれど、アクセスがどんなに減っても書かずにはいられない。
「人道」とは、いったい何でしょうか? すべてを許す、受け入れるのが「人道」なんでしょうか? 誰でも、自分が死刑になることを想像すれば、死刑制度なんてないほうがいいに決まっています。 でも、僕は敢えて言いたい。僕だってそんな犯罪をやるかもしれない。でも、もしそんなことがあったら、死刑にしてもらって構わない。というか、ぜひ死刑にしてください。 自分をアピールするためだけに「人道」を安売りするのは、やめていただきたいのです。
《「事件にまつわる死者を1人増やしても、問題は解決しない」
「罪を許すことは当然できないが、犯人が日々反省する中で、自分なりの償い方を考えてほしい」》
いい言葉ですね。実に「人道的」だ。 でも、残された家族にとっていちばん辛いことは、自分の愛する人が、もう「許す」とか「許さない」とかすら、考えられなくなってしまったということなのです。それでも、加害者は人間として保護されて「悩んだり」「償いの方法を考えたり」できるんでしょうか? 僕は、犯した罪は、きっちり償わせるのが本当の「人道」だと思っています。 「死刑になること」を非難する前に、「どうして彼らが死刑の判決を受けたのか」を考えてみてください。 永山則夫死刑囚は、罪の意識に苦しんで作品を世に出したから死刑になったのではなく、罪もない人々を沢山射殺したから死刑になったのです。 彼が生きのびて自分の罪を語っている間、被害者のご家族は語る言葉も与えられず、饒舌な殺人者の前で悔しい思いをしていたと僕は思います。 原田さんのような、自己陶酔的かつ被害者が亡くなってしまったことによって経済的な苦痛を受けなかったごく一部の例外的「親族」を一般論として語ろうとしないでもらいたい。 「刑が執行されても癒されなかった」ですか、当たり前です。 その程度のことで、癒されるものか。
大部分の遺族は、何の罪もない被害者が「死んで」いるのに加害者が「生きて」いるという事実だけで、行き場のない悔しさを抱いて生き続けているというのに。
もちろん僕は何でもかんでも死刑にすればいいと考えているわけではないですよ。でも、死刑ですら生ぬるいと思うような犯罪者が、生きていけるような社会が「文明的」や「人道的」とは思えません。
僕は、非人道的で野蛮な男で結構なので、また今日も繰り返します。
死刑囚よ、罪の償いなんてする資格はないから、さっさと死ね!
「死刑廃止を推進する議員連盟」=「自分をいい人だとアピールしたい、 似非人道主義の議員連盟」じゃないのかね、結局。
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2002年11月27日(水) ■ |
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たまたま、業績がうまく当たっただけの人々。 |
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「らもちち・わたしの半生〜青春篇」より抜粋。 中島らも氏とチチ松村氏の対談の一節。 【らも「でな、いろいろ偉人伝読んでんねんけど、そのうち何かこれおかしいなあと思いだしたのよね。たしかに、偉い人のことばっかり書いてあんねんけど、たとえばキュリー夫人を読むとね、キュリー夫人はすうっとガリ勉してて、本代に回すために食費を節約して、1日にスープ1杯だけしか食べへんっていうような生活をずうっと続けたあげくな、貧血で倒れてしもたんよな(笑)。で、おじさんのところへ行って、ステーキを食わしてもらって、やっと体力を回復するわけよ。 そんなことが「どうでしょう、偉いでしょう」みたいに書いてあんねんけどね、それってさあ、ただのガリ勉やんか、別に偉ないやん、そんなん。ただのガリ勉やん。ガリ勉の子なんかは世界中見回しても、何百万人とおるわけやんか。結局ね、ガリ勉の末に大学卒業して、研究員になって、ラジウムかなんか発見したんでしょ、あの人は。
チチ「そうそう。」
らも「たまたま、業績がうまく当たったからいいんだけど、当たらない人なんかいっぱいおるわけやん。」
チチ「そっちのほうが多いわ。」
らも「うん。同じガリ勉でな。そんなもん偉くも何ともないじゃない。
チチ「それを小学校2,3年のときにもう気づいてしもうたん?本読んでて。」
らも「うん、気づいた」】
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確かに、らもさんの言うとおり。先日ノーベル賞を取られた日本人の学者が2人いらっしゃいますが、日本に研究者と名のつく人間が、いったい何人いることか。 それに、受賞された2人は、確かに偉大な業績を残されたのですが、まだまだ世界中には、彼らに負けず劣らずの業績を残した人はいるんだと思います。 今、新しい発見をしたわけではないのに、賞をもらっただけで、急に研究の内容が評価されまくったりしてしまうのは、よく考えたら変なことで。いい研究だから賞をもらったわけで、賞をもらったからいい研究というのは本末転倒。
ノーベル賞の創設者(というか、彼の遺言と遺産を基にはじまった)であるノーベルは、当時非常に危険でありながら、土木工事に必要不可欠であったニトログリセリンを安全に使用するために苦心を重ね、ダイナマイトを発明しました。 でも、彼に巨万の富をもたらしたのは、工事を安全にすすめるためのダイナマイトではなく、戦争の道具としてのダイナマイト。彼は、そのことにひどく心を傷めていたそうです。 ノーベルの場合は、意に染まない利用のされ方だったわけですが、現代の研究者にも本来の目的とは異なる有用性がみられたため「偉大な発見」となった場合も多いのです。 逆に、結果が出ないような研究、世間に役に立たない研究に才能を浪費してしまっただけの天才だって、たくさんいたはずです。 結局、「運」の要素は、必要不可欠なんですよね。
でも、そんな非効率的なこと…と思う、らもさんの気持ちもわかるんですが、ある意味、その非効率的なことに気付かない、もしくは気付こうとしない「愚かな」人たちが、人類の歴史を作ってきているという面もあるんです、絶対に。 成功したからといって、何でも「努力のおかげ!」と言ってしまう偉人には、僕もちょっと違和感を覚えますが。
高速道路に乗っていて思うこと。 追い越し車線に乗って他の車を追い越そうとすれば、いつかは自分より速い車にあおられる。ずっと走行車線で、前の車の後をのんびりついていければ、それほど楽なことはないのかもしれないけれど。
一度の人生、さて、どこまで自分に賭けられるだろう?
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2002年11月26日(火) ■ |
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中島みゆき、本当に「紅白歌合戦」初出場! |
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日刊スポーツの速報記事より。
【大みそかの「第53回NHK紅白歌合戦」(午後7時30分スタート、NHKホール)の出場歌手紅白各27組が26日、東京・渋谷の同局で発表された。 同局「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の主題歌で、110週連続チャートイン(100位以内)の日本記録を作った「「地上の星 ヘッドライト・テールライト」を歌う中島みゆき(50)が初出場。海老沢勝二会長の数年越しのラブコールが実った。】
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ちょっと前から噂にはなっていたのですが、中島みゆきさんが、ついに紅白に初出場されるようです。その噂を耳にするたびに「なんのかんの言って、最後は出ないんじゃないの?」と予想していた僕としては、まさに嬉しい誤算というか。 中島みゆきさんといえば、まさに「テレビに出演しない歌手」の代名詞。あの伝説の歌番組「ザ・ベストテン」でも「本人のポリシーにより出演拒否」というのを毎週聞いていたような気がします。カラカラカラとランキングボードが回って「今週の第〜位!中島みゆき『悪女』8567点!」と言い終わったとたんに司会の久米宏が「申し訳ありません!」と頭を下げる、というのが毎週恒例の光景でした。 ほんとに、毎週出演交渉してたんでしょうか、あの番組。 他にもテレビに出ない歌手というのは何組か存在していて、松任谷由実さんとか松山千春さんなんかもそうでしたね。 ただし、ユーミンは「守ってあげたい」で「一度だけ」出演しているし、松山さんも「長い夜」でビデオでしたが一度出演しています。 そういう意味では、最後の大物テレビ拒否歌手といえるかもしれません。 中島さんは、ラジオの生番組にはオールナイトニッポンのパーソナリティはじめ数多く出演されてますし、恒例の「夜会」など、ステージ活動も活発で、そのビデオも出ています。でも、テレビ拒否の姿勢だけは、ずっと変わらなかったんですね。 歌は知らなくてもトークは聞いた事があるという「歌手」が多い最近の傾向とは正反対の道をすすんで、テレビというメディアで大衆に消費されることを拒み続けた孤高の歌姫。
実際、中島みゆきさんといえば、みんな名前は知っていても「ああ、あの暗い歌ばっかり歌ってる人」というような反応を示す人が多くて、顔や歌っている姿ってイメージできる人は少ないのではないでしょうか。
今回の「紅白歌合」戦への出演は、NHK「プロジェクトX」の主題歌として大ヒットしている「地上の星」のお礼奉公的な意味合いもあるのかもしれませんが、どうして今、出演する心境になられたのか、ちょっと訊いてみたいなあ。 「最後のテレビ拒否の大物」の出演ということで、初出場ながらトリを務める可能性もあるそうです。 でも、「地上の星」で終わっちゃうと「紅白歌合戦」というより「プロジェクトX」になってしまいそうな気もします。
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2002年11月25日(月) ■ |
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「活字になること」に興奮した頃。 |
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原田宗典さんのショートエッセイ集「笑ってる場合」(集英社文庫)の解説より。 書いているのは、原田さんの学生時代からの親友、長岡毅さん。
【そんな原田がついにホームランを放った。(高校)三年の時である。学研の「高三コース」で募集していた文学賞に入賞したのだ。これにはウチらもライバルであることを忘れて不覚にも喜んでしまった。ふだん目にするちっちゃな字と違って、活字は読みやすく美しかった。「うーむ、全国の読者がこれを読むのか」といった感じだ。】
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ちなみに、そのときの入選作は、長岡さんの記憶によると「ノイローゼの高校生が前の席の女生徒の髪をながめているうちにカッターナイフで切ってしまうといった内容」だったそうです。 実は、ワープロ(パソコン上のものも含む)というのが普及しはじめたのって、せいぜいこの20年くらいの話で、一般的になったのは、この10年にも満たないんじゃないかと思います。 僕が大学のころのレポート(6〜7年前くらい)は、手書きが主流で、たまにワープロ書きのレポートなんてのを出す人がいると「すごい、キレイ!」というような感じでしたから。 今では、手書きのレポートを提出する人はごく一部。コピー&ペーストがたやすくでき、誰が書いたかわかりにくく(まあ、講師の先生たちは「他人の丸写しは、ワープロでもわかる」と言い張っておられますが)、書き直しがしやすいワープロ書きのレポートが主流となっています。 おかげで、漢字が書けなくなった人は、だいぶ増えたような気はしますが。
ワープロというのが普及する前までは、学級新聞とかも、ほとんどが手書きのガリ版刷り。先生の字が達筆すぎて読めないなんてこともけっこうあったっけ。 そんな中で、自分が書いたものが活字になるなんてことは、たぶんすごく興奮することだったんだろうなあ、と思います。しかも全国誌。 現在では、こういうWEBサイトによって、家に居ながらにして全世界に情報発信できるわけですが(受信してくれるか?は別の話)、その頃は、雑誌の懸賞とかで自分の名前が活字になって学習雑誌に載っただけですごく興奮したことを思い出します。 これで僕も全国区だ!なんて。
現在では逆に、キレイだけど大量生産の年賀状の中に、わずかに手書きの言葉を見つけて微笑むようになってしまいました。すっかり立場が逆転。 「自分の言葉が活字になる興奮」かあ…なんだか、とても懐かしい感情。
ワープロ全盛の現代作家たちの「肉筆原稿」なんてのは、きっと一部の人を除いて残らないんでしょうね。ちょっと寂しい。同じ人が書いてても、ワープロで印刷されたものは、あまりありがたくない気がします。どうしても没個性。 でも、やっぱり便利だもんなあ、ワープロってさ。
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2002年11月24日(日) ■ |
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サイドターンは自己責任で。 |
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読売新聞の記事より。
【24日午前2時30分ごろ、高知市桟橋通の高知港岸壁で、男子学生2人が乗った軽乗用車が約3・5メートル下の海(水深約10メートル)に転落した。2人のうち同県土佐市内の学生(19)は水面まで上がってきたところを、119番通報で駆けつけた消防隊員に救助されたが、同県春野町の学生(18)は約40分後、車の近くに沈んでいるのが見つかり、間もなく死亡した。水死とみられる。
高知南署の調べでは、2人は岸壁で車のサイドブレーキを引いて急アクセルでUターンする「サイドターン」を繰り返していたという。死亡した学生が運転操作を誤り、転落したらしい。現場には街灯はなかった。】
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この記事では、現場に街灯がなかったことをちょっと責めているような感じなのですが。 サイドターンには、苦い思い出があります。僕がまだ大学に入りたてのころ、同級生の女の子と2人で、部活の先輩にドライブに連れて行ってもらったことがあります。 その先輩はカーマニアで、僕たちが乗せられたのはホンダのCR−X。 原則的に2人乗りの車で、後ろには申し訳程度の後部座席があるだけ。 当然、前の席には先輩と同級生の女の子が乗り、後ろの座席もどきに僕が乗ることに。 それだけならともかく、その先輩は、運転中に様々なドライビングテクニックを駆使。 スピンターンであるとか、カウンターとかをバリバリに。 ただでさえせまっくるしい後部座席に詰め込まれた僕は、車酔いしまくりで、とっても不快な思いをさせられました。また、その女の子のことが当時ちょっと好きだったこともあって。 それ以来、乗っている人のことを考えないドライビングテクニック自慢の人は、ものすごく苦手になりました。
僕自身は、車は移動手段としか考えていませんし、公道で他の車を煽ったり、妙なドライビングテクニックを見せたりする車、当たっても自分が死なないからといって威圧的な態度をとるトラックは大嫌いです。 そんなにテクニックを見せたいなら、サーキットへ行ってやれよ、と言いたい。 本人は死ぬ覚悟はできているのかもしれないけれど、車がいくらでも凶器になりうるというのは、ごく一般的な常識のはず。 いや、サイドターンの練習、したければしたいでいいんですよ。誰にも迷惑をかけなければ。 彼らは、たぶんリスクは承知でやったはず。それでこのような事故が起こっても、それは自己責任です。街灯がないことは理由になんかなりません。 他人を巻き込んだりしなくて良かった。それでも、引き上げたりするのは、けっこう大変だとは思うのですけれども。
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2002年11月23日(土) ■ |
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5億円の「DEPARTURES」 |
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日刊スポーツの記事より。
【音楽プロデューサー小室哲哉(43)とglobeのボーカルKEIKO(30)が22日、東京・新高輪プリンスホテルで結婚披露宴を行った。最後のあいさつで小室は「僕たちは幸せです」と目を潤ませ、KEIKOは小室のピアノ演奏でヒット曲「DEPARTURES(旅立ち)」を涙ながらに歌った。出席者600人、推定費用5億円。TBSが生中継するなど、最近では異例の豪華披露宴だった。 小室が涙を見せた。披露宴の最後、父修一さんのスピーチに目が潤み、続いて壇上でマイクを手に持つと、言葉を詰まらせた。「きょう僕は壇上から皆さんを見て、人の出会いと別れを考えました。KEIKOと素晴らしい出会いをしたわけですから、これをつなげていきたいと思います」。あいさつを終えると、傍らのKEIKOと見つめ合った。 フィナーレは、小室のピアノ演奏をバックに、KEIKOがglobeのヒット曲「DEPARTURES」を披露。雪が降る演出の中、KEIKOが涙をにじませながら6分に及ぶバラードを歌い上げた。 11月22日は「いい夫婦の日」。2人はこの日入籍し正式な夫婦になった。午前中に代理人が東京・港区役所に婚姻届を提出した。午後には、両家の親族が出席し、東京・靖国神社拝殿で挙式した。2人が所属するglobeは12月26日に、バラードを集めた結婚記念のベストアルバムを発売する。】
〜〜〜〜〜〜〜 小室さん、KEIKOさん、ご結婚おめでとうございます。 それにしても、豪華絢爛な披露宴、バブル華やかなりし頃ならともかく、不景気と言われて久しいこの御時世では、久々の豪華披露宴という感じでした。 でもまあ、ココまで来れば、結婚披露宴というより、何かのイベントみたいなものなんでしょう 僕は、この披露宴の様子を観て考えたのですが、果たして、こんな豪華な披露宴をやろうと考えたのは、いったい誰なんでしょうか? 小室さんは、お金を沢山もっているでしょうし、テレビ中継もあるし、呼ばれるのは有名人ばかりだから、そんなに高額な持ち出しにはならないでしょうけれど。 でも、普通の感覚で言ったら、2度目、3度目の結婚式って、地味になるんじゃないかなあ、と思うのです。 小室さんも、今まではこんな豪華な式はやってないですし。 まあ、「今度こそ!」という気合のあらわれなのかもしれませんが、それにしても「人の出会いと別れを考えました」という言葉は、結婚式のスピーチにしては、ちょっと不思議な感じがします。「別れ」って言葉、結婚式では禁句じゃないの? まさか、もう別れることを想像しているのでは…
それにしても、今回の結婚は、まったく今までと同じパターンである「自分が育てた仕事のパートナー」との結婚ですし、「前にひどい振られかたをしたにもかかわらず、今度こそと言いながら前と同じような女と付き合ってしまう男」を見ているようで、ちょっと不安ではありますね。 「結婚記念ベストアルバム」が出たり「新曲披露」がされたり「KEIKOの親への挨拶が録画」されていたり、あまりにプロモーションじみていて、結婚ってそんなものなのか?と、まだ未婚の僕は思ってしまったりもするのです。 たぶん、小室さんも、起死回生のイメージ回復を狙っているんでしょうが。
しかし、最近トーク番組に出ている小室さんを見ていると、「何もこんなことまでしなくても、今までに貯めたお金で悠々自適の生活ができるんじゃないかなあ」という気がして仕方がありません。 結局、離婚しては莫大な慰謝料を取られ、結婚しては披露宴に多額の費用。 ああ、こんなふうだから、芸能人っていうのはどんなに売れているときにお金を稼いでいても残らないんだなあ、と実感してしまいます。
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2002年11月22日(金) ■ |
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果物を上手に食べられる人、食べられない人。 |
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「ありがとうございません」(檀ふみ著・幻冬舎文庫)より抜粋。
(著者が、中国の映画祭で高倉健さんと同席した際に、高倉さんが上手にナイフとフォークで桃を食べている姿を見て)
【冷や汗をかいて再び健サンのほうへ目をやった。健サンはフォークとナイフで器用に種をとり、皮をむき、涼やかにお口に運んでいる。 「あんなに上手に果物を食べる人、見たことない」と名取(裕子)嬢も感心していたが、さながら手品であった。 「そういえばイギリスの本にあったなァ。本当に育ちのいい人は果物を食べさせてみればわかるって」 ある朝食会で健サンの話をしたら、隣にいらした日下公人さんがそうおっしゃった。 「果物をじょうずにに食べる、フォークを汚さない。これが紳士の条件だそうですよ」そのとき日下さんは目玉焼きと格闘中だった。そして、ご自分のフォークをじっとご覧になって、嘆かわしそうに首を横に振られた。】
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食べ方の美しい人って、確かにそれだけで上品に見えますよね。 テーブルマナーがキチンとしている人とか、そこまで堅苦しくない席でも、焼き魚を骨だけ残してキレイに食べられる人なんて、ものすごく憧れます。 僕なんか、焼き魚を食べたあとは、いつも「魚さん、ゴメン!」といいたくなるような惨状を呈しているのに。 男としては、そんな女の子の姿をみると、ポイントアップ著明。 それだけで、「ああ、しっかりした人なんだなあ」と思いこんでしまいます。
フォークの話は初耳だったんですが、前に、「良家の子女は、箸を先の方しか濡らさないで食事をする。濡れている範囲が短いほど育ちがいい」という話を聞き、実践してみたことがあります。 ちなみに、結果は悲惨の極致。途中でオカズは箸から落とすは、時間はかかるわで、「良家の子女作戦」は、あっさり挫折してしまいました。 やっぱり、大人になってから急に付け焼刃でやっても、できるってものじゃないみたいですね。 日頃からの鍛錬が大事みたい。
確かに、一緒に食事をしていて楽しいっていうのは、人間関係において、けっこう大事な部分。食事の仕方で印象も変わってくるかもしれない。 以前、羽賀研二が「レストランで出された料理を皿に顔を押し付けるようにして、ろくに切りもせずに、ガツガツ食べる」(いわゆる、「犬食い」のひどいやつって感じでしょうか)という噂を聞いたときは、それだけで「下品なヤツだなあ…」と思ってしまいましたし。 いくら好きな人でも、そんな食べ方を自分と一緒のときにされちゃあ、千年の恋も醒めるってものです。
とか言いながら、僕は「ご飯をフォークの背に乗せて食べる女の子」が許せないのです、実は。 正直、「そんなまだるっこしいことしてお上品ぶってないで、さっさと食べろよ!」と思ってしまいます。 もちろん、口には出せませんけど。
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2002年11月21日(木) ■ |
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イギリスの公開人体解剖。 |
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時事通信の記事より。
【ロンドン市内のアートギャラリーで20日夜、公開の人体解剖がドイツ人医師の執刀により、当局の警告を押し切って行われた。英国で公開解剖が実施されるのは170年ぶり。会場には入場料12ポンド(約2300円)を支払った見学者約300人が詰め掛け、民放テレビが生々しい解剖の模様を収録した。】
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別の記事によると、イギリスでは16世紀くらいには、人体解剖が見世物として市民権を得ていて、専用の見世物小屋もあったのだとか。 ちなみに、イギリス当局の見解は「興味本位で人間の尊厳を貶める可能性がある行為」で、実際に解剖を行った側は「人々の知的欲求を満たすための学術的な行為」ということなのだそうです。 この解剖された遺体は、今年の3月に亡くなられた方だそうですから、そんなに生々しい状態ではなかったのでしょうけれど。 そういえば、日本でも数年前、ドイツからの「人体の秘密展」が行われて、大盛況だった記憶があります。これは「学術的な」目的で実際の人間の臓器を標本にしたものや骨が展示されたもので、たくさんの人が臓器に見入っていたようです。 今回の解剖を担当したのもドイツ人医師だったそうですし、ドイツ人というのは、唯物的な民族なんだなあ、という気がします。 ごく一部の特殊な趣味を持った人は別として、人間誰しも「人間の体の仕組みはどうなっているんだろう?」という疑問を持ったことがあると思います。 子供への教育関連書籍でも「人体のふしぎ」は、常に上位人気とのこと。 見てみたいという気持ちもわかるし、御遺体や遺族の遺志があれば、公開すること自体は、そんなに問題ではないと思うのですが。人間の体の内部というのは、生きている人間にとって、何らかの感慨があるものでしょう。 だからといって、テレビで無秩序に流したりするのはあんまりですが。
僕は、学生時代から現在に至るまで、何人かの方の解剖を見たり、ときには実際にやったりしましたが、やっぱり、勉強になることは多いです。 ただ、その際に、いろんな勉強をすると同時に僕が痛切に感じるのは、人間っていうのは、やっぱりモノであり、物体なんだなあ、ということ。 人体は、非常によくできた精緻な機械。 それでも、自分の体の中に同じものが入っているというのは、今ひとつ実感がわかないんだよなあ。
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2002年11月20日(水) ■ |
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ギャンブル必勝法! |
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「パチンコ必勝ガイド」(白夜書房)2002.12.7号「渓由葵夫のぱちんこテクノロジー」より。
【いいたいことは、カジノ側には必ずベテランディーラーとルーキーがいる、ということ。そして、ルーキーは「負けて成長する」ことを考えれば、カジノ側も鍛える意味で「安いレートなら負けてもどーってことはない」としている。 もし皆さんがベガスなどに行くことがあれば、なるべくルーキーを捜そう。もっとも簡単な必勝法です。】
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「ギャンブル必勝法」というのは、世間にほんとうに沢山あります。「どこそこのボタンを何回押して…」とかいう、機械操作系もあれば、「ギャンブルに負けないミラクルストーン!女の子にもモテモテ」なんてのもありますよね。 僕は、こういうのを全く信用できないので、実際に自分で試したことはありませんが。 ああ、そういえば、「手のひらを太陽に透かしてシワの形をみれば、相手の出すものがわかる」というジャンケン必勝法、なんてのもあったっけ。 まあ、こういうのは「矛盾」の話と同じで、双方が同じ手を使ったらあんまり意味がないことですが。 僕たちは、一般的にギャンブルは「運試し」だと思いがちです。競馬なんて、どんなに一生懸命予想しても、先日の菊花賞の武豊騎乗のノーリーズンのように、スタートで落馬してしまったりすることだってあるわけですから、「絶対に勝てるギャンブル」なんてのは、まず存在しないと考えていいでしょう。 麻雀プロと素人の対戦でも、一回だけの勝負でイカサマなしなら、素人が勝つ可能性だってゼロではないはずです。 でも、この渓さんが書かれている必勝法には、非常に説得力がありそう。 例えば、医者の世界でも最初はみんな研修医であるように、ディーラーという仕事だって、最初から完璧に思いのままの目が出せる人はそうはいないでしょうし、仮に練習でパーフェクトだとしても、本番の緊張感の中でいきなり同じことができる人は、ほとんどいないはずなので。 そのあたりは、カジノ側も承知の上、なんでしょうね。 もちろん、百戦百勝というわけにはいかなくても、この方法なら勝率は高そうです。 ただし、ルーキーのところはレートも安いし、ルーキーに勝った後には、必ず手ごわいベテランディーラーが登場してくるので要注意とのこと。 止めるタイミングも大事なのです。 ギャンブル必勝法というのは、僕たちは「運を上げる」とか「機械を操る」ということを考えがちなのですが、つけいる隙はむしろ人間にある、ということなのでしょう。
これは実に素晴らしい必勝法なのですが「誰がルーキーなのか?」を見分けるのが、最大の問題点かもしれませんね…
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2002年11月19日(火) ■ |
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Excuse me! |
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「英語屋さんの虎ノ巻」(浦出善文著・集英社新書)より抜粋。
【また、些細なことだが、米国人などは往来で人とぶつかると、 ”Excuse me.”(どうも失礼)という言葉が反射的に出てくる。一方、雑踏で人とぶつかることが多い東京の電車や路上では、「すみません」という言葉がほとんど聞かれない。最近、「若者が無礼だ」などと嘆く人もいるが、この点に関しては、中高年のサラリーマンらしい人も大差ない。かくいう私自身も、東京に住んでいると、この「すみません」がなかなか出てこない。】
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僕も、つい先日はじめてアメリカに行く機会がありました。 そこで驚いたのが、まさにこのことだったのです。 アメリカ人(というか、欧米人一般、なんでしょうか)は、例えば、僕が乗っているエレベーターに乗り込んでくるときや隣の席に座るとき、さらに、人ごみのなかをすりぬけるときなど、常にこの”Excuse me”を口にするのです。 最初、ひとりでエレベーターに乗っているときに、この”Excuse me”をやられたときには、知り合いかなと一瞬思ってしまいました。 ”You are welcome”と返した方がいいのかな、と思いつつ、結局、恥ずかしくて返せなかったんですけどね。 わずか3日間のアメリカ旅行だったのですが、いちばん使った英語というのは、たぶんこの”Excuse me”だったような気がします。 考えようによっては、どんな「ちょっと失礼」という場合にも使える言葉で、便利といえば便利。 ただ、日本人の場合、人が先に乗っているエレベーターに乗り込む場合、言葉はなくても「申し訳なさそうな態度」が伝わってくるのに対し、アメリカ人の場合は”Excuse me”と言いながら、けっこう堂々と入ってきます。 まあ、個性による部分もあるんでしょうけれど、僕たちが思っているほどの「すみません」という意味は、この言葉にはなさそうなんですよね。
確かに、ちょっとした挨拶っていうのは、コミュニケーションの潤滑油になるところはあります。僕も今朝、家を出てくるときに、小学生らしい見知らぬ女の子に「おはようございます」と挨拶されて、けっこう気持ちよかったですし。 僕は日本人で日本での生活に慣れているので、やっぱり雑踏のなかを ”Excuse me”を連呼しながら堂々とすり抜けていくアメリカ人を見ていたら、ちょっと違和感がありました。 エレベーターの中でも、たぶん「話しかけないでくれビーム」が出ていたと思います。 ただ、3日間アメリカにいると、けっこうこの”Excuse me”が出てくるようになるんです、自然に。 逆に便利なんですよね、これひとつで何でも済んでしまうっていうのは。すまなさそうな態度をとるより楽だし。 意外と、アメリカ人も「この一言で済むなら、安いもんだ」とか思っているだけなのかもしれませんね。
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2002年11月18日(月) ■ |
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auの「着うた」は、着メロよりも面白くない! |
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ロイター通信の記事より。
【KDDIは、同社の携帯電話事業「au」が、CD音源をもとに作られた15―30秒程度の楽曲をダウンロードできるサービスを、12月上旬から開始する、と発表した。 利用者は、ダウンロードした楽曲を再生するほか、着信音として設定することが可能。このためKDDIは、新サービス名を「着うた」とした。 】
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携帯電話の着メロの進歩って、ほんとにすごいものがあります。僕が携帯電話を持ち始めるようになったのは、たぶん今から6年くらい前だったと思うのですが、当時は、サンプル曲が20曲くらい入っているだけで、かなり安っぽい電子音だった記憶があります。 オリジナルの着メロは、自力で楽譜を入力しないといけなくって、その楽譜の本もたくさん出てました。まあ、僕自身は仕事柄携帯の電源は切っているか、マナーモード(そういえば、一昔前は「マナーモード装備!」なんてのが宣伝文句にもなってましたっけ)にしていることがほとんどだったので、あまり着メロに関心はなかったのですが。 それでも、デモ曲を鳴らして、同僚の携帯と聴き比べたりはしていました。 ここ数年、曲がダウンロードできるようになり、電話機の電子楽器としての昨日も格段に進歩してきています。FM音源16和音とか32和音なんてのは、一昔前シンセサイザーが裸足で逃げ出すくらいのスペックなわけで。 どんどん、曲もリアルなものになってくるし、有名人の声を使った「ボイス着メロ」なんていうのも、もうすでに一般的。 「着うた」のほうに向かっていくのは、ある意味時代の必然というべきなんでしょうね。 まあ、今回の「着うた」は、メモリの関係もあって、CD音源そのものではなく、CD音源をもとに編集されたものになるらしいのですが。 でも、CD音源そのものが「着うた」になる日も、たぶんそんなに遠くないはず。
しかし、その「CDそのまま」の着信音って、面白いんでしょうか? 例えば、テレビゲームの音楽なんて、今は、電子音レベルではなく、「普通の音楽」が再生できるくらい。聴く側としては、客観的には、きれいな音、いい音楽ではあるのですが、「ドラゴンクエスト」の最初の頃ほどのインパクトはないと思うのです。 音源数が少ないとか、音色にバラエティがないといった制約の中で創られるものって、リスナーにとって「よくぞここまで!」という感動があったような気がします。 逆に、なんでも再現できる状態で、CDと同じ音を聴かされても、思っていたほど感動もしないし、面白くもない。 今の着メロには、「よくぞここまで再現した!」という、感動がまだ残っているんですよね、きっと。 他の人より、リアルに曲が再現されているものを探すという楽しみもあるでしょうし。
写実的な絵と写真とでは、やっぱり見た印象が違うように、リアルな着メロを求めていながらも、「CDと同じ音」になってしまっては、きっと面白くなくなってしまうんじゃないかなあ。
そんな時代になったら、単音の携帯初期のような着メロが流行ったりするかもしれませんね。
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2002年11月17日(日) ■ |
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ああ、栄光の80年代のオールナイトニッポン… |
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サンケイスポーツの記事より。
【今年で35周年を迎えるニッポン放送「オールナイトニッポン」の歴代パーソナリティーのヒット曲を集めた3枚組CDボックス「オールナイトニッポン パーソナリティーズヒット」が、12月4日に発売される。今だに語り草になっている番組内での迷トーク、珍トークもボーナストラックとして収録。
パラッパ、パッパラパ、パッパパ…。深夜、ラジオから流れるハーブ・アルパートとティファナブラスの軽快なリズムが、耳にこびりついて離れない人も多いのではないか。青春時代、「オールナイトニッポン」を聴いた人なら誰もが楽しめるCDボックスが発売されることになった。
第1弾「−パーソナリティーズヒッツ」(ポニーキャニオン)は、昭和42年(1967年)のスタートから80年代までに絞り、歴代パーソナリティーの当時のヒット曲を集めた。
ディスク1には吉田拓郎、中島みゆき、松山千春らのフォークを中心に、ディスク2には松任谷由実、小泉今日子らのポップスを中心に収録。渋いのはディスク3。オールナイトで人気に火がつき、今ではバラエティー界の大御所として君臨するタモリやビートたけし、所ジョージらが、歌手として発売した企画楽曲を集めた。
さらに、笑福亭鶴光の「ナンチャッテおじさん」やイルカの「バカヤローコーナー」など人気コーナーもボーナストラックで甦る。同局の倉庫からかき集めた膨大なテープからベストセレクトされた。シモネタ歌詞で放送禁止曲に指定されたつぼいノリオの「金太の大冒険」や、タモリが本番中に突然即興で歌い始めた「オールナイトニッポン・ブルース」など、話題曲も満載だ。】
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あの〜名曲集もいいんですが、ボーナストラックのほうが僕は楽しみなんですけど。 現在30歳(もうすぐ31)の僕にとっては、オールナイトニッポンは、まさに学生時代の夜のBGMだったのです。 小学校後半から中学校くらいまでは、明日の学校が気になりつつ、しかも夜の1時を過ぎると激烈に眠くなったりしながら、一生懸命聴いていました。 当時は、月曜日が中島みゆき。暗いイメージとはかけ離れたハイテンショントークで、最初に聴いたときは、唖然としたものです。 「ひと〜りじょ〜ずと呼ばないで〜」とかいう、自分の思い込みによる失敗を告白するコーナーがあって、僕はいまだに、何かやらかすたびにこの曲が心の中に流れてきます。
ビートたけしの番組は、たけしがすごい早口でまくしたてるようにしゃべっていて、当時の僕にはよく意味もわからなかったんですが、今から考えるとすごいこと言ってたような気がします。「オ〜マルマルコ」とか、いわゆる「放送禁止用語」を逆手にとって、伏字で連発してたんですよねえ。
土曜日の鶴光のエロオヤジ前回の番組も、よく聴いたなあ。なんてったって土曜の夜だし。崖っぷちトリオとか、激烈になつかしい。 「ケメコ」って何?とか、かなり悩んでました。もちろん、人に聞けないような言葉だということは、想像がついたけれど。
高校時代は、デーモン小暮とか、サンプラザ中野の番組もよく聴いてました。 書き始めると、ほんとにこの話にはキリがない。 大学に入ると、さすがに夜遊びが忙しくなったためか、ひとり暮らしになったために、自由な時間が持てるようになったせいか、あまり聴かなくなったような気がします。 やっぱり、オールナイトニッポンは、あの何かイケナイことをしゃべっている放送を親に隠れてヘッドフォンで聴くというのが、醍醐味だったのかなあ。
ちなみに、午前3時からの「2部」にも、鴻上尚史さんとか、谷山浩子さんとか、かなり個性的なパーソナリティが多かったです。そういえば、谷山さんは中島みゆきさんのライバルだったような。
まったくとりとめのない話で申し訳ないのですが、このCD、ぜひ聴いてみたいと思います。でも、ヘビーリスナーとしては、名曲よりトーク中心のやつをぜひ出してもらいたい。過去の放送のネット配信とか、どうでしょうか? 今度は、各パーソナリティが、「スウィ−ト・ビター・サンバ」に乗って喋る、オープニング・トーク・セレクションを出してもらいたいなあ。
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2002年11月16日(土) ■ |
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「相手に伝えるための文章」の最低条件。 |
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「英語屋さんの虎の巻」(浦出善文著・集英社新書)
(筆者が、実務に使う英文を書くにあたって、大切なこととして指摘していること)
【自分で書いた英文を教養のあるネイティブスピーカーに見せると、そういった細かな問題はともかく、次のような問題点を指摘されることがある。
(1)文章全体の論理が一貫していない。文章に結論がない。 (2)どういう意味で使っているのか、わからない言葉がある。 (3)主述関係がよくわからない。代名詞が何を指しているのか、よくわからない。 (4)冗長な言葉や無意味でムダな表現がある。
こういう根本的な問題にひとつひとつ気づいて、自分が書く英文を改善していける人こそ、上手な英語の書き手になることができる。】
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この本のなかでは、英文を書くにあたっての注意点として書かれていることなのですが、この内容って、日本語で何かを伝えるための文章を書く際にも、最低限の基本的なことだと思うのです。 同じ人間が使う言葉である以上、相手に伝えるための技法には、日本語にも英語にも共通した部分があるはず。 僕は、自分でもこうやって文章を書きますし、他の人が書かれたWEB日記を読ませていただく機会も多いのですが、他人に読んでもらうことを想定しているはずの文章なのに、ちょっとこれは…と思うようなものに出くわすことがあるのも、また事実。 自分の書いたものを久しぶりに読み返すと、「これってどういう意味?」と自分でも意味不明な表現があったりもして。 もちろん、他人に読まれることを想定していないものや表現上の技術として、あえてこのような注意点を無視しているものについては、別の話なんですが。 どうして自分の考えをわかってくれないんだろう?と思い悩む前に、まず、相手に伝わる書き方ができているかということをもう一度よく考えてみる必要があるのでしょうね。
まあ、実際に人の心を動かすのは「書き方の技術」よりも書こうとする内容だったり、書き手の気持ちであることは、間違いないとは思うけれども。
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2002年11月15日(金) ■ |
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日本と韓国と北朝鮮と悲劇の金メダリスト。 |
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西日本新聞の記事より
【日本の植民地時代の一九三六年のベルリン五輪で「日本代表選手」としてマラソン競技に出場して優勝した孫基禎(ソン・ギジョン)氏(90)が十五日未明、呼吸不全のためソウル市内の病院で死去した。肺炎などで入院していた。
現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の新義州生まれ。同五輪では2時間29分19秒の五輪最高を出した。自伝「ああ月桂冠に涙」の中では「私を待ち受けていたのは意外にも、果てしない挫折感だった」と記すなど、日韓の不幸な歴史が生んだ悲劇の英雄だった。
この快挙を報道した東亜日報は、孫選手の胸の日の丸を黒く塗りつぶした写真を掲載し、朝鮮総督府から十カ月間の発行停止処分を受けた。
<日韓の陸上界に貢献>
君原健二氏(1968年メキシコ五輪男子マラソン銀メダリスト)の話 日韓両国の陸上界に貢献された。84年のロサンゼルス五輪のときに、現地で男子マラソンを一緒に見た。瀬古選手がレース途中で遅れ、残念がっていらっしゃったのをよく覚えている。日本の選手にも声援を送られていたのはうれしかった。(共同)
ダブルの国籍で走る
早大競走部OBで映画監督の篠田正浩氏の話 ベルリン五輪は小学生のときに(映画で)見た。彼が日の丸のワッペンをつけて走って、メーンポールに初めて日の丸が上がった。彼はダブルの国籍を持って走ったと思う。(日本の代表であると同時に)マインドは朝鮮を代表して走った。日本と朝鮮の現代的なシンボルを担い続けてきたと思う。(共同)】
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もうひとつ、「言葉のレッスン」(柳美里著・角川文庫)より。
(柳さんの祖父は、孫さんとタイムを競ったこともある長距離の選手)
【ディレクターは、この番組は(韓国)国内で放送するのだから韓国語でしゃべるようにと指示を出し、私も国民的英雄の孫さんに日本語を使わせるわけにはいかないので、「通訳の人もいますかしだいじょうぶです」といったのだが、彼は「あんたは日本語しか話せない。梁(柳さんの祖父)の孫と通訳をあいだにして話すわけにはいかない」と頑として受けつけなかった。 ほんとうは公式の場で日本語をしゃべるのは極めて不謹慎なことである。私は二十年前に死んだ祖父の話を聴くように孫氏の話に耳を傾けた。】
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90歳という年齢は、人生が終わる時期として、けっして早いとはいえないでしょう。 僕は後に引用した柳さんの文章を先日読んでいたものですから、孫さんの訃報、いろいろと考えることがありました。 先に引用した新聞記事では、「孫さんは、日本と朝鮮の両方を代表して走った」というような、いわゆるキレイゴトで語られているのですが、実際は、敵の国の代表として走らなければならない苦悩にひどくさいなまれていたようです。 「ダブルの国籍を持って走った」のではなく、彼自身の心のなかでは「どちらの国籍も持てなかった」のではないかなあ。 孫さんのことを「国と国との争いに巻き込まれた悲劇のランナー」としてだけ語るのは、簡単なこと。でも、柳さんは日本という国や日本語に嫌悪感を示しながらも、友人のマゴにあたる柳さんには、直接話をするために日本語で語りかけています。
孫さんは、結局は走ることが好きな人、ただそれだけだったのかもしれない、僕はそう思います。自分の走る意義を失わせた日本のことがキライでも、ランナーのことは、たぶん国籍に関係なく世界中どこの国でも、心から応援していたのではないでしょうか。 だいたい、ほんとに心から「こんな状況なら、走りたくない!」と思いながら走っても、金メダルが獲れるとは思えませんし。 国を代表して戦うということは、いったいどういうことなんでしょうか? オリンピックが盛り上がるのは、こういう国と国との代理戦争的な面が深くかかわっているのでしょう。 その盛り上がりから生み出される利益によって生計を立てている選手も、たくさんいるのもまた現代では常識というもの。
どこの国の代表であっても、彼がベルリンオリンピックの男子マラソンの金メダリストであるという事実は変わりません。でも、「単に走ることが好きな金メダリスト」が「悲劇の金メダリスト」になってしまった。 もし天国に国籍が関係なければ、彼は自分の偉業を心から自慢できているのかなあ。
それにしても、「公式の場で日本語をしゃべるのは極めて不謹慎なこと」という記載に、あらためて思ったこと。 僕たちは、「北」の非道にばかり目を向けているけれど、「南」とだって、完全に理解しあえているわけじゃない。 それは、日本にばかり原因があることではないとしても、きちんと認識しておかなくてはいけない、悲しい現実。
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2002年11月14日(木) ■ |
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「寅さん」になってしまった男。 |
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「言葉のレッスン」(柳美里著・角川文庫)より。
(けっして私生活を明かそうとしなかった俳優、渥美清のドキュメンタリーの内容)
【「男はつらいよ」の撮影現場で、サインを求めるファンが渥美清の周りに群がり歓声をあげた。しかし彼は眉をひそめたまま車に乗り込んだ。 渥美清は、「スーパーマン」役の俳優が街を歩いていたら、子どもたちに「とべ!とべ!」といわれたというエピソードを話し、「スーパーマンが地に足をつけてちゃだめなんだね。寅さんは一年中手を振りつづけなくちゃだめなんだね。」スーパーマンは針金で吊られて空をとぶのにね…」としんとした口調で語った。
(中略)
渥美清は、「役者は私生活などなにも知られないほうがいい。ほんとうは年齢だって明らかにしたくない」と語った。】
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スターの憂鬱。渥美清さんは、結局亡くなるまで自分の私生活を公開されることはありませんでした。昔からの知り合いも、彼の家族のことを知っている人は少なかったそうです。 僕たちは、渥美清=寅さん、というイメージで見てしまいがちなのですが、やっぱり、役としての寅さんと人間・渥美清は別人。 たぶん、渥美さんは、一度は自分を寅さんのイメージに近づけようとすごく努力されたんじゃないでしょうか?でも、あまりに役のイメージが強くなってしまい、役と同じ人間でいようとして自我を失ってしまうよりは、自分の私生活を隠すことによって、役のイメージも渥美清としての心のバランスも守ろうとしたんでしょうね。 渥美さんは「スーパーマンが地に足をつけてちゃだめなんだね」と言って、観客の役柄と人格の同一化に反発しながらも、結局、地に足をつけているところをみせて「自分はスーパーマンじゃない!」と言うこともできなかったのでしょう。 寅さんはあくまでも演じている役で、自分と同一ではないと叫びながらも、役のイメージを壊すこともできない役者という仕事の厳しさ。 野球選手は夢を与える仕事だから、プライベートでもファンのサインにすべて応じなければならないのか?とか、看護師だから、勤務時間外でもお年寄りにやさしくしなければいけないのか?なんて考えると、あまりに彼らがかわいそうな気がします。
一般的に、みんなが興味が持てない人は自分のことを少しでも知ってもらいたいと願い、みんなが興味を持っている人は自分のことは放っといて欲しいと願う。
渥美さんの嘆きは「選ばれた人間の恍惚と不安」なのかもしれませんが。
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2002年11月13日(水) ■ |
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「ゴジラ vs ガメラ」って、観たいような観たくないような… |
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夕刊フジの記事より。
【角川書店が7月に買収した映画会社・大映が今月、「(株)角川大映映画」としてスタート。角川書店会長兼CEOの角川歴彦氏(58)が会長、キネマ旬報社長の黒井和男氏(65)が社長に就任した。黒井社長は夕刊フジの取材に「年間2−3本の大作づくり」を宣言、すでに旧大映のヒット作「大魔神」のリメーク版や東宝との合作による「ゴジラvsガメラ」の製作を検討していることを明かした。
黒井社長はいう。 「永田大映、徳間大映を踏襲しながら映像制作を積極的に推進。特に、徳間社長の念願だった『大魔神』や、東宝さんのゴジラと大映のガメラを戦わせる大スペクタクル映画を検討している」】
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対決!「ゴジラvsガメラ」。日本特撮映画界の2大ヒーローの対決って、ぜひ観てみたいです。 と、いいたいところなのですが… 中学校のころ、僕は「怪盗ルパン」のシリーズにはまって(ルパン3世じゃないです。もちろん、3世もキライじゃないですが)、学校の図書館でほぼ全部借りて読みました。 ホームズや少年探偵団シリーズよりも、ルパンのほうがツボにはまってたんですよね。 それで、そのルパンシリーズの中に「対決!ルパン対ホームズ」というのがあったのです。ちなみに作者はルパンシリーズを書いていた人。 その作品について、詳細はもう覚えていないのですが、記憶の中では「ホームズがルパンのトリックをあばいて、事件は解決するのですが、ルパンは華麗に逃げて、ホームズに『また会おう、ハハハハハ!』と捨て台詞を残して去っていく」という感じだったのだと思うのです。
他にも、昔のアニメ映画って、「マジンガーZとグレートマジンガーの対決もの」とかもよくありましたよね。これは対決というより、競演という感じだったと思うのですが。
結局、こういう看板スター同士の「対決」って、スポーツの試合とかならともかく、シナリオのある世界では、プロレス的に言えば「両者リングアウト」的な結末にならざるをえないことが多いんですよね。 もし「ゴジラvsガメラ」で、ゴジラが一方的にガメラを倒したりしたら、ガメラファンは黙っちゃいないでしょう、逆もまた然り。
「ルパンvsホームズ」は、読み手からすると「苦しいなあ、この展開…」という感じの作品だったので、やっぱり2大スターの対決って、両方を立てなければならないという制約が厳しくて、期待が大きいだけにかえって失望する可能性が高い気がします。
直接対決じゃなくて、空手の瓦割りみたいな「街破壊競争」とかなら、面白くなるかもしれませんが。
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2002年11月12日(火) ■ |
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石原都知事、北朝鮮と戦争したければ、独りでやってください! |
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時事通信の記事より。
【石原慎太郎東京都知事は10日午前、テレビ朝日の番組で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に残る拉致被害者の家族の帰国問題に関し、「(家族の)1人でも北朝鮮が迫害するなり、殺したりしたら、そういう国と日本は堂々と戦争したっていいと思う」と述べた。】
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このコメントに対して、マスメディアは「『北朝鮮と戦争してもいい』と石原都知事が発言した」というふうに報道しているようです。まあ、言葉の一部を抜き取れば、確かにそうなんですけどね。まあ、あくまでも「家族の1人でも迫害するようなら」という外交上のブラフだと思うのですが。
それにしても、石原都知事のこの発言を聞いて、ひとりの日本人、30歳男性として考えたことは2つあります。 ひとつめは、戦争になっても、石原都知事は戦場に行かなくていいだろうから、勝手なもんだなあ、ということ。実際戦争になれば、まず自衛隊員が戦闘行為にたずさわることになるでしょうが、それで戦闘員が不足すれば成人男子(まあ、今では「男子」とは限らないですね)が動員されるでしょう。でも、70歳近い知事が戦場に出られることはないでしょうからね。 だいたい、戦争を煽る人は、自分が一兵卒にならなくていい人。
そして2つめは、石原都知事は、北朝鮮をなめている、という印象。 たとえば、拉致をした国がアメリカだったら?中国だったら? いくら石原都知事でも「そんな国とは、戦争してもいい」と言えるでしょうか? たぶん、そんなに簡単に「戦争」なんて言えなかったはず。 おそらく、大部分の日本人の予想としては、仮に戦争になったとしても今の北朝鮮の国力なら、ワンサイドゲームで日本の勝ち、というところではないでしょうか。 アメリカのイラク攻撃についてもいえることなのですが、人間というのは自分が優位に立っていると思うと、けっこう過激な方向に走りがちなようで。 しかし、実際に戦争となると勝っても犠牲は避けられませんし、北朝鮮と今、戦争をして勝つことにより日本が得られるものって、ほとんど無いような気がするのですが。 それに、そんな「わけのわからない、怖い国」と戦争なんてしたら、日本だってどうなるかわかりませんよ。大規模な戦闘で物量の差を生かして勝ったとしても、ゲリラ戦や科学兵器によるテロにうったえられれば、日本の犠牲だってただならぬものになるでしょう。 相手は、大部分が洗脳された人たちだから、そう簡単には屈服しないはず。
昔、「人ひとりの命は地球より重い」と言った人がいました。 その一方、ロシアの人質事件のように、500人死ぬより100人で済んでよかったじゃないか、という理屈があるのもまた事実。 たかが人ひとりのことと言うつもりはありませんが、犠牲になる人が出るのであれば、その数はより少ないほうが良いというのは間違っているでしょうか? いきなり北朝鮮と戦争なんていうのは、あまりにアメリカ的な強者の論理に毒されている気がしませんか? 「そんな国に、援助する必要があるのかどうか」とか「国交を回復する必要があるのかどうか」というところからの議論が妥当なのではないかなあ そう簡単に、「戦争」なんて指向するべきじゃない。
僕だって、自分の愛する人が危険にさらされそうになれば、戦うことはやむなし、とは思います。平和主義だから、何をされても無抵抗なんて気はさらさらない。 でも、相手が「悪い国」だからとか「自分たちより弱い(はずの)国だから」とかいう理由でいきなり「戦争してやる」なんていうのは、あまりに短絡的な思考なのではないかと。 「民衆を危険にさらさずに、民衆の利益を守る」のが、政治家の仕事なんじゃないでしょうか、石原さん。 それにしても、不景気・平和憲法・ファシズム賛美の傾向。 今の日本、ヒトラー出現前のドイツに似ているような気がします。 ちょっと怖い。
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2002年11月11日(月) ■ |
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「また、どうぞ!」と言う店の矛盾点。 |
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「居酒屋の道」(石井誠二著・小学館文庫)より抜粋。
【「八百八町の凡事徹底事項」の一つに、お客さんがお帰りになる際の見送りの徹底がある。お客さんが店を出るとき、ただレジの前だけで応対するのは失礼であると考える。お客さんへの感謝を表すには扉を開け、外まで出て、送り出さなければならない。 そのときお客さんにかける言葉は、「おやすみなさい」「お足もとに気をつけて」などで、「また、どうぞ!」とは言わない。その言葉はあくまでも、「またきてください」という店の立場であって、お客さんの立場になっていないからだ。】
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こういう細かいところへの気配りって、なかなかできないことだと思います。 僕は、サービス業のなかでも「また来てね」と言ってはならない職場である「病院」に勤めているので、自分でこの言葉を発する矛盾を感じたことはないのですが(だって、病院で帰るときに「またの御来院をお待ちしております!」なんて言われたら、頭にくるでしょう?)外食の帰りの際などは、こういう声をかけられることって、よくありますよね。
客として、この「またよろしくお願いします」に対して感じることは、いい店だったら「また来るよ」だし、気に入らなければ「もう来ないよ」なのです。もちろん、後者を実際に口に出すことはありませんが。 しかし、確かにもう来たくないと思わせるような、概して流行っていない店のほうが、この「またどうぞ」を言う店が多いような気がするんですよね。 たぶん、切実にまた来て欲しいという心のあらわれなんでしょうが、「またどうぞ」と言われたからと言って、その店に対する印象というのは、変わらないと思うのです。 来る人は来るし、来ない人は来ない。
あまりに馴れ馴れしい言葉をかけられるとかえって嫌な気分になることはありますが、「おやすみなさい」「足元に気をつけて」というのは、確かに客を気遣った言葉。 この文章で、いままで「またどうぞ」と言われるたびに感じていた違和感の正体が、明確になったような気がします。 ただ、僕としては「おやすみなさい」とか言われるのは、ちょっと干渉されているような、濃すぎるような印象があるので、シンプルに「ありがとうございました、お気をつけて」くらいが、一番いいと思うんだけどなあ。
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2002年11月10日(日) ■ |
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強い女性を好む男性の割合。 |
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お昼のFMの番組より。
【強い女性を好む男性の割合・53%、 かよわい女性を好む男性の割合・47%】
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5分くらいの番組間のショート・プログラムの中での言葉。 司会の田中麗奈さんは、この統計について「やっぱり、女性が強い時代になってきたってことなんでしょうか。肝心なところでは、男性に引っ張ってほしいですけど」とコメントしていましたが。
この統計、どういう層の人に、どういう聞き方をしたのか、今ひとつ釈然としない部分はあるのですが、なるほどなあ、と思う結果でもあります。
ところで、女性が強くなった、とよく言われますが、それでは「強い女性」とは、いったいどういう女性のことなのか?
あまりに抽象的な概念すぎて、答えにくいなあ。これを「気が強い女性」と解釈するべきなのか、「男に依存しない、しっかりものの女性」ととるべきなのか。仮に「気が強い女性」と「おとなしく、おしとやかな女性」だったら、こういう結果になるのでしょうか。「しっかりものの女性」と「だらしない女性」だったら? 現代は、「女性が強くなった」と言われますが、確かに女性が自分を主張しやすい時代にはなってきていると思います。 でも、男性の大部分は、昔から強い女性が好きだったんじゃないかなあ。 もちろん、気が強いだけという意味じゃなくて、しっかり者で、いざというときに頼りになるという意味で。 実際、日頃強気なことを言っている人が意外と逆境に弱かったり、おとなしそうに見える人がいざというときに意外な粘りを発揮したりすることは、よくあることですから。 「強い男」を自称しているヤツが、ただ粗暴で強気なだけのことがあるのと同様に「強い女」というのが、わがままで自己主張が強いだけということもけっこうあるし。 「強さ」っていうのは、必ずしも一定の型に嵌ったものではないですよね。
ただ、理想と現実というのはまったく別物で、清楚でおとなしい女性が好きという男の彼女がものすごく気が強かったり、もうちょっと頼れる人がいいなあ、といつも言いながらいつもフラフラしている男と付き合っている女性が多いのも、よくある話ではあるんですけど。
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2002年11月09日(土) ■ |
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カルロス・ゴーンのサッカー教室。 |
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JALの機内誌「winds」11月号の記事より。
日産自動車の現社長兼CEO(最高経営責任者)カルロス・ゴーン氏へのインタビュー「冷静と情熱の男」より抜粋。
【以前、あるテレビ番組中で、ラフな姿のゴーン氏が息子さんとサッカーをしている姿が放送された。その時、「ボールをうまく蹴ることができない」とすねている息子さんに、「テクニックより大切なことは、パートナーをしっかり見ることだよ」と諭していたゴーン氏。それは、単なる父親の優しいなぐさめではなかった。厳しい激励ともまた違う。そんなワンシーンからも、企業経営と家庭経営の基本は同じだ、という氏ならではの理念が見える。】
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企業経営と家庭経営の理念云々のところは、正直なところ、僕はあんまり感じ取れなかったのですが。
この場合の「パートナー」といういのが、サッカーボールのことなのか、一緒にプレイしている仲間のことなのか、ここでは前者のこととして話をすすめていきますね。 何かをしようとするとき、たとえば、誰かを好きになって、それを相手に伝えたいときって、大概、いろんな手練手管を考えるものですよね。でも、なかなか難しい。最後には、「どうして自分はこんなに想っているのに、わかってくれないんだ!」と逆ギレしてみたり。 人間、何かを一生懸命やろうとしてかえって周りが見えなくなってしまうことって、けっこうありますよね。 野球をやったことがある人ならわかっていただけると思うのですが、キャッチボールのときに巧く相手のところにストライクを投げるには、カッコいいピッチングフォームよりも、むしろ相手の胸元をしっかり見て投げることの方が大事なのです。 ボーリングなんかもそうで、まっすぐ投げられないのは「投げ方が悪い」ことよりもピンをしっかり見ていないため、ということが多い。 それでも、実際にやっている人たちは、自分の「型」が悪いということにこだわって、「型」を修正する練習ばかりして結局うまくいかないことが多い。 いくら「型」としてのテクニックを磨いたとしても、対象物をしっかり把握していないと意味がない、ということをゴーンさんは言いたかったのだと思います。 それに、チームプレイの場合などは、どんなに中村俊介選手が素晴らしいテクニックを持っていたとしても、彼の凄いパスを小学生チームの中で繰り出しても、相手はついていけなくて、そのテクニックは無意味なものとなってしまうでしょうし。 「豪腕」と称されるゴーン社長。世間的には「豪腕」というのは、人の意見に耳を貸さない、独善的な人というイメージが持たれがちです。 でも、あくまでも相手を知った上だからこそ、劇的な改革は可能なのだなあ、ということをあらためて思い知らされました。 いくら自分ひとりで盛り上がってみたところで、世の中うまくやっていけるってものじゃない。 「自分の考えが伝わらない」と嘆く前に、伝えたい相手のことをきちんと知り、その相手に合わせた伝え方を工夫することって、コミュニケーションのポイントなのかもしれませんね。 誰にでも完璧に理解してもらえるオールマイティなやり方や伝え方なんて、たぶん存在しないでしょうから。
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2002年11月08日(金) ■ |
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電波少年に踊らされる人々。 |
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夕刊フジの記事より。
【民主党の鳩山由紀夫代表の講演会に、日本テレビのバラエティー番組「電波少年に毛が生えた」のコーラス隊が乱入し、同氏を揶揄(やゆ)する替え歌を歌った問題で、日本テレビは8日までに、問題シーンの放映中止を決めた。だが、TBSは7日、午後のワイドショー「ジャスト」で、このシーンをしっかり放送。他局の“便乗”に、鳩山氏も踏んだり蹴ったりか。
ジャストは、一連の騒動を紹介するコーナーで、鳩山氏の講演会を自社で取材したビデオテープを放送。
この中には、日本テレビが仕込んだ20人ほどのママさんコーラス隊が「山口さんちのつとむくん」のメロディーに合わせて、「鳩山さんちの由紀夫くん、このごろ元気ないねぇ〜。人気ないねぇ〜」と歌うシーンが含まれていた。
日本テレビのコーラス隊問題については、講演会を主催した明治学院大学と民主党が抗議し、鳩山氏も「視聴率稼ぎのために、会場および学生を混乱に陥れた行為は許し難い」と、自身のHPで怒りを露にしていた。
このため、日本テレビは7日、「取材対象に不快感を与えた」と非を認め、放送中止を決定していた。】
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僕の知り合いの女の子は、鳩山由紀夫さんに実際に会ったことがあるそうです。 彼女によると「すごくオーラが出てて、やっぱり普通の人とは違うなあ、と思った」とのことなのですが… まあ、何にでもすぐ影響されやすい女性ではあったんですけどね。 それにしても、鳩山さんの株は最近下がりっぱなし。この電波少年の話を聞いたときも、僕の第一印象は「なめられとるなあ、鳩山さん」という気持ち。もし小泉さんなら、怒らせたら怖そうですし、金正日なら、コーラス隊は何故か交通事故に遭ったり、ガス中毒になってしまうこもしれませんし。 僕は「電波少年」が俗悪番組とか、やらせだとか声高に叫ぶつもりはいまさらないです。たぶん、視聴者の大部分も「ドキュメンタリー風やらせエンターテイメント」だと認識していると思います(もし、まだ信じている人がいたらごめんなさい)。 このコーラス隊事件なんか、逆に「原点に帰って、実際にアポなし突撃をやるようになったのか」と感慨深いくらいでしたから。 そういえば、前に刑事に扮して暴行事件の犯人の聞き込みにあたるという企画で、ほんとうの被害者に聞き込みをしてしまうという不祥事もありました。 僕は芸人がいくらヤラセをやっても、あんまり問題すべきことじゃないと思うのです。 、この番組に出演している芸人というのは、リスクは承知の上で名を上げようとしている人たちですし、死なない程度にであっても、それなりに苦労しているということは、画面からも伝わってきますから。 鳩山さんは「公人」だろうというのが日本テレビの見解なのかもしれませんが、一人の人間として、自分が話していたあとにこんなことをされたら、怒るのが当然。
しかし、考えようによっては、「これ、もともと放送するつもりがあったのかなあ?」とも思えるのです。だって、このネタ自体、鳩山さんが怒ることは十分予測できたでしょうし、放送されて面白いとも思えません。 本当は、放送中止になることまで頭に入れて、「電波少年復活!」というアピールをしたかっただけなのではないかなあ、それはちょっと勘繰りすぎ?
それにしても、TBS。この局も腐ってますよね、本当に。 ある意味、今回の件では日本テレビ以上に腐ってるかも。
マスコミはいつも「報道の自由」というのを声高に主張していますが、誰かが日本テレビの電波を乗っ取って「日本テレビ死ね死ねの歌」を流しても怒らないんでしょうか。 「視聴者の知る権利」「報道の自由」「表現の自由」というのは、立派な言葉だとは思うのですが、マスメディアだからといって、自分勝手な「自由」を主張されては困りもの。 確かに報道人にはモラルが必要ですが、メディアの人たちは、モラルがあるからテレビ局や新聞社に入れたわけじゃなくて、成績が良かったからとか、コネがあったから入れたのです。 どうして、医者の善意を信じられない人が、マスコミの善意を信じられるのか? 僕は、ずっとずっと不思議でならないのです。
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2002年11月07日(木) ■ |
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日記に悪口を書くということ。 |
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「ありがとうございません」(檀ふみ著・幻冬舎文庫)より抜粋。
【だんだんと日記のつけかたを覚えた。まず、反省はしない。あとで読んで恥ずかしくなりそうなことも努めて書かない。人のことを書く。なるべく身近な人がしたこと、言ったこと。できれば悪口がいい。 すると、がぜん日記が生彩を放ち始める。ひとくちに悪口というが、悪口を書くのは結構難しい。細かな人間観察が必要になる。それに、あとになって浮き彫りにされるのは、悪口を書かれたほうではなくて、書いたほうの精神状態なのである。】
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これは、檀ふみさんの「紙に書く(要するに、他人には公開しないことが原則の)日記論」です。でも、意外とこれはWEB日記にもあてはまっているような気がします。 檀さんもエッセイなどで文章を人目にさらすことに慣れている方なので、個人的な日記でも「他人の目にふれる」ということを意識せずにはいられないのかもしれませんが。 僕も日常日記を書いていて、その中にはもちろん他人の悪口も出てきます。それをあとで読み返してみたときに思い出すことって、「腹を立てた対象」のことではなくって、むしろ「そのようなことに腹を立てていた当時の自分」だったりするのです。 自分の下についていた研修医の悪口を読み返すと、その本人に対する怒りが再燃するというよりは、今から考えたら別にたいしたことではないことに激怒していた自分の姿に、むしろ気恥ずかしさを感じることが多いのです。 「どうして、そんなことに自分はこんなに腹を立てていたんだろう?」 「もうちょっときちんとコミュニケーションをとっておけば、こんな失敗はしなかったんじゃないだろうか?」 この文章にあるように、悪口を書くというのは簡単そうで非常に難しいこと。 他人を罵倒している日記を読んだときに、書き手への共感よりはむしろ「この人は、どうしてこんなことに怒っているんだろう?」とか「それは、お前(書き手)の方が悪いんじゃないか?」というような反感をおぼえることのほうが多いような気がするのです。 悪口のまったくない日記は、あんまり面白くない(他人のラブラブハッピー日記なんて、読まないでも満腹って感じ)。 でも、他人への悪口は、自分への悪口にもなってしまう諸刃の剣であることをお忘れなく。 まあ、悪口しか書けない日記や悪口すら書けない日記では、どっちもどっちという感じですが。 まったく塩気のない料理も、しょっぱいだけの料理も、どちらも美味しくないのと同様で。
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一週間ぶりの更新。忘れられてるかも…
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