闇鍋雑記帳
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1970年07月15日(水)

11/7

今日は菩提寺であの子の供養をして貰うことになりました。
戒名はありません。
水子には付ける必要は無いそうです。
ただ、○○家嬰児という名で、お経を読み上げて貰いました。
今まで、体も残らなかった子たちの代表です。

お寺に行く前に、あの子の骨を少し、義父の骨壺に移しました。
「これで、おじいちゃんと一緒に、本山に行けるわね」と、義母もニコニコして言ってくれました。
「おじいちゃんがお守りをしてくれるから、ちょうど良いわ。」とも。

お骨は案外沢山残っていて、爪楊枝ほどもない細い骨が結構沢山ありました。
骨盤も綺麗に残っていて、夫は「結構骨が残っているだろ?カルシウムが沢山体に取り込まれていたんだ。かあちゃんが、きちんと栄養をとっていた証拠だよ」と、褒めてくれました。

正直、こんなに沢山骨があるとは思っていなかったので、わたくしはとても嬉しかったのです。
ちゃんとこの子が存在していた証拠があって、嬉しかったのです。

お経を読んでいただいた後、和尚様の講話がありました。
この世に、親を悲しませようと思って生まれた子は、一人もいない。
でも、図らずしも、この世の光を見ずに産まれてしまった子たちは、何も分からないままいるので、お経を上げてやり、仏様のみ許に遣わせる。
ただ、子供たち自身には罪は全く無いのだけれど、「親を悲しませた罪」が重くて天国に行けないので、賽の河原で地蔵菩薩に見守られて、次に生まれ変わるのを順番に待っている。
だから、水子の霊が祟りを起こすなどと言うことは一切無いので、心配しなくても宜しい。
という事でした。
仏教というものは、何と合理的に考えられているのかという事を、皆で感心しました。

賽の河原で石を積んで、鬼が壊していく・・・という考え方も無いようです。
真宗高田派の教えでは、少なくともそうでない。あくまで、嬰児たちの一時的な魂の避難場所、生まれ変わるための救済の場所であるようです。
ただ、どの子も、どの家に生まれるかは、それは分からない。自分たちの家に再び来るのか、また、別の家の子として生まれ変わるのか、それは誰にも分からないという事でした。

合理的で良い教えだねと、夫。
残された人間に都合が良い教えだと言われればそれまでかもしれませんが、本来宗教というのは、そのように人の心を救済し、不条理感に苛まれた心に、合理的に折り合いを付けるためのものだとわたくしは思っていますので、それはそれで有りではないかと思っています。
事実、わたくしはこの教えのお陰で、ずいぶんと心が救われております。
宗教に、人の心の拠り所を求めるのは悪いことでは無いと思います。
ただ、それに付け込んで、悪者を作って決めつけ、他の宗教や宗派を攻撃したり、救済を求める人の心に傷を与えたり、騙したりして、生活を破壊していくという行為を教義とし、それを「宗教」と呼ぶ事が許せないのです。
また、そうでないと確立できない宗教というものは間違っていると思うのです。

人は常に迷いの中で生きています。わたくしもそうです。
ですが、ちゃんとした宗教は、信者を増やすために勧誘なんかしなくても、ちゃんと求める人が来るのです。
少なくとも、わたくしはそう思っています。

今日で、一区切り。
お骨も、ご先祖様と一緒のお墓に入りました。
皆のお骨の中に、赤ちゃんのお骨が混じっていくのを見て、これで終わったと思いました。
これからは、彼もご先祖様の一人として、家を守ってくれることになるでしょう。
ですが、戒名も付かないので、過去帳には載りません。悲しいけれど、これは嬰児の宿命かもしれません。
でも、わたくしが覚えているので良いのです。
今までの子たちも、全部覚えています。大丈夫です。忘れません。
義母が月2回、全部の親族のお墓を廻って面倒を見てくれております。
位牌などもありませんが、ちゃんと本山にも行けて永代供養もしてくれますし、これで良いのです。

義母が、赤ちゃんと義父が見守ってくれるようにと、義父の形見分け兼お守りとして、一粒ダイヤの素敵なリングをプレゼントしてくれました。
これを見て、あの子や、優しかった義父が見守ってくれると思う事にします。
今頃は、地蔵菩薩の許で、ペネロペの縫いぐるみや、しんかい6500のおもちゃで遊んでいることでしょう。
次に産まれて行くところは、どこかは分かりませんが、幸せになってくれることを切に願います。

南無阿弥陀仏。合掌。


1970年07月14日(火)

10/24

あれから一ヶ月以上が経ちました。

思い出すのは、あの子の姿ばかり。

だらんと伸びた手足。

つんと尖った可愛らしい踵。

透き通った肉色の皮膚。

僅かに開いた口。

閉じた瞳。

ニチニチソウの花に囲まれた、小さなからだ・・・。

もう、骨だけになっているのに、あの姿が脳裏に焼き付いています。

思い出して涙する事は殆ど無くなってきましたが、本人はそうと思っていなくても、精神的なショックは大きかったようです。

まだ、不眠に悩まされています。

ある程度は寝られても、平均睡眠時間は、日に3〜4時間。

眠くて頭が働かないのですが、日々の事はしなくてはなりません。

繁雑な毎日に、悲しみが埋もれていってしまっている気がします。

でも、それで良いのでしょう。

時間が全てを解決してくれているのだから。

1日でも早く立ち直らなければ。

母親が太陽でなければ、家の中が暗くなるばかり。

来月、菩提寺で供養して貰った後、家のお墓に一緒に入れて貰う事になりました。

これでいいのです。

割り切れない気持ちがあっても、これでいいと思わなくては。


1970年07月13日(月)

10/2

あの日から、もう少しで一月経とうとしています。

義母の配慮で、お骨納めは延期となり、あの子のお骨はまだ家にあります。

そして、お水とお線香だけは毎日欠かしていません。


そろそろ5ヶ月に入っていたのにな。

初期母親教室ももう終わっていて、そろそろマタニティの洋服も買い足ししなくちゃ・・・なんて考えている頃だったでしょう。

でも、もう赤ちゃんはいない。

わたくしのお腹の中で育つ事も無いんです。

プニ坊の時に使っていて、新品のまま余っていたおむつ外しトレーニングパッドや、お尻拭き用の脱脂綿を、1月に出産予定のお友達に譲りました。

彼女は、「次の子の為に、持っていた方が良いんじゃないの?」と、心配してくれていますが、もう、予定はありません。

彼女には「一度リセットしたい」とだけ伝えました。

それでも、貰ってくれたのはとても有難い事でした。


そして、以前のマタニティ衣料を全て処分しました。

出産時に使用する、マタニティパジャマも、冬用、夏用のマタニティ衣料も。

本当は何もかも捨てたいのです。

哺乳瓶も、布おむつも。

でも、これらは全部夫の実家に預かって貰っているのです。

まだ、実家の方に行っていないので、その処分は出来ません。

きっと、プニ坊の子供に使うよう言われると思いますが・・・。


不眠もずっと続いていましたが、それが原因で、体力が落ちて風邪を引きました。

そのお陰で、ある程度眠れるようになったのは、皮肉なものです。

1日平均2〜3時間の睡眠で、産後と同じような条件の身体で、外せない用事で出歩かなくてはいけなかったので、そりゃあ体力も落ちるわという事です。

女はいい気になって寝ていられないものなのですよ。


でも、毎日あの子の遺骨を抱いて泣く事は、少なくなってきました。

看護師の言葉が思い出されて、泣く事も少なくなってきました。

時間が薬とは、良く言ったものです。

夫実家の方の、真宗高田派の冊子に依りますと、「自分(私)だけが、思いに囚われているのです。」という下りがあります。

確かにな。と、納得出来ます。

子の死に悲しみ、その思いに囚われているのは、わたくしだけ。

亡くなった人に思いを馳せて涙するのも、わたくしだけ。

自分の心を制御出来なくて、混乱しているのも、わたくしだけ。

人の死は、世界中で日々何万とあるのに。

我の死も、誰の死も、関係ない人にとっては、全く何ともないものなのに。

割り切れない思いで、悲しんでいても、明日はない。

明日が来ても、未来は見えない。

生き仏(つまり家族)を大事にしていく事が、供養にもなるのでしょう。

わたくしは、明日に目を向けなければならないのです。


1970年07月12日(日)

9/22

20日から、プニプニが豊橋に行っています。
21日は6年ぶりに夫とデートしました。

イケアに行って、友人や後輩の出産祝い・・・でもないのですが、ちょっとしたものを買い込んだり、欲しかったパッチン留めを買ったり。
そして、ハンズに行って、表札用に色々と買ったり。
新宿の台湾ラーメン屋さんに行きましたが、味が薄め。もう一振りお醤油があれば、もう少し美味しかったかなぁと思います。
名古屋で修行した方が店主だそうですが、ゆきちゃんというお店の味を、東京の人の口に合うようにアレンジしてあるとは夫の見立て。
その後、知人の喫茶店に行き、月曜店主さんのご友人を交えて、我々の世代の話で盛り上がりました。

久々に楽しかったです。

でも、駄目なんです。
寝る頃になって、どうしても眠れず、涙が止まらず。

あんなに楽しかったのに。
6年ぶりに、夫と二人きりのデートで、すごく楽しかったのに。

何で、こんなに泣けるのか。泣けて泣けて、涙が止まらないんです。
そして、眠れない。
今日は眠剤を飲んでいないので、それもあるのでしょうけれど、薬なんかに頼りたくないんです。
昼間。少しウトウトしたのですが、それも1時間くらい。
ぐっすり眠りたいのに、薬の力を頼らなくては寝られないなんて・・・。

きっと。精神科を受診した方が良いのでしょうね。
時間が薬で、それに任せるしか無いのかもしれませんが。

こんなに不安定な自分が嫌なんです。
今日はプニ坊が帰ってくると言うのに。
家庭は、母親が太陽のように輝いていないといけないというのに。
今の私は、三等星以下の輝きなのです。
肉眼で見えれば御の字という感じです。
こんなに暗くてはいけないのに。


1970年07月11日(土)

今日には今日の風が吹く

明日には明日の風が吹く


そんな言葉の通り、毎日が過ぎていきます。
18日には検診があり、まだ子宮内に出血が見られるので、出来るだけ安静にという事でした。
でもね、安静なんてできっこありません。
家の仕事は、なかなか人に任せられないんですよ。

まだ、涙が出ます。
まだ、狂ってしまいたいと思っています。
誰もいない、どこかへ行ってしまいたいと思っています。

毎日、あの子の遺骨の前で、手を合わせ、お線香を手向け、骨箱を胸に抱いては話しかけています。

人払い状態は続いていますが、何とか強がって過ごしています。
次の赤ちゃんの当てなどないのに、「次、頑張らなくちゃね。」などと言って、笑っています。
本当はもう諦めているのに、心配掛けないように言ってるだけです。
感情を吐露したら、たぶん、皆、驚いて退くでしょう。

こんなに痛い思いばかりして、望んだ子供が来てくれなくて・・・。

わたしは何回待てばいいの?

何回、こんなに悲しい思いをすれば、次の赤ちゃんが来てくれるの?

7/23、2/6、10/12、7/4、そして、9/10。

わたしは、子供たちが自分のお腹から去ってしまった日を忘れていません。
これを一生抱えて生きていくんです。
プニプニだって同じなんです。
待ち望んでいた、兄弟がいなくなった日なんです。

幸せそうな妊婦さんを見ると、羨ましいです。
何で、自分だけこんな目に遭わなくちゃならないんだろうと、小さい我に囚われてしまうのです。
もっと不幸な人なんて、たくさんいるというのに。

どうすれば、自分の気が済むのだろう。それすら分かりません。
葛藤と混乱の中、毎日を過ごしているのです。

わたくしがつわりの最中、プニ坊は、どこかに出掛けていきたくても、じっと我慢して耐えてくれました。
一生懸命、家のお手伝いをしてくれました。
赤ちゃんが来たら、自分が面倒を見るんだ、自分のおもちゃを貸してあげるんだと、何度も何度もその夢を語っていたのです。
そして、何度打ち砕かれたことでしょう。
産んであげることの出来ない自分が、本当に恨めしいのです。
子供のささやかな希望を叶えてあげられない自分が、情けないのです。
でも、もう、わたくしも限界に来ています。
もうこんな思いはたくさん。
まだ、子宮の痛みは続いています。
これを忘れられる頃には、また頑張ろうと思うことが出来るのでしょうか・・・。


1970年07月10日(金)

09.14

週が明けました。

いつも通りの月曜日がやってきました。
先週末のように、鬱々とした気分ではありませんが、やはり眠れず、午前5時半頃にようやく眠くなってきたので、2時間あまり眠りました。

午前7時少し過ぎには起きて、家族の朝食とお弁当を準備しましたが、それでも眠くなりません。
ゴミを出したり、掃除をしたり、お布団を干したり、洗濯物をしたり・・・。
日常生活は容赦がないです。

心が安まらないと、眠ることすら出来ません。
眠剤を飲んで、ようやく眠くなってくると言う体たらく。
薬に依存してはいけないと思いつつ、依存しなければ眠れません。
不規則な生活をしているので、便通もなく、お腹も張るし、おっぱいもひどく張ります。
張り止めの薬を飲んだのに、ものすごく張るのです。
おっぱいが張る度、情けなくて、辛くて、何とも言えない負の感情がこみ上げてきます。

気晴らしにピアノを弾いてみました。
エンゲルベルト・フンパーディンクの、ラスト・ワルツなどを、下手くそながら弾いてみました。
隣には、あの子の遺骨。こんな下手なのだけれど、あちらで聞いているのかしら?
童謡を弾いてみたり、色々と弾いてみました。
もしかしたら、おじいちゃんが、あの子のためにハワイアンを奏でてくれているかもしれません。
義父は、歌も上手だし、ウクレレやスチールギターを操っていたのです。
だから、きっとあの良い声で、あの子に子守歌を歌ってくれているのかもしれません。

午後2時過ぎ。
プニ坊と夫が帰ってきました。
夫は、また職場に戻っていきました。
忙しい中、これくらいしかやってやれないから・・・と、送り迎えを申し出てくれた夫。ありがとう。

夜は、久々にパンを焼きました。プレーンなロールパンです。
そして、ついでにクッキーもつくりました。
プニ坊、食べてくれるかしら?
そんな事を思いながら焼きました。

そして、パンやクッキーを焼きながら、夫と一緒に久々にテレビを見ました。
深夜の科学番組ですが、あすの特番も楽しみです。
でも、やっぱり眠れなくて、冷蔵庫にあったビールを飲んじゃいました。
薬どころか、アルコールにまで頼ってしまうなんて・・・。
かなり悪い傾向なので、これは自制しなくては。


1970年07月09日(木)

09.13

夕べは殆ど寝られませんでした。

あの子の遺骨のある寝室に行くのが嫌で、一晩ネットに依存していました。
でも、午前5時前に、もう耐えられなくなり、ようやく眠りにつきました。
7時20分頃、プニ坊が起きて来て、シンケンジャーを見に、リビングに行きました。
それからも、ずっとウトウトという感じで、プリキュアの後半くらいで、のろのろと起き上がり、食事の支度をしに行きました。

吐きそう。
気分が悪い。
頭痛い。

だけど、そんなこと言っていたら、家族の胃は満たせません。
食事の準備をして、夫の起きてくるのを待ちました。
皆で食事をしましたが、あまり食べたくありません。
暫く、洗濯物をしたり、掃除をしたりと、ごそごそと家のことをしておりましたが、夫が、午後から葉山の海に行こうと提案してくれました。

あれから、親とも電話したくないし、誰とも会いたくない。そんな人払い状態が続いているわたくしが、外に出られるだろうかと思いましたし、あまり気も進まなかったのですが、思い切って行ってみることにしました。

県立現代美術館の有料駐車場に駐車し、海岸に降りました。
低気圧が近づいているのか、ものすごい波です。
でも、天気は良く、暑いくらいで、かなりの人が波に揉まれて遊んでいました。

海岸べたを歩き、時々プニ坊に頼まれて貝を拾ったり。
それ以外は、ゆっくりと座って、辺りの景色をぼんやりと眺めながら潮騒を聞いておりました。
不思議なことに、あの子の事は全く頭の中に浮かんできませんでした。
何もかも。頭が空っぽになって、ずっと馬鹿みたいにただ海を眺めていました。
そのおかげなのか、少し気分が上昇してきた気がしました。
前向きになるには、まだまだ時間がかかりそうですが、ほんの少しでもなんとなく気分が上向いてきたのは、収穫でした。

夫にそのように伝えると、「海、良いでしょう。また来ようね。」と言ってくれました。

ありがとう。

ありがとう。

あまり気の利く人では無いけれど、不器用でも心配してくれているのはよく分かります。

家に戻って、夫と子供の寝てしまった後、あの子の骨壺の入った包みをそっと胸に抱きました。

昨日までのように、涙は出ませんでした。


1970年07月08日(水)

0912

今日はとうとう、あの子を送り出す日です。
夫が早起きして、斎場に行ってくれました。
暫くして、戻ってきたときには、小さなお骨の箱を持ってきてくれました。

少しだけ骨が残っていたそうです。

灰だけになってしまうかと思っていたのですが、残ってくれていて良かった・・・。
少しだけ親孝行をしてくれたみたいです。

義母は気を遣ってくれて、「人間、産まれてきたことに意味のないことはありません。もしかして、あの子は家の一大事を救うために、身代わりになってくれたのかもしれませんよ。」と言ってくれました。

考えてみれば、あの子が無くなった推定期間が、ちょうど夫が海外出張に行っていた頃です。
過密スケジュールで、首が回らない今月、来週にはまた航海が待っていたのです。
もしかしたら、海外出張の時に飛行機が落ちていたかもしれない。
もしかしたら、今度船に乗っていたら、何かとんでもないトラブルが起こっていたかもしれない。
そう考えると、本当に義母が言ったとおり、彼が身代わりになってくれたのかもしれません。
気持ちの折り合いの付け方かもしれませんが、昔の人はそうやって言ったものよとも言ってくれました。

今のわたくしには、どんな言葉もあまり意味がありませんが、そう考えると、やはり少し楽になる気がします。
でも、まずいことに引きこもりの症状が出始めた気がします。
とにかく、家族以外の誰とも喋りたくないのです。
完全に人払い状態になっているのです。
幸い、夫が航海をキャンセルしてくれたので、来週は子供の送り迎えをお願い出来ることになりました。
その次の週は、5連休ですから、よっぽど人に会うこともありません。
ただ、困るのがプニ坊のピアノだけ。
これだけは、何とかして連れて行かなくてはなりません。
当面の問題はこれだけです。

まだ、わたくしは、これからどうしたらいいのか分かりません。
骨壺に入ってきた愛しい子供を、この腕に抱いてやれなかった子を、今度の5連休には、義父の百箇日と共に、本山に納めに行かなくてはなりません。
まずは、体の回復を図り、自分の心のコントロールをするのが先のようです。


1970年07月07日(火)

09.11

どんなに辛く苦しい夜を迎えても、次の朝は必ずやってきます。
わたくしもそうでした。
子供と一緒にいられたら、どんなに良かったか。
後悔もしましたが、そんなことをしたら、何をしでかすか分かりません。
自分が怖いのです。

自己に棲む魔物の恐怖に打ち勝つには、無理矢理にでも断ち切るしか無いのです。
悲しいけれど、事実は事実として受け入れて行かなくてはなりません。
そんな朝を、初めて迎えました。

いつも通り時間は動いていきます。
人もいつも通り。
お腹も空くし、お手洗いにも行きたいし、お茶も飲みたいし、何もかもいつも通りなのです。

ただ一つ違うことは、もう、わたくしのお腹の中には赤ちゃんがいないこと。

それだけが違うんです。

赤ちゃんのお焚き上げは、12日の土曜午前に決まりました。
葬儀を行うわけでは無く、斎場に行き、そのまま焼いて貰うのです。
だから、もう二度と会えません。
わたくしは、自分が行くと、赤ちゃんを奪って来かねないのと、プニ坊を一人で置いておくわけには行きませんので、家に残ることになりました。

退院してすぐ、夫にお願いして、以前に2体作ったペネロペのミニ縫いぐるみのうち1体を、一緒に入れて貰えるように頼んで貰いました。
幸い、それはすぐに了承されたので、夫が持って行ってくれました。
一人で黄泉に行くあの子に、何か手作りのものを入れてやりたかったのです。
一緒に荼毘に付してやれば、あちらで遊んでくれる事でしょう。

家に戻って、ふつうの生活をしていますが、やっぱり体が追い付かずに、目眩がしてしまいました。
少し休みたいなと思いながら、寝たり起きたり。
お風呂の準備をしたり、食事を作ったり、洗濯物をしたり。
普段何気なくしている事って、こんなに大変だったのかと思うくらいです。
疲れているはずなのに、全然寝られません。
そんなものなのかもしれません。

夜になると、何だか涙が止めどなく流れてきてしまって、駄目なのです。
夜が怖いんです。
寝るのが怖い。
寝なくてはいけないのに、全然寝られないのです。


1970年07月06日(月)

一旦、赤ちゃんを預かって貰い、休んでいました。
そのうちに、葬儀屋がやってきたので、夫に話をしてもらいに行きました。
すると、看護師がやってきて、「1日くらいはこちらでお預かり出来ますよ。そしたら、まだ赤ちゃんにいつでも会うことができますが、そのまま葬儀屋さんでお預かりして貰うことも出来ます。」と言います。

わたくしは迷いました。
赤ちゃんに情がないわけではありません。
でも、あまり頻繁に会ってしまうと、別れが辛くなる。
そうしたら、わたくしはどうなるだろう。
自分が狂ってしまうかもしれない。
いや、狂ってしまった方が、どんなに楽だろう・・・。
家族の事を考えると、それだけは出来ないし避けたい。
だったら、潔く、赤ちゃんを早々に葬儀屋に引き渡した方が良い。

そう考えました。

なので、葬儀屋に引き渡すことにしました。

そして、少しお別れの時間を貰い、赤ちゃんをまた見ました。
もう、これでさようならよ。
何かをいれてあげたいけれど、何があるのかと持ち物を探すと、わたくし愛用のガーゼの手ぬぐいと、携帯のストラップがありました。
携帯のストラップは、夫の職場の道具のモチーフになっています。
なので、赤ちゃんのおもちゃにちょうど良さそうです。
分からなくても、ご先祖様が彼にきっと教えてくれる。そう思い、ストラップを外して、ひもの部分を取り、モチーフ部分をお棺に入れました。
そして、蓋を閉めて、看護師にお渡ししました。
見送りもやめました。
今、見送ると、わたくしは葬儀屋の手からお棺を奪い返し兼ねません。
「では、行きますね。」と、看護師が行ってしまうと、もう、どうにもならない気持ちがあふれてきてしまい、ものすごく泣きました。
胸が締め付けられるというよりも、心臓をそのまま雑巾絞りにされて、えぐられるような、そんな感覚です。
本当は叫びたい。
絶叫して、狂ってしまいたい。
ただただ、周囲の人を驚かせないよう、声を殺して、泣いて泣いて。
暫くして、夫が戻ってきました。
その頃にはもう、泣きやみましたが、頭がぐわんぐわんとしていて、ものが考えられませんでした。
でも、もう、プニ坊を迎えに行く時間です。

夫とは、赤ちゃんを見たことは、プニ坊には話さない。もちろん性別も。
感受性の強い子だから、それを話すと見たがるしトラウマになる。
なので、葬儀も秘密裏に行う。
そう、取り決めをしました。

いままでだって、そうだったんです。
どの流産の時にも、彼に話した事なんて無かったです。
もちろん、どの子も性別を知りません。わたくしですら知らない事を、プニ坊に話せるはずはありません。
でも、今回ばかりは違います。
人間として扱われているのです。そして、見てしまったのです。
でも、そう決めたのだから、もう話すことは無いでしょう。
もし、話すとしたら、彼がもっと大人になってからの事になるでしょう。
今はまだ、小さすぎるのです。

プニ坊と夫は、午後5時半頃来ました。
いつも通り、談笑して行きました。
でも、一人になると、もう駄目なのです。
そこに看護師が来て「今の気持ちはどうですか」と聞くのです。
こんな事聞かれたって、答えられる人はいるのでしょうか。
彼女たちも、患者のケアをしなくてはならないという使命がありますから、無下にするわけには行きません。
でも、答えたくないときに、そんなことを聞かれたら、枕でも投げつけてやりたくなるのです。
ですが、それをすると犯罪ですから、必死で耐えました。
まるで、ケアという名の拷問を受けているようでした。

放っておいて欲しいんです。
誰にも会いたくないんです。
ただ、泣かせてください。
我慢しなくて良いなんて言われたって、知らない人の前で号泣したり、感情を吐露したりなんて、いきなり出来るわけ無いでしょう?
そんなことも分からないのかと、今思えば、申し訳ないことを腹の中で考えていたのです。
でも、そのときは、自分の感情を抑えるのだけで精一杯です。
支離滅裂な事を言っていたかもしれません。
何を言ったのかも覚えていません。

ただただ、何も受け入れられずにパニックを起こしているわたくしがいました。


1970年07月05日(日)

09.10

術後、数分ほど経ったでしょうか。
夫が病室に姿を見せました。
どうやら、わたくしが処置を受けている間に、到着したらしいです。
しばらく話をしていると、看護師さんが「赤ちゃんに会いますか?」と、聞きに来ました。

わたくしは腹を決めて、会うことにしました。
すると、看護師は、小さな箱を持ってきてくれました。
白い紙箱ですが、開けるとガーゼに覆われいて、ペチュニアの仲間の切り花が綺麗に飾られていました。
ガーゼを取ると、それは小さな赤ちゃんが横たわっていました。
まだ、皮膚も完全に出来てはいないのか、赤みのかかった肉色のゼリーで覆われているような艶があり、てらてらと光っていました。
目の辺りは黒く、頭蓋骨ももう出来ていました。
布団になっているガーゼをめくると、赤ちゃんの体が出てきていました。
折れそうな手足。まるでミニチュア人形を見ているようでした。
骨が透けて見える小さな小さな手には、もう爪が出来ていて、それは足も同じでした。
つんとした踵が、とても可愛くて、結構形が良かったです。
顔は横向きであまり見えなかったので、少し動かして見てみたら、小さな鼻の穴が少し歪んでついておりました。
目は閉じられていて、口は少し開いていましたが、笑っているようでした。
小さな生殖器も、その子が男の子だと言うことを示していました。

こんなに小さいのに、もう生きていないなんて。
こんなに可愛いのに、死んでしまったなんて。

頭の中で、ぐるぐるとそんな事ばかりが巡っていました。

涙が流れ、嗚咽が出そうなのを必死に堪えていたのですが、気づくと、夫も泣いていました。
二人でティッシュで鼻をかみまくり、我が子を眺めていました。
たぶん、端から見ると、こんなグロテスクなものをよく眺めていられると思うのでしょうが、我々にとっては、どんな姿でも、可愛い子供なのです。
この子を手放したくない・・・自分の中で、そんな思いがどんどんこみ上げて来るのを感じました。
ものすごく危険な思いです。
こうなる予感はしていたのです。
見てしまうと、情が湧くので、見てはいけない。
そう思ってはいたのですが、やはり我が子の姿を見ておかなくてはならない。
看護師も、見ないのか、見ないのかと、かなり怪訝そうにしていたのですが、見ると言ったときのあの安堵した顔。
いろんな思いが、怒濤のように押し寄せてきて、頭がまた真っ白になりました。


1970年07月04日(土)

09.10

遅く寝た割には、朝早く目が覚めました。
5時半頃目が覚めてしまったので、どうしようなどと思っていましたが、6時少し過ぎに、看護師さんが巡回に来てくれました。
血圧を測り、体温を知らせた後、術後に入浴できるか尋ねたら、「ちょっと難しいかもしれないから、今ならシャワーが誰もいなくて使えるから、ゆっくり行ってくると良いですよ。」と言ってくれました。
なので、急いでシャワー室に行くと、もう先客がおり、シャワーを浴びておりました。
幸い、2室ありますので、残りの一方に入れさせて貰い、十分浴びることが出来ました。

さっぱりして部屋に戻り、朝食を終えて午前8時。あまりに暇なので、売店に行って、クロスワードパズルの本を買って、問題を解いていました。
わたくしは、スケルトンやナンクロが全然駄目でした。難しい・・・。
そして、午前9時半頃、また例の処置。
どうして何度もこんな痛い目に遭わなくちゃならないんだろう。
理不尽な痛みに耐えなくちゃならないんだろう。
そんな不満ばかりが募ってきます。

そして、昼食。
あまりお腹が空いていないのですが、やっぱり食べようと思えば食べられるという、あまり好ましくない状態。
とりあえず、残さず食べられて良かったと思いました。
そして、また部屋に戻って、クロスワードを解いていると、突然、生暖かいものがジュワッと降りてくるのを感じました。
それがどんどん出てくるので、これはまずいとナースコールをし、破水かもしれないので来てくれと依頼。
ナプキン1枚ではとても足りず、2枚3枚と換えても、すごい量の羊水が出てくるので対応できずに、床まで汚してしまいました。
看護師さんが手伝ってくれて、羊水が収まった頃を見計らって、びしょびしょになった下着を替え、車椅子で処置室に向かいました。
胎児が降りてきた手応えもあったので、見てみると、もう、胎児の一部が出てきておりました。
先生も呼ばれ、そのまま分娩となりました。

産む痛みでも、生きて産まれてくれる痛みなら、どれだけ痛くても耐えられるのですが、死んだ子を産むのは、悲しい絶望の痛みです。
なのに産まなくてはならない。
月満ちて産まれてくる子の方が絶対に大きいのに、自然に産まれるのより痛いのは何故なんだろう。
「頑張ったね。赤ちゃん出たよ!」
と、先生の声が聞こえた時には、何とも言えない気持ちになり、涙が止めどなくあふれてしまいました。
これが生きて産まれてくれていれば、どんなに良かったか・・・。
そう思うと、もう、駄目でした。
ですが、まだ、処置が残っています。
胎盤や羊膜の残りを、子宮から排除しなくてはなりません。
これが残っていると、次の妊娠に差し支えるからです。
これは、誰かがたとえていましたが、「おひつのなかのご飯粒を、シャモジで掻き取っている感じ」そのものでした。
何度も何度も、子宮の中を掻き回していくので、結構な痛さです。
それだけでもかなり辛いのです。
ようやく痛みから解放されたと思ったら、「赤ちゃん、綺麗に出ましたよ。会いますか?」と言います。
今は、とてもそれどころではありません。
なので、「今はやめておきます。」と言って、見ませんでした。

下着を着け、車椅子で病室まで運んで貰い、痛み止めを飲んで安静3時間。
あの痛みは、二度と経験したく無いと思いました。


1970年07月03日(金)

09.09 続き

さて、手術の事前処置として、子宮口に水分を吸って膨らむ棒を差し込む処置をすると言うことを聞きました。
麻酔をしてくれるのかなと思ったのですが、麻酔は一切なし。
器具を突っ込まれて、子宮口を摘まれ、あまりの痛みに声が出そうになりました。
まるで、鋭利な刃物で刺されたような、そんな感じの痛みが続くのです。
そして、何かをねじ込まれる感覚があり、随分長い時間かかっているような気がしました。
どうやら2本入れられたということらしいですが、夜にはまた取り替えるとのこと。
この痛みをまた体験するのか・・・と思うと、気が滅入ります。
でも、必要な処置なので、諦めるしかありません。

横になって2時間安静にということなので、指示通り2時間ベッドに寝ていました。
ようやく起き上がれる時間になったら、看護師さんが来て「今の気持ちは?」と尋ねます。
そんなことを聞かれたって、何とも言えませんしか言うことが無いです。
でも、彼女たちもどうやら色々マニュアルがあるらしく、発言から患者の心の動きを読んで、動揺している度合いを推量し、転倒落下防止などの療養計画を立てる為に、敢えて聞くような感じでした。
「赤ちゃんに会いたいですか?」とも聞かれましたが、現時点ではまだ会いたいとは思えませんでした。
何故って、今までの流産は、自然に出てきてしまった、まだ形にもならない赤ちゃん以外、会ったことが無いからです。
なので、会わないと答えました。
そして、術後の話などを聞いたのですが、14週を迎えているので、赤ちゃんは法律上一人の人間として扱われるということで、葬儀をしなくてはならない旨を伺いました。
正確には12週以降は、人として扱われるそうなのです。
あまりに驚いて、またもやパニックを起こしそうになってしまいました。

その後、夫とプニ坊が来てくれました。
葬儀の話をすると、夫も驚いたようで、看護師さんにお話を伺っていました。
色々と、なんだかややこしいことになりそうで、そちらの方が心配でした。
その夜は、どうしても寝付けませんでした。


1970年07月02日(木)

2009.09.09

今日はいよいよ入院です。
昨日、午前9時までに病院に受付に来て欲しいと言われたのですが、その後連絡があり、午後2時に変更して欲しいとの依頼がありましたので、少し時間が出来ました。
なので、家中の片付けをし、買い物を済ませ、どこに何があるかメモをして分かるようにし、入院に備えました。
ただ、プニ坊のお迎えには間に合いそうになかったので、同じクラスのお母さんに、帰りについでに家に送って貰えるよう、依頼メールを送ったのですが、ご用事なのか、なかなかお返事が来ません。
時間が経つばかりですので、焦って、共通の知り合いのお迎えお母さんに、伝言をお願いしようと電話しましたが、こちらも不在。
タイムリミットも近いので、ダメ元で、車で送迎をしているお母さんに電話をしたら、何とか通じ、事情を話したら、お預かりまでしてくれる旨を申し出てくれたのですが、先約でお願いした先がありましたので、それは丁重にお断りをして、何とか家まで送って貰えるよう算段が付きました。
その後、続々不在先から連絡が入りましたが、もう解決した旨を伝えてお礼を申し上げました。

プニ坊が戻ったので、送ってくださったお母さんにお礼を言い、お昼を食べさせて、預かって貰えるお宅にお願いしに行きました。
そして、荷物を抱えて病院まで行きました。
本当は夫同伴で・・・と言われましたが、時間を変えられてしまったので、重要な会議を抜けてまで来て貰うわけには行きません。
何か言われたら、病院の都合で変えたんだから来られませんと、喧嘩を売るつもりで行きましたが特に何も言われなかったので良かったです。

書類を一枚渡すのを忘れたということで、書くことになりましたが、これは夫のサインも必要なものです。なので、夫が来てからということで了解を得ました。

お産と同じ事になりますので、大きめの生理用ナプキンか、産褥ナプキンが必要になります。
普通サイズのものも必要だという事で、合間を見て売店に飛んでいき、ナプキンを買い揃え、ついでにボディタオルとボディシャンプーも購入。
部屋に戻り、着替えをして待っていると、看護師さんに、ナプキンをどれだけ持ってきたか訊かれ、現物を見せると、これだけあれば大丈夫でしょうという事でした。

そして、下着も産褥用の下着に取り替え、処置室に向かいました。


1970年07月01日(水)

2009.09.08

この日は、2回目の妊婦検診でした。
思いがけず第二子を授かって、長い夏休みの間、プニ坊につわりで随分と色々我慢させてしまいました。
もう少しでつわりともお別れだし・・・と、検診のためにプニ坊の延長保育を園にお願いし、受診しにいきました。

予約といえど、大きな病院ですので、待つのは1時間を軽く超えます。
早く赤ちゃんに会いたいなぁ。元気に育っているかなぁ。16日は初期母親学級だし、そのときにはお友達にプニ坊を預かって貰って・・・などと算段しておりました。

そして、受診。
いつも通り、問診をしてから内診に移りました。

内診台に乗り、超音波で赤ちゃんを診察すると、前回よりかなり育っていました。
大きくなっていて良かったと思ったのですが、赤ちゃんの心拍が見えません。
先生も、「・・・前回よりは育っているんですが、赤ちゃんの心拍が見えないんです。」と仰います。
「この大きさなら、もう、はっきり見えておかしくないんですが・・・。もう一度お呼びしますので、一度中待合いでお待ちください。」と言われました。

そして、再び診察室に呼ばれ、所見を聞きました。

・赤ちゃんは、12週から13週くらいまでは順調に育っていた。
・何らかの理由で、心拍が止まってしまった。
・たぶん、一週間は経っているので、早くに出さないと、母胎に感染症が起こる危険性がある。
・早くて明日、入院できるか。家族と即連絡を取って相談して欲しい。

頭の中が真っ白になってしまいました。
だって、つい先日、プニ坊と年少で同じクラスだった人3人で妊娠が分かり、
月も1月、2月、うちが3月と、並びで生まれることが分かって大喜びしていたところだったんです。
そして、プニ坊も、今日の結果を心待ちにしているというのに。
今回の妊娠の為に、町内会でも班長兼地区長という事だったのですが、次の方に頼み込んで、お役を変わって貰い、免除になったというのに。
義父の葬儀後の初盆なども、全て義母の配慮で欠席させて貰ったというのに。

何で?

どうして?

そればかりが頭の中を駆け巡っていました。

でも、ぐずぐずしてはいられません。
一刻も早く夫に知らせなければいけません。
携帯電話を忘れてきてしまったので、公衆電話から夫の勤務先に連絡を取り、努めて冷静に事実を伝えようと思ったのですが、途中で涙が出てきてしまい、涙声になってしまいました。
夫は、仕事の途中だったのですが、職場を抜け出してきてくれ、一緒に先生と話をしてくれました。

今回は、14週を超えた繋留流産のため、初期流産のような掻爬は出来ない為、出産と同じようにして胎児を娩出するという事だそうです。
なので、1日の入院で終わるわけではなく、3日ほど入院して貰いますとの事。

今日分かったのに、明日もう処置に入らなくてはならないなんて・・・。
必要なことだとは分かっていても、パニックでした。

わたくしは、今回の流産を含め、過去3回流産し、子宮外妊娠を一度経験しています。
今回で5度目の流産となってしまったのです。
慣れているつもりでも、どうしても今度だけは涙が止まりませんでした。

中待合いで待っていると、検診を受けている妊婦さんの胎児の心音が、診察室内から聞こえて来ます。
そして、周囲にはおなかの大きな妊婦さん。
皆が、胎児の無事を確認できているのに、自分だけ出来ない。
そんな気持ちがあり、夫がしきりに椅子を勧めてくれるのですが、とても彼女たちの横に座る気分になれませんでした。

夫は家まで送っていってくれました。
しばらく一緒にいてくれました。
今度こそ上手くいくと思っていたのに・・・。
そう言って、泣きました。
夫は黙って肩を抱いてくれました。
プニ坊にも、ちゃんと話をしなければなりません。
夫が「俺がちゃんと話をするから、それまでは黙っていて。」と言います。
彼が帰ってくる時間に、また帰ってくるからと、仕事に戻りました。

明日からの入院に際して、プニ坊の送り迎えが問題になります。
いつも朝一緒に登園しているお母さんに、事情を話して協力を仰ぎました。
そして、金曜日だけは体育教室がありますので、仲良くしてくれているお母さんに、事情を話して着替えなどを見てもらえるよう依頼しました。
快諾してもらえたので、それはそれでありがたいと思いました。
そして、入院準備を整えていたら、プニ坊を迎えにいく時間になり、幼稚園まで行きました。

明日から3日間入院になりますから、週末までの分の延長保育のチケットを書いて出し、先生に事情を話しました。
金曜日は体育教室なので、体育教室の後に延長保育をして戴けるようお願いし、了承を得ました。
ちょっと早めの時間だったので、プニ坊は「まだ遊んでたんだよ〜」と、不満そうにわたくしに言います。
それでも、素直に帰る準備をしてくれ、助かったと思いました。
担任の先生が来てくださり、事情は事務の先生から伺いましたので、出来るだけサポートしますと仰ってくださいました。ありがたいことです。
そして、園を出ると、ちょうど夫の車が我々を迎えに来てくれていました。

プニ坊は「ねえ、赤ちゃんおっきくなってた?何センチ?60cm?」などと、無邪気に聞いてきます。
事実を知ったら、愕然とするでしょうが、家に帰るまでは言えません。
なので、「うん。60センチは無いけれど、6センチくらいかな・・・」と、お茶を濁したような返事をしておりました。

そして、家に戻り、夫から事実を知らされたプニ坊は、「え・・・」と、絶句してしまい、「僕、赤ちゃんが生きていると思ったのに・・・」と、顔を歪めました。
過去、何回もぬか喜びをさせられたプニ坊も、今回こそはと、ものすごく期待をしていたのです。
お兄ちゃんになりたくても、なかなかなれない彼は、「赤ちゃんが生まれたら、僕、いっぱいあそんであげるんだ」「赤ちゃんに、おもちゃいっぱい貸してあげるんだ」「僕、妹が良いなぁ」と、妊娠する度に言っていたのです。
なのに、一度もその気持ちを叶えてあげられない。
なんと不甲斐ないのだろう。
彼の気持ちを思うと、情けなくて涙が止めどなく流れてしまいます。
こんなに兄弟を切望しているのに、どうして作ってあげられないんだろう。
自分がとても恨めしいのです。


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