2009年09月30日(水) |
濡れた空気が帳のように下りている。そんな気配に包まれて目を覚ます。窓を開ければ、しんしんとした雨。風もなく、まっすぐに降り落ちてくる。それは柔らかい棘のようで、でも五月のそれとは異なる色合いで。まだ表通りを走る車もいない。そんな時刻。ベランダで髪を梳かしながら雨に手を伸ばす。手のひらに降り落ちるそれはやはり柔らかく、でも何だろう、何処か切ない。 まだ暗くて薔薇の葉を確かめることができない。多分今日もまた病葉を見つけ切り落とさなければならないんだろう。しばらくそれは続くんだろう。それが少し憂鬱。そんな中咲き始めた白薔薇が唯一救いかもしれない。もう少し花開いたら、切り花にしよう。 部屋に戻ると、ミルクが鼻をくんくんさせながら待っている。どうしたの、と声をかけながら抱き上げる。珍しく手のひらの上でじっとしている。動くのは鼻だけ。私は指の腹でそっと頭を撫でる。
病院、診察の日。珍しく待合室に私のほか誰もいない。ほっとする。きいと鳴る椅子に座り、呼ばれるのを待つ。そういえば前の日のカウンセリングは滅茶苦茶だった。頭を机からあげることができなかったんだった。私は思い出す。まだ疲れは取れない。体の芯から染み出すように疲れが次から次へと湧き上がってくる。それがだるくて私は椅子にもたれかかる。 診察室に入ると、いつものように先生が待っている。最近はどうですか。お子さんは? ちゃんと眠れてますか? 一通りの質問が終わり、私は、昨日のカウンセリングのことを話す。すると突然先生が、そういえば授業参観なども始まる時期ですね、と言う。そうですね、そういえば、授業参観で立っていると私はどうしようもなく眠くなるんですよね、と答える。そう、私は授業参観に行くと眠くなる。立っているのに、手のひらをつねったりして何とか眠らないようにしようとするのに、かくんと眠くなる。それに気づいた娘が手で合図をしてくれて、それで私は急いで家に帰る。そのことを告げると先生が、緊張していたりすると、特に立っている時、そういう症状が出ることがあるんですよ、と言う。倒れたりはしませんか? ほら、朝礼で女の子がよく倒れたりするでしょう? あぁ、そうですねぇ、いえ、まだ倒れたりはしていません。緊張が極度に来るとそうやって倒れたりするんですよ、本当は座らせてもらうのがいいんですけどねぇ、そうすると目立ちますしねぇ。目立ちますねぇ、それはいやですねぇ、これ以上目立ちたくない。でも仕方ない症状なんですよ、それは。そうですかぁ。 納得がいったようないかないような宙ぶらりんの気分のまま、送り出される。私は重たい扉を押して開け、外に出る。外は天気雨。明るい中でぱらぱらと降る大粒の雨。
そこからもう一つ病院を回り、家路につく。あっという間に時間が過ぎてゆく。娘が帰ってくるまでどのくらい残っているだろう。そう思いながら、でも時計を確かめる余力もなく、私はそのまま横になる。どうしてこんなに疲れているのだろう。いくら横になっても足りないくらいだ。そう思うか思わないかするうちに、私は眠りに引き込まれる。 気づけば、娘がすでに帰宅しており、机に向かっている。あぁごめん、もうどのくらいできた? そこにあるよ。分かった、丸つけするね。私は赤ペンを用意して机に向かう。ねぇママ、今日は運動会のこと作文に書かなくちゃならないんだけど。いいんじゃない? 何書こうかなぁ。うーん。一番楽しかったこととか書けばいいんじゃないの? じゃ、ソーランのこと書こう。え? ソーランのこと書くの? どんなふうに? 一番頑張ったから。あれ、一番頑張ったのって障害物競争じゃないの? 違うよ、ソーランだよ。嬉しかったのが一位になった障害物競争なんだよ。あれ、そうだったんだ、ごめんごめん。両方書けばいいか。そうだね。両方書きなよ。 算数、国語、社会。塾の復習だけで時間はどんどん過ぎてゆく。私は丸つけをしながら、夕飯の支度にかかる。今日は餃子。具だくさんのお味噌汁。ひじきご飯。あとは小さなサラダをつけて終わり。 そういえば五年か六年に、Wって子いない? いるいる、三人兄弟なんだよ。へぇ。上が男で下が男女。双子なんだよ。へぇ、いいねぇ。でさ、そのお兄ちゃん、かっこいいよね。えー、ママ、ああいう人が好みなの? え? かっこよくない? まぁかっこいいけど。顔小さいし。うん、ママ、好み。えー、Rの方がかっこいいよ。あ、今一番好きな子はRなんだ。えー、あ、ママずるい! ひっかけたでしょ。うん、ひっかけた。一番好きな子は今Rなんだぁ。もうっママ、やだ! ははははは。 そうしてようやく夕飯。そしてお風呂。次から次へとやることがある。私たちは駆け足で時間を走る。 ふと弟たちの顔が脳裏に浮かぶ。今頃彼らはどうしているだろう。
雨は降り続けている。やむ気配は全くない。徐々に明るくなってきた窓の外、表通りを行き交う車の音が響いてくる。多分今の音はバスの音。今のは小さめの車の音。それぞれ違う響きが、窓辺に座っている私の耳に、届く。 朝の一仕事を早めに切り上げ、別の作業に移る。来年一月にある二人展の作品リストを作らなければならない。あと残り三ヶ月。その間に私は展覧会を控えている。きっと気づいたら目の前に二人展の時期が来ているに違いない。少し私は慌てる。きちんと今から準備しておかないと、後悔することになる。 そこにまた父から電話が入る。今日弟と会うことになっているらしい。少しでもいい方向に、話が傾くといいのだけれども。 資料がプリントアウトされていくカタカタという音を聞きながら、私はもう一度ベランダに出る。空に向かって咲く一輪の白薔薇。小さめの花だけれど、それでも凛と、凛々と咲いている。この灰色の空の下、雲の向こうの何かを信じて。 私は深呼吸する。花に顔を近づけて、思い切り息を吸う。微かだけれども白薔薇の香りが私の鼻腔をくすぐる。そう、何も見えない、見えない時だからこそ、信じていこう。その向こうに待つ何かを。 「ママ、バス、きっとそろそろ来るよ」。娘が声をかけてくる。私たちは急いで鞄を肩にかけ、玄関を飛び出す。娘に急かされながら階段を駆け下りると、その言葉どおり、バスがやってくるところ。「じゃぁね!」、互いに手を振り合いながら、娘は学校へ、私はバスへ飛び乗る。 そう、何も見えないときだからこそ信じていこう。その向こうに待つ何かを信じていこう。きっときっと、空は明けるから。 |
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