2006年02月28日(火) |
アネモネの蕾が、色づき始めた。赤、白、紺、ほんのりと染まった花びら。まだ硬く閉じた蕾だけれども、或る日突然きっと、ぱっくりと花開くのだ。私はプランターの脇にしゃがみこみ、そんな蕾たちをじっと見つめる。 空は一面雲に覆われている。時がゆくごとに雲の色は濃くなり、今ではもう、いつ雨粒を落としてもおかしくないほど。光の眩しさなど、微塵も感じられない。 そんな天気にそっくりなのが今の自分だ。私の中に垂れ込める霧は、伸ばした手の先さえ見えないほどに濃密で。光筋を探そうとしても、何処にも見えない。むしろ、光筋の代わりにさらなる闇が内奥からもくもくと育ってきそうで、私は躊躇する。一体いつになったらこの状態から脱することができるのか、全く分からない。 また、この頃寝言が酷くなってきた。その寝言も、たいてい怒っており、娘を驚かせてしまう。今朝方も大声で寝言を吐いた直後、娘の「ママ、みう、そんなことしてないよ」と訴える声で眼が覚めた。だから慌てて私は取り繕う。「ううん、ごめんね、違うの、みうのことじゃないのよ、ママ、変な夢見てたから」「また夢見たの?」「うん、また見たの、ごめんね」。半べそをかいていた娘が、私の胸に顔を埋める。彼女の頭を撫でながら、私は、その夜見た幾つもの夢の間をしばし漂う。 それでも毎日は過ぎてゆく。お遊戯会が終わった後で、娘が伸びをしながらこんなことを言う。「あー、終わった。これであとはバレエの発表会の練習だけだ」。私は思わず尋ねてしまう。「もうそんなこと考えてるの?」「そうだよ。あ、ママ、踊るからちゃんと見ててね」。テレビの主題歌に合わせて踊る娘を見ていると、思わずぷっと笑ってしまいそうになる。それは、彼女があまりにすました表情で、格好をつけて踊るから。もしかしたらちょっとナルシストなんじゃないかしら、と思いたくなるほど。でも、そんなふうに踊れる彼女が少し私は羨ましい。今私にそれをやってごらんと言われても、到底叶わない。妙な照れが先行して、多分振り付けの一つもできないんだろう。主題歌が終わるのに合わせて優雅におじぎしてみせる娘。「ちゃんと見てた?!」「う、うん、見てた」。見てたという私の返事に満足したらしく、ようやく畳の上に座って彼女はテレビを見始める。六歳といえど、女は何処までいっても女なのだなと、つくづく感じる。 娘が言う。「ねぇママ、小鳥のおうち作ろうよ」「何処に?」「ベランダに作るの」「んー、それはねぇ、だめなんだよね」「なんで?」「じぃじとばあばのおうちなら、それができるんだけど、うちはだめなの。ほら、鳩とかがいっぱい飛んできて、うんちとかしていくでしょ、それで汚れるからね、だめって決まってるの」「つまんないなぁ、小鳥のおうち作れたら、毎日小鳥が見れるのに」「うーん、そうなんだけどねぇ」「あーあ…」。他愛ない、どうってことのない会話だけれども、私はちょっと唸ってしまう。小鳥のおうちもそうだが、今の生活には、「してはいけないこと」の方が多すぎて、「してもいいこと」が少なすぎる。私が子供の頃は、父母などほっぽって外に遊びに走ったものだ。裏山もただの野っ原も砂利道さえもが遊び場だった。あまり遅くまで外で遊んでいると、近所のおばさんからの一喝が轟き、私たちはちりぢりになって逃げるように家に帰ったりもした。今、周りを見れば、裏山はもちろん単なる野っ原もない。あるのはアスファルトでしっかり固められた道々ばかりで、唯一あるのは、公園と称される場所だけだ。その公園だって、家から少し遠いという理由で、なかなか彼女の自由にはならない。自然、家の中での遊びばかりで、彼女の周囲は埋められてゆく。今年の春、小学校に入学する彼女に、遊び場はいったいどのくらいあるのだろう。 二人きりの夜、眠る前、彼女は私を呼ぶ。だから私は彼女の隣に横になる。すると、私の両足の間に、彼女は自分の足をするりと滑り込ませる。こうするとあったかいんだよねぇと言いながら笑っている。そして最近必ず彼女が言うのが「ママ、歌歌って」。私がうーんと渋っていると、リクエストが次々挙げられる。「春のうららのでもいいし、大きな古時計でもいいよ」「えー、やだなー」「なんでー、歌ってー」「じゃ、かえるの歌」「えー、かえるの歌じゃすぐ終わっちゃうじゃん」「うん、そう」「じゃ、二曲歌って」「やだー」「なんでー、歌ってぇ」。私も素直に歌ってやればいいのに、なんだかちょっと恥ずかしくて、すんなり歌えない。わざと変な替え歌を歌ったりして誤魔化してしまう。素直じゃないなぁ、と、我ながら呆れ心の中苦笑する。 寝息が規則正しく穏やかになってゆくのを見届けて、私は布団から這い出す。ひとり、椅子に座った途端、蘇る虚無感と倦怠感。まるでどしんと音を立てて私の肩に降りてくるかのよう。ひとつ大きくため息をついた後、私は作りかけの代物に手を伸ばす。指を淡々と動かしていると、私の脳裏に、幾つもの友の顔が浮かぶ。その中には、もうこの世にはいない顔もある。あの日からひとつも歳をとることなく、止まったままの顔たち。そして、それを追い越してくるように流れる顔たち。元気でいるか、生きているか、と、そのひとつひとつに呟きながら、私はただひたすら、指を動かし続ける。私は今年も多分ひとつ、歳を重ねる。私がこの世を去るときには、一体どのくらい彼らと離れてしまっているのだろう。分からない。でも。 私が皺くちゃのばあちゃんになっていたって、多分彼らとは再び出会える。確信に近い思いが私の中にしっかりと座っている。今はだから、今を生きる友たちとの時間を、今を生きる私自身の時間を、大事に噛み締めてゆこう。 じきにまた、夜が明ける。 |
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