2005年11月30日(水) |
開け放した窓から滑り込む風が、刻一刻、冷たくなってゆく。私は壁の時計を見やり、立ち上がる。そろそろ出掛けなければ。窓を閉め、灯りを消し、私は玄関を出る。 にのみやさん。いつものように診察室の奥から先生の声が響いてくる。小さく返事をし、私は診察室のドアをくぐる。はい、そこに荷物置いて。緊張しなくていいから、右手で左手持っててちょうだいね。先生はてきぱきと動作する。 あれ? また解いたの? あ、はい、あの、先生。何? 昨夜というか今朝方、ひどいパニックに陥って、意識が飛んでいる間にざくざく切ってしまって、それがあまりに酷かったので救急で病院に行きました。あぁなるほどね、縫ったの? うん、大丈夫だよ、これなら。…。じゃぁ今日はガーゼを取り替えて、と。 先生は、余計なことを何も口にせず、淡々と包帯を巻く。そして最後に、いつものようにやっぱりこう言う。明日また来なさいね。私が明日来なくても、それでも先生は同じことを言ってくれる。その声に私は頭を下げ、診察室を出る。 今日はここから保育園まで自転車を漕ぐ。自転車を漕ぐなんて、どのくらいぶりだろう。正直、坂道をのぼる自信は皆無である。が、平らな道なら、娘を乗せても多分、何とか走れるだろう。自分にそう納得させ、私はペダルを漕ぎ始める。 保育園に迎えにゆくのも、どのくらいぶりだろう。娘が教室から転がるように飛び出してくる。ママー! 彼女に飛びつかれると、私の身体はぐらりと揺らぐ。何とか足を踏ん張って倒れないように姿勢を保つ。そして、みうぅぅと名前を呼びながら、私もぎゅぅと抱き返す。 ここからはもう、途切れることのないおしゃべりの始まりだ。離れていた時間をぎゅうぎゅう埋め尽くす勢いで、娘が喋る。私は相槌を打つ。また娘が喋る。私は相槌を打つ。その繰り返し。その合間合間に、彼女が私にキスをする。だから私もキスをする。 家に辿り着き、玄関を開けた時、彼女が大きな声で言った。「ただいまぁ!」。そして、部屋の中のあらゆるものに、ただいま、元気だった?と話しかけ、彼女は部屋の奥へと進んでゆく。そんな彼女の後姿を見つめていると、言葉にしようのない何者かが、私の心の奥底から沸きあがってくる。だから心の中で一言だけ、呟く。ごめんね、みう、寂しい思いをさせて。そう呟く、心の中で。 着替え終えた彼女が突然言う。ねぇママ、みうのお花どうなってる? ちゃんと覚えてたのね、みう、えらいなぁ、ベランダ見てごらん。扉を開けた彼女がわぁと声を上げる。すごいすごい、大きくなってる、ママ、すごいね、こんなに大きくなったんだね。うん、そうだよ、みうがいない間、ママがお水やってたからね、明日からはまた、みうがお水をやってね。うん、みうがやるよ、ママ、みうがいない間お水やっててくれてありがとうね。…何言ってんの、みうは、当たり前でしょう? ママ、好きー! ママもみうのこと大好きー! そうして私たちはまた、ぎゅうぎゅうと抱き合ってキスをする。
みうは前より早く眠れるようになったんだよ、と言いながら、一生懸命目を瞑り、何とか眠り込んだ娘の寝顔を眺めながら、私はぼんやりと、昨晩のことを思い出す。 その時間は唐突にやってきた。何が引き金になったのか、よく覚えていない。ただ、意識が失われる前、かつての加害者たちの姿が走馬灯のように私の脳裏を走った、そのことだけは覚えている。 そして気づいた時には、辺りが血だらけだった。着ていたスウェットも机の上にも、血がたっぷりと溜まり、それは雑巾を四枚使っても拭き取れないほどの量で。その間にも私の腕からはぽたぽたと血が滴り。 自分が正気に戻る一瞬前の映像が、何故か鮮明に蘇る。刃を引くそばからぴゅぅと飛び出す血飛沫が、美しい円弧を描いて地に堕ちる、その映像が。ぴゅうと飛んで弧を描き地に堕ちる血は、しばらく止まることなく円弧を描き続けており。私はその円弧の美しさにただ魅入っていた。 そして意識を取り戻した私は、辺りに散らばるあまりの血の量に呆然とし、しばし、これは何から手をつけたらいいのだろう、なんて思っていた。 そして結局、病院の世話になる。 病院の救急入口には、ぽつんと小さな灯りがついており。それはひっそりと佇んでおり。私はその扉を潜る。あらかじめ電話をしておいたため、看護婦さんがすぐに気づいてくれ、処置室に導かれる。そして施される治療。これほどぼたぼたと血を滴らせているのに、私の腕には全く痛みというものは存在しなかった。だから私は、淡々と世界を見つめていた。てきぱきと指示を出す医者の声、それに合わせて動く看護婦の手。最後に鎮静剤を打たれて部屋を出る。救急の入口を出る頃には、東の地平線が薄く、夜明けの気配を孕んで膨らんでいた。その膨らみに引き寄せられ、私は少し歩く。埋立地を吹く風はびゅうびゅうと唸り、私の髪を嬲る。コートの襟をくいと引き寄せ、私は一歩、また一歩と歩く。誰も居ない。誰も居ない。そしてまた風がびゅうと吹く。その風は私の足元で渦巻き、落ち葉をくるくると躍らせてみせる。私はその渦を、ひとつ踏んで、先へ進む。 埋立地の先端は海に接している。私は海と向き合うようにして立つ。東の地平線がますます膨らんでゆく。海は黒く暗く、さざなみだっている。 私の目は、真っ直ぐに海を見つめている。一瞬たりとも止まることを知らぬ海の漣を、じっと見つめている。同時に、私の目は私の脳裏を凝視している。私の脳裏に浮かぶ像を、凝視している。 ぱっくりと開いた傷口。その傷口の奥に潜む肉襞。白い層を突き破ってこちら側に覗き出てくる肉襞。流れ続ける血の色。そんな傷が何本も引かれた腕。手首から肘までみっしりと埋め尽くす傷。そのどれもがぱっくりと口を開けている。それを見下ろしながら私は、まるでつばめの雛のようだなと自分が思ったことを思い出す。口を開けてぴいぴいと鳴き、親鳥を呼ぶ雛。あのぱっくりと開いた嘴が、私の傷口と重なり合って見えたのだった。ぱっくり、ぱっくり、と。でも、私の傷口は鳴かないし餌を求めもしない。代わりに、血を吐き出す。ぴゅうぴゅうと。それに飽きるとやがて沈黙し、泥のように眠る。口を開けたまま。 今、地平線が割れた。その瞬間、真っ直ぐに私を射る光。これが光だ、と、思った。何故だろう、私はそんなことを思った。そして、真っ直ぐに立っていた。広がりゆく陽光を一身に浴びながら。
家に戻り、まだ汚れている床を拭く。汚れた雑巾をゴミ袋に入れ、口を結ぶ。そろそろゴミ収集車が来る時間だ。私は雑巾を入れ込んだゴミ袋を、あっさりと捨てにゆく。マンションの出入り口ですれ違う隣人。おはようございます、とにっこり挨拶を交わす。寒くなりましたねぇ、と言うその人に、ほんと、あっという間ですねぇ、と、言葉を返す。一日はそうやってまた、始まってゆく。
今、娘の寝顔を眺めながら、私は今日一日の出来事をそうして思い出している。そして、左腕、包帯の上からそっと撫でてみる。大丈夫、今夜は意識を飛ばしたりなんかしない。意識を飛ばして、自分の知らないところで腕を切り刻んだりしない。 ふと思い出して、娘の枕元の目覚まし時計を手に取る。明日いつもより早起きしたいの、ママ、起こしてね。娘がそう言っていた。だから、いつもより三十分ほど時刻を早めておく。早く起きた分で、ベランダの花たちの世話をすると彼女は言っていた。そうだ、彼女が留守の間に二つ増やしたプランター、何を植えたのか明日教えてあげよう。植える時期が遅くなってしまったから果たして無事に芽を出すかどうか分からないけれど、それはそれ、冬を飾る花はきっと春を連れてくる。私と娘のところへ。 きっと。 |
|