2005年06月25日(土) |
ふと、かつて大木だったあの樹に会いに行きたくなる。私はGパンに手ぶらで部屋をふらりと出る。歩くたびに、サンダルの踵が音を立てる。その音と一緒に、私は坂を上り坂を下る。 見えてきた。今あの樹は全身にびっしり葉を茂らせている。かつて大木だったその姿は、今の姿からはとてもじゃないが想像しがたい。かつて空へ伸びやかに広げていた枝々はすべて切り落とされ、今あるのは、唯一、根と直接つながる太い幹だけ。その幹が全身、葉を茂らせている。 少し離れた場所から、私はその樹をじっと見つめる。風が吹くと、太い幹を覆う夥しい数の葉々がぷるぷると震える。風に揺れるというのとはちょっと違う。幹にびっしりとしがみついた葉々が、ぷるぷると震えながら風に乗って一斉に唄っているのである。まるで幼稚園の教室のようだ。幼い子供たちが先生のオルガンに合わせて大きな声で歌を歌う、あの姿。それが、今の樹の姿だ。こんなになっても、樹は生きることを諦めることなどなく、淡々と生き続けている。生きるとか死ぬとか、そんなこと、きっと樹は考えたりしないのだろう。ただそこに生があるから、ただそこに死があったから、樹は葉を伸ばし、一方で枯れ果てる。それだけのことなのだ。 樹を見つめながら私はふと思う。まだ私は、生きなくてはと思いながら生きている。生き残らなければ、生き続けなければ、そう思いながら毎日を生きている。そしてそれはきっと、今私の目の前に立つこの樹とは違うのだ。彼はそんなこと考えていないに違いない。ただそこに生があるからそれに従い、同時に、死が訪れたなら淡々と受け入れる。そんな姿だ。今の私には、そんな淡々とした想いがまだない。だから、変に体に力が篭り、喚いたり叫んだりしてしまう。 私は、ためしにひとつ、大きく深呼吸をしてみる。長い時間をかけて息を吸い、長い時間をかけて息を吐く。それだけのことなのだけれども結構これが難しい。私は気づいたら、時が経つのも忘れ、深呼吸を必死に繰り返していた。そして気づく。 あぁ、これが違うのだ。私はこうやって妙に意識してそうして生き残ろうとする。それがこの樹と私の違いだ。彼は在るがままにそこに在る、生きているということをただそのままに受け入れ、為し、そしてきっと今もし死が彼に訪れたなら心臓の音を自然に止めてゆくに違いない。一方私は存在するために必死に生にしがみつく。死に抗い、時に生にも抗い、体をこわばらせながらここに在る。それが、今の私とこの樹との違い。 自然って何だろう。おのずと、というその姿は美しい。おのずと、あるがままに、というその姿。一体どうやったら手に入れられるのだろう。私はしばらく、樹を見つめるのも忘れ、自分の内奥でざわめく何かを見極めようと必死になる。でも、掴めない。見つめても見つめても掴めなくて、私は結局諦める。諦めたそのとき、私の耳が誰かの声を聴く。 「見極めようとして目を開いても、おそらくは何も見えない。何も捉えられない。だから目を閉じ耳を澄まし、鼓動に体を預け、じっとしていてごらん。自分の鼓動がやがて世界の鼓動と重なり合う。その鼓動に全身を預けてごらん。ほら、体を解放するんだ」。 そんな声が、私の内奥から湧き出してくる。突然聞こえてきたその声に私は半ばぽかんとしながら、でも、今の私はきっとそれを必要としているのだと知る。 ところどころひび割れたアスファルトの階段に座り込み、私は目を閉じる。目を閉じて耳を澄ます。それは、実際の聴力をどうこう操ろうというのではない。そこに在る音を在るがままに聴くために耳を澄ます。そして、自分の体を少しでも、こわばる体が少しでも解れるよう、だらりんと手を放し足を放し。そしてなんとなく、日差しが降り注ぐ方へと顔を上げる。 風の音。葉のこすれる音。道をゆく車の音。誰かの話し声。扉の開く音。誰かの足音。さまざまな音が私の周囲に溢れている。私はただそれを聴く。そしてじきに耳がおのずと外界から内界へと降りてゆき、私の鼓動や血の流れる感触を私に伝えてくる。私はただその音に、体を預ける。 あぁそうか。 何があぁそうか、なのか、説明することはできない。けれど、私が目をぱっと開けた瞬間、飛び込んできた映像は光に満ち溢れ、ありとあらゆるものが光に抱擁され何の形をも留めていない光景。その光景に心奪われる。 じきに目は光に慣れ、光の抱擁は私の視界から薄れ消えゆく。けれども、あの一瞬は、間違いなく私の心に焼きついた。 さぁ、家に帰ろう。私はまたサンダルの踵を鳴らしながら坂を下り坂を上る。そして思う。いつか、生き残りたいだとか生き延びたいだとか、そんなことを意識せずとも毎日を過ごすことができる日が再びやってくるといい、と、そう思う。生も死もあるがままに受け入れる、ただそれだけで、淡々と、淡々と今を呼吸する。そんなふうに、在れたらいい、と。 玄関を開ける前に私はふっと後ろを振り返る。そこに広がる風景は、毎日毎日もういやというほど見慣れた風景だけれども、多分この風景も生きている。生きて動いている。それは別に意識してそうしているのではなくて。そう、生がそこに在るから生を受け入れ、死がやってきたならそれを受け入れ。ただそれだけなのだ。 そして私は、鍵を開け、自分の家へと帰り着く。 |
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