見つめる日々

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2005年01月27日(木) 
 26日。昨夜から続いた雨は昼前に静かに止んだ。窓の外、行き交う人は疎ら。先ほどまで咲いていた傘の花は姿を消し、冷気に首を縮めた人たちがぽつりぽつり行き過ぎる。
 出掛ける前のおまじない、香水を一吹き首筋と手首に。大丈夫、きっと大丈夫、辿り着ける。繰り返しそう心の中で呟いて、私は自分に暗示をかける。大丈夫、きっと辿り着ける、ちゃんと帰ってこれる、大丈夫、私は大丈夫。
 電車に乗り、窓の外を流れる景色を眺めるでもなく眺めている。矢のように後ろに飛んでゆく幾つもの景色。見覚えのある風景。遠い昔通っていた病院の駅を一つ越えて、私は大きな病院の入口を潜る。
 今ここに入院している彼女は、改めて省みるとそんなに親しい友人ではない。一度写真を撮らせてもらったことがあるものの、あとは数える程度の手紙のやりとりのみ。なら何故こんな場所まで私がお見舞いに来るのだろう。よく分からない。けれど、彼女が再び入院するという話を耳にした折、今度は必ずお見舞いに行きたいとそう思った。そして今日私はここに在る。
 確かに彼女と私はそんなに親しい間柄ではない。けれども。
 彼女と私は、似通った体験をひとつ、共有している。そういう意味で、友人というよりも同志という感覚が最も近い。あんな体験を経てもなお、今日まで生き延びている同志。そう、同志。
 彼女は私よりも前に被害に遭った。数えると彼女は今年十五年、私は十年を経ることになる。他愛ない世間話の後、ぽつりと彼女に尋ねてみる。
 「この間手紙くれたでしょ? 時薬は効いていますか、って」
 「うん」
 「あなた自身は効いてると思う?」
 「…うん」
 「そっか…」
 それでも彼女はいまだに、度重なるフラッシュバックに襲われ、それは日常生活を営むことにさえ影響が及ぶほどなのだ。私は、彼女をこうして前にして、自分にとって時薬とは何なのだろう、私たちにとってそれは、確かに効いていると言えるのだろうかと、心の中反芻せずにはいられなくなる。似通った体験を経て生き延びてきていながら、彼女と私は、今、大きく隔たっている、そんな気がする。
 彼女と私は似通った体験を経てきた。でも、その後の過ごし方が多分、ずいぶん違っている。そのひとつは、この己の体験の外界への晒し方だったのではなかろうか。
 私は、最初の頃こそ友人にも親にも告げることができず、なおかつ、自分はこんな体験を経ても大丈夫だ、何ともない、いや、そもそも何事もなかったのだ、と、自分に暗示をかけて必死に走ってきた。けれど事件から一年を経る頃、その姿勢はぼろぼろに崩れ、結局、友人にもそして親にも、私はこんな体験を経てしまったんだ、だから私はもう生きるのさえ辛いのだとぶちまけ、いや、やつあたりをしてきた。私事にたくさんの人たちを巻き込んで、大騒ぎして、そして私は一時期、己の悲しみや苦しみにどっぷり浸かった。もうその沼から立ちあがることはできないのではないかと思うほど、どっぷりと浸かった。穢れているとしかみなせない自分と折り合いをつけるために自らの体をこれでもかというほど傷つけ、そのたびに大切な友人たちを悲しませ、痛ませ、私はそうやって生き延びて来た。
 けれど彼女は。彼女は、今夫として在る人と主治医にこそ告白したものの、他には口を噤んだ。彼女は自分の親や友人たちを決して巻き込むことなく、ひたすら自分であの体験を抱え込み、必死にここまで生き延びたのだ。それだけじゃない、彼女は自分の周囲にいる傷ついた人たちを助けることを仕事としてきたのだ。自分のあの痛みを自分の奥底にひた隠して。
 私は周囲を巻き込んだ。一方彼女は周囲からその体験を隔離した。どちらがいいとか悪いとかの問題じゃぁない。たまたま私は右を選択し、彼女は左を選択したというだけだ。でも、私は周囲を巻き込んだことによって、友人にその体験に纏わる悲しみや痛みをあけすけに語る機会を得た。もちろんそのせいで何人もの大切だった友人を失いもしたけれども、それ以上に、外へ語るというそのことがどんなに私を救ってくれただろう。一方彼女は、自分のうちにひた隠すことで、どんなに胸が張り裂けそうに痛み、それはやがてたくさんの膿を孕んだに違いない。
 今、彼女を前にして、私はふと思うことがある。
 人は、とてつもない体験を経た後、ただひたすら悲しみ苦しむ時間が必要なのではないのか、と。誰の目もはばからず泣きたいなら泣いて、心が張り裂けそうならば張り裂けそうなのだと声にし嘆き、ただひたすら、己の悲しみや苦しみや痛みにどっぷり浸かって過ごす時間が必要なのではないのか、と。そうした時間を経てこそ、人は、その悲しみや痛みから立ちあがることができるのではないだろうか。そして、でき得るならばその悲しみや痛みを、あけすけに語り合うことのできる誰かという存在を持つということが、どれほど重く大切なことであるか、と。
 「テレビのニュースとか見てると、たまらない気持ちにさせられるよね」
 「奈良の小学生女子児童殺害事件とかあったでしょ」
 「うん、あれね、ニュースがテレビで流れると、私、チャンネル変えちゃう」
 「私も同じ。痛くてたまらなくて、これ以上見ていられなくなる」
 「性犯罪者の再犯の話もさ…」
 「ああ、あれね、今更って思ってすごい腹が立った」
 「ああ、私も同じだよ。何今更言ってんのよ、ふざけんなって思った」
 「頼むから、警察くらい把握しといてほしいって切に思う」
 「うん、私も」
 「ほんと、耐えられないニュースが多すぎるよね」
 「…ねぇ、あの体験を過去にすることなんて、できないよね」
 「うん、できないね」
 「できることがあるとするなら、それを引き受けて生きていくことくらいだよね」
 「うん」
 「思い出しても平気になる…いや、平気なんかにはなれないんだけど、でも、たとえばフラッシュバックが起きても何しても、「いつか終わる、終わりがくる」って信じられるようになるというか、この嵐もいずれやむことを信じられるようになる、みたいな…」
 「うん、いつか…」
 病院の出入口で彼女と手を振って別れ、私は帰りの電車に乗る。娘を迎えにいくまでの道程、私は彼女のこと、そして自分の十年という時間をつらつらと振り返る。
 思えば、去年一年は、特に幻覚と悪夢、そして離人感に悩まされた一年だった。眠れない夜闇の中目を開くと、この世に存在しない筈の異様な姿をした虫が私の視界でぞろぞろと蠢き、その恐怖から逃れようと必死になって眠れば眠るで、あの事件に纏わる光景が夢となって洪水のように押し寄せ、毎晩のように私は息切れした。そんな夜闇を越えて日の光を浴びる頃には、今度は自分から遊離した感覚に苛まれ、今手を握ったこの手さえ自分のものではないかのような頼りなさを四六時中味わった。自分は自分であって同時に自分ではない、私の目は私の体から離れて宙吊りになり、今この宙を漂っている、常に自分の体の後ろから自分を眺めている、何か起こってもそれは全て他人事、というような。世界との一体感をこれ以上失いたくないという私の必死の願いは、往々にして裏切られた。それでも私は、諦められなかった。必死になって世界の袖に縋った。そうやって生き延びたから、今日、今、ここにこうして私は在る。
 そんなことを思う間に、電車はどんどん進んでゆく。今電車は河を渡り、私の住む町へと近づいてゆく。いつのまにか窓の外はたそがれて、街の輪郭は、闇の中に徐々に沈んでゆく。今もしあのビルの上からこの電車を見たならば、きっと光の帯に見えるのだろうな、と、そんなことを私は思う。


 1月27日。これが私の、あの事件から数えて十年最期の日だ。それを一歩越えたら、私はその瞬間から十一年目に足を踏み出すことになる。
 十年。長かった、同時に短かった。あのことは今もありありと、いや、日々鮮やかになって私の脳裏で閃く。その鋭く明滅する光に目をやられ倒れることもあるけれど、でも私は生き延びて、しっかり今日を生きている。途中で何度、死んでしまおうと、いや、この穢れた存在を消去してしまおうと思ったことだろう、何度それを試みたことだろう、それでも私は生き延びてしまった。
 最近思うのだ。そうやって生き延びた私に何ができるのだろう、と。
 こんな、米粒にも砂粒にも満たないこれっぽっちの存在の私だけれど、ここまで生き延びて来たそのことが私に、おまえの役目は何かとその意味を省みさせる。


 今何処かに、性犯罪に遭い今にも潰れてしまいそうになりながら日常と戦っている誰かがいるのなら。その誰かに私は伝えたい。これ以上自分に鞭打たなくていい、泣いてもいいんだよと、嘆いてもいいんだよ、痛んだっていいんだよ、と。日常を毎日を越えてゆくのはどれほど辛いだろう、痛いだろう、それでも、どうか生き延びてほしい。周囲に言われて無理に自分の体験を過去にしようなんてする必要はないし、痛いのに痛くないと言って唇を噛む必要も今はない。今あなたが膝を抱えひとりぼっちで部屋の隅でうずくまっているのなら、想像して、私が隣にいるって想像して。私がそこにいる間はあなたは自分を裏切る必要なんてないから、泣きたくても泣けないなら私が代わりに泣くから。痛いのに痛いって言えないのなら私が痛いって言うから。あなたは決してひとりぼっちじゃぁないってこと、どうか忘れないで。そのことだけは、どうか忘れないで。そして、必ず生き延びて欲しい。どんなに体を傷つけてもいい、それでも、自分はきっと生き延びるんだということを心に持ってほしい。生き延びて生き延びて、ふざけんなどうしてこんなめに遭いながらも私が生き延びなきゃならないんだって思ってもそれでも生き延びて、そうしたらいつか、出会えるかもしれない、本当に出会えるかもしれない、あなたと私。もし途中であなたが死んでしまったら、私はあなたに会うことができない。だから、どうか生き延びて。あなたは生き延びて、世界を深呼吸する権利がある、それだけの価値がある。あなたという存在は唯一無ニなんだ。かけがえのない存在なんだよ。


 夕飯を作りながら思う。彼女が退院したら退院祝いをしよう。その後でまた彼女が入院するようだったらその時はもちろんまたお見舞いに行こう。そしてその後の退院の時には何度でもお祝いしよう。私は彼女を励ましたり何したり、そんなことできやしないけれども、そんな私にも唯一できることが在る。それは。
 私がここにいてここで生き続けているという事実だ。
 いつ彼女が振り返っても、私はここに在よう。大丈夫、私は今日もここで生きて在るよ、と、そのことを伝え続けることなら、私にできる。だから。
 私はいつ誰かが振り返ってもいいように、ここに在よう。ここにいて、今を生きよう。大丈夫、死がおのずから私を抱きとめるまで、私はここに在る。大丈夫、私は今ここに生きているよ、と。そのことを私は、伝え続けたい。それはきっとこれっぽっちの存在でしかない私にできる、唯一のことだ。
 だから、心の中、私は今日も繰り返し呟く。

 今あなたは何処にいますか、生きていますか。
 大丈夫、私は生きている。ここに在るよ。あなたと同じ空の下、ここに在るよ、と。


2005年01月22日(土) 
 冷めた白い日差しの下、鴎たちが休んでいる。十羽、いや、二十羽近くいるだろうか。海風がくるくると回りながら吹きすぎる中、じっと地べたに座っている。少し離れたところから、私は彼らの姿を眺めるでもなく眺めている。このままもしこの方向に歩いたならば、彼らは私を避けて羽ばたくに違いない。だから私は、少し後戻りをする。
 平日の昼間、人通りは少ない。美術館の裏の水鏡が、細やかにさざなみだっている。その脇では、幼子が母の手を離れ、先ほどから段差をのぼったりおりたりを繰り返している。時々かくんと体が落ち、けれど彼は、それさえもが楽しいといったふうに満面に笑みを浮かべながら、ただのぼったりおりたりを繰り返す。
 久しぶりにモミジフウの木の下に立つ。もうすっかり葉を落とし、今彼らの枝にぶらさがっているのは、あのとげとげの実のみ。強い風が吹き上げると実もぶるんと震える。からんころん。そんな音はもちろん存在しないのだけれども、震える実から私の耳へ、風を伝って、そんな音が伝わって来るような錯覚を覚える。からんころん、からから、ころん。
 埋立地の中はどうしてこんなにも忙しいのだろう。いや、今こうしてここに佇んでいると、人影も疎らで、空間がぼんやりと横に広がっていて、その様子から直接は決して忙しさなど伝わってはこない。ただ、この間まであった建物があっけなく壊され空き地になっていたり、逆にこの間まで空き地だったはずの場所にあっという間に新しい建物が組み上げられていたり。そうやって次々変化してゆく様は、休む或いは佇むということを知らない、常に何かに追われて怯えている小さな獣のように見える。この土地に逞しさが産まれるとしたら、それは一体どのくらい先なのだろう。その時私は、何処にいるだろう。

 あと少し。あと少しで十年を終える。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。そんなふうに夜を数える間もなく、じきに十年が終わる。十年が終わったその瞬間、私は、十一年目という時間に足を踏み出すことになる。それはそのまま、私が十年を生き延び、十一年目という時間を生き始めることを意味する。
 「十年ですね。時薬は効いていますか。」
 先日友人から届いた一行の手紙を、私はまた思い出す。時薬は効いていますか。時薬は効いていますか。どうなのだろう、効いて、いるのだろうか。
 十年を生き延びるということが、時薬の効き目ゆえだとするならば、間違いなく時薬は効いていたのだろう。けれど、そもそも時薬とは一体何なのだろう。私にはそういった実感がない。時薬、それは、私があの記憶を風化させ、慣れてゆくことを示しているのだろうか。それとも、共に生きてゆくことを覚悟した時に生じる力のことを意味するのだろうか。それとももっと別の意味なのだろうか。
 そうして考えてゆくと、十年という時間は、まだまだ短いように思える。淡々と思い出せるようになる、思い出しても心がざわめかずにいられる、私はまだ、そんなところには届いてはいない。
 今あるのは、ただ、ここまで生き延びて来たという、その事実ひとつだ。

 ペダルを漕ぐ足に力を入れ直し、私は白く冷めた日差しの中、急坂をのぼり始める。この坂を越えれば家はもうすぐだ。そこは、私がどんな心持でいようと、辿り着く私を待っていてくれる場所だ。だから私は安心して、ペダルを漕いで坂をのぼる。この坂の先に私を待つ家があると信じているから。もし人生が、私の毎日が、そんな安心ばかりで埋め尽くされていたなら。そうしたら私は迷子にもならない代わりに、きっとひどく退屈するのだろう。退屈に食い尽くされて、いつか、私の琴線は音を奏でることを忘れ去るかもしれない。
 十の不安の中にたったひとつの安心。百の嘘の中にたったひとつのホント。千の事実の向こうにひっそりと隠れているたったひとつの真実。安心して歩く道よりも、私は多分自ら、道を切り開く方を選んでいるに違いない。その道の行く先は地図になど描かれてはいない。だから私は途方に暮れるし、歩みを止めて涙することもある。
 それでも。
 自分で選ぶからこそ、自分で描くからこそ、私はその道を歩く。そうやって歩いて歩いて歩いて、歩いた先に、ゆっくりと死が私を迎えにくる場所があるのかもしれない。だとしたらきっと、私は死を恐れることなく、おのずと受け容れることができるだろう。
 だからこそ今私は生きていたい。もっと道を創りたい。誰のものでもない、私の地図に、私の道をこの手で描きたい。

 耳元で風が鳴る。さぁもうじき家だ。私は私を待つ家に帰る。


2005年01月13日(木) 
 夜明けが近い。半分ほど開けた窓の外をじっと見つめる。濃密に垂れ込めていた闇が、その瞬間から動き出す。私の目では追いつかない速度で、確かに確かに、変化してゆく。まだやりかけの仕事から少し手を離し、私はしばらく、ただじっと見つめる。
 東からまっすぐに伸びて来る光の手が、街の上にそっと舞い降りる。その手が触れたその場所から、僅かに僅かに、決して無理強いすることなく、光が輪を広げてゆく。光に徐々に濡れてゆく樹を見つめて気づく。先ほどまでそよりとも揺るがなかった風が動き出す気配。何処にいるのか知らないけれども、いつものように、雄鶏の一声が、街に響き渡る。
 正月は久しぶりに寝込んだ。大晦日の夕食後から体調ががくんと落ち、気づけば嘔吐の連続。水の一滴さえ口に含むことができない。含んだらその直後、また嘔吐をしてしまう。結局娘を実家に預け、私は三日間の殆どを、布団の上で過ごした。
 娘が隣にいない夜、私はぼんやりと、この一年のことを思い浮かべていた。なんてあっという間の一年だったろう。ここに引っ越してきて、娘と二人の生活を成り立たせるために働き、娘と遊び戯れ、もちろん喧嘩もたくさんし、そうして今、ここに在る。離婚から一体どのくらい時間が経っていただろうと思い返して気づいた、全然数えられない。苦笑しながらノートに書いてみる。そうしてようやく、一年半は時間が経っていることを認識する。でもまだたったの一年半しか経っていないのか、そうは思えない。もう十年も二十年も、こうして娘とここに在るような気がしてしまう。
 それは、あの日を思い返すときもそうなのだ。この時期になると、特別に思い出そうとしなくても、殆ど毎日のどこかしらで私の脳裏にちくんと浮かび上がるあの日。もう十年。そして今年は十一年目。
 頭で考えると、まだたった十年しか経っていないのかという違和感が何より強い。もっともっと、もう十年二十年、いや、五、六十年経っているように思える。だからこの、カレンダーで刻まれてゆく現実の時間に対して、どうしても違和感を持ってしまう。
 一方で、私の脳裏に走る映像は、いつでも鮮やかで、その位置からみると、もう十年経ってしまったのかという違和感が生じる。私の中に蘇る映像は決して、十年もの月日を経ていないのだ。いつでも鮮やかで、いや、下手するとどんどん鮮やかにくっきりと光を帯びて私の中に蘇ってしまう。あの時のワンピース、あの時の髪型、あの時のタイツ、全てが全て、くっきりと浮かんで来る。そして私はあれ以来、ああしたワンピースを着ることはなくなった。タイツも、履かない。
 まだ十年しか経っていないのかという違和感と、もう十年も経ってしまったのかという違和感の狭間で、私は揺れる。ひとりぼっちで揺れる。一体どちらを掴めば岸に辿り着けるのだろうと心細くなる。そして結局、どちらも掴めぬまま、揺れながら日を過ごす。
 私の中にある両極端の時間と、現実に刻まれる時間との、この時間軸のずれは、もしかしたらずっと消えることはないのかもしれない。私が引き受けて、このまま歩いてゆくしか術はないのかもしれない。諦観に似た何かが、私の中で少しずつ大きくなる。

 私の不注意で、指に挟んでいた煙草をカーテンにくっつけてしまう。慌てて離したけれども時はすでに遅く、カーテンに小さな小さな穴が開いてしまった。計ってみればそれは、たかが2、3ミリの穴なのだが、これが実に面白い。目をくっつけて外を見やる。そうすると、ちゃんと世界が丸々と眺められる。昼間日差しが指す頃には、床に光の影を落とし、その存在を私にちゃんと教えてくれる。まるで魔法の穴を手に入れたような感覚。穴を覗くとき、私はちょっとわくわくする。もしかしたらこの穴の向こうには、全然知らない世界が広がっているかもしれない、今覗いたら、思ってもみない風景が私の目の前に広がっているかもしれない、そんな馬鹿馬鹿しいわくわくと弾む気持ちを抱えて、私はこっそり穴を覗く。もちろん穴の向こうには、いつも私が見る風景が、しっかりとそこに在るだけだ。そして私は安心する。ああ、やっぱりいつもの風景だ、大丈夫、私はちゃんと日常の中に在る、そう思って。

 久しぶりに街を歩く。路地裏ばかりを選んで、適当にただ歩く。海に近い信号で立ち止まった時、何かの気配を感じて上を向くと、信号機には夥しい数の鴎が。慌てて少し立ち位置を変える。私の真上から鴎の糞が自由自在に落ちてくるから。しばらく私は鴎を眺めている。君たち、港の開発に従って、止まり木もなくなってしまったのですか、そんなことをちょっと尋ねてみたくなる。でも、鳥との共通語を私は持たない。だからちょこっと心にそんな問いを浮かべ、ただ鴎の姿を見つめる。何故神様は、鴎を白く染めたのだろう。蒼い海の上を飛ぶ時に、白く白く光のように映えるからだろうか。蒼の上に一滴の涙のようにくっきりと、その姿を残したかったのだろうか。
 古いビルがあっけなく壊され、その後にマンションが幾つも建てられてゆく。この辺りの風景は、留まることを知らない。次々に姿を変えてゆく。私が中学の頃は、この辺りはただ埋められただけの、土の色一色で埋め尽されるそんな場所だった。もう今、土の色など殆どここには存在しない。ビルが建ち、道もタイルで舗装され、ちょっとこじゃれたデートスポット。でもそれは、私にはまだ馴染まない。路地裏の、まだまだ小汚い通りが交叉する、その姿の中にいる方が、私は心落ち着く。
 夜になればここには、男の客を呼び止める女性の声が響き渡る。知らない男に手を振り、にっこり笑って誘う。男と女が息苦しいほど犇き合う場所。そういえばそんな場所に立つ一人に、なったことがあったっけと、小さな過去を思い出す。働かない夫の代わりにどうにかしたくて、時給のいいバイトはそのくらいしか見当つかず、そうして働いたのだった。そんなことも、今はもう過去なのだ。

 激しい離人感に悩まされ、一日保てないこともある。日付や曜日が認識できなくなって、私は戸惑う。いや、戸惑うことができるようになれば何とかなるのだ、戸惑うことさえしないとき、私は多分、時間の宙に浮いている。後になって気づくのだ、慌てるのだ、一体今は何日で何曜日で何時だったのか、と。
 そんな自分に不安を覚える夜は、余計なことは考えないことにする。娘と一緒に横になり、寝息を立て始めた娘をそっと抱いてみる。眠っている娘の額に頬にそっとキスをし、そうしてやわらかく彼女を抱いてみる。大丈夫、何とかなる、きっと何とかなる、ちゃんとここに在る、それだけで今は充分だ、自分にそう言い聞かせ、うなずいてみる。
 ただの気休めだとしても、こういう時は、いくらだってうなずいてみるのがいい。そうしているうちに、別に日付も曜日も時間も、わからなくたって人間生きていけるのさ、と、開き直ることができるから。
 そして朝、ベランダのプランターに水をやりながら、樹の様子をじっと見つめる。この寒い冬のさなかなのに、彼らはちゃんと新芽を蓄えている。紅い紅いその新芽。硬くて指で触れたらちくりと私の指の腹を刺して来る。薔薇の樹のなんと逞しいことか。そしてアネモネの、掌のようなかわいい緑の葉たちが小さく唄っているその声に耳を傾ける。風と戯れながら、小さく小さく響く声。大丈夫、みんな生きてる。私も、生きてる。

 十年経ようと二十年経ようと、私はあの日を忘れることはないだろう。あの日に纏わるいろいろなことを忘れることはないだろう。それでも、いつか忘れるかもしれない、そんな可能性を私は信じている。いや、どちらでもいいのだ、忘れても忘れなくても。どちらでも。私が、淡々とそれを受け止められる日が来る、そのことを、私はじっと信じている。
 冬が来ればやがて春が来る。そしてまた夏を過ごし秋を過ごし。私を乗せて世界は回る。何処までも。だから私は体いっぱいにその空気を吸って、いつだって空に世界に手を伸ばして、唄っていたいと思う。
 生きているというそのことを。


2005年01月04日(火) 
 耳を澄ますと、小さく遠くりんりんと音が鳴りそうな街の中、コートの襟を合わせ首を竦め背中を丸めて歩く人たちの群れ。誰も彼もが僅かに視線を落とし、それだけで少しでも冷気を避けられるのではないかと思っているかのような様子で、みな一心に歩いている。私はその人の群れの中で、ぼんやりと、そしてのっそりと動いている。
 人と会う日。それだけははっきりと分かっていた。楽しみにもしていた。女同士三人揃って、心の奥に言葉には表現しきれないような経験を抱いて、そうして笑ったり突っ込んだりできるのってどんなに楽しいだろうと、そう思ってた。だから、早め早めに時間をやりくりしていた。
 ふと鞄を覗いたら、ノートがなかった。いつも持ち歩いているノート。筆箱は持っていたけれどもノートがない。私は急に焦りを覚え、エスカレーターを駆け上がり、文具店で適当なノートを購入した。それで安心したはずだった。けれど。私は、無意識のうちに、ノートだけじゃない、カッターにも手を伸ばしていた。
 そろそろ待ち合わせ時間だよな、そう思いながら公衆トイレに入る。鍵がしまるかちゃりという音がした、それが合図だった。そこからの私の行動はあっという間だった。
 ノートでもない、万年筆でもない、一直線にカッターに手を伸ばし、私はその書いたてのカッターで右手首をざくざく切り刻んでいた。右手首を、だ。右手首は約束したはずだ。主治医と長いこと約束していたはずだった。左腕はもう仕方がない、切ってもいい、でも、左腕以外は絶対に切らないこと。私は主治医とそう約束を交わしたのだった。それは永遠に守られるはずだった。
 頭の半分が、やめろやめろと叫んでる。もう半分は妙に冷静に冷酷に、床にぼたぼたと垂れる血を嘲笑うかのように見下ろし、さぁどうやってもっとぱっくりとざっくりと切ってやろうかと考えているのだった。
 真っ二つに分かれた脳味噌の真ん中で私は、必死に手を伸ばした。携帯電話に手を伸ばし、待ち合わせをしている友人に伝わるかどうか分からないままにありのままを伝えた。ここまで来たんだから、頑張って、と彼女はそう言った。そうだ、ここまで来たんだ、ここまで必死に彼女たちに会いに来たのだ、片腕が血だらけになっていようと何だろうと、私は彼女たちに会いたい。そのためにここに来た。
 自分の左手に握り締めたカッターを取り上げるのが、正直一番しんどかった。とれないのだ、外れないのだ、解けないのだ、指を一本一本広げようとするのだけれども、解こうとする私の右手の力よりも、握り締める左手の力の方が何倍も上回っていた。そうしているうちに自分で自分に腹が立ってきて、壁にカッターを投げつけた。そして私はトイレを飛び出した。
 昨晩また救急車に世話になった折、もうこちらじゃ世話を見切れませんから、とはっきり言われた。長年かかってるという主治医に相談してください、と。でもその主治医は体調を崩し、10日まで一切連絡がとれない。その間、私はどうしたらいいのだろう。一応病院に電話を入れてはみる、が、予想通りの答えが返ってくるばかりで、私は結局途方に暮れる。
 結局、友人に付き添われ、病院へ。整形外科では長く長く待たされ、その挙句、傷口がくっつきあいすぎているから縫うことが不可能なのでテープで止めて何とか処置しましょうとのこと。さて。困ったのは、これからの日常生活。娘の食事を作るにも、頭を洗うにも何をするにも、両手を使う。濡らしてはいけません、といわれたって、どう頑張っても濡れるだろう。どうするのかなぁなんて他人事のように思いながら、私は、友人たちが待つ珈琲屋に駆けつける。
 窓の外広がる風景は、だだっぴろい空き地と、無造作に建ち並ぶ高層マンション。昔ここは空き地だった。だだっぴろいだけの単なる空き地だった。雨が降れば泥だらけになり、その泥地を選んで飛んで歩き、みんなで相手を押し倒して遊んだりもした。今はもう、そんな風景は、かけらも見ることはできないけれども。
 あっという間に時は過ぎ、彼女らと別れる時間がやってきた。またね、また会おうねと手を振り合って、右と左にそれぞれ分かれてゆく。そのとき遠くで、汽笛が鳴った。
 早く10日になってほしい。いや、実際10日になったからとて、私が主治医に何を話せるとも思えないのだけれども、少なくとも、この人はここにいて必ずここにいて、私がはなしだすことを待ってくれるのだ、と。

 寝付いた娘の寝相の大胆さを見ていると、よくもまぁこんなに動くものだと感心してしまう。一晩ビデオカメラでも設置して、大きくなったら彼女にプレゼントでもしおうかしらん。
 そう、大丈夫、明日もやってくる。必ずやってくる。そして朝が来て昼が過ぎ夕方を向かえ、そしてまた、次の朝を待つのだ。さをり、がんばれ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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