2004年10月28日(木) |
眠れずに朝を迎えた。首を傾げたくなるほどに眠気が全くない。目も耳も意識も、すっきりと澄んでいる。 寒いなと思いつつ窓を開け、南西の空を眺める。徐々に徐々に、左手の、或いは頭の向こうの空が明るくなってゆく。それにしたがって、南西の今私が見つめる空の雲の輪郭が、はっきりと空に浮かび上がって来る。地平線近くにたむろする雲たち。濃い鼠色の濃淡。そして、指先がどんどん冷えてゆくこの冷気。今年の秋はなんだかとても短い。あの眩暈を招く焦げるような日差しの夏が終わったかと思ったら、秋はちょこねんと街角に座ったお地蔵様のように目を閉じていて、そして気づいたらもう、冬の片鱗がそこここに見られる。街路樹の葉々は色づこうと慌てているが、ちっとも季節に追いついていない。まだ緑のままの葉が、それでも風に煽られて道端に散ってゆく。 娘を送った後、久しぶりにあの池のある公園へ出掛ける。朝の気配を感じた時、ふっと思いついたのだ。骨拾いをしよう、と。 公園の端に自転車を止め、私は視線を地面に落とし、ゆっくりと歩く。桜の樹の下には、見つけようと思わなくてもたくさんの枝が折れて落ちていた。ひとつひとつ、拾って歩く。あっというまに片手がいっぱいになり、私はそのたび、自転車の荷籠にそれをさしこみ、また歩く。持ってきていたビニール袋には、山のように降り積もった赤や黄色の葉を入れて。 この枝は何だろう。この枝は誰だろう。別にそんなこと考えようと思ったわけではない。そういうわけではないけれど、一枝拾うたび、私の心にそんなことが浮かぶ。自然に浮かび上がる幾つかの友の顔。それは、もう二度と会うことの叶わない人たちの顔であることもあれば、電話ひとつで繋がる友の顔だったりもして、そうした顔が脳裏をよぎるたび、私は落としていた視線を空に向け、小さく息を吐く。元気ですか。生きてますか。この空の下の何処かで。そんなことを思う。 あっという間に荷籠はいっぱいになる。後ろの座席には袋から溢れんばかりの紅葉を、前の荷籠にはすれ違う人みんなが振り返りたくなるような枝の大束を載せて、私は自転車を漕ぐ。 家に戻り、思いついたまま、大きなシーツの半分で壁を覆い、残りの半分で畳を覆い。そのシーツの上で、私は拾い集めたものたちを組み立ててゆく。あれこれ考えず、思うまま、流れに任せ組み立てる。ざっくばらんに組み立てられた枝や葉の中に大きな生の花が欲しい。そう思いついて、思いついたまま私は外に走りだし、近所の花屋を物色する。あぁこの花がいい。二つの丸い形。今部屋で待っている枯れ枝たちの中でもかき消されることがないだろう大きな大きな丸い花。 部屋に戻って枯れ枝の中に適当にその二本の花をさす。すると、枯れ枝や枯れ葉たちがいっせいに背を伸ばした。それはほんの一瞬の出来事で、私は息を呑む。突然、枯れ枝たちが生き返ったように見えた。 そうして作った私の背丈とたいして変わらない程度の枯れ枝たちの山。足元には拾い集めた幾つもの、まだ湿り気を感じる紅葉たち。なんだかまるで、祭壇のように見える。誰の命を讃える祭壇だろう。名前などなくてもいい、名前など知らなくてもいい。耳を澄ますと、私が今すれ違った誰かの命を、讃える唄が聞えてくるような錯覚を覚える。それは決して遠い声じゃなく、今この時この空の下の何処かで生きているだろうたくさんの人たちそれぞれへの讃歌のような。
「あの子たちは自分たちの傷や悲しみを忘れるのだろうか、それとも逃避や抵抗の手段をこしらえるのだろうか? どうやら、こうした傷を忘れずに持ちつづけることが人間の特徴らしい。そのため、人間の行為が歪められてしまう。人間の心は、害われず、傷つかないままでいることができるだろうか? 害われないこと、それが無垢ということだ。もし害われなければ、あなたは自然に、他人を傷つけないようになるだろう。だが、これは可能だろうか? 私たちが生きている文化は、実に深く精神や心を傷つける。騒音と汚染、攻撃と競争、暴力と教育------、これらすべてが苦悩をもたらすのだ。それでも私たちは、この野蛮な障害だらけの世界で生きていかなければならない。私たちが世界であり、世界は私たちだ。害われるのは、いったいなんだろうか? みなそれぞれがつくりあげた自分自身のイメージ、それが害われるのだ。奇妙なことに、こうしたイメージは多少の違いはあるが、世界中どこでも同じものだ。あなたが抱いているセルフ・イメージ、その実体は、千マイルも離れた人がもつイメージと同じである。だから、あなたはあの男であり、あの女でもあるのだ。あなたの傷は他の何千という人々の傷だ。あなたは他者なのだ。 害われなということは、可能だろうか? 傷のあるところ、愛はない。害われたところでは、愛は単なる楽しみにすぎない。もしあなたが害われていない美しさを自分で発見することができたら、そのとき初めて、過去に受けた傷は消えていく。現在が充実しきったとき、過去の重荷も消える。 (中略)…この全体の動きを理解しなさい。ただ単に言葉だけではなく、内奥への洞察をもつことだ。なにひとつ保留することなく、構造の全体に気づきなさい。その真実を見ることによって、あなたはイメージをつくることをやめる。」 (「クリシュナムルティの日記」著クリシュナムルティ(めるくまーる刊)より)
今を充分に生きるということ、生きていれば起こり得る様々な障壁を意識して乗り越えようとか抵抗しようとか思うのではなく、あるがままに受け止め同時に流れ去るままに手離し、そうしてあるがままに生きてゆくということ。そして、それを意識せず、自ずから為すことができるようになること。
数日前から右手親指の腹に刺さったままだった棘が、ようやくとれる。祭壇を片付け終えた部屋で大きく伸びをして、なんとなく見やった空は、すでに淡く桃色に染まっている。やがて日が暮れるのだ。多分今夜は眠れるだろう。夜には眠り、朝再び目覚める。私の毎日は、そうして降り積もる。 |
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