見つめる日々

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2004年10月28日(木) 
 眠れずに朝を迎えた。首を傾げたくなるほどに眠気が全くない。目も耳も意識も、すっきりと澄んでいる。
 寒いなと思いつつ窓を開け、南西の空を眺める。徐々に徐々に、左手の、或いは頭の向こうの空が明るくなってゆく。それにしたがって、南西の今私が見つめる空の雲の輪郭が、はっきりと空に浮かび上がって来る。地平線近くにたむろする雲たち。濃い鼠色の濃淡。そして、指先がどんどん冷えてゆくこの冷気。今年の秋はなんだかとても短い。あの眩暈を招く焦げるような日差しの夏が終わったかと思ったら、秋はちょこねんと街角に座ったお地蔵様のように目を閉じていて、そして気づいたらもう、冬の片鱗がそこここに見られる。街路樹の葉々は色づこうと慌てているが、ちっとも季節に追いついていない。まだ緑のままの葉が、それでも風に煽られて道端に散ってゆく。
 娘を送った後、久しぶりにあの池のある公園へ出掛ける。朝の気配を感じた時、ふっと思いついたのだ。骨拾いをしよう、と。
 公園の端に自転車を止め、私は視線を地面に落とし、ゆっくりと歩く。桜の樹の下には、見つけようと思わなくてもたくさんの枝が折れて落ちていた。ひとつひとつ、拾って歩く。あっというまに片手がいっぱいになり、私はそのたび、自転車の荷籠にそれをさしこみ、また歩く。持ってきていたビニール袋には、山のように降り積もった赤や黄色の葉を入れて。
 この枝は何だろう。この枝は誰だろう。別にそんなこと考えようと思ったわけではない。そういうわけではないけれど、一枝拾うたび、私の心にそんなことが浮かぶ。自然に浮かび上がる幾つかの友の顔。それは、もう二度と会うことの叶わない人たちの顔であることもあれば、電話ひとつで繋がる友の顔だったりもして、そうした顔が脳裏をよぎるたび、私は落としていた視線を空に向け、小さく息を吐く。元気ですか。生きてますか。この空の下の何処かで。そんなことを思う。
 あっという間に荷籠はいっぱいになる。後ろの座席には袋から溢れんばかりの紅葉を、前の荷籠にはすれ違う人みんなが振り返りたくなるような枝の大束を載せて、私は自転車を漕ぐ。
 家に戻り、思いついたまま、大きなシーツの半分で壁を覆い、残りの半分で畳を覆い。そのシーツの上で、私は拾い集めたものたちを組み立ててゆく。あれこれ考えず、思うまま、流れに任せ組み立てる。ざっくばらんに組み立てられた枝や葉の中に大きな生の花が欲しい。そう思いついて、思いついたまま私は外に走りだし、近所の花屋を物色する。あぁこの花がいい。二つの丸い形。今部屋で待っている枯れ枝たちの中でもかき消されることがないだろう大きな大きな丸い花。
 部屋に戻って枯れ枝の中に適当にその二本の花をさす。すると、枯れ枝や枯れ葉たちがいっせいに背を伸ばした。それはほんの一瞬の出来事で、私は息を呑む。突然、枯れ枝たちが生き返ったように見えた。
 そうして作った私の背丈とたいして変わらない程度の枯れ枝たちの山。足元には拾い集めた幾つもの、まだ湿り気を感じる紅葉たち。なんだかまるで、祭壇のように見える。誰の命を讃える祭壇だろう。名前などなくてもいい、名前など知らなくてもいい。耳を澄ますと、私が今すれ違った誰かの命を、讃える唄が聞えてくるような錯覚を覚える。それは決して遠い声じゃなく、今この時この空の下の何処かで生きているだろうたくさんの人たちそれぞれへの讃歌のような。

「あの子たちは自分たちの傷や悲しみを忘れるのだろうか、それとも逃避や抵抗の手段をこしらえるのだろうか? どうやら、こうした傷を忘れずに持ちつづけることが人間の特徴らしい。そのため、人間の行為が歪められてしまう。人間の心は、害われず、傷つかないままでいることができるだろうか? 害われないこと、それが無垢ということだ。もし害われなければ、あなたは自然に、他人を傷つけないようになるだろう。だが、これは可能だろうか? 私たちが生きている文化は、実に深く精神や心を傷つける。騒音と汚染、攻撃と競争、暴力と教育------、これらすべてが苦悩をもたらすのだ。それでも私たちは、この野蛮な障害だらけの世界で生きていかなければならない。私たちが世界であり、世界は私たちだ。害われるのは、いったいなんだろうか? みなそれぞれがつくりあげた自分自身のイメージ、それが害われるのだ。奇妙なことに、こうしたイメージは多少の違いはあるが、世界中どこでも同じものだ。あなたが抱いているセルフ・イメージ、その実体は、千マイルも離れた人がもつイメージと同じである。だから、あなたはあの男であり、あの女でもあるのだ。あなたの傷は他の何千という人々の傷だ。あなたは他者なのだ。
 害われなということは、可能だろうか? 傷のあるところ、愛はない。害われたところでは、愛は単なる楽しみにすぎない。もしあなたが害われていない美しさを自分で発見することができたら、そのとき初めて、過去に受けた傷は消えていく。現在が充実しきったとき、過去の重荷も消える。
 (中略)…この全体の動きを理解しなさい。ただ単に言葉だけではなく、内奥への洞察をもつことだ。なにひとつ保留することなく、構造の全体に気づきなさい。その真実を見ることによって、あなたはイメージをつくることをやめる。」
(「クリシュナムルティの日記」著クリシュナムルティ(めるくまーる刊)より)

 今を充分に生きるということ、生きていれば起こり得る様々な障壁を意識して乗り越えようとか抵抗しようとか思うのではなく、あるがままに受け止め同時に流れ去るままに手離し、そうしてあるがままに生きてゆくということ。そして、それを意識せず、自ずから為すことができるようになること。

 数日前から右手親指の腹に刺さったままだった棘が、ようやくとれる。祭壇を片付け終えた部屋で大きく伸びをして、なんとなく見やった空は、すでに淡く桃色に染まっている。やがて日が暮れるのだ。多分今夜は眠れるだろう。夜には眠り、朝再び目覚める。私の毎日は、そうして降り積もる。


2004年10月24日(日) 
 夜風がしゅるると滑り込む窓辺。ぼんやりと街路樹を眺めていると、背後で声が。「どんぐりは?」。眠ったはずの娘の声。多分寝ぼけているのだろうと思いつつ、咄嗟に返事をしてしまう。「いっぱいあるよ。宝箱にちゃんと入ってるよ」。安心したのか、娘はぐるりんと寝返りを打ちつつも再び眠りに落ちてゆく。そおっと頭を撫でてやると、いっとき高くなっていた寝息も、すぅっと静かになる。
 台風が暴走したり、地震が押し寄せたり。何処を見ても何かしらおかしなことが起きている。地球が怒っているんじゃなかろうかと、暢気な私でさえ思ってしまうほど。今この時、私のいるこの場所が襲われたなら。そう考えると喉を締め付けられるような苦しさを覚える。私は娘を守りきれるだろうか、守って無事に明日へと送り出せるだろうか。そういえば、娘が今朝気になることを言っていた。港へ向かう急な坂を下りながら、「ねぇママ、ここにいっぱいいた大きな蜘蛛、みんないなくなっちゃったねぇ」。この坂の途中には、これでもかというほど蔦が絡まる壁があり、その蔦のあちこちに、この夏、蜘蛛が糸をはっていたのだ。それはもう、思わず車道の方へ身を寄せたくなるほどに夥しい数の蜘蛛がいた。その蜘蛛たちが、いつのまにかみんないなくなっている。一生懸命目を凝らして探してみてもいない。娘には、何処に行っちゃったんだろうねぇと答えたが、私は心の中で、蜘蛛も鳥もみな、何処かでこの世界の異変を感じているのだろうかと呟かずにはいられなかった。

 夢は少しずつ変化をみせる。加害者たちが生きて笑っていてそれをこちらから見つめる私は死んでいるという構図が、いつのまにか、加害者たちが生きて笑っていて、そのことは前と変わらないけれども、彼らがいる世界は明るくて、こちらからそれを眺める私は一応生きてはいるけれども、向こうの光溢れる世界とは違って、この夜のような色をまとった世界、天も地もない無重力の世界に、私がいるかのような。
 どうして夢の中で、私は向こうの世界を見つめているのだろう。どうして背を向けないのだろう。そんなに羨ましいのだろうか。でも、夢の中で向こうを見つめる私の中に、何処を探しても羨望はないのだ。そのことが、納得がいかない。
 羨ましくて見つめずにはいられないというのなら、分かる気がする。でも、夢の中の私はそうではないのだ。私が今現実にそうであるように、夢の中で私は、向こうの世界はもう私の世界ではないと割り切っている。諦めているのではない、いや、確かに一種諦めているのかもしれないが、それよりも、割り切ってしまっているという言葉の方が当てはまる。でも、そうまで割り切っているのなら、何故なおも向こうの世界を見つめるのだろう。
 憎しみとか怒りとか、そういうものを明確に持てる方が、納得がいく。たとえば、夢の中の私は、あんなことをしておきながらへらへら笑っている人たちが許せないと考えているという構図。そうだったら、すぐに納得できる。ああいう出来事があったのだ、そうだからこそ、私は相手を憎まずにはいられないのだ、と。そしてそれは、正当な思いなのだから、何も私が落ち込む必要もないし、それはそれとして認めればいい、と。
 でもそうじゃない。うまく表現できないが、私は、もう仕方がないと割り切ってしまっている。少なくとも、それが私の大事な愛する人たちの身の上に起きた出来事じゃなくてよかったと、心底思ってしまっているし、自分が加害者になるくらいなら被害者であってよかったとも思う、そしてまた、こういうことを経たからこそ知ることができた今の世界に、或る意味で私は満足してしまっている。それが、そのことが、私には多分、何よりも納得できないのだ。
 夢の中で私は死んでいるという構図の方が、ずっと分かりやすかった。でもこの頃見る夢は違うのだ、私は生きている、確かに暗い世界かもしれないが生きている。そして、死が訪れるその日まで生き続けることに何の疑問も持っていない。
 そう、私はここで、加害者たちの今現在に納得できないというよりも、むしろ、今現在私が至ってしまったこの自分の心境に、納得できないのだ。どうして? もっと怒ったっていいじゃない、もっと憎んだっていいじゃない、どうしてもっと怒らないの? どうして怒らないの? どうして仕返ししないの?! と。
 でも。
 そんなことして一体何になるんだろう。そんなことを思って生きて、一体何が産まれる? 何も産まれない。それどころか、擦りへって擦りへって、心が歪んでゆくばかりだ。歪むくらいなら、いっそ、そんなもの、割り切って、乗り越えてしまえばいい、と。私はそう思っている。
 思いながら、同時に、納得がいかない、それが多分、今の私。
 まるで嘘八百のきれいごとに見えてしまうのだ。自分の状態が。自分の心のこの在り様が、きれいごとに見えてしまうのだ。
 人間、そんなもんじゃない、もっとどろどろした代物だ、だから私だって、私の中を探したらきっと、これでもかってほど憎しみや怒りに塗れた何かが出て来るに違いない、と。
 でも、掘っても掘っても出てこない。出てこないことが、信じられない。どうしてこんな、淡々とした気持ちになってしまえるの? それが、信じられない。
 どうどうめぐりだ。

 ふと見ると、雲間から半月がのぞいている。明るく澄み切ったその色に、しばし私は目を奪われる。
 自分という代物が、もしかしたら一番厄介なものなのかもしれない。自分とつきあうことほど梃子摺るものはないのかもしれない。

 向こうから声がする。「ミミズさん、もう大丈夫よ」。娘の寝言に思わず笑ってしまう。昨日遊びに行った実家で、道路でうろうろしていたミミズを見つけたのだ。もうずいぶん弱っていて、自分で土を掘るのも億劫なようだった。それを見て、母がミミズに土をかけてやる。「こうやって土をかけてあげるとね、ミミズは心安らかになるんですって。そうするとね、エネルギーが沸いてきて、また元気になれたりするそうよ」。私と娘は、ミミズの上にかけられた土を、しばらくじーっと見つめていた。「ママ、ミミズさん、もう元気になったかな?」「うん、もう元気になったかもよ」。そしてそのとき、彼女が言ったのだ、「ミミズさん、もう大丈夫よ、土かけてあげたからね」。
 ミミズには土、じゃぁ人間には何?
 半月は少しずつ西の空に傾いてゆく。とりあえず私は毛布を被って眠ろうか。大好きな娘の隣で。


2004年10月19日(火) 
 プランターに水をやる。先が綻び始めた黄色い蕾に、しゃわしゃわと如雨露からの雨を降らすと、ぷるりんと丸い水玉ができる。水玉をのぞきこめば、そこにはもう一つの、小さな小さな空が在る。すっかり秋の雲に覆われたこの頭上の空が、こんなにも小さくこの水玉にも移り住む。それが楽しくて、葉の上にできた幾つもの水玉もひとつひとつのぞいてみる。どの水玉にも一つ一つ空があって、その空は多分、無限に広いのだった。大き過ぎる私には入れないけれども、そこに、もう一つの世界が在る。そんな気がする。
 初めて会った人にたいがい言われる私という像は、人見知りなんてとてもしそうにない、がははと笑う豪快な人。文章や作品から受け取られるとてつもなく細くちりちりと神経質な人影はそこには皆無で、だから私が、今も一週間に一度の診察を要して病院通いを続けているなんて信じられることはない。そのあまりのギャップを笑って欲しいから、私はさらに元気に快活になる。その人の前でどれだけ豪快な私を晒すことができるのかに懸命になったりする。
 豪快な私も私。人見知りなんてとてもしそうにないと誰かに思わせるほど勢いよく元気な私も私。機関銃のようにぺらぺらと喋りながら大きく口を開けて笑い転げているのも私。間違いなくそれらは私であって、だから、誰かにそう受け止められるという私の像は、決して間違ってはいない。でも、不快感を覚えるほどに神経質なのだろう姿も実は私。病院をいまだに必要としている生活を送っているという私も、間違いなく私の中の私。
 どちらかが本当でどちらかが嘘、そんな単純なものじゃぁない。まるで正反対に、ばらばらに見える像であっても、実はそれらは、私の中心で繋がっている。
 だから私は時々、自分でもパンクしそうになる。
 笑って欲しい、笑い飛ばして欲しい、昔あんなことがあったなんて信じられないと誰も彼もに笑い飛ばして欲しい。だから私はどんどん豪快になる。誰かの前で、どんどんどんどんあっけらかんと自らを笑い飛ばす。
 もしかしたら、もしかしたら、そうやっているうちに過去にあった出来事なんてぜーんぶ嘘だったと誰かが言ってくれるんじゃないかと。あり得ないことをほんの一握りだけれども心の中に持って。こうやって笑っていれば、過去は全部嘘になる、いや、嘘にならないまでも、せめて「それっぽっちの」ことになる。そんな気がするから。
 でも、ならないのだ。嘘にもそれっぽっちのことにも。なってはくれないのだ。だから、ひとりきりになったとき、どさっと音を立てて頭上に落ちて来る。一体自分は何をやってるんだろうという思いが。笑い飛ばして逃げようとしている自分を、過去が捕らえにやってくる。そして誰かの声がするのだ、無理だよ、所詮一時の夢だよ、あり得ない話だよ、ほら、君が背負う荷物はここにどっさり在るのだから、と。
 私は充分に知っている。私は私のこの荷物を引き受けて歩いてゆくしか術はないのだということを。だから唇を噛む。軽薄なふりを何処までも装おうとした自分を呪うように。

 「先生、加害者たちがみんな笑ってる夢を見るんです。繰り返し。それを斜め上から俯瞰している私はもう死んでいて、でも、加害者たちはみんな笑って生きてるんです」
「…」
「強姦したといったんは認めた人たちが掌を翻すようにしてそんなことはなかったと言った、そんな人たちがのうのうと生きていて、私はもう死んでいる」
「…のうのうと生きているかどうかは分からないわよ」
「ええ、それも承知してるんですが、でも、夢の中ではそう見えるんです。だから思うんです、こんなのやられ損じゃぁないかって」
「…」
「彼らはみな、かつてあったあのことを忘れ去っていて、私だけが覚えている。覚えてへたってるのは私ばかりで、彼らは全然そんなことはない」
「…」
「だから思うんです、だったら私も忘れてやる、そうしたら全部なかったことになるんじゃないかって」
「…」
「分かってます、そんなことあり得ないってこと。忘れることなんてできないんだから引き受けて歩いてゆくしかないってことも、それも充分に分かってるんです。分かってるんだけど」
「…」
「納得がいかない」
「…」
「どうして彼らはのうのうと生きていて、笑っていて、私はこんな地べたを這いつくばるようにして必死こいてるのか、納得がいかない。納得いかないから、だったらせめて、すべてをなかったことにしてしまいたい。そうするには知らないふり、何もなかったふりを私もすればいいんじゃないかって、そう思いたい自分がいる」
「…のうのうと生きているかどうかは分からないでしょう?」
「いや、だから、分かってるんです、あくまでこれは夢で、現実じゃぁないって。でも、まるで生々しい現実のように夢が繰り返されるんです」
「…」
「気づくと、いろんな場面でからからと笑ってる自分がいる。平気さ、何もなかった、すべては夢だった、私の人生はこんなにも笑い飛ばせる軽い代物だった、って、そんなふうに思いたい、思おうとしている自分が明らかにそこにいる」
「…」
「そうして、気づけば、どんどん自分が離れていくんです。笑い飛ばす自分と、苦汁を飲んで喘ぐ自分と、そして、そうした自分たちを斜め上から俯瞰する私とが。三角形を作るような位置で、どんどんそれぞれが離れていく。私が裂けてゆく、そんな気がする」
「…」
「…」
「夢に引きずられないようにしないと」
「夢に引きずられてますか」
「ええ、そう見えるわね」
「…」
「それから、できるだけ緊張する場に自分を持っていかないようにしてみて。人に会うという場面も含めて」
「…そうですか」
「そうね。まずは、夢に引きずられないように。自分の現実を生きないと」
「…はい」

 私は私の夢の中で、自分が裂けてゆく様子をじっと見つめている。目を逸らすことを禁じられたハムスターのように、小刻みに震えながら、ぶるぶると震えながら、でもじっと、じっと見つめている。夢は、もうあと半歩後ろにそれぞれが下がったなら二度と繋がることはできない、そんな位置に私と私と私が離れゆく、そんな場面で終わる。
 そんな夢の繰り返し。
 夢に現実は蝕まれるのだろうか。それとも、これも夢か。じゃぁ一体どれが現実なのか。

 ああ、現実をありのままに受け止めることの、なんと難しいことか。
 そして。こんなことを言いながら同時に思うのだ、もし自分がもう一度生まれ変わることがあるのなら。多分同じ人生を選ぶだろうとまっすぐに思うのも、これも本当の私だと。

 こういうときは、単純作業がいい。ただひたすら同じことを小さな同じ動作を黙々と続けるのが。だから私は、作りかけのポストカード集を梱包し続ける。一枚、二枚、三枚、十二枚の絵柄を一枚ずつ手に取り、袋に詰めてシールでとめる。百の袋は気づけば空っぽになり、私の手元には残骸だけが散らばっている。
 余計なことを考えるのはやめよう。いや、やめようとしたってやめられないのだから、せめて意識的に、自分の生活の方へ目を向けよう。
 たとえば夕飯。何にしようか。たとえばお風呂、今日は何色の入浴剤を入れようか。たとえばシーツ。今日はタオル地にしようかそれとも。
 生活をこうやって一つ一つ組み立てて、私は。
 迷子にだけはなるまいと片方の拳を握り締めた幼女のように、ぐしゃぐしゃになった地図を広げる。大丈夫、ぐちゃぐちゃになってはいるけど、まだ地図は読み取れる。私は次の角を曲がって、そのまま歩いていけばいい。だから。

 開け放した窓の向こうには、今日も夜闇が広がっている。オレンジ色の街燈に照らされて、街路樹も鈍色に染まって。大丈夫、まだ大丈夫。私はここに在て、街路樹も街燈だってちゃんとここに在る。そして今私が生きているのはこの場所なのだと言うことを、彼らが黙ってそこに在て教えてくれる。


2004年10月16日(土) 
 久しぶりに澄み渡る空。待ってましたとばかりに私は朝から何度も洗濯機を回す。その合間合間にプランターを覗き込めば、あちこちに蕾が。白に黄色に桃色に朱赤。あちこちの葉を撫でながら思う、今年の夏はどれほど彼らはしんどかっただろう。あちこちすり切れた葉、黄色く病んでしまった葉、何度も壁に当たって擦れたのだろう黒い傷のある茎。満身創痍とまではいかないものの、みな、ずいぶんと傷だらけの姿をしている。それでもすくっと立って日の光を一心に浴びようと空に手を伸ばす姿は、私の中にいる誰かの姿と重なって見える。この樹はあの彼女に似てる、あっちの樹はあの彼女に。私の中の幾つもの親しい顔たちが重なって、いっそう薔薇の樹たちがいとおしくなる。きっとこの空の下、彼女たちは今日も頑張って生きているだろう。そう思うと、私もしっかりせねばと思う。
 このところ離人感が酷いために、いっこうに本が読めない。仕方ないよなと思いつつ、諦めの悪い私はそれでも、一日に何度か本を開いてしまう。開くものの、やっぱり読めない。読めないということをびっしりとページを埋め尽くす字たちにそのたびつきつけられるのは、あまり気持ちのいいものじゃぁない。日記帳を開いて言葉を綴ろうとしても、なかなか前に進まない。今自分が書いた字がもう、他人の誰か或いは遠い何かにしか思えない。書くほどに迷子になる。今書いた「あ」という字の後に、私は何を書こうとしたのか、それさえ分からなくなる。そうやって悪戦苦闘しているうちに、一体私は何をしているのか、何をしていたのか、その境がどんどん遠くなる。やがて何が何だか分からなくなって、私は握っている鉛筆さえ他人のもののように思えて、溜息と一緒に鉛筆を置く。
 目を閉じると、そこには何故か最近いつも海が在る。砂浜のない海。埋立地の海。海岸線はだから何処も柵で覆われ、それを越えることは禁じられている。打ち寄せる場所を失った波は、あっちこっちの壁にぶつかり飛沫を上げる。それはなんとなく、自分に似ているように思える。それでもいつまでもいつまでも波は繰り返し壁にぶつかり、ぶつかって砕けるしかないというのにそれは永遠に続けられ。
 でも、徒労といわれようと何だろうと、私は多分、抗い続けるんだろう。いつか辿りつく砂浜を夢見て。それがどれほどの人に徒労だと教えられても。
 数日前から続く右半身の痛みに耐えかねて訪ねた病院で、私の腕の傷を見た医者が私にこんなことを言う。ずいぶんいろいろあったみたいですねぇ。だから私も答える、そうですねぇ、いろいろありましたねぇ、でももう昔です。じゃぁこの傷なんてずいぶん深く切っちゃったのねぇ。そうですかねぇ、覚えてません。縫わなかったのが不思議なくらいですね。そうなんですか、よく分からないです。きれいな腕なのだから、もう傷つけないであげてくださいね。きれいな腕ですか、はっはっは、思ってもみませんでした。きれいな腕だと思いますよ、私は。はぁ、すみません。いえ、私に謝ることじゃぁないですよ、ははは。そうでした、ははは。
 そうして終えた診察の後、処方された漢方薬ニ種は、臭いし苦いしで、飲むたびに顔をしかめずにはいられない。そんな私を面白がって、娘がこれらの漢方薬を飲むときを妙に楽しみにしている。ママ、このお薬まだ飲まないの? お食事の後ね。またおいしくないんでしょ? うーん、薬っておいしいのないよね、薬だからね。ふぅん。でもおいしくなくても飲まなくちゃいけないんでしょ? うーん、そういうことだね。ママはお薬たくさんあるねぇ。ははは、あるねぇ。今度先生に、ママはいっぱいゲボするんですって言っとくね。えっ、やだ、言わないで。どうして? 恥ずかしいじゃん。そうなんだ、じゃぁ秘密にしとくね。うん、秘密にしといて。秘密にしといてって言ったって、多分彼女は喋ってしまうだろうと思いつつ彼女の横顔を見つめれば、実に正直に、わくわくした表情をしている。あぁやっぱり。苦笑しつつ白湯に漢方薬を溶く。ママ、早く飲んで、ほら、飲んで。私は思いきり顔をしかめながら、それを一気に飲み干す。

 たったこれだけのことを書くのに、私は一体何時間を要しただろう、いや、何日を要したのだろう。すべてが泡のように消えてゆく、掴もうとしてもするすると逃げて散るシャボン玉のように。

 気がつけば真夜中。開けたままの窓からは、時々往き過ぎる車の音が入ってくる。通りの向こうに立つ街路樹も街燈も、しんしんと。小さな風に時折揺れる葉々だけが、私に刻々と過ぎる時間を教える。ちょっと油断すると、この景色さえ遠いものに思えてしまう。私の肌を往き過ぎるこの風の匂いも。


2004年10月10日(日) 
 観測史上最大という台風が通り過ぎていった。まだこの街に台風がいる最中、表通りの街路樹の先が雨飛沫で殆ど見えなくなるほどだった。街路樹はもちろんこれでもかというほど撓り、街灯は上下左右に揺れ続けていたけれども、こちらがその状態に呆気にとられているうちに、台風は通り過ぎてしまった。そして残ったのは、アスファルトのあちこちに散らばる木の葉や塵、そしてこの静けさ。まるで地球の上、ぽっかりとただ一人、この場所に取り残されたような、そんな静けさ。誰もいなくなった街にただ一人、取り残されたような心細さが、私の中でちろちろと揺れる。

 まだ離婚する前、元夫に私はよくこんなことを言った。もし娘が私と同じ目にあってしまったらどうしよう。そのたび元夫は鼻で笑った。遭う訳がない。どうして? 絶対に娘はそんな目には遭わない。だからどうして? どうしても。そんな元夫に、私はそれ以上何も問いかける言葉を持たず、一人黙り込むのが常だった。
 ここのところ繰り返し見るあの体験に纏わる幾つもの夢、そしてその夢から醒めて私が一番最初にこの世界で見るものは娘の寝顔だ。それはとても穏やかな、いつだって穏やかな寝顔。そして私は思ってしまうのだ。もしこの子が同じ目に遭ってしまったら。あまりに彼女の寝顔が穏やかで、だから、恐いのだ。もし同じ目に彼女が遭ってしまったら、と。
 元夫が言いたかったのだろうことは、私にも何となくは分かっていた。呆れるほど生命力の強い、そして慎重なこの娘が、私が出会ったようなあんな体験にみまわれることはないだろう、と、彼は多分、この子の生命力を信じろと、私に言いたかったのだろう。それは理屈でも何でもなく。
 でも。
 私だってかつては、そんな子供だったのだ。周囲が呆れるほどにエネルギーを漲らせ、これでもかというほど強気で突っ走る、そんな子供だったのだ。そんな子供だった私が、大人になって、ああいう体験に襲われた。
 だから、私はどうしても、不安を拭えないでいる。もしも、もしも、と。それはもしもと思ってしまうだけで私の心臓を抉るに近しい、あまりにも恐ろしい想像だと自分でもわかっているのに。
 もしそんなことがあったら。私はどうするだろう。彼女はどうなるのだろう。私は彼女を支え続けられるだろうか。いや、そもそも支えられるのだろうか。彼女は生き延びてくれるだろうか。私がこんなふうに生き延びたように、生き延びてくれるだろうか。
 私は何人もの友人が死へダイブするのを見送ってきた。その中の一人に、彼女もなってしまったら。そうしたら私は。
 考えるだけで恐ろしい。おかしな話だが、もし私がもう一度、この人生において、似通った体験を経ることが運命付けられていたとしても。私は多分大丈夫だろう。かつて生き延びたように、きっと私は生き延びる。おかしな話だが、そんな確信が私の中にはある。けれど。それは、実際ここまで生き延びてきた自分がいるからそう思うのだ。ここまで生き延びてくるのがどれほど難しかったか、どれほどしんどかったか、いやというほど思い知っている、だから、もう一度同じ体験を経たら私はきっととてつもなく打撃を受けるだろうことも分かる、けれども。けれども私は、きっと生き延びる。生き延びることができる。でも。彼女は。
 私は恐い。自分がまたそんな体験を経る可能性を持っていることが恐いのではなく、彼女がもしかしたらそんな体験を経ざるを得ない可能性を秘めているということが。何よりも、何よりも恐い。
 だから私は、自分がかつての体験に関係する夢を見るたび、そんな夢を見て目を覚ますたび、どうしようもなく辛くなる。不安になる。今隣でこんなにも穏やかな寝顔を浮かべる彼女が、もしも、もしも同じ目にあってしまったら、と。そして途方に暮れるのだ。そんなこと想像したって何の足しにもならない。足しにならないどころか足枷になる。なら想像することなんて止めてしまえばいい。止めてしまえば。
 でも、その想像を止めることができないのが、そんな体験を実際に経てしまった私なのだ。私にもあり得ないことが起きたように、彼女の身の上にもあり得ないはずのことがそうやって起きてしまうのかもしれないじゃないか、と。

 想像して哀しくなる。途方もなく哀しくなる。そして私は唇を噛む。想像してしまう自分を呪う。そして再び彼女の脇に横になる。横になって、彼女の掌やほっぺたに何度も何度もキスをする。何もできないから、私には何もできないから、だから必死にキスをする。お願いだから彼女を守ってと。そう思いながら何度も何度もキスをする。

 今夜、私の隣に彼女はいない。じじばばの家にお泊りするんだと彼女が決めた。だから彼女をじじばばに預けて、私は一人、この部屋で夜を越える。きっと今頃、じじばばの間で眠っているだろう彼女を、私はぼんやり思い描く。明日迎えにゆくまで、どうぞ彼女の心が穏やかであったかくて楽しいものでいっぱいでありますように。そう祈りながら。
 部屋はしんと静まり返っている。開け放した窓の外も。街路樹の葉々たちも、今は時々そよと揺れるばかり。夜はしんしんと、そうして更けてゆく。


2004年10月05日(火) 
 降り続く雨。真夜中を過ぎた今も、雨は止まない。夏の間中、風で右方向へ傾いでいた街路樹が、昨晩から左方向へ傾ぐようになった。街灯に照らされる何枚もの葉裏。それはなんだか、幾つもの人の手のように見える。南へ南へ。傾ぐ樹々。
 灼熱地獄のような夏が過ぎ去ったと思ったら、突然夜気が冷たくなった。朝の冷気も、足元からじわりじわりとやってくる。それは私の心をとくんと脈打たせる。もうじき冬が来る。その予感が、私を脈打たせる。
 今朝ベランダに出ると、そこに嬉しいものを見つけた。桃色の薔薇の蕾だ。いや、桃色と表現しても充分ではない、その色は澄みきった朝の風にとても似合う、やわらかな、同時に透明な色だった。挿し木して一年半が過ぎる。その木がようやく一つの蕾をつけたのだ。指先でそっと蕾の先を触ってみる。冷え切った蕾が、私の指先から私の内へと伝染する。意識を集中させないとすぐに失ってしまうような微かな痺れが、指先の一点から、私の内へ内へ伝わってくる。それは新しい息吹の歓びの唄のようで。私はどきどきする。なんだかそわそわしてくる。新しい息吹が自分のすぐそばで息づいている、それだけのことかもしれないが、その蕾の存在が、私に自分が今生きていることを教えてくれる。
 病院でこの一週間のことを話す。表情がまるで自分とかけ離れたところにいるように感じること、繰り返し現れる夢のこと、二つに引き裂かれる心と同時に遠く離れた場所にいる見えない何かのこと、本を読もうとしても文字が認識できないこと、日記を書き始めるものの自分の書き出す文字がどうしても言語として認識できなくなってしまうこと、「私」というものがとんでもなく遠くに放られているように感じること。思いつくままに話す。話しながらも自分の中心軸が果たしてこの場所で良いのかどうか、私には全く自信がない。けれど、ここで口に出して自らそのカタチを再確認しないかぎり、私は前に進めそうにない。だから、懸命に一言一言を噛み締めながら話す。
 病院の帰り道、私は、少し楽になっている自分を見つける。いや、楽という言葉が当てはまるのかどうか。私は疲れきって、正直へとへとになって自分の部屋に戻り、普段決してしない、昼間から布団につっぷして横になるという行動をとってしまうのだけれども、でも、その分だけ、私は、自分の中心を手元に引き寄せられたような、そんな安堵感がある。
 そして今朝のことを思い出し、私はもう一度ベランダをのぞく。
 幾つも咲き誇る白薔薇の陰で、ひっそりと佇むピンク色の蕾。それは、私にこの花をくれた人がすでに私にその花束を贈ったことなど忘れ去っても、ちゃんとここに在るよと、私に教えてくれる。その人への、あの時のありがとうという私の気持ちを、いつまでも胸に持ってここにいるよ、と、蕾は小さい声で私に伝えてくれる。かつて誰かが私に贈ってくれた花、かつて誰かが私と繋がったその時。どんなに時が往き過ぎて、人の記憶が風化しても、ちゃんとここに在るよ、と。かつてただの一瞬であっても、私が世界の誰かと繋がった証に。
 私はじっと見つめる。ピンク色の蕾。ただじっと。
 そうだ、私がどんなにひどい離人感に苛まれようと、私はちゃんと世界と繋がっているのだ。世界と繋がった一個の存在であるのだ。それを忘れちゃぁいけない。私はもう一度朝のように手を伸ばす。手を伸ばして、右手の人差し指でそっと、蕾の先に触れてみる。大丈夫、まだやれる。私は大丈夫。

 降り続く雨。真夜中を過ぎた今も、雨は止まない。降りしきる雨。私の心臓は今も、そう、ちゃんと動いている。


2004年10月03日(日) 
 うなじがちりちりと焼け焦げるのを感じながら、一生懸命走る娘を応援する。ゴール直前で転んでしまい、涙する娘を慌てて迎えに走る。走る私の脳裏に、幾つもの映像がフラッシュバックする。子供の一年というのはなんて早く過ぎ去ってしまうのだろう。もっとゆっくり生きていいのだよともし私が口に出したとしても、止めることなどできない時計の針が、なんだか少し恨めしい。
 前日のあの肌を焦がすような日差しは嘘のように消え去り、今日は一日雨。窓の外から響いて来る行き交う車の音も、晴れた日とは違う音。アスファルトを濡らす雨を弾くようなその音。車の行き来が途絶えてしまったなら、もう何の音もしない。なんだか街の真中で取り残された子供のような気持ちになる。
 ふっと思いついてしまったことが、頭から離れなくなる。娘が独立した後、私は一体どんな暮らしを営めばよいのだろうというその一事。そんな先のこと今から考えたって何の足しにもならないと何度も思ってみるのだけれども、一度刻み込まれたその不安な思いが、どうしても脳裏から消えてくれない。私はどうするんだろう、どうなるんだろう、今からそのときの準備をするべきなのだろうか、準備をするとして、一体どんなことを準備すればいいのか。
 私はただ、途方に暮れる。

 悪夢というのはたいてい繰り返し訪れる。一度きりならば記憶から或いは意識から拭い去ることもできようが、繰り返し繰り返し現れるその映像は、どうやっても私の中に刻み込まれてしまう。それが苦しい。
 それはあの、加害者の顔。いけしゃぁしゃぁと、あの時はごめんねと言ってのける、その能天気な顔。昨日も一昨日もその前の日も、私のただでさえ浅い眠りを侵食する。何の曇りもなく、すかんと笑って、あの時はごめんよと。私は血反吐を吐く思いで、その夢から自分を引き剥がす。目を覚ました私を待つのは、黒々とした天井と、枕元に置かれた時計の秒針の音。そんなとき、胸の中は荒れ狂う嵐なのに、私の意識はやけに冴え冴えとしていて、物音一つしないのだ。激情に任せて絶叫し髪を振り乱して泣き叫びたい私と、その一方で、すべてを淡々と受け止め感じるすべてを無音にしてただそこに存在するばかりの私と。あまりにその二つはかけ離れていて、私は自分の体がめりめりと引き裂かれる思いを味わう。けれど、体は決して引き裂かれることはないのだ。引き裂かれるのはこの体ではなく私の心。私の意識。引き裂かれることさえできない私の体と、引き裂かれるばかりの私の心とを、一体どうやって一つのものとして抱きとめたらいいのだろう。私は、流れ落ちることのない溜まる一方の涙にくれる。

 何を思い浮かべるでもなくただぼおっとして珈琲を口にしていると、娘が突然話しかけて来る。どうしたの、ママ。
 だから思いきって正直に言ってしまうことにする。あなたが結婚して独立したら、ママはどうするんだろうなって思ってたの。一人になったら、私はどう暮らしていけばいいのかな、って。
 すると彼女がためらいもなく答える。あのね、結婚はね、男の人と女の人がしなくちゃいけないの、だからママとは結婚できないけど、でもあぁこは、ママのことちゃんと覚えてるから。ママのこと好きって覚えてるから。
 彼女に悟られないよう、私はとりあえずにっと笑って、彼女を抱きしめる。抱きしめながら、私は、ありがとうという気持ちの一方で、ひどく切ない気持ちがしていることを、いやというほど味わう。

 あの加害者の顔から芋づる式に記憶から引っ張り出される幾つ物顔、顔、顔。それは私の心臓に杭を打ち込むような代物で、だから私は、胸苦しくて、突っ伏してしまいたくなる。けれど、一度それをしてしまったら、立ち上がるのにまたひどく時間を要してしまうから、私は何とか突っ伏すことなく、必死になって両手両足で体を支え、台所に立ってみる。自然に伸びた右手が、包丁を握る。だから私は、まな板の上に自分の腕の代わりに大根を置き、ただ一心に大根を切る。切って切って切って切って、そうして切り刻んだ大根を鍋に放りこむ。やがて鍋の中で大根は煮立ち、私はもう余計なことを考えないよう、だしをいれ、味噌を溶かす。私の腕の代わりにされた大根は、そうやって夕食の時、テーブルに並べられる。私は無言で、ただそれを食べる。
 そして思う。
 私が今口にいれたのは、私の腕だろうか、それとも加害者たちの腕だろうか。私が今噛み砕いたのは、私の骨だろうか、それとも。

 窓の外、雨は降り続ける。私は多分、少し、疲れている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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