見つめる日々

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2010年10月07日(木) 
真夜中、とうとう起き上がる。目が覚める。それもそうだろう。眠るとき、娘が突然、私の足の下に潜り込み、今日はここで寝る、と言い出した。つまり、私の足を布団代わりにして寝る、というのだ。それは重たくて無理だろう、と言うのに、全然聴かない。私の足を抱きしめて離さない。そうしているうちに寝息を立て始めてしまった。仕方なく、私はそのままの体勢で横になっていたのだが。まぁじきに手を離すだろうと思っていたのが甘かった。一向に手を離す気配がない。そうしているうちに一時間、二時間経ってしまった。もういい加減私の腹筋がもたない。そう思って、娘の手を無理矢理離し、足をどけ、起き上がる。さすがに二時間もすれば、娘は熟睡。手を解いても起きる気配はない。よかった。
それにしたって疲れた。足を半分上げたような、そんな体勢のまま横になっているというのは拷問に近かった。私は苦笑しながら娘の寝顔を見つめる。なんであんな体勢で寝たがったのか、私には全然分からないのだが、まぁ彼女には彼女の気持ちがあったんだろう、そう思うことにする。
何となくハムスターの籠を見やる。みっつ並んだ籠。その真ん中が今ゴロの位置。と思って見ると、ちょうどゴロもこっちを見ていた。起きてたの、ゴロ、と声を掛ける。すると、ちょこちょこ歩いてこちらに近寄ってくる。扉を開けて、手を差し出す。私の手の匂いを嗅いで、どうしようかなといった顔をしているので、私は彼女を抱き上げる。手のひらの上、鼻をぴくぴくさせながらじっとしているゴロ。私は背中を撫でてやる。私の親指に鼻をこすりつけ、へっぴり腰になっている。私はちょっと笑い、彼女に向日葵の種一粒をあげて、籠に戻す。
お湯を沸かし、お茶を入れる。夜中なのでハーブティーにする。レモングラスとペパーミントを2:1で混ぜた葉。お湯を注ぐと、ふわり、涼しげな香りが漂ってくる。
椅子に座り、思いついて、友人から預かっていた原稿を開く。文字を思い切り小さくして行間も詰めてプリントしてみたが、それでも五十枚ある。それを改めて、一枚、一枚捲る。彼がどんな思いでモデルになってくれた人たちに寄り添っていたのか、それが手に取るように分かる文章。一言一言を噛み締めながら読む。読みながら、まだ私は客観的になれていないな、と反省。文章に入り込みすぎてしまって、客観視できていない。もうちょっと時間を置いて読み直した方がいいのかもしれない。
さて、どうしよう。少し迷って、引き伸ばし機やプリントをしまっている棚を開く。もしかしたら作品を見てもらえるかもしれない人から連絡が来た。そのために、要望のあった作品を改めてファイルに閉じておこう。そう思い、大四つ切サイズのプリントを引っ張り出す。改めて数年の時間を置いてプリントを見ると、何だか自分のプリントの下手さ加減が目立って見えて、苦笑してしまう。それでも、この時は一生懸命焼いたのだ、と思う。ああでもない、こうでもないと暗室の中、悪戦苦闘して焼いたのだ。苦戦した痕が、あっちにもこっちにも見られる。懐かしいプリントたち。今手元にもうないプリントもある。それは写真集にしたもので代用させてもらおう。そう思い、写真集も探る。そうやってひとまとめにすると、何て重たいんだろう、果たして背負って運べるんだろうか。ちょっと怖い気もするが、まぁ、搬入のときは額縁を何枚も何枚も持って歩くのだから、何とかなるだろう、と思い切ることにする。
改めて椅子に座り、本を開く。久しぶりにメイ・サートンの「独り居の日記」を読むことにする。私は彼女の日記が大好きだ。孤独というものが、どれほど大切なものであるのかを、私に改めて教えてくれたのも彼女の日記だ。「さあ始めよう。雨が降っている」という一行から始まるこの日記。「何週間ぶりだろう、やっと一人になれた。“ほんとうの生活”がまた始まる。奇妙かもしれないが、私にとっては、いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱かけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。なんの邪魔も入らず、いたわりあうことも、逆上することもない人生など、無味乾燥だろう。それでも私は、ここにただひとりになり“家と私との古くからの会話”をまた始める時ようやく、生を深々と味わうことができる」。その言葉は、すとんと私の中に落ちてくる。そしてしっくり馴染んでくる。まるでもう何十年も連れあった椅子のように。
どのくらいそうしていたんだろう、はっと気づくと、午前三時を過ぎている。ありゃ、すっかり眠るのを忘れてしまった。私は慌てて椅子から立ち上がってみるものの、寝床を見ると、娘がでーんと横向きに眠っており。つまり、私が横になるはずの場所を彼女の上半身が見事に陣取っており。
もう私の力では、彼女を抱き上げられない。そう、彼女の体重は、私の腕力をはるかに上回ってしまった。一体いつの間にこんなに大きくなったんだろう。私は健やかな寝息を立てている彼女を見つめながら思う。私の背丈を抜くのも、そう遠いことじゃないんだろうな、と思う。また、そうであって欲しいとも、同時に思う。
この子と二人きりの生活になって多分七、八年が経つ。でも、振り返ると、もっと昔から、ずっと昔から、いや、最初から、彼女と二人きりだったような気がする。私にとってはそれでいいのだが、彼女にとってはどうなんだろう。彼女はいつか、懐かしく父親の面影を思い出すことがあるんだろうか。彼女にとってはどう在るのが幸せなんだろう。

夜明け近くになり、空もきれいな水色に変わってきた。確かに雲はある。けれど、この雲はじきに消えてなくなるかするだろう。きっと今日は晴れる。そんな気がした。私は開け放した窓からベランダに出る。
デージーは一生懸命咲いており。私はおはようと声を掛ける。水色と、たくさんの水で溶いた紺色との間のような、そんな色の空の下、デージーは風を受けてちらちら揺れている。ラヴェンダーはそんなデージーにちょっと遠慮して、プランターの脇に寄っている。
弱っているパスカリ。それでもこうして新葉を出してきてくれるのだから、まだまだ大丈夫。近いうちに土を替えてやろうと思ってはいるのだが、そのタイミングが計れないでいる。母に相談しようか。こういうとき、一番に思い出すのは母だ。母の植物に対する経験は、あまりに深い。だからつい頼ってしまう。でも、そんな母も時期にいなくなる。そう考えると、素直に尋ねられない自分がいる。ひねくれ娘。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。ぐいぐい根元から伸ばしてきた枝。その先には蕾。ひときわ明るい黄緑色が輝くように艶めいている。
友人から貰った枝。もう今日にもこの花は咲きそうだ。咲いたら早速切り花にしてやろうと思っている。テーブルできっと、長く咲いてくれるに違いない。
横に広がって伸びているパスカリ。何とか三本の支え棒に引っかかってくれている枝。その先にふたつの蕾。だいぶ膨らんできた。もうじきだ、咲くのも。
そしてその脇に小さく、挿した小枝。新芽が開いてきた。このまま育ってくれるといいのだけれども。ちょっと心配。
ミミエデン、こちらは白い外側の花弁が見え始め。もう数日のうちに咲いてくれるんじゃないかと思える。
ベビーロマンティカは、まだ中央に花を抱えており。その花は、開きそうで開かない。でも、もう後から出てきた蕾たちがぐいぐい伸びてきて、膨らんできて、順番を待っている。今日一日待って、これ以上開かないようなら、切り花にしてやろう、私はそう決める。
マリリン・モンローもホワイトクリスマスも、ひとつの蕾が綻び始めた。私はそれぞれに鼻をくっつけ香りを嗅いでみる。芳醇な香りのマリリン・モンローに、涼やかな香りのホワイトクリスマス。全くタイプの異なる香り。でも、その両方とも、私は好き。
そして今朝、アメリカンブルーはみっつの花を咲かせ。風に揺れる枝葉。ふと見れば、街路樹の緑もさやさやと音を立てて揺れている。空の雲も、ぐいぐい風に流れている。
部屋に戻り、もう一度お湯を沸かす。今度は、そうだな、生姜茶を入れよう。私は濃い目に生姜茶を入れる。そのマグカップを持って、椅子に座り、PCの電源を入れる。
思いも寄らない知らせを運んでくるメール。そんなことってあるんだろうか。私はメールを読みながら、何度も読み返しながら、首を傾げる。でも、それは現実で。喜んでいいのか、信じていいのか、いまひとつ、実感がない。でも、早急に準備しなければならないことがでてきた。何とかしなければ。
とりあえず今は、目の前にある朝の仕事に取り掛かろう。私は椅子に座り、準備を整える。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。
校庭では今朝も、早朝練習をする上級生たちの姿。大会は目の前なんだろう。私は階段を駆け下り、自転車に跨る。一直線に駅まで走る。土曜日の仕事の切符を買わないといけない。
空いている席を適当に選んで買う。自転車を郵便局前に停めてきてしまった。早く戻らないと撤去されてしまうかもしれない。私は全速力で走って戻る。籠に「ここに自転車を停めてはいけません」というチラシが入っている。ごめんなさい、と心の中、ぺろり、舌を出す。
再び埋立地の方へ走る。長い長い歩道橋を渡って埋立地へ。もう時間ぎりぎり。
駐輪場に飛び込むようにして入り、駐輪の札を貼ってもらって自転車を停める。娘に頼まれたコピーを10部、コンビニでコピーし、私はそれを手に持ったまま走り出す。
さぁ、もう一日は始まっている。乗り遅れないようにしなくては。


遠藤みちる HOMEMAIL

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