2013年11月28日(木) |
無思考層と反知性主義 |
ハンナ・アーレント。
ナチス戦犯アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴するためイスラエルに渡航し、 1963年、アイヒマン裁判のレポートをニューヨーカー誌に連載。 これが全米で激しい論争となった、という人物。 岩波ホールで上映中の、彼女の映画が、今話題になっているそうである。
――「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄
しました、それは思考する能力です。その結果モラルまで判断不能とな
りました、思考ができなくなると、平凡な人間が残酷行為に走るのです。
過去に例がないほど大規模な悪事をね」
この科白で、岩波ホール支配人は上映を決めたのだそうである。
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地方都市を中心に広がる、若者層に関するレポート。 ここではこの層を「ヤンキー」と表現している。
曰く、コンビニの商品棚に下着姿で寝ころぶ。 モラルよりも、「気合い」が優先する。
若いうちに複数の子供の親となり、 国道沿いのショッピングセンターやゲームセンターで過ごす。
反知性主義で、行動は衝動的である、と分析されている。
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二つのトピックスのどちらも、出所は喫茶店で読んだ「週刊現代」なのがちょっと恥ずかしいのだが、日頃なんとなく思っていた傾向が確かなものになった。
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アイヒマン的無思考層は、今この日本にもいる。 スーツをきてネクタイをしめて、真面目に通勤しているだろう。
反知性主義の若者層は、国道バイパス沿いにいる。 せわしなくスマホをいじりながら、何かの値段の安さを調べているだろう。
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この二種類の人達は、 誰かが作ったシステムに従わせる側と、従わされる側として存在する。 双方とも、その自覚がないままに。
そしてこの構造は、これから一層強化されていくだろう。 はなから「違う人間」と決めて取り扱うのが、楽なやり方になるだろう。
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それじゃあ、思考層や知性主義はどこにいるのか。 ちゃんといる。絶対に。
それは多分、経済格差なんかじゃ区切れない。 無思考層とか反知性主義よりもはるかに多様性にとんで、 あちこちに生息している。
2008年11月28日(金) 変奏曲マジック 2007年11月28日(水) 現代フォークロアの火 2006年11月28日(火) 2004年11月28日(日) 化学変化
振り込め詐欺の被害に関する新聞記事。
何千万円という金額をすぐに用意できる高齢者がいる、 ということに驚くが、銀行や警察のキャンペーンにもかかわらず、 相も変わらず被害が後を絶たない。
長野県の昨今は、お金を自宅まで取りに来る、 という新手の手段による被害が多い。
こうなるともう、詐欺というよりは恐喝に近いのではないだろうか。
一人暮らしの年寄りの家に直接押しかけてくるのだ。
電話で金を用意しろ、もうすぐ近くにいるのでこれから取りに行くから、 などと言われれば、明らかにおかしい、犯罪だとわかっていても、 恐ろしくて拒否できないだろう、と思うのだ。
2010年11月20日(土) 2007年11月20日(火) 転機か行き詰まりか 2006年11月20日(月) 2005年11月20日(日) 他人の仕事 2004年11月20日(土) 不安な気持ちはどう表すか
堤 未果著「貧困大国アメリカ」を読む。
よくぞ、こうした本を出してくれたと思う。
「大きなシステムと如何に距離を置いて生きられるか」
このことは、自分のテーマとして日々揺るぎない、というか、 切羽詰ったものになりつつあるが、この本を読んで もしかしたらもう駄目かもしれない、とも思う。
新たな気づきがあったのは、米国の一般市民も、日本の一般市民も、 大きなシステムにからめとられていくという点では同類、呉越同舟なのだな、 ということだ。
国家はない。 宗教もない。
我々はただ、空を見上げることしかできない。
2012年11月19日(月) 2009年11月19日(木) something greatとhumanbeing 2007年11月19日(月) 2006年11月19日(日) 2005年11月19日(土) ランディさんと私
2013年11月18日(月) |
駄目だ、ここもやられてしまった |
遊び疲れて、新たな週を迎える。
ラジオを聴きながら、先週の仕事の片づけ。
平日のNHKラジオ番組の静かな雰囲気が好きだったが、 昨年から番組改変になってからは、テレビのバラエティと相違ない喧しさである。
聴くのをよせばよいのだが、未練がましくスイッチを入れる。 そして、ああやはり五月蠅いな、と思う。
放送文化の低質化という観点で言えば、 駄目だ、ここもやられてしまった、という感がある。
2007年11月18日(日) パン屋さんは変わる 家族もひとりふえる 2006年11月18日(土) 家族の支え 2004年11月18日(木) 孤独と自尊心
今年の秋は、山のお仕事で毎週のようにお泊りであった。 目的の山深い場所の、できるだけ近くに宿を求める。
ありがたいことに、日本のどんな辺鄙な山間地に行っても、 「釣り宿」と称する民宿がある。
おそらくは、釣り人と、たまに来る酔狂な登山客と、 あとは土木工事の人ぐらいしか泊まらないだろう。
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部屋はたいがい粗末である。狭い。 襖一枚で隣室と隔てられているところもある。
風呂も、温泉宿などでなければ、一般家庭用のそれと大差ない。
食事は、大部屋−といってもせいぜい10畳程度だが−で食べ、 続きの和室では、おじいちゃんがテレビを見ながら自家用の食事をとっていたりする。
そしてたいがい、宿の周りは山ばかりで、夜は真っ暗である。
ビジネスユースでも、新橋駅前のビジネスホテルとはずいぶん趣が違う。
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旅の宿りとは、「この場所で一夜を明かせる」ということに価値がある。 昔話で「どうか一晩泊めて下さい」というアレである。
インターネットの宿泊情報として提供されがちな、 部屋の広さだとか、出される料理の品数だとか−ましてや産地など−、 洗面所に置いてある消耗品がどうだとかということは、 いっさい評価対象から外される。
検索したいのは、この集落に泊まるところはあるか、の一点のみである。 そのシンプルなことに、すっきりとした喜びを感じる。
もう少し言うと、本当のもてなしというのは、 そうした辺鄙な宿にこそ、あるのだと思う。
2010年11月11日(木) 秋の里 2007年11月11日(日) クロックマダムにパイナップルは入るのか 2006年11月11日(土) 誰にもあげない 2005年11月11日(金) 他人の死を引き受ける 2004年11月11日(木) 月と暦
山の家へ。
「文化の日」は、棗の実を収穫するのにちょうどいい日である。 毎年、そういうことになっている。
そして、今年もその通り。 枝が垂れるほどに、ぷっくりと膨らんだ赤い実がついている。
木の下にござを敷いて、AとYに棒でたたいて落とすよう命じる。
AとYは、長い棒とか、実が沢山ついている枝の取りあいでいちいち喧嘩をするから、その度にやめなさいと言わなければならない。
そうしているうちに、沢や池の方へスタスタ行ってしまうから、 走って行って連れ戻したりしなければいけない。
Yはせっかく落とした実を踏みつけてはダメにしてしまうから、 また姉さんに叱られている。
はかがいかないこと、せわしいこと、甚だしい。
まあいいや、何だって。
今や、すべてのことは、昔のようにはいかないのだ。
2012年11月04日(日) 2011年11月04日(金) 海は誰のものか 2009年11月04日(水) 経験の共有 2007年11月04日(日) 2006年11月04日(土) 2005年11月04日(金) スーパードライ 2004年11月04日(木) 大統領の選び方
久しぶりに自宅で仕事。
紅葉も温泉も渓流も、食傷気味である。 地下鉄に乗ってバーゲンセールに行きたいのである。
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ラジオでNHKのアナウンサーがしゃべっている。 「これ本当にすごいです!」興奮気味にレポートしている。
ああまただ。
てにをはが欠損している。 年のせいか、こうした言葉の違和感を新しいかっこよさと感じるよりは、 だらしないなと感じてしまう。
「てにをはの問題」といえば、常識中の常識を指す、ものの例えである。 てにをはを間違えるということは、 そんなことも分からないのか、と白い目で見られる対象なんである。
それなのに、こともあろうかNHKのアナウンサーが、平気で省略している。 もう、がっかりである。
「ちゃんとしゃべろう会」でも立ち上げたい気分だ。
2009年11月01日(日) 立法府 2006年11月01日(水) 2004年11月01日(月) 張子の虎の不屈の意志
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