浅間日記

2005年07月31日(日) ふってわいた話

アスベストが原因とみられる中皮腫の問題は、
その実態が明らかになればなるほど深刻さが露見するが、
どうも今回の騒ぎのきっかけが、今ひとつ私には分からない。

一体、何の出来事をきっかけに急に問題が認識されるようになったのだったか。
ニチアスというアスベスト製造会社に関する記事がその初めのようにも見える。
だとしたら急にニチアスが浮上する背景には何があったのだろうか。
それほど、問題の深刻さとは裏腹に、ふってわいたような報道だ。



誰もが知っていたアスベストの有害性。
現在の都庁にだって、確か使われている。
私にもアスベスト=肺に悪いぐらいの認識は、小学生の自分からあった。

誰もが放置していたアスベストの有害性。
今になって浮上してきたアスベストの有害性。
恐らく、消費者への影響だってゼロではないはずだ。
遠慮はいいから、本当のことを正確に早く教えてほしいと思う。


2004年07月31日(土) バイオマス花咲じじい



2005年07月29日(金)

高速道路で隣の街まで仕事の用足しに行く。

ひどい体調が回復しないことは、少しずつ精神を蝕んでいる。
とにかく、これが終わったら今度こそ真剣な休憩が必要だ。

トンネルが続くハイウェイをよろよろ走行する。
もしここで落盤事故か何かが起きてトンネル内部に閉じ込められたとして、
幸いにも死んだり怪我がなかったとしたら、私は何よりもまず最初に仮眠をとるだろう。

そういうのもこの際悪くないではないか、などと考えてしまうんである。

2004年07月29日(木) 



2005年07月28日(木) よろず医者

発熱4日目にして町医者へ通院。

先生も年寄り、看護婦も年寄り、患者もほとんどが老人というひっそりした医院の診察室に入る。
顔を見るなりドクターから「ああまたいつものですね」と言われる。



ここは私の好きな田舎医者のスタイルなんである。

今よりずっと生活圏が小さかった村時代に、地域で発生する全ての病気を受け持った。赤ん坊の育ちから農作業の怪我、老人の病に至るまで。
ここには、そんな名残がそこかしこに見られる。

昨今、経営目的で診療科を沢山掲げる医院があるけれど、
そういうものとはまるで似て非なるものなのである。
田舎暮らしを志向する人は、まず、こういうタフな田舎医者をお探しになるとよい。
田舎独特の屋外での怪我や病気の症例を沢山知っているはずである。

2004年07月28日(水) 福祉パニック



2005年07月27日(水) 成せば成る

微熱が続き、面倒臭くていけない。
もうこの状態を平熱ということにしてしまいたいのだけれど、
腫上がった扁桃腺が、それを認めてくれない。



新聞に、小柴昌俊さんのインタビュー記事をみた。
幼少時にポリオに罹患していたとは知らなかったが、
2時間もかかって学校へ通った話など、自力で病気を克服した経験談に驚く。
その時の経験から、成せば成るという確信をもって生きておられるそうだ。



涼しい時間帯を選んで、T住職を訪ねる。
この方にお会いする時はいつも、私は微熱の状態だ。
またしても読み物を沢山頂いて帰る。布団の中で全部読む。
私はこうして不養生であり、成さねば成らぬの道理で治癒しないのかもしれない。

2004年07月27日(火) オセロ



2005年07月26日(火) 哲学者の幸せ

雨なのでHはお休み。私も一区切りついたので、ちょっと休憩。

昼食をとりながら、なぜか悪妻の話へ。
「優しい妻をもつと幸せになれるけれど、悪い妻をもつと哲学者になれる」と言ったのはソクラテスだねとH。

ソクラテスは幸せな夫ではなく、哲学者は幸せではない。

ではソクラテスにとって「哲学者」であるのはどういうことなのか、
などと微熱の続く頭で考えた。

2004年07月26日(月) 



2005年07月25日(月)

夏風邪で発熱。
フラフラしながらハンドルを執り仕事へ。

来月は大切なお楽しみがあるから、
こんな体たらくになるわけにはいかないなと自戒。

2004年07月25日(日) 想像力の欠如



2005年07月24日(日)

山の家へ。
かろうじて残っていたブルーベリーを、こっそりAと占有する。

久しぶりに沢山の人で賑わう。


2004年07月24日(土) メモリがいっぱいです



2005年07月20日(水) ヒートアイランドゲーム

信州へもどる。ひんやりした夏の夜風は、最高の出迎えだ。
忌々しい汗ばんだシャツを脱ぎ捨てて、顔をバシャバシャ洗う。



東京や大阪などの都市部に限って言えば、
年々増す夏の暑さは、温暖化の影響というよりも、ヒートアイランド現象と認識するのが適切だ。

アスファルトで覆われた地面は水分蒸発を妨げる。
建設物は自然の空気の流れを分断する。
オフィスのOA化が助長する、高密度なエネルギー消費。
そして何よりも、夏季のあの、空調設備から排出される、嫌な熱風。



人工排熱の実態調査とか、屋上緑化の効果とか、ヒートアイランド現象緩和のための建築物総合環境性能評価システムなるものとか、国が手をうっていない訳ではない。
しかしその認知度は、クールビズなんかに比べると圧倒的に分が悪い。

ちょっと考えればわかる。皆で一斉に始めるなら、半そでシャツより空調が先だ。経済効果だってこちらのほうがずっと大きい。



地球環境問題は人類のサバイバルゲームなのだから、きちんとした戦略をもって、確実に得点をとらないとだめだ。得点に結びつけるためには影響の大きいものをターゲットにしなければいけない。

「できることを一つずつ」とかいう地道なロマンティシズムを否定するつもりはないけれど、どうも環境対策に何か別の動機−パステルカラーの−が憑依するようで、私にはちょっと受け入れにくい。

地球に優しくあるように一生懸命取り組んでいる人達は、何か別のことがやりたいのではないだろうかと時々思う。そしてそれは決して悪いことではないし、そうした善意は尊重される権利がある。

でも、「優しくしてあげた」というふうに自然と向き合う姿勢は、少なくとも私は持ち合わせていない。人間にそれは無理だとおもうのである。

2004年07月20日(火) 現代人にウサギと亀はつくれるか その2



2005年07月19日(火) ドキュメンタリーの光と影

研修で一汗かく。もちろん冷や汗だ。

宿泊先の部屋で久しぶりにテレビをみる。
日経新聞社提供の「エアバス社とボーイング社の日本における攻防」のような番組。テレビ業界は、どうやら「プロジェクトX」でビジネスドキュメンタリー番組に味をしめたのだろう。



あのNHK番組の時から違和感を感じていたがはっきり確信できなかったのは、「過去の偉業」という霞がかかっていたからだろう。

物事には二面性がある。そして、企業の目的は利益追求にある。

どんな素晴らしい社会貢献であっても、技術者が個人として社会的使命を感じていたとしても、それらは利益追求の延長線上にあるものだという客観性を、テレビ番組は曖昧にする。
たとえば、安全性や環境や健康への影響やなんかは全く検証されずに扱われる。

だから私は、飛行機を何体売るかに心血を注ぐビジネスマンに感動もしないし、黒部ダムを建設した土木技術者を手放しで立派とも思わない。なんでそんなひとつの企業の社史みたいな番組を、公共性のある電波でもって何度も何度もこれ見よがしに放映するのだろうか。



そんな、飛行機をバンバン売りさばこうという話を観ていて、ファクターテンを推奨し、「飛行機で海外旅行などもってのほか」と環境問題の深刻さを説き続けている山本良一先生を思い出した。彼の先生がこの番組を見たらまた一層、地球の未来についての悲観論に力が入ってしまうのだろう。



2005年07月18日(月)

元気付けの仕上げに、焚物の薪を運び、床みがきを少しやって、
家に戻る。

夕方から上京す。明日から中野で研修だ。



2005年07月17日(日) 鎮魂

自分がとんでもなくはかなくもろい「生」というリッジの上にいるという不安な気持ちは依然消えず。

ものは考えようだ。
こういう時は、魂のこもった深い芸術を識別する絶好のチャンスと考えよう。
本当に優れた芸術が、必ず私のこの、生きていくのに邪魔でしょうがないざわついた気持ちを救ってくれる。そう信じている。

有史以来の芸術の天才達が、生も死も、不安も希望も絶望も、私のスケールをはるかに超えて照らすだろう。
その力に圧倒される幸せに、早く浸りたい。

2004年07月17日(土) 限りなく黒に近い白



2005年07月16日(土) 墓穴から蛍に泣く

山の家へ。

生まれるとか死ぬとか考えすぎた。
しかも「一度しか死ねない」などと偉そうにぶったのがよくなかった。
私は、「家庭の医学」を読んで、片端から自分にその症状があると思い込むそんな人間だったのをうっかり忘れていたがもう遅い。

両親とAと私が、今生きてこの山の家に在ることが、はかなくて仕方がない。
もう年老いた親が死んでしまう日は遠からず来るだろう。
Aはこれからどんどん社会との接点が増えてゆく中で、生命の危険にさらされないとも限らない。
両親とAの命に比べれば全くどうでもいいが、私の不摂生のツケは死に至る病として明日にもやってくるかもしれない。

そうに違いないという思いから逃れられない。



皆が楽しくスグリを採ったりしていても、いっこうに冴えない気分。
かけがえがなければないほど、愛しければ愛しいほど、悲しい気持ちがわきあがる。

夕闇が過ぎた頃、池の端で一匹また一匹とヘイケボタルが光を放ち始める。
はかなく、かすかな、うつろうばかりの光は私達の存在そのものだ。
私は久しぶりに、瞳の内側で泣くということをした。

2004年07月16日(金) ハイエンドライフの彼方



2005年07月14日(木) 一回しか死ねない

ロンドンの爆発物テロの犯人逮捕のニュース。

悪いタイミングだなあと思いつつ、新幹線を使った移動。
何だか気持ちが悪いというだけではない。
明らかに方向違いに気分が昂揚しているJR職員を見たりするのが憂鬱なのだ。

テロリズムが問題なのは、暴力によって世界を混乱させるからだ。イギリス人やアメリカ人や日本人が大量に死ぬから問題なのではない。


テレビやニュースでは、毎日事件が起きて人が死ぬ。
もう何百万人もの死の情報に、私たちは曝されている。だから当たり前のことを忘れてしまう。

人は必ず死ぬ。テロで命を落とさなくても、いつかは必ず死ぬ。
そして、万人に等しく、一回しか死ぬことができない。
情報として何百パターンもの死を知っていても、実際に実践できるチャンスは1回だ。
今のはイケてなかったからもう1回というような、ホームビデオの撮影みたいにはいかない。

そうだから、悲惨な死を回避するのと同じぐらいの関心でどんな最期を望むのか考えておかなければ、これはバランスが悪い。



病院で息を引き取る割合は、高度成長期に激増した。
テレビで観るご臨終は必ず病院のピー音があるし、それを不思議にも思わない。
でも、家族に囲まれてゆっくりととか、大好きなライフワークをやっている最中にとか、海辺でとか、眠っているうちにとか、色々あると思うんである。

昨今、葬式をかつての披露宴のごとくアレンジする向きがあるけれど
−葬儀の曲はレクイエムでとか、骨は散骨でとか−
葬式をやるためには死ななければいけないのだから、まずこちらを先に気にしたほうがいい。


死に対するリアリティがないと、怖いばかりになる。民衆の不安感情は政治の道具にされる。
危機管理や安全管理に対する政策の中に、「自分達は永遠に死なない」という在り得ない希望を含めてやしないか、と時々疑問に思う。
特に政治のリーダー達やマスコミは、国民にそんな嘘っぱちな、誰が考えてもありえない紛い物をちらつかせて、世論をいじくろうとはしてまいか。
どんな優れた政治家が民衆の上に立ったとしても、人は生まれたり死んだりするんである。



運命という一人一枚の抽選券をもって、「あたりの死」と「はずれの死」が混じるくじを引く。
自分専用の抽選箱に細工をして、あたりの確率を高めていくのが、生きていくということだと思う。

そして私は、はずれを除いていく細工よりも、あたりを増やしていく細工のほうが、何となく最後に当たり、それも「大当たりハワイ旅行」みたいなヤツを掴めそうに思うんである。

2004年07月14日(水) 見た目から入る話



2005年07月10日(日) 狂気がかった仕事

ラジオに児童文学作家の山中恒さんが出演していた。
最近上梓した「アジア・太平洋戦争史−同時代人はどう見ていたか−」の紹介をしている。

山中恒といえば、妹尾河童の「少年H」という戦時中を舞台にした自伝について、ちょっとここまでやるのは意地悪ではないかと思われるほどの緻密な歴史的検証を行い、少年Hの記述上の間違いを正した人である。
児童文学作家のくせに面白くもドラマティックでもない膨大なページ数のレポートとして、それはまとめられている。この人らしい狂気がかった仕事だなとその昔思った。

この度上梓されたのは、そんな山中さんの太平洋戦争検証作業の集大成ともいえる本なんである。



戦争の悲惨さや痛みを訴えるだけでは不十分だと、山中さんは語る。
何故、どのようにして、国民があれほどの被害者となり加害者となった戦争が起きたのか、その実際のプロセスを検証することの方が大切だ、と。

沢山の埋もれた資料があり、知られていない現実がある。
慌しい引越しのように置き去りにされた事実を残して、先の戦争は現代社会に位置づけられているのらしい。

500ページもの本なので読みにくいかもしれませんが、とはばかりつつ、
かつて自分の読者だった若い大人達に読んで欲しいですね、とラジオの向こうから語りかける。

大人になってもなお、「昔のこども」として今の自分に相応しいメッセージを投げかけてくれるこの児童文学作家の優しい気持ちに嬉しくなり、私は必ず一読しますとラジオに向って思うのだった。

2004年07月10日(土) 嫌な死に方



2005年07月09日(土) 鑑賞日

図書館へ。
Aは「バーバパパの家探し」なる絵本を、私は「白鳥の湖」のビデオをチョイス。

毎度ながらすごい話だなあと思いつつ、バーバパパを読みきかせる。
「都市計画ってのがあるんだから、こんな風にいきなり家を壊したりはしないんだけどねー」とか「ここに先に住んでる人は困るんじゃない?」などと文句ばかりいいながら読むので、Aから普通に読んでくれとクレームを受ける。



こんどはマイヤ・プリセツカヤの瀕死の白鳥。
またしてもAから、舞伎座のイヤホンガイドのごとく筋書きはもちろん衣装からオーケストラピットに至るまで解説を求められるので、あまりゆったり鑑賞できない。

プリセツカヤのしなやかな手足の動きにうっとりし、素晴らしい音楽や舞台に、バレエとは総合芸術なんだなあと感心する。
音楽、舞台、バレエ、筋書き、そうしたものが一体となって、もうこれはロシアの地での物語りという以外何ものでもない、というものに完成されている。
土くさく、人間くさく、それでいて華やかさと壮大さを併せ持つ彼の国の風土は不思議な魅力がある。現代社会にはそれがどんな風に現れているのだろうか。

私の感想とはまったく違うところで、Aは悪魔の存在が気になって仕方がなく、何度も私に困難な解説を求めてくるのだった。

2004年07月09日(金) 落胆



2005年07月08日(金) キスゲ通勤

白樺湖の少し先にある、女神湖という湖の近くで仕事。
亜高山帯は久しぶりだ。
山腹の下からわき上がってくるひんやりした空気。
サラサドウダンの花やヒバリ。

帰りはビーナスラインが早いですよと一緒に行ったA君が言うので、
通勤道に亜高山帯を通る後ろめたさを感じつつ、そうしてみる。

数年前に無料化されたこの観光道路は、開発時に環境保護問題でかなり物議をかもした。新田次郎の小説「霧の子孫たち」の舞台である。
確かに、よくもまあこんな標高2000m近いところに道を作ったものだと思う−その道を通って家路をたどる自分には説得力ゼロであるけれど−。

キスゲの花が一面に咲くぼんやりした夕暮れのなか、ゆるやかにカーブする観光道路をゆく。
「高いところが広い」という高原というのは何だか不思議な地形現象だ。
根拠なく宙に浮いているように、いいのだろうかという思いがつきまとう。

それはやはりよくはなくて、峠を過ぎたあたりからものすごい下り道のツケを払わされた。
「これがなくては俗界と天上界のしめしがつかない」とでも言わんばかりの標高差を、軽い頭痛とともに味わったのであった。



2005年07月07日(木)

明日には本業に戻らないとまた自分の首をしめることになるので、
今日中に雑事をすます。

通り雨の後、群青という名の散髪屋で髪を切る。
雨と太陽でわさっと量を増す夏草のごとく伸びた髪を、
客のいない平日のひんやりとした店で、主に切ってもらう。

たわいもない話の途中、
浴衣を購入したのはいいけれど思ったより着るのは難しいですねと、着付けもやっている主に問うと、
浴衣なぞはあまりきちっと身につけようと思わずにとにかく着ることですよ、とこともなげに言う。
京都では若い女の子が浴衣姿でディパックを背負って、自転車に乗ってますよ、と。

それじゃ今週末あたりに着てみるか、と思いつつ、散髪終了。

2004年07月07日(水) カッターナイフ前夜



2005年07月06日(水) 人間社会か、ヒトの群れか

梅漬けを始めるのが、すっかり遅くなってしまった。
「これがもう本当の最後のだね」と言われながら梅を購入。
土用までにちゃんと梅酢が上がってくるか少し心配しつつ、梅を敷き詰めた常滑焼の容器に塩蓋をし、きっちり封をする。


生きるとか死ぬとかいう極めて個人の内面に属するテーマを追求しているうちに、
いつの間にか集団とは、とか社会とは、という真反対のテーマにたどり着いてしまった。

個と集団に関する対話を、いろいろな人と色々な場面で交わす。
「個人は集団に優先して存在する」という今までの自分の考えが、少し分からなくなってきた。
結局、「私」という存在を個人か集団かで仕分けることなどできない。
個人としてだけ存在したいと思っても、社会の一員として関与することからは逃れられないのだ。良いことをすれば良い社会になってしまうし、逆もまた然りだ。
しいて言えばその間を往復するバランスとタイミングが「私」という存在そのものなのかもしれない。
だからこそ、人は自分のことを真剣に考えて生きなければ、社会の健全性は維持できない。

人の世で生きていくのは、タフさというガソリンと気楽さというエンジンオイルが必要だ。つくづくそう思う。


人間の集団のリーダーというのは、当たり前のことだけれど、弱い者を強くし、強いものを優しくさせ、「人間は絶対にお互いが協力しあわねばならない存在だ」という強い意志の下で、全体が元気になるように計らう、そんな資質をして存在するはずだと、私は思っている。

これから間違いなくやってくる階級社会には、そういうリーダーを必要としない。リーダー不在なのではなく、リーダー不要の時代が来るのだ。

クラスの違う集団が隣の水槽から混入しないよう見張る看守みたいな人、そして「水槽は存在する」と人々にしたり顔で教育する人、そういうことがきっちりできる資質が、これからの社会を維持するのに必要とされるのだ。理念を貫く勇気や個としてのタフさなど、飾り物ほどにも必要とされない。

異なるものと共存せず信頼関係をもたない階級社会という集団は、常に緊張を強いられる。
いつでも何かの対立軸が明確になっていないと、安定しない。

そんなのは既に人間社会ではなくてただのヒトの群れだ。
自分を限りなく「個」としての存在にシフトする引きこもり現象があるのも、一つの社会システムに対する防御と私は考える。
「野垂れ死にしてもいいから社会と関わりたくない」という思いに自分は絶対ならないとは決していえない。


難しくて自分でも本当によくわからない。
深い暗い闇が続いて、子どもなら母親の布団に潜り込んでしがみ付きたいぐらいの心もとなさだ。

でも私は必ず、時間がかかってでも、「その中でどう生きるとよいか」を見つけ出すつもりだ。

2004年07月06日(火) 骨身を削る話



2005年07月05日(火) 結実間近

あちこち奔走。今年こそのお楽しみは、来月やっと実を結ぶ。

ブログというのはどういうものか長いことよく判らなかったけれど、
日々進行しているプロジェクトの管理と記録に便利、ということが少しやってみてよくわかった。

トラックバックというのは相手のトピック−ブログ全体のコンセプトではなくて、一つの記事−との共通点を見出すコツというかセンスというか、タイミングが肝要で、
このあたりがずれているトラックバックというのは、なんだかむさくるしいリンク集のようである。



2005年07月02日(土) みかんの船は再び江戸へ行く

浪曲「紀伊国屋文左衛門 紀文の船出」について先週書いた日記は、
一体どこへいってしまったのだろう?と解せぬ思い。

同じことをまた書くのには気が乗らないものの、
思うことはここに記録しておかないと、私はすぐに忘れてしまうので仕方ない。

最大の見せ場である、船頭達との「賽の目勝負」の場面を、「ピンを出してしまった船頭の男」の視点で描いているところが、この「紀文の船出」を面白くしている。
ヒーローのガッツポーズよりも、船頭仲間の「お前、やっちまいやがったな!!」という吐息を共有する方が、浪曲としては断然面白い。
ハリウッド映画なら絶対にこうはならない。ヒーローの張り詰めた表情とか、望みどおりピンが出た時のガッツポーズみたいな、たやすく想像できる絵を描くだろう。
「どちらの側にもそれなりに理解できる視点と言い分がある」ということを味わう余裕など、現在の彼の国にはないだろう。



浪曲とは語りでもなく唄でもない、不思議な芸能分野と思う。鳴り物との調和も素晴らしい。
雷門に浪曲協会なる団体があり、浪曲寄席なんかも催されていると聞けば、これはもう、いずれ行かざるを得ない。

2004年07月02日(金) 青空球児は何処へいった



2005年07月01日(金) シャコンヌ

雨の木曽路。贄川を過ぎ、平井を過ぎ、奈良井を過ぎる。
旅路の友はロストロポービッチの無伴奏チェロ組曲。

チェロではないけれど、少し前に「シャコンヌ」という映画があって、
映像というのは全くなんということをしてくれるのだ、と感慨入った記憶がある。

観た人にはわかるが、自然の風景と音楽は、かの如く調和する。

2004年07月01日(木) 


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