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甥っ子が東京に遊びに来たので、長男と次男と甥っ子と4人で池袋のサンシャインシティにあるナンジャタウンに行って来ました。お化け屋敷「呪縛忍者からの逃走」と言うアトラクションは2回やりました。牢獄にいると死影と言う忍者が現れて、散々脅かして行き、死影が去っていない時間に牢獄から出て、謎を解くと言うアトラクションなのですが、死影が現れるまでに牢獄に入らないと死影に捕まってしまいます。子供はなかなか怖いと思います。ここは1つ子供達をさらに怖がらせて面白くしてやろうと思い、私は1回目に死影が去ったあとに牢獄に入らず隠れていると、死影が現れ「牢獄から出て隠れている奴がいるな〜!」と言い、私を探し、私の付けているタスキを切り、死影は去り、私はアトラクションの外に出されてしまいました。子供達はメチャメチャビビっていました。そして子供達3人だけがアトラクションの中に残されています。アトラクションの中から死影が現れるたびに子供達の悲鳴や叫び声が聞こえていました。アトラクションが終わり、子供達が出で来るとみんな怖くて大興奮でした。お化け屋敷の怖さを3倍は楽しめたのではないかな?と思います。私は遊ぶ時は子供達と馬鹿になって遊びます。子供達にたくさん思い出を作ってあげたいと思います。
司馬遼太郎の「幕末」を読んでいます。この作品はたぶん3〜4回は読んでいます。幕末に関わる話12個からなる短編集なのですが、私はその中で「桜田門外の変」が好きです。幕末の始まりは、黒船来航や安政の大獄や大塩平八郎の乱ではないか?とかいろいろありますが、その是非は私には計りかねる事でありますが、私はこの桜田門外の変が幕末の始まりだと思っています。一介の武士が世の中を変える行動を世の中や時代に先駆けて起こした事が、このあとに殿様ではなく、一介の武士が力を合わせて世の中を変えて行く幕末と言う時代を作ったのだと思います。その時代や世の中を先駆けて起こした桜田門外の変をどんな人がどんな思いで起こしたのか?が描かれているこの作品が
突発性難聴と診断され、9日間薬を飲みました。今日、また病院で聴力検査を受けました。やはり聴力の回復は見られませんでした。諦めずもう少し薬を飲んで治療を続けたいと思います。左耳はほぼほぼ聴こえないのですが、まあそれにもだんだん慣れて来ました。そしてもう左耳が聴こえない事は充分受け入れています。ですが両親から頂いた大切な身体ですし、耳の聴こえが悪い事で、何度も聴き返したりして家族をイラつかせたりしているので、最後まで足搔かなければと思っています。今日は背中のトレーニングをしました。3年前のトレーニング日誌を見たら、今の自分がどれだけ凄くなったかが分かりとても嬉しくなりました。そして51歳のいまの自分がどれだけ頑張っていたか?と言う事をしっかりと残しておきたいと思います。毎日、自分が生きた証を残して行きたいと思いトレーニング日誌を書いています。こんな歳になっても頑張っているんだから僕は本当に空手が好きなんだと思います。36年頑張って来たのだから自分の生き方は絶対に曲げたくありません。そして自分の正しいと思う道のど真ん中を胸を張って堂々と歩いて行きたいと思っています。
3月25日は黒澤浩樹先生の命日でした。私は黒澤浩樹先生の道場(当時東京城西支部阿佐ヶ谷道場)に1年とちょっと所属させて頂きました。1年ちょいでしたが、黒澤先生ととても深く関わらせて頂きご指導を頂きました。とは言っても黒澤先生が指導している一般稽古に参加して、指導を受けたのは1回です。ではどうやって指導を受けていたのか?と言うと先生の付き人のような感じで、帯研でミットやスパーリングを一緒にやらせて頂き、あとはウエイトトレーニングを一緒にやらせて頂来ました。なのでほぼ毎日、先生と一緒にいる感じでした。月・水・木がスパーリングで、火・金・日はウエイトトレーニングでした。第10回全日本ウエイト制空手道選手権大会と第25回全日本空手道選手権大会は黒澤先生のセコンドに付いて試合中の先生の身の回りの事をやらせて頂きました。自分が試合に出るようになってからその経験は本当に役に経ちました。黒澤先生はとても怖かったです。もう近くにいるだけで緊張して冷や汗が出てしまいます。どんなに調子が悪くてダルくても先生の前に出たら身体がピシッとしてしまうぐらいの緊張です。黒澤先生のおかげで人に気を使う事が出来るようになりました。先生といてとてもキツかったのは絶対に稽古やトレーニングを休めない事と絶対に遅刻が出来ない事と先生のやる事を先に気が付いてやらないといけない事でした。あんな経験は人生の中でなかなか出来る物ではありません。黒澤先生と一緒にいた時間は1年ほどなのに思い出はたくさんあります。それだけ濃い1年だったのだと思います。稽古に対する厳しさを黒澤先生に教えて頂きました。本当に本当に感謝しています。今でも私の中では最高に怖くて、最高にカッコイイ姿が目に焼き付いています。先生の偲ぶ会で先生の道着と帯から黒澤先生のオーラのような物を感じました。恐れ多くて道着と帯に触れる事が出来ませんでした。あの道着と帯に先生の魂が焼き付いて残像のような物が宿っているのだなと思いました。
次男は終業式の日に同じクラスだった女の子から手紙をもらったそうです。その手紙には、いつも笑わせてくれてありがとう。と書いてあったそうです。次男は本当に明るい性格で、私や妻の事もたくさん笑わせてくれます。菅野家のムードメーカーです。その明るさは妻から受け継いだ物だと思います。今日は次男は歯医者で歯を抜歯したそうです。歯医者に入るなり次男は「あ〜歯を抜くの怖いな〜!」と言ったそうです。歯医者にいた人はみんな笑ってしまったそうです。そしてみんなに「大丈夫だよ!」と励ましてもらったそうです。いざ抜歯をされる時に椅子を倒される時も次男は「怖いな〜!」と言っていたそうです。私がその場にいても笑ってしまったと思います。いつも明るくて、自分の嫌な事でも人を笑わせてしまう次男は本当に可愛い子です。そう言えば空手の試合でも、次男はみんなを笑わせていた時がありました。いつまでもその明るい性格で人を笑わせてその場を和ませて欲しいと思います。
今日は春休み初日という事で中学生や高校生に声をかけ道場生の子供達とラーメン二郎本店に行きました。雨が降っていたのですが朝8時に待ち合わせました。集まったメンバーは、琥白、光、蕗生、斗夢、真白の5人でした。けっこう量が多いのですが、琥白以外は全員完食しました。1位真白、2位斗夢、3位蕗生、4位光でした。蕗生は小さい頃から合宿などでご飯を食べているのを見ていましたが、本当によく食べるようになったなーと思い、とても嬉しく思いました。ラーメン二郎を完食出来ればよく食べる方だと言えると思います。子供達の成長を見れて幸せな気持になりました。
朝もバシッと目覚めて、しっかりと稽古に励みました。今日もしっかりと前に進んだ実感があります。でもちょっと無理をしすぎたのか?左の脹脛に痛みを感じました。一昨年右のアキレス腱を切っているので、その時の恐怖が頭をよぎりました。ウォーミングアップをしている時に痛みが来たので、そこで止める事が出来た事は本当に不幸中の幸いでした。しっかり身体を休める事も大事だなと思いました。あとは少し体重落とさないとヤバイです。
今日は私が運営する国際空手道連盟極真会館東京城南京浜支部の2024年春季昇級審査会、2024年春季極真ルール組手競技支部内交流試合が行われました。この時期は新しいステージに移動する生徒が何名かいます。今年は2名が高校生になり、1名が中学生になります。この忙しい時期に頑張って試合に出場した事を尊敬します。高校生になる理音と洋志は受験であまり稽古できていませんでしたが、しっかり試合に出場した事に感動しました。次のステージでも2人共頑張って欲しいと思います。中学生になる雄斗もよく頑張りました。一生懸命に頑張る事は素晴らしい事です。逃げずに勇気を出して挑戦する事は素晴らしいです。それは人生の中でもっとも素晴らしい事だと私は思っています。次のステージでも皆で頑張って行けたら素晴らしいと思います。
子供達が野球が好きになった事から私も野球を見るようになり、子供達とドラマの「ROOKIES」を見ています。酒のツマミには最高のドラマです。思いっきり笑えて思いっきり泣けて、酒も進みます。私は団体競技をやった事がないので、「ROOKIES」を見ていて、団体競技もやってみれば良かったなと思ったりします。人の人生は1度なので、あれもこれもやっていたら全て中途半端になり、結局本当の感動を得られる事はないと思うので、やっぱりそれは無理だったと思いますし、別に後悔しているわけではありません。それに空手も稽古ではお互いが助け合い励まし合い競い合って切磋琢磨して試合に臨んで、仲間達が応援してくれるので、団体競技と言えば団体競技ではあります。ただ人生が2回あるのなら団体競技もやって見たかったな、と言う感じです。
この「菅野日記」は2003年12月5日から始まりました。なのでもう21年書いている事になります。2014年からは1日も休まず書くようになりました。休まず書くようになってから10年が経った事になります。休まず書くようになったキッカケは私の母から、毎日読んだ人のカウントが増えていると言うことは、毎日読んでくれている人がいるのだから、毎日ちゃんと日記を書いた方が良いと言われたからでした。自意識過剰になって申し訳ありませんが、確かに毎日読んでいるものが更新されていなかったら自分もガッカリするよなと思い、毎日書くようにしました。それから毎日書きたい事がちゃんとあるように1日を頑張って生きようと思うようになりました。この日記を毎日書くようになってから、日記を書きながら1日を振り返ったり、自分の思いや考えを確認したり、自分との対話になったりしていると思います。続けると言う事の大切さもこの日記から学びました。今ではこの日記を書かないと1日が終われない感じになります。この日記は自分の生きた証ですし、その時その時の道場の思い出もつまっています。1番は自分が忘れずに残しておきたいと思う事を書いています。道場生や子供達へのメッセージ的な思いもあります。この日記を書くようになって本当に良かったと思っています。
長男が何故か野球にハマっています。私は野球は好きではありません。私の父が野球が好きで、父が家にいる時は、夜はずっと巨人戦を父が見ているので、私達は好きなテレビを見る事は出来ませんでした。夏休みの高校野球の時期なんて、昼は高校野球、夜はプロ野球を父が見ているので最悪でした。そして私は野球が下手でした。父とキャッチボールをしている時に、私が下手すぎて父が怒って私にボールを投げて、家に帰ってしまいました。そんな事もあり私は野球は好きではありませんし、野球を見る事はありません。その悪夢が蘇るように長男が野球にハマってドジャース戦を2日間観ています。子供の見たいテレビぐらいは見せてあげたいので、私は我慢して一緒に野球を観ています。でもやっぱり大谷選手やダルビッシュ選手や松井選手が出ると気にして見ます。妻も高校野球のチアガールで甲子園に行っているので、野球が好きで長男と熱くなって観ています。もうこうなったら私も一緒に野球を好きになって楽しんでやろうか!?と思っています。51歳から野球ファンになって見ようかな?!と思っています。
左耳が突発性難聴になりました。何処が起点だったか?医師と話した結果はおそらく股関節を人工股関節にした手術のあとだったのではと言う事です。心身に大きなストレスがかかった事が原因になる事が多いそうです。確かに手術のあと頭がクラクラしていましたし、そこから目眩が始まりました。それが少しずつ進んで行ったように思います。手術のあと痛みと苦しみで3日間眠れず食事もほぼ出来ませんでした。そしてこれからの不安と戦っていたのですから、やはり心にも身体にも相当なストレスがかかったのだと思います。まあ生きるか?死ぬか?を経験したのだから、心にも身体にも負担はかかったのでしょう。そこを起点としたら聴覚が戻る確率は絶望的な感じです。おそらく私は左耳の聴力をほぼほぼ失ってしまいました。一生失う事となりました。若い頃は得る事の連続でした。歳を取ると失う事の連続です。でもそれに耐えれるだけの心と身体を持っているつもりです。極真空手を通して困難に負けないだけの心と身体を作って来たつもりです。だから私はこの出来事を悲観してはいません。当たり前に歳を取っているんだなと思っています。でもそのぶん人に与えられる物も多くなるので、歳を取るのは悪くありません。子供達や生徒達にたくさんの感動をもらっています。まあ何がどうなろうと自分は自分です。頂いた命と身体を使い切って最後までしっかり生ききりたいと思います。
自分はこの世に生まれてくることが出来て、本当に良かったと思います。生まれて来たからたくさんの人達に出会え、いろんな体験が出来ました。もちろん生きていれば楽しい事ばかりではないけれど、やはり自分は生まれてくることが出来て良かったと思いますし、今までの人生で良かったと思います。その気持を今日は言葉にしてみたいと思います。自分に生まれて来て良かったと思う事、自分の人生が今までの人生で良かったと思う事が心から出来たのは、長男が生まれた時でした。自分と言う人間に生まれ、今までの人生があったからこの子に出会う事が出来たんだなと思い、自分と言う人間と自分の今までの人生を全部肯定する事が出来ました。そして考えました。自分と妻が結婚したのはこの子が生まれてくるためだったのではないか?私と妻は歳も10歳違いますし、性格も全然違います、出会った頃なんて、お互いにこの人と結婚するどころか恋愛をするとも思っていなかったと思います。なのに何故、こんな偶然と言える事が起きたのか?何故、こんな奇跡とも言える事が起きたのか?それは運命だったからなんじゃないか?と思ったのです。偶然も奇跡も運命も起きたから、そう言える事なのですが、この子が生まれてくるために私と妻は生まれて来て今までの人生を生きて来て、出会い、奇跡のような恋愛をし、奇跡のような結婚をしたのではないのか?これが運命だったからこの偶然があり、この奇跡が起きたのだと思ったのです。そう考えたら自分の今までの人生を全て肯定する事が出来たのです。私の父と母も偶然に出会い、奇跡のような恋愛をし結婚したのは、私と言う人間が生まれて来ると言う運命のためだったのではないのか?そう考えて行くと途方も無いのですが、私のところまで命が繋がってくれたこと、妻のところまで命が繋がってくれたことに感謝しますし、この頂いた奇跡とも言える命を、長男と次男に繋げる事が出来た事に感謝しています。私はこの世の中でたくさんの人に守られて生きて来ました。たくさんの素晴らしい体験をさせて頂きました。生きていることはとても楽しいです。この世はとてもとても美しいです。だから子供達にも頂いた命を大切に一生懸命に人生を楽しんで、素晴らしい人と出会って大恋愛して結婚して、命を誰かに繋いで欲しいと思います。その時にきっと自分に生まれた事や自分の人生を素晴らしいかったとこれで良かったと全部肯定出来ると私は思っています。
中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」を読みました。熊谷へ向かう電車の中とホテルでと帰りの電車の中でと昨日の入浴中と今日の入浴中に読み、最後まで読み終えました。この作品を読むのは3回目なのですが、読むたびにいろんな事を感じ、いろんな事を考えさせられます。今回、この作品を読んで心に残り深く考えさせられた文章を載せておきたいと思います。その1は、「お前は…アメーバみたいだったんだ。わかりやすく言えば」「温度と水と、光とか…他にも色々なものが合わさって、何か、妙なものができた。生き物だ。でもこれは、途方もない確率で成り立っている。奇跡といっていい。何億年も前の」「その命が分裂して、何かを生むようになって、魚、動物…わかるか?そして人間になった。何々時代、何々時代、を経て、今のお前に繋がったんた。お前とそのアメーバは、一本の長い長い線で繋がってるんだ」「これは凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、何億年の線という、奇跡の連続は、いいか?全て今のお前のためだけにあった、と考えていい」と言う施設長の言葉です。その2は、「お前は、何もわからん」「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカや安部公房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホもピカソだってまだだろう」「お前は、まだ何も知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」「お前は、本当にわかってない」と言う施設長の言葉です。最後は「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」「考えることで、人間はどのようにでもなることができる。…世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる」この3つの言葉が今回は心に響きました。私も十代の頃、どうにも出来ない自分に悩み腹が立ち、でもどうしていいか分からない苛立ちと、自分の未来と自分がどうなるのかという不安にどうしようもなくなく、1人でいるのが辛く憂鬱に過ごした夜がありました。その時にこの言葉を言ってくれる大人がいたら、またこの作品を読んで、この言葉に出会えたら、どんなに自分は楽になっただろうと思います。でも私はこの作品を読んで自分の今までの人生がこれで良かったと言う事を言葉にする事が出来るようになりました。それを明日の日記で書いて見ようかな?と思います。
今日は熊谷ドームで型競技・I.K.Oセミコンタクトルール全関東大会が行われました。東京城南京浜支部からはI.K.Oセミコンタクトルール全関東大会に前田水蓮と松井真生が出場しました。2人とも本当に良く頑張りました。水蓮は初めての大きな試合でいつも以上の組手が出来ていました。一生懸命頑張っている姿に感動しました。水蓮はセンスも根性もあるので、これからどんどん成長して行くと思います。真生は3位入賞しました。とても良い組手が出来ていました。優勝する技術は確実にあるように感じました。2人にはこれからもセミコンタクトルールの組手に挑戦し続けて欲しいと思います。いつか2人が東京城南京浜支部を代表する選手になるだろうと思います。
今日は朝7時半に起きて8時40分に家を出て、熊谷へ向かい、熊谷ドームで明日行われる型競技・セミコンタクトルール全関東大会の設営をしました。明日試合に出場する生徒達が力を発揮出来ますようにと祈りながら試合場を作りました。会場の近くに宿泊しているのですが暇で暇でしょうがなく、寂しくて寂しくて仕方がないので家族とテレビ電話で話しました。電話を切ったらまた寂しいです。テレビで「男はつらいよ」を見ながらご飯を食べています。「男はつらいよ」は涙と笑いがつまっていて大好きなんですけど「男はつらいよ」なんて言葉を堂々と言えないほど妻には大変な思いをさせているので、妻の前では「男はつらいよ」なんて私は言えません。
昨年の股関節を人工股関節にした手術のあとから目眩がするようになりました。いつも少しフワフワしている感じでした。特にスマホを見た後などはそれが酷くなっていました。そして最近は左耳の聴こえが悪くなっていました。人がたくさんいると特に酷くなっていました。そして先々週ぐらいから耳鳴りが酷くなりました。とてもとても嫌な予感がして今日、耳鼻科に行きました。聴覚検査を受けたところ左の耳は突発性難聴と診断されました。しかも重度に近い難聴でした。しかも私が医師に説明した経緯からの医師の判断では回復の見込みは薄いそうです。聴こえが悪いと気が付いた所から最低でも2週間以内に処置をしないと回復が難しくなるようでした。後悔先に立たずですね。でもそんなにショックではありません。ああこれが一生続くんだなと思っただけです。聴こえは悪くなりますが、全く聴こえないわけではありませんし、集中して物事に取り組めばそんなに気になりません。ただ飲み会のような場所ではあまり人の話が入って来ないと思います。この日記を見ている皆様は自分の身体に変調を感じたら、面倒くさがらずに早く病院に行って下さい。どんな病気でも早期発見して処置するに越した事はありません。私が帰宅すると妻が子供達に、これからはパパに大きな声で話してあげてね。聴こえなかったからと怒らないであげてね。と言っていました。長男は「〜先生も確か右耳が難聴だったな。」と言っていました。たぶんパパだけじゃないよと励ましてくれたんだと思います。私は妻と子供達に「ぜんぜん落ち込んでないから大丈夫!少し聴こえが悪いだけだから!これからは話しかける時や大切な事を話す時は右耳に話してね!」と言いました。病院て9日ぶんの大量の薬をもらいました。その薬を飲みきって、聴覚検査をしてみてどれだけ回復するかで今後の方針を決めるようです。私が右を向いたら聴きたくないと思っていて、左を向いたら聴きたいと思っていると思って下さい。それは冗談ですが、もう笑い話に出来ちゃうぐらいの事だと思って欲しいと思います。今を生きている自分が、今までで生きて来た自分の中では1番歳を取っていて、今を生きている自分がこれから生きて行く自分の中では1番若い、つまりは今の自分は常にはじめましての今だけの自分なんだと言う事なんだと思います。そう考えたらもう50年生きているのですから、悪い所の1つや2つはあって当たり前です。今を真剣に一生懸命に思いっきり楽しんで明日に大きな期待を膨らませてワクワクして笑って生きて行こうと思います。これからは私が振り向くときは右側からになると思います。私は人と並んで歩く時の立ち位置は右側が良いのですが、これからは左側にしたいと思います。だだ道路ではやはり自分が外側を歩きたいのでやっぱり右側だなと思います。子供達が大きくなって私より逞しくなったら私が左側を歩いて守ってもらおうと思います。
今日はホワイトデーでした。昨日が結婚式から14年という事もあり、ケーキを買って帰り家族皆でお祝いをしました。妻と長男と次男がいる事を当たり前の事だと思わずに感謝したいと思います。家族がいてくれて本当に本当に幸せです。長男も次男も馬鹿だけど、健康で元気に育ってくれればそれで良いです。長男と次男に対して他に望む事はありません。自分の人生ですから自分の好きなように生きて行ってくれればと思います。私は欲しい物は全部手にいれました。妻が一緒にいてくれて、子供達が元気に育ってくれて、空手の稽古が出来れば、週末に家族で美味しいご飯を食べて、皆で楽しく過ごせれば、あとは何もいりません。今日も家族皆で美味しいケーキを食べる事が出来て本当に幸せでした。
私は2010年3月13日(土)にお台場のパラッツォ・エマーレと言う結婚式場で妻と結婚式をしました。もうあの日から14年が経つと思うと本当に本当に時間はあっという間に過ぎて行くのだなと感じます。私と妻は2007年の10月28日(日)に妻が運転する車の中で私が告白をし付き合う事になりました。2008年1月27日(日)に妻が上京して一緒に暮らす事になりました。2009年1月27日(火)に大田区役所に婚姻届を出し妻と結婚しました。なので結婚式場は約1年前には決めていました。結婚式まで、あれをやりこれをやり、ダイエットをして、結婚式の日まで2人で頑張りました。結婚式をとても待ち遠しく過ごしていました。でも過ぎてしまえば、もう14年が経ってしまいました。結婚式の日は最高に楽しかったです。自分の人生の集大成とも言える日でした。私は披露宴の新郎と新婦の席に座り、結婚式に参列された方々を見ながら「なんかミュージカルのカーテンコールみたいだな?!」と思いました。それは何故かと言うと、私のその時、その時の人生に関わってくれた方々の顔が並んでいたからです。その方々の顔が私の前に一斉に並んでいるなんて、もう一生に1度の事なんだろうな?と思いました。妻と披露宴会場に入場し私達の人生に関わってくれた方々の前を通り、新郎新婦の席についた時にそれを思い、もう涙が止まりませんでした。あの日に戻りたいとも思うけれど、そうすると長男と次男が存在しなくなってしまう可能性もあるので、やはり今が1番です。私と16年も一緒に居てくれている妻はなかなかの強者です。本当に本当に感謝しています。妻じゃなかったらここまで来る事は出来なかったと思います。結婚式でも披露宴でも最高に可愛い妻が私の隣に居てくれて、とっても誇らしかったし、とっても心強かったです。妻が隣にいてくれたから最高の1日になりました。私達の結婚式と披露宴に参列して頂いた方々には心から感謝しております。
確定申告を終わらせました。これが終わるとホッとします。何とかかんとか22回目の確定申告が終わりました。本当に時が過ぎるのは早いです。22年間、たくさんの人達に支えられここまで来る事が出来ました。本当に本当に感謝しております。田舎の不良少年が極真空手を始めて夢を持って東京に上京して31年です。右も左も分からない所から始まって、たくさんの人達に支えられてここまで来た31年でした。そして道場を22年間経営して来る事が出来ました。東京の人は冷たいと聞いていましたが、全然そんな事はありませんでした。今では東京の方が知り合いも多くなりました。東京は夢を叶える場所、戦う場所と思っていましたが、東京も思い出がたくさんある心地良く住みやすい場所となりました。そんな思いに浸っている暇もなく今日からまた全力で頑張ります!
東日本大震災から13年が経ちました。妻と長男はその時、福島にいました。地震が起きた時に私の両親が妻の実家に来ていたので妻と長男は1階の茶の間に居て、すぐに外に避難する事が出来ました。もしいつも寝ている2階の部屋にいたら大変な事になっていたそうです。1回目の地震が落ち着き、2階の部屋に行くといろんな物が倒れていたそうです。長男は生後3ヶ月にならないぐらいでしたから、もしその下敷きになっていたと思うとゾッとします。長男は何かに守られたのかもしれません。本当に人の人生は微妙な事で変わってしまいます。妻は長男をいつでも連れて逃げれるよう、長男をベビーバスケットに入れて、玄関に近い茶の間で寝ていたそうです。本当に大変な思いをしたと思います。その時、私は東京に居て家族を守ってあげる事が出来ませんでした。申し訳なかったなと思います。考えてみるとあと時ぐらいから妻はとても強くなって大人になった感じがします。もしかしたらあの震災を経験した事で私を追い抜いて行ったような気がします。東京もなかなか大変だったけど、やはり東日本大震災の直撃と原子力発電所の爆発を近くで経験し未曾有の状況を経験した福島や宮城の人達の前では、大変だったなんてとても言えません。妻には自分と長男の命を一生懸命に守ってくれて本当にありがとうと言いたいです。
今野譲が空手を始めて10年になりました。ずっと試合に出続けて頑張って来ての10年だから本当に凄いと思います。なかなか出来る事ではありません。東京城南京浜支部も開設21年ですが、支部内も国際親善大会も関東大会も東日本大会も休む事なく試合に出続けて10年頑張った生徒は譲が始めてだと思います。これはやはりという感じなのですが、自分と深く付き合う事になる道場生は、その人が入門した日の事を鮮明に覚えています。もちろん譲が入門した人の事はとても鮮明に覚えています。今の東京城南京浜支部の少年部がここまでこれたのは譲のおかげと言っても過言ではありません。頑張って試合に出ていた選手がごっそりと抜けて、あまり試合に出ない雰囲気に支部がなりかけた時に譲が頑張って試合に出ていました。そこに琥白や駿斗が加わり、少しずつ試合に出る人が増えて来て、競技クラスに参加する人も増えて来ました。これから10年、私も皆と一緒に頑張りたいです。あと数年したら私は彼らに組手で敵わなくなり、組手にも混ざらなくなり、完全に指導する立場になっていると思います。今の中学生がこの勢いで脇道にそれず頑張れば全日本大会に7〜8名は出場出来ると思っています。そう考えるとワクワクが止まりません。今の中学生が私が生徒達と一緒に稽古出来る最後の世代になるのではないかと思っています。そのつもりで人工股関節にしたのです。自分の指導者人生の集大成にしたいと思っています。考えてみると1人の人間と10年絶える事なく付き合えた人って私の人生でそんなにはいません。だから譲は私にとってとても特別な存在です。これからも一緒に頑張って行きたいと思っています。どんな形でも良いから一生付き合って行きたいと思っています。
あまりギターの練習をしない長男に、妻が長男のバンドの相方の方がギターが上手いと言うと長男は思いもよらずに怒って「俺の方が絶対に上手い、何処がを君の方が上手いのかを説明して。」と食い下がっていました。そしてその言い合いのあとギターを練習していました。やっぱり好きな事では本気になって怒るんだなと思いました。
今日は何故か?とても身体がダルく感じました。朝起きた時もダルかったのですが、頑張ってごはんを食べて家を出ました。大森道場まで30分自転車を漕いで行ったので、身体ももう起きたかと思いましたが、大森道場でストレッチをしている時に気が付いたら居眠りしてしまいました。相当疲れが溜まっているのだなと思いましたが、自分との戦いに克つと日記に書いた矢先に休む訳にはいかないと思い、頑張ってストレッチを終わらせ、呼吸法と型と立禅をしました。ここまで来てもなかなか気持は乗って来ませんでした。でもやはり今日は自分の残りの人生の大切な大切な1日だと思い、トレーニングジムに移動して背中のトレーニングを1時間20分行いました。歯を食いしばって一生懸命に頑張ってトレーニングしました。終ってみれば今日もしっかり記録を更新していました。自分に勝った!と思いました。不思議とトレーニングが終わったら心も身体も軽くなっていました。お昼ご飯はご褒美にサムギョプサルを食べました。頑張って力を使い切ったので、食べた物が自分の身体の中にスーッと入って行き、自分の力になり、摂ったタンパク質が自分の身体の筋肉になって行くような感じがしました。でもさすがに食べたあとは少し眠くなり15分ぐらい昼寝をしました。とても気持が良かったです。昼寝から起きると体調も良く感じたので、ジムでエアロバイクで30分有酸素運動をして指導に入りました。夜の一般部の稽古では生徒達と一緒にスパーリングをしました。本当に頑張って良かったです。今日はグッスリ眠れると思います。
2023年11月22日から使っていたトレーニングノートが昨日で使い終わり、今日から新しいトレーニングノートに変わりました。私が使っているノートは48枚あるので96回のトレーニングした事になります。2023年11月22日から3月6日まで77日なのにトレーニングは96回していると言うのが驚きです。これは1日2回トレーニングする日もあるからです。我ながら本当に頑張ってるなと思います。この2ヶ月半は自分に負けなかったのではないかと思います。先ずは自分との戦いに勝たなくては人に偉そうな事は言えません。空手の試合はとても残酷です。それは何故かと言うと自分に勝っても相手に負ける事もあるからです。自分に勝てない人はもちろん相手にも勝てません。でも自分に勝っても相手に負ける事はあります。私は試合中に一瞬も諦めなかったけど負けた事があります。そうなったらまた次の日から自分をさらに鍛えて行くしかありません。相当な才能が無ければ、頑張ったのに負ける、諦めなかったのに負けるのが勝負と言うものです。だから自分に勝つ事が相手に勝つ事の最低条件だと私は思っています。私は世界チャンピオンになるどころか世界大会にも出場出来なかった人間です。どんな理由があれ夢に敗れたと言う事実は変わりません。その事を引きずってはいませんが、今でもその悔しさは忘れていません。私には人に誇れるほどの実績も能力もありません。だからこそ、その事を謙虚に受け止めて毎日を自分に負けないように頑張っています。それは誰に褒めて欲しいからやっている訳でも、誰に認めてもらいたいからやっている訳でもありません。ましては誰に叱られるからやっている訳でもありません。自分がやりたいからやっているのです。自分が自分のためだけにやっている事です。でも自分のためにやる事も一生懸命にやれない人が人に厳しい事を言う資格はないと思います。だからその事を胸に頑張っています。今日は1番嫌いな足腰のトレーニングをやりました。とても苦しかったけど記録が上がり自分が前進したという充実感を味わえたので、トレーニングが終わった時はとても爽やかな気持になりました。こうやって毎日毎日をしっかりと積み重ねて行きたいと思います。その代わり週末はお酒を飲んで楽しく過ごしたいと思います。
私は自分との戦いが好きです。朝決めた時間に稽古やトレーニングをするのも自分との戦いです。仕事は自分との戦いではありません。自分や自分の時間を犠牲にしてやっている事ではありますが、それは何かのためにやっている事だし、やらなければ誰かに叱られたり、何かを失い、自分の生活がままならなくなります。だからある意味それはしょうがなくやる事なので、それは私にとっては自分との戦いではありません。自分で決めた稽古やトレーニングは休んだとしても誰にも叱られませんし、それをやらなかったからと言って、自分の生活がままならなくなる訳ではありません。あくまで自分のためだけにやる事です。だからそれは自分との戦いです。私も休みたい日だってあります。それこそ週に1〜2回ぐらいは休みたいと思う日があります。でもそれに負けたら自分に負けた事になります。せっかく自分が自由にやりたい事を出来る時間を無駄にしたら、自分が成長する大切な時間を無駄にした事になりますし、自分の1日は生活するため、やらなければいけない事のために、誰かに叱られるからやらなければいけない事のために、そのために時間を使い、残りの時間はその疲れで、自分が楽に身を任せて1日を過ごした事になります。そんな事だけに時間を使って毎日を繰り返し自分が成長する訳でも高まる訳でもなく、いつか年老いて自分の人生が終わってしまうなんて私はゴメンです。常に自分が前に進むために自分と戦っていたいです。ウエイトトレーニングは先週の記録を見てトレーニングをするので、前の週の自分との戦いです。先週上がらなかった重さが上がったり、先週より1回多く上げれば、過去の自分に今の自分が勝った事になります。だからウエイトトレーニングが好きです。稽古でも昨日より上手く出来たり新しい事を発見したりします。昨日の自分より前に進んだ感覚を感じながら稽古する事ができます。でもそれは毎日、自分に負けないでコツコツと何かを積み重ねて行ける人や1つの事に情熱を持って真剣に一生懸命に取組む人にしか感じる事は出来ません。私は、今はやりたい事が仕事なので微妙ですが、私は仕事を休んでも自分の稽古はしたいです。逆に稽古を休んでまで仕事をしたいとは思いません。それが普通だとは思ってはいませんが、私は自分のために一生懸命に頑張れる毎日を過ごしたい、毎日しっかり自分と戦って打ち克つような1日を過ごしたいと思っています。
朝は長男と2人で整形外科に行きました。私は左足に少し痺れが出て来た事、長男は背中の筋肉を痛めた事を診断して頂き薬をもらいました。帰りに長男のお昼ご飯を買ってから、私は道場に行き、柔軟体操と呼吸法と型を行い、ジムに移動して腹筋、背筋、首を鍛えてからエアロバイクで有酸素運動をしました。少し体重を落としたいので有酸素運動をやるようにしたいと思います。本当は禁酒しようと思っていましたが、やっぱり週末ぐらい飲んでも罰は当たらないでしょう!と思い直し、そのぶん有酸素運動を頑張る事にしました。自分に厳しくばかりしていては人生がつまらなくなるので、厳しい事と楽しい事で上手く足し算引き算して帳尻を合わせて行きたいと思います。
どんな時間が今、1番楽しいか?と言ったら、それは家族でご飯を食べている時です。妻と2人でビールを飲みながら、いろんな話をしてご飯を食べている時間がとても楽しいです。その時間のために1週間を頑張っています。でも長男はご飯を食べ終わったら、すぐ隣の部屋に行ってゲームをしてしまいます。次男はまだ一緒に話したりカラオケをしたりしてくれます。でも最近は子供達が食事をしたら隣の部屋に行ってしまうので、妻と2人で話せる時間が増えました。私と父の共通点を見つけました。私の父も家でお酒を飲む人でした。父が外に飲みに行く姿はほとんど見た事がありません。父は会社を経営していてお金はたくさんあったので、外に行きつけの店を5〜6軒ぐらいは作れたと思いますが、そうではなかったので、今考えると家にいるのが好きだったのかな?と思います。私もそれは受け継いでいます。私は自分で自分の事を俯瞰して見ると、自分はそうとう変わっている人間だと思います。私は、こう見えて人見知りで人になかなか自分を見せる事が出来ません。誰にも本当の自分を見せる事が出来ていないと思います。本当の自分を見せて人に嫌われたり、その人の期待を裏切ってしまうのが怖いのかもしれません。人の前では気を使っていつも多少は自分を演じていると思います。そのぶん家に帰って来て妻と2人になるとずっと話をしてしまいます。妻には甘えっぱなしだなと思います。私と妻は10個歳が離れているのですが、出会った頃は私の方がずいぶん大人だったかもしれませんが、今はどちらが歳上か分からない感じになってしまいました。安心して高を括っているわけではありませんが、妻なら本当の自分を見せても受け止めて許してくれると信じています。もちろん私も妻の全てを受け入れて許せると思っています。
3月3日はひな祭りですが、家は男2人なのでひな祭りにお祝いはしません。妻に似た女の子を育てて見たいなと思った事もありましたが、私にとって妻の身体と健康が大切なので、もう2人で十分です。自分の身体を危険にさらして苦しい思いをして、元気で可愛い男2人を生んでくれた事に感謝しています。妻と2人の息子がいる事で私の心と幸せは100%満たされています。もしあとは何が起きてもボーナスだし、悲しい事や苦しい事があったとしても生まれて来なければ良かったとか、自分に生まれた事を後悔するとか、自分の生き方を後悔するとかは絶対にありません。妻と出会い子供達が生まれた事で自分の命と自分の人生を心から全て肯定する事が出来ました。だから妻と息子達には感謝しかありません。しかも自分のやりたい事を家族が応援してくれる事を本当に感謝しています。
長男がお友達と組んでいるバンドのTIGER&DRAGONでライブをしました。なかなかカッコ良かったです!ステージでギターを弾いている長男は少し違って見えて、ちょっと遠くにいる感じがしました。家にいる時は、勉強はしないし、言う事は聞かないし、悪い事はするし、弟と喧嘩ばかりしてるし、っていう感じの長男ですが、ギターを弾いている姿は輝いて見えました。感動しました。何かを真剣に一生懸命頑張っている姿は人の心を動かします。これからも頑張って行って欲しいと思います。長男はギターのプロになってギターでご飯を食べて行くと行っています。音楽の世界の事は分かりませんが、そんなに甘い世界ではないと思います。でもそんな言葉は私が夢を目指している時に、周りの大人にたくさん言われた言葉です。それでも私は諦めずに頑張って、今では本当に空手でご飯を食べています。長男は今のところ私の良い所は1つも受け継いでいないように感じます。でももしかしたら私の諦めの悪さを受け継いでいるのかもしれません。何歳まででも良い、情熱を持って真剣に一生懸命に頑張って夢を諦めないで追い続ければ何者かにはなれるはずです。自分が納得するまで頑張って欲しいと思います。私も出来る限り応援してあげたいと思っています。死ぬ時に後悔しないよう、思いっきり青春して人生を楽しく生きて欲しいと思います。
昨日は2月29日だったのですが、少し気になった事がありました。閏年の2月29日に生まれた人は閏年以外の年は誕生日は何日にやるのかな?と言う事でした。気になって調べて見たら、どうやら2月28日に1歳、歳を取りその日に誕生日をやるようです。1年は365日ではなく正確には365日6時間なので、4年経つと24時間となり1日ズレてしまうので閏年だけ366日にして調節しているようです。なんともややこしいですね。でも閏年の2月29日に生まれた人はとてもスペシャルで得な気がします。誕生日を絶対忘れられないと思います。閏年の人の誕生日の祝い方を考えました。閏年は普通に2月29日に誕生日をして、次の年は28日の朝の6時に誕生日をして、その次の年は28日のお昼の12時に誕生日をして、その次の年は28日の夕方の18時に誕生日をすれば正確なのだと思います。もし私の妻や子供達が閏年の2月29日生まれだったらそうしてあげたかったな!と勝手に思ったりしました。閏年の2月29日生まれの奥さん、子供、友達など大切な人がいたら是非、この案を考えてみてもらえたらと思います。そしたら毎年誕生日がとてもとてもスペシャルな物になるんじゃないかな?!と思います。
kanno
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