昨日は 着物を解きながら 能を見ていた
能はトランス と聞くが 斉唱される謡の部分は まるでグレゴリオ聖歌のようで いかにも和の調子が どうしてそう響くのか 何度も確認しようと 耳を澄ませた
能の謡は聖歌とはちがって 神への言葉ではなく 話の筋に関わる内容なのだが 能で演じられる主題の多くが 解脱という この世ならぬものへの希求と知ると 共通する部分があるのかもしれない
延々と 同じような調子が続くようなのに 深い感情が揺さぶられる それは普段 笑ったり泣いたりすることでは 表現できない 魂の底にあるものが ゆらりと動くような感覚なのだ
つける面や 纏う衣装のつくりや色や着付け ほとんどないと思えるような動作 それらは意味を持った必然として 厳格に決められている ぎりぎりまで削ぎ落とされた結果 作り出された表現がそこにある
能面のよう と譬えられる奥には 見える人にしか見えない さまざまな表情が隠されている
環境にいくら優しくて エコロジーや リサイクルの理念で作られていても 人はやっぱり よりキレイで 安価なものを求めるもの
それはただ 競争のなかで 生き残るためのテーゼなのか それとも 消費者の要求なのか きっとどちらもだろう
リサイクルだから 少し茶色で高いけど 素朴感や手触り感があるよ そう言ったとき 響いてくれるひとは きっと少数派になる
エコという 成り立ちを超えて なお魅力的なものを作り 世の中に浸透させていくのは 企業を根っこから 解体させる位の 大きな変革が必要なのかもしれない
コトはただ製紙業界だけじゃなく 今を生きるわたしたち ひとりひとりの選択にも 掛かってはいる 法で擁護しなきゃ進まない ってのは あまりにも悲しい
夕べは わくわく市の仲間と新年会 言いだしっぺのゲストは 急遽欠席となり いつもの三人組での宴席となった
鱈の白子の大量パックがある というので思い切って購入し 極上の昆布でいい出汁を取った鍋と 持ち寄りの料理やお酒が加わって やたら豪華になった
久々に食べる白子の トロけるような美味しさに ひとくちごとに陶酔しながら これは間違いなく 冬の鍋の王様だと思う
んで改めて 出会ってから自分が経た歳よりも 彼女たちの積み重ねた年齢にオドロキ わたしより9つ下と17歳上という 普通の友人関係では あり得ない組み合わせが 今更ながらフシギだった
こんなに近くに居ながら 普段はほとんど会うこともなく 連絡を取り合うワケでもなく それでいて 仕事を通じて 嫌ってほど知ったお互いは 家族ともまた違う濃さがある
何かをしよう そういう時になって 突然集まって動き出せるのは やっぱり あの頃の下地があったからなのだし ひとりでははっきりしない事も 一緒にいるとクリアに見えてくる
さあて 今年はまた 何をやらかすんだろう
今縫っている服は また懲りずに 新しい試みに挑戦している
幅を生かしたかたちから始まり 洋服的なラインを経験したあと そこにまた直線的な要素を加えていくうち そもそも昔の人が 最初に着物を服にし始めた頃は どんな作り方をしていたのかが すごく知りたくなった
たぶんそれは 着物の反物幅を生かしたものだろう そして細部の縫い方も ダーツや袖付けなど 立体的にボディに近づけるのではなく 着物に近いかたちであったに違いない
それでたまたま知った情報をもとに見当をつけ 古いリメイク本をアマゾンで探し 友人に注文してもらった それはまさにわたしが求めていた リメイクの源に溢れていて 今でも古びない服があった
特に驚いたのは袖付けの方法で 見頃と袖の縫い代は開いてある 洋服のセットインスリーブなら 開いた処理をできないこともないが 載っていたのは そうすることでしか仕上げられない
着物を見てみると なるほど同じように開いてあり 折り返し分は 袖丈や身幅を出せるように 合理的にもなっている 服にそこまでを求めないにしても その袖付けの方法で できあがるラインを見てみたい
というワケでの試み 実際に縫ってみると 思ったほど簡単ではないのだが これができあがった後はきっと 今までよりもっと自由に かたちを選べるようになるだろうと すごくワクワクしている
確実に数を製作するために 大事なことはなにかと 縫いながら考えていた
いちばんは なるべく途中の変更はしない ってことだ もし必要でも 今の過程に付け足すならいいが 既に縫ったものを解いてまで やり直すのはやめよう
ともかく 最初のイメージに向かって 仕上げることが大切だ 途中で浮かんだアイデアは 今縫っているのじゃなく 後のものに使う そうするだけできっと 仕上げのペースは格段に向上するはず
ほっといたら 同じ服に ずうっとかかってしまえる だって 同じ布で同じボリュームのを 二度と縫うことはできないのだから 後悔のないように いいと思った可能性は試しておきたい
そういう自分のこだわりが ビンボーするにもホドがある という 悪循環を生んでいるのだ よおしここはひとつ 自分の中に強い線引きをして まずひとつを確実に仕上げることを 目指そうではないか
標語として掲げるか そうだそうしよう ・・・ ・・・・・
結局 縫い目が曲がったのを これは必要な解きだと言い聞かせ ついでにと もっと余計なトコまで解いちゃって やっぱり 思いついたアイデアを 試さずにはいられないのだった
ああ
柔らかく縫いにくい生地 が続いたせいか 次はまた気分が変わり 少し張りがあってしなやかな 平織りの絹にしようかと思う
それを何と呼ぶのか知らないが いわゆる紬よりは薄く よく見ると織り節は所々に粗くて 無地だけど表情がある 肌につかずはなれず 凛とした雰囲気と 優雅さの両方を感じさせてくれる
あくまでもその微妙な印象を 大事にしようと思えば シンプルでなくてはならない もし他の布を合わせるとしても 主役の精妙さを きちんと引き立たせる 脇役としての必然が欲しい
そして ちょっぴり遊び心も加えたい 袖を通すときのわくわく それを着て 外に出ることを考えるときの 初心なきもちを思って まずは 新しい型紙を作ろう
サイトでの販売を 再開しようと思う 何かを決めないと 相変わらずゆるゆるのまま 過ごしてしまうので
きっかけは 別れバナシの後日談 ひとづてに 腹を括ったことを わたしに伝えて欲しいと 聞いたから
彼女は以前 きちんと添い遂げる生き方を 何度もわたしに説いていた それは愛情と言うより 実利を確り考えていて どっちにしろ わたしには無理だと思えた
けれどもわたしは それに変わる 確固としたものを 何も持っていなかった ヘタな生き方なのは判っていても ならどう生きればいいのか 今だって判らない
だからもう一度 スタートしてみる
次の一歩には いろいろ迷いがあり ずいぶんと遅くなってしまったが ようやくまた踏み出した
午後の陽射しを待って 久しぶりに画像を撮った それまで 長い時間を 自分と一体のように 過ごしていた服が 初めて対象として離れる
パソコンに取り込んだ画像を見るとき より客観的な視野が生まれ それで得た印象が 最後の仕上げのように 自分の中に流れてくる
おぼろげに理想にあった 壁に掛かった いちまいのふくの画 生地やかたちや縫い方の どれをどうしたら近づけるのか まるで判らないほど不確かだった
周囲の空気のなかで しんと存在し 地球の引力で下がる 自然でゆるやかなシルエット ぼんやりしたイメージにはきっと それを作る為に考え得るあらゆることが セオリーのようにある訳ではない
けれども総てが必要なのだと 少しだけ判った気がする
年明けそうそう 別れる別れないのハナシ なんか 以前もこんなコトあったような と思ったけどそれは別人だった 清算したくなる時期なのかな
そういうバトルを聞くたびに まるで隠遁生活の この地の静かさが際立つ いやここだって 人間が生きている限り そういう生臭さと 無縁ではないはずだけど
おんなを脅かすモノ それはケースが違っても 根っこはほとんど共通していて ただ 自分がいちばん大切にされている その実感が欲しいだけなのだ
仕事とわたしとどっちが大事なの よく言われる 判りやすい禁句は口にしなくても 日々の小さなことで 同じように自分の中のはかりが揺れる
けれども そういうキモチがあるうちが華 エネルギーのベクトルが変わったら オンナのリセットは オトコの幻想なんて 簡単に吹き飛ばしてしまう
油断しちゃいけない
つかの間 ルーティンワークの良さを 人生でおよそ初めて感じ やっぱりできない両刀づかいで 縫いは中断したまま 年を越した
ぼちぼち小掃除をし 今日はようやく 黒豆の煮汁を作り 豆を浸して数時間 夜からじっくり煮て含めて 明日の夜には食べられるだろう
んで 久々に縫いを再開していたら 荷物が届き その中に伯父の着物があった 父が譲られたのを もう着ないからと送ってくれたのだ
とうに亡くなってしまったけれど いつもお洒落で 趣味のいい服を着ていて お宅におじゃますると 豆を挽いて煎れる コーヒーの香りが流れていた
着物は ぴんと糊の利いた 本藍染の木綿絣の単だった 細かな絣が田舎臭くなくて 木綿なのにきちんと感がある やっぱり着物にもこだわって いいものを着ていたのだと思えて すごくすごく嬉しい
こういう気持ち なんだか久しぶり 気に入ったものを買うのもいいが 袖を通した人の横顔を 彷彿とさせてくれる着物は とくべつな安心感がある
何を作ろうか しばらくハンガーに掛けて 眺めながら 新しい春を楽しみに
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