2009年04月30日(木) |
怒りをコントロールする |
夕方、所用で(買い物など含む)出かける。
午後6〜7時に帰宅。夕食を食べようかという時に始まった。
上階からのピアノ音。大人になってからの手習いか。
最近聞こえ始めた。
数年来、上階からの騒音(無遠慮なかかと落しの足音、走る足音、
ドッスンバッタン掃除音及び扉の開け閉め)に苛立ちや怒りが沸き起こる毎
「こちらも迷惑をかけているかもしれないのだから」と無理矢理自分に言い聞かせ
自分が苛立ちや怒りを感じてしまうのは不相応だと言わんばかりの罪悪感さえ抱き
騒音が響いてくると、かえって身体が萎縮して自分の家なのに身動きが取れなくなっていた。
今はそんな自分に腹が立つのと同時に労ってあげたい気分。
今考えると間違ったやり方で自分の感情を抑えつけていたと激しく思う。
早朝6時、早い時は5時過ぎから
風呂場?洗面所?へ横断する強い足音に続き
そして、カン、コン、ドスンと風呂場の物音(ウォーターハンマー音?)、
そして、ベランダでガタガタ物音を出しながらの洗濯物干しが
毎日のお決まりのコース。
出かける前は何かの儀式か?と思うほど必ず2〜3往復ドスドス走ってから。
怒りが抑えられなくなり壁を叩いてしまったり(半年に一度くらいだが)
あまりの足音、物音に、ドンッとこちらも床に足を打って返したりもした。
しかし、そんなことで変わるような上階宅だったら
最初からこんな振る舞いをいしているわけがないのだ。
そして何よりこれで自分の気持ちが解決するはずもない。
余計に自分の腹立ちの火に油を注ぐようなもの。
怒りを形に変えて発散することは、相手の思う壺?になると思ったり
あるいは、こちらが静かにする事で伝わるかもと先方に委ねる(下手に出る)
気持ちになってしまったり、自分のペースで睡眠が取れないことで
涙で歯を食いしばるような腹立ちの中、そんな紆余曲折な行動や
気持ちを経て、自分のために現実を上手く利用することが現状では
最善と(何とか)思うようになる。
平たく言えば、自分も早朝5時〜6時に起きる。
そして早朝の時間の使い方を考える。プラスに変える。
ナンダカンダ100%納得はしていなくても
長い時間を経て方向性が見えてきたと思っていた所
今度はピアノの音。ピアノの音のあとは足音。そして早朝。
腹わたが煮えくりかえる。
今日は今まで積もりに積もった腹立ち、苛立ち、怒りが爆発したみたいに
怒りの渦中、何も手につかなくなる。
本の1ページでも読もうとするが文字が頭に入ってこない。
怒りで気持ちがなかなか切り替わらない。
とはいえ、以前は怒りの感情に翻弄されるままでいたのが
次第にこの在り方は違う、変わりたいという
モヤモヤとした気持ちを持つようになった。
そして今は課題があると考えるようになった。
「怒りの気持ちをコントロールすること」だ。
現状の受け止め方や対処の方法を理性的に考えて行う。
世の中、大なり小なり腹立ち、苛立つ場面はあるのだ。
おかしな人物は色々なシチュエーションに存在するだろう。
上階宅は、おかしい住人だと思う。
相容れない、相容れたくもないと思う。
理解を超える常識外れに遭遇する毎、何故そんなことが出来るのか
怒りと同時にクエスチョンマークが浮かぶ。
何故そこまで気配りされない筋合いがあるのかと思う。
しかしだからといって、居なくなってくれ、消えてくれと苛立つ気持ちを
爆発させることは「関わり過ぎ」なのだ。
今たまたま上階宅の騒音を問題にしているだけで
前進するためには起こっている事に向き合うことが不可避なのだ。
自分の課題に目を向ける。
自分の思い通りにならない局面に遭遇した時、
ただその場で地団駄踏んでいては何も変わらない。
自分がどういう考え方をして、どういう行動を取るか。
自分がどういうスタンスを持つか。
自分の心の在り方の芯を持つ。ブレないことが全てにつながるように思う。
課題を克服する。
怒りをコントロールする。
自分にとって好ましいと思う良い環境を作る。
なぜ怒るのか?
○他者が気に入らない振る舞いをしている。
○他者が良しとする行動を取らない。
○他者がこうだから〜こうなっている、なった の考え方になっている。
→他者依存の思考回路を止める。
考え方を変えるにはどうしたらよいか?
○様々な(無遠慮、無神経な)他者がいる現実を見る、受け入れる。
○他者が自分の思い通りにならない(のは当り前)と思う。
○考えて行動する。
○善人もいればそうでない人間もいる現実を見る、受け入れる。
○悪意は受け流す。他者の問題だから。
○他者依存になっていないかチェックする。
→他者がこうだから〜こうなっている、なった の思考回路を止めること。
自分中心(自分がどうしたいのかという意味) を考えて行動する。受身を止める。
○自分が少し高い志になって許す。
○「〜するべき」よりも「〜することが好ましい」くらいに考える。
→落ち着いて考えられる確立が上がると思う。
少し前に読んだ河野義行さんのインタビュー記事を思い出した。
「その人が反省するとかしないとかはその人の問題で自分の及ぶところではないという見解だ」
「自分たちが少しだけ高い志を持って許してやろう。そうやって持ちこたえてきた」
(冤罪扱いの渦中、周囲の反応に対して子供たちに話したこと)
河野義行さんがどうやって許してきたのか?許す気持ちを持ったのか?
「許す」ことについて知りたい。
河野義行さんの著書を購入して読みたい。
嫌いな対象から学ぶ。課題とは。
○無遠慮、無神経な振る舞いに気付く。
→思い当たる所があれば直す。 ○こちらは気を使ってやっているのに上階宅はドスドス歩きやがって。
→自分に当てはめて考える。
他者への配慮を考えられていただろうか?
何の差し障りも感じさせない配慮であればあるほど
胡坐をかかせてもらっていたのではないか。
気遣いを身につける。
○嫌な対象にこそ学ぶ課題がある。
→自分の成長のきっかけになると考える。
課題を克服する。
書くことで落ち着いた。
どうしようもなく苛立って腹立っていた気持ちが少し収まった。
そして気持ちを少しずつ整理することが出来た。
「書いてよかったと思う。」
思いつくまま書いた。
とにかく思いつくまま書いた。
だけど自分の気持ちを確認しながら書いたので
足掛け2日?3日?の大作だ。
書いてよかった。
再度整理して書く。
思いつくまま書いたので消化作業が必要だ。
再度整理して書く。
現状を受け入れながら現状を変える。
考えを広げるために本を読む。
5月4日(月)完。
2009年04月29日(水) |
映像関係の翻訳本Part2 5章・6章の3分の1読む |
映像関係の翻訳本Part2の第5章と第6章の3分の1ほど読む。
1時間×2。インターバルを置いて第6章を読み切ろうとしたが
就寝時間間近、睡魔に襲われ寝る。
ま・・・第6章を読み始めたので良しとする。
小難しいというのではなく、主語と述語が混乱した文章に思える。
インターネット翻訳機能の歪んだ?翻訳文を読んでいるみたいで
あいかわらず頭に入ってきづらい。結構脱字ある。珍しくないか?本として。
あながち私の集中力、読解力の問題だけではないと思うのだ。
引用されている映画『逃亡者』『フォレスト・ガンプ』など見てからの方が
内容を理解する上で頭に入ってきやすいのかもしれないが
今からだと読む流れが止まってしまいそうなので
再読する時そうしようと思う。
明日(今日)は第6章途中からと第7章を読む。
第7章も第6章同様、結構ボリュームがある。
いきなり読み切るイメージを持たず(余計高く思えてしまうから)
集中力を持つ工夫をして読む。
時間を区切る。
1センテンス毎に集中して読む。
2009年04月28日(火) |
映像関係の翻訳本Part2 4章まで読む |
映像関係の翻訳本Part2を4章まで読む。
1時間で4章を読みきれなかったので
あと1時間読むことにした。つまり1時間×2。
途中またまた睡魔に襲われ一瞬止めてしまおうかと思ったが
木曜日〜金曜日に読み上げるには
結構なページ数の4章を読んでおかないとキツイと
思い直し自分の尻を叩いて読み始めたら、不思議と睡魔が退散?した。
明日(今日)は5章と6章を読む。
手段が目的にならないように常にチェックする。
ページ数をこなすのが重大目的ではない。
何を感じ、何を考えるか、感性の領域で受け止める作業をする。
2009年04月27日(月) |
映像関係の翻訳本Part2 3章・4章途中まで読む |
映像関係の翻訳本Part2を読む。
第3章まで読み上げるのに1時間。時間の目標はクリアしたが
木曜日〜金曜日までに読み終えるために
第4章も読むことにする。睡魔に襲われながら3分の1読む。
第4章は『フォレスト・ガンプ』が引用されている。
その引用された解説を読んでいると映像関係の翻訳本というより、
まるで人生のバイブルを手に取っているような感覚になった。
抜粋
これが『フォレスト・ガンプ』が実際に語っているものすべてである。
・私たちの人生へのアプローチが、人生を形作っていく。
・私たちが人生を受け入れることが経験となっていく。
・私たちが抵抗すれば、人生の苦難はいつまでもつづくだろう。
解説は続く。
心に重く響いた。
課題を考え、消化、克服していきたい。
『フォレスト・ガンプ』はずいぶん前に見た記憶がある。
だけど物語の記憶は漠然としている。
もう一度レンタルして見たいと思う。
本を読む時の集中力をつける。
2009年04月26日(日) |
映像関係の翻訳本Part2 3章の半分読む |
映像関係の翻訳本Part2を読む。1章ぶんの半分くらい。
読み始めから猛烈な睡魔に襲われ
内容はともかく一時間読むという時間の目標はクリアしたって感じ。
終始、瞼の筋肉を持ち上げることに気持ちが向いていた。
集中させるポイントが違う。
腹八分目状態の時に、腹八分目状態にして、読む。
木曜日〜金曜日までに読み上げる。
2009年04月25日(土) |
映像関係の翻訳本Part2 1〜2章読む |
映像関係の翻訳本Part2を1〜2章読む。
昨日は読みづらいと感じたけれど
今日は集中して読めた。
インターネットの変換文章のようには感じなかった。
その日の集中度合いによるのかしら。
翻訳本Part1同様翻訳本Part2でも頻繁に題材とされている
『逃亡者』ハリソン・フォード主演 をレンタルして見てみようと思う。
ずいぶん前に見た、という記憶はあるが
細かい場面などは覚えていないから面白く見られると思う。
天皇とかそういう関係の思想?とかよく分からないし、
よく分かってないままでも不都合を感じずにいる人間なのだが
NHKテレビで「天皇、皇后の素顔、結婚50年」というような内容の
番組をたまたま見かけてその人柄(なんて言い方していいのかな)に心打たれた。
慈愛に満ちた、とでもいうのだろうか。
タレントさんでも誰でも心が伴わなければ気持ちは届かないはず。
一方的な解釈や万人の受け取り方の違いを差し引いても
逆に、言葉少なでも心があれば画面を通して伝わってくる
ものだと改めて思う。
2009年04月24日(金) |
映像関係の翻訳本Part2 1章の半分読む |
映像関係の翻訳本Part2を読む。
一週間で読みきるには一日に1〜2章読む算段になるが
今日読んだのは1章の半分くらい。
翻訳本Part1に負けずとも劣らず読みづらい。
英文の言い回しをそのまま日本語に置き換えた感じ。
インターネットの翻訳機能で変換した文章みたい。
目新しい言葉や知識に馴染んでないのもあると思うから
興に乗る?までは集中して読む工夫を意識する。
時間を区切る。
ずいぶん前に一度読んだ(人生について考えさせてくれる)エッセイ本を
寝る前に少し読む。上記の本に比べたらすーっと頭に入ってくる感じ。
おもしろい。平行して読む。というかこっち優先になっていいかも。
2009年04月23日(木) |
翻訳本part2を読み始める |
映像関係の翻訳本の再読、読了。二章ぶんくらい。
映像関係の翻訳本part2を読み始める。
購入してから3ヶ月くらい経ってるっけ?
満を持して?やっと登場。
一週間で読み終えたいと思う。
2009年04月22日(水) |
「7ストーリーズ」モーリス・パニッチ作 読了 |
「7ストーリーズ」(1989)モーリス・パニッチ作 読了。
訳者によるあとがきによると
「イギリスの伝統を汲む古典的な劇作法から
いつまでたっても脱皮できないでいる旧世代のカナダ演劇人」に対し
作者のモーリス・パニッチの作風は「まことにもって型破り」であり
「従来的なものすべてに反逆」し「旧来の常識・因習・法則、そんなものを
徹底的に破壊したところですべてを考え直す」それが「信条」であり
「全作品に通底するテーマとなっている」とのことだ。
そこまでこの作品が反逆か?
打ち上げ過ぎな言い回しがこそばゆい。
この芝居は全場面の設定が建物の外壁になっていて
現代の闇?を抱えたアパートの住人たちが
外壁の張り出し(バルコニー?)の窓から顔を出したり
入れ替わり立ち代り出て来ることで物語が進行する。
「せっかく奥行きのある舞台を使いながら、その奥行きを殺し、
すべてのアクションを平面に閉じ込めてしまう」「大変な挑戦」ということらしい。
モノは言いようだと思う。
せっかく奥行きのある舞台なんだから奥行きを活かせばいいじゃん。
なんて揚げ足を取りたくなる。
芝居を知り尽くしている人の玄人好みの見方はあるかも。
桂米朝の落語に
お茶屋で遊び倒した旦那が色々なことに飽いてしまった挙句
かぼちゃの花の酢の物(価値があるような無いようなもの)を愛でる
という枕?話があったのを思い出した。
何かそんな感じ。
外壁に立つ自殺願望の男とアパートの住人とのやり取りは
普通に面白かった。ただ「反逆」だとか「型破り」だとか思わなかっただけで。
1989年の作品だから年月の流れにも関係するのか。
針小棒大な解説だからこそ考える取っ掛かりになったのかも、とふと思う。
2009年04月21日(火) |
「7ストーリーズ」モーリス・パニッチ作 を読む |
強烈な睡魔に襲われる。体を動かす気になれない。
たぶん不規則な食事の摂り方が続いていることに起因している。
ああ、なんて体は正直。
野菜料理を食べて体を整える。
睡魔に襲われる中、暗闇からうめくように手に取った
「7ストーリーズ」モーリス・パニッチ作 の戯曲本。
何年積読状態だっただろう。記憶も定かでないくらい。
ここ数日何となく気になって読むことにした。
「7ストーリーズ」というタイトルに惹かれて購入したので
作品や作者についての知識がない。
検索すると情報数は多くなかったがlピックアップしてみると
モーリス・パニッチはカナダの劇作家で
「7ストーリーズ」は代表作?
日本で翻訳されているのはこの作品だけ? ということみたい。
読み始めは戯曲の良し悪しに関係ないところで
睡魔と格闘している感じだったけど次第に引き込まれていった。
上演時間が2時間くらいの戯曲なのだろうか?
今日は1時間くらい読んで丁度半分くらいのところ。
期待を持って閉じることが出来た。
2009年04月20日(月) |
NHK土曜ドラマ「遥かなる絆」 『十三の眼』 『銀座化粧』 なりたい自分について |
NHK土曜ドラマ「遥かなる絆」
NHK土曜ドラマ「遥かなる絆」第一回を見る。
何気に録画したままになっていたが
朝のNHKラジオビタミンでゲスト出演していた加藤健一さんの
ドラマ出演時のエピソードを聞いて興味が沸き、そそくさと見る。
本多劇場で芝居を見た加藤健一さん。
私的にすごくツボにはまるタイプの役者さんではないが
思い返すに強い印象が残っている。良い役者さんだと思う。
『十三の眼』
先日スーパーで買い求めた『十三の眼』を見る。
1947年 松田定次監督とある。知らない監督だ。
片岡千恵蔵出演とあったのでそこに一縷の望みを託して見た感じ。
昭和初期のお金持ちが撮影したプライベートフィルム
として見たら良い出来だと思う。映像的にも何にしろ
映画として何か言いたくなる以前の作品。
なんて言ったら言い過ぎかしら。
1947年と言えば戦後まもなくのこと。
娯楽に飢えた時代背景の中、片岡千恵蔵の七変化を
見ることに意義があった?のかもしれない。
きっとあーだ、こーだ言うのは野暮なのだ。
黒澤明監督や山中貞雄監督の作品が頭をよぎる。
改めて創造の質の高さを思う。
『銀座化粧』 成瀬巳喜男監督 1951年
今日は、上の二作品を見るだけのつもりだったが
『十三の眼』で釈然としない気分になってしまったので
『銀座化粧』も見ることにした。
何という面白さ!
今の時代にして新鮮で斬新な印象。
時代を先読みした普遍性。今より今が描かれている感じだ。
田中絹代の微妙な感情を表現した味のある唸ってしまうような上手さ。
物語の中盤くらいに男の子が言う台詞。
「嘘がなく正直に一生懸命だったら
職業に貴賎はないんだって。お母ちゃんが言ってた」
物語の流れの中でズキンと不意打ちを食らった感じ。
銀座のバーから帰宅後、男の子の枕元に
無造作にお土産のチョコレート?の袋を投げ置く場面など
細かな映像表現が心の琴線を揺さぶる。
リアルタイムな時代を想像すると
黒澤明監督作品よりも成瀬巳喜男監督の作品の方が
評価を集めた(一般受けという意味も含めて)気がする。
どうなんだろう?
エンピツ日記で思考の整理
掃除
食器洗い
野菜類の下ごしらえ
食事日記の記録
インターネットショップで買う品物の吟味
パソコンのお気に入りの整理
本を読む
映画を見る
時間を上手く使う。
自分のメディア力を上げる。
快適な環境を作る。
行動に意思を持たせる。
肯定的に見る。
上手くMのo-cとb&dの時間を取る。
楽しむ。
猫のトイレ掃除。
自分のモチベーションを上げる。
論理的に考える。
論理的に理解する。
2009年04月19日(日) |
2〜3ページ読む 一日の目標と優先順位を考える |
映像関係の翻訳本の再読を2〜3ページ読む。
「たかじんのそこまで言って委員会」を録画して見る。
堀エモンが出演してた。周囲に迎合する気配のケの字もない。
頭の良さを剥き出しにされると引く。
本当に頭の良い人やデキる人は他者に威圧感や圧倒感を与えない
イメージがあるんだけど。
やることの優先順位を考える。
一日の目標を書く。
手段を目的にすり替えてしまわないよう何のためにやっているか自問する。
行動に意思を持たせる。
2009年04月18日(土) |
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』Re 字幕で見る 論理的整理について |
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』を再び見る。
またまた睡魔に襲われる。
記憶が飛んだ所に戻って見直す。
丹下左膳と女将の痴話喧嘩風な会話がおかしい。
やっぱり廉価版じゃない(正規版?)DVDが欲しい。
だぶん正規版?には字幕機能が付いているだろう。
一度字幕スーパーで台詞を追いながら見てみたい。
なにより登場人物を現代(かどうかは未定)に置き換えた「遊び」に必要だ。
パソコンの文字打ち、文章打ちの知識を身に付けること。
具体的に(論理的に)理解するようにする。
理解するため頭の中を整理する。→メモ、ノートに書く。
ただしメモ、ノートに書くことが目的にならないように。
映像関係の翻訳本の再読を三分の一章ぶんほど読む。
2009年04月17日(金) |
一章ぶん読む ノートに書いて記憶すること |
映像関係の翻訳本の再読を一章ぶん読む。
あと二章+エピローグを読み終えたらノートにメモしながら再読しようと思う。
集中し辛いのは翻訳文章がイマイチだからちゃう?
と思っていても堂々巡りなわけだ。
情報量の多い本だから、ノートに書き写しながら読む方がいいかも。
今になって本に書かれた内容を記憶する気になる。
集中して読めない文章?だからこそ、こういう思いに至ることが出来た。
ありがとうだ。
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』を現代(昭和初期?)に置き換えた
登場人物を考えて遊んでみたいという気持ちがむくむく。
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』を再見しようとしたが睡魔に襲われる。
昨日も睡魔に襲われた。
気分リセットのため『銀座化粧』か『十三の眼』を先に見ようと思う。
久しぶりに「探偵ナイトスクープ」を見る。
番組降板騒動?渦中のタレントさんが出演していた。
別にファンじゃないけど最後の出演か?などと思いつつ見る。
ウルトラQのカネゴンの着ぐるみを作るオッチャンたち、
そしてカネゴンの着ぐるみのお披露目に興じるオッチャンたちの姿に
引き込まれた。面白い。
世間向きの顔から想像できない裏?の顔があるのだな。
何だかほっとした気持ちになったり、
人は表面だけで判断できないのだ、と改めて思ったり。
2009年04月16日(木) |
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』 |
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』 山中貞雄監督 1935年 を見る。
すごく面白い。
映像は『人情紙風船』方が力強く美しいと思ったけど
それでどちらの作品が良いとかの問題じゃなかった。
『人情紙風船』の紙風船にしろ
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』の茶壷にしろ
物語の中の道具の在り方、使い方が
めちゃめちゃ好きだしホントに粋だと思う。
道具ありきじゃないのだ。道具が目的になってない。
一見すると『人情紙風船』の紙風船は
さりげなく扱われているかのようだが、物語の象徴として心に残る。
『丹下左膳餘話 百萬両の壷』の茶壷は、
一見重要な役割を担っているように見せて(ある意味そうだが)
これほどまでに人間を描くための道具だったとは。
想像以上の裏切りに甘く酔っている。
藩主の弟が丹下左膳に「この壷しばらく預かっといてね」と
遊びの手ついでのように言うラストシーンの台詞。
さらりとあしらわれた茶壷。
茶壷の落とし処はそこですか! にくい! と思う。
山中貞雄監督作品と初期の黒澤明監督作品が
どうしてもオーバーラップしてしまうのだが
(黒澤明監督と比較できる作品はないと思っていたが)
山中貞雄監督作品の映像の美しさや映像の運び?の才気は
この時代群を抜いていたのではないか?
これ以上の感覚が存在するか?
という気持ちにさえなっているのだけど。
2009年04月15日(水) |
『華氏451』 『人情紙風船』 |
『華氏451』
BSにチャンネルを替える。
めちゃ気になる映像。番組表を確認したら
フランソワ・トリュフォー監督の『華氏451』ではないか。
ずっと見たいと思っていた映画だよ。
手頃な価格のDVDが売り切れだったり、取り寄せだったりで
購入するタイミングを計っているうち
昨年は黒澤明監督作品にどっぷりで
心につないだ風船のひとつを今たぐりよせた。
冒頭すでに20分ほど経過している。
レンタルビデオで探すか、購入して見るのが普通だけど
おもしろそうで我慢できず見る。おもしろい。
ラストは観念的なイメージだった。
原作はレイ・ブラッドベリとあった。
萩尾都望を思い出す。
『人情紙風船』
山中貞雄監督 1937年作品
この心を動かされた感じ、どう表現すればいいのだろう。
映像の力、人間のリアリティ、全てから
新鮮な感覚、斬新な感覚の矢が放たれていて
心の琴線を揺す振られる。
ドライな感触で描かれていた物語が
ラストのラスト、超ウェットに幕を下ろした結末、
そういう落差にも(ある意味)酔う。
比べるのはおかしいことかもしれないけど
黒澤明監督の『姿三四郎』を思い出す。
黒澤明監督が影響を受けた監督なのかと想像する。
山中貞雄監督の『人情紙風船』の映像は
より力強く美しいと思った。
山中貞雄監督の名前を意識していない頃に
BSで録画した『河内山宗俊』を見たが
この作品も画像は良くなかった。
土台何十年も前の作品。廉価版だからというわけでもない気もするが
廉価版1000円 と 大手映画会社発売版≒5000円 は
映像処理が違うのだろうか???
結論『華氏451』のDVDを買う。
『人情紙風船』のDVDを買い直そうと思う。
スーパーへ買い物に行く。
売り場の通路に「DVD&カセットワゴンコーナー」という一角が出来ていた。
買い物カートを押しながら通路をを行き来するだけで
手書きのしょぼいポップが立てられたそのワゴンに
全然気を留めることなく買い物していたのだが
いざレジへという段になり、ふと気になって足を止めワゴンの中を覗き込んだ。
衝撃のクローズアップ。
なんと山中貞雄監督のDVDがあるではないか。
Amazonなどネットショップを検索すれば購入可能なDVDではあるが
何となく心に仕舞ったままになっていたのだ。
廉価版のDVDの画質はどうなんだろう?
という思いはすっ飛ばす。
だってスーパーに買い物に来たら
ずっと気になっていた山中貞雄監督のDVDがあるのだ。
生鮮食料品群の中に。
不自然なシチュエーションだからこそ
出会わせてもらった出会いだと余計思う。
山中貞雄監督『人情紙風船』『丹下左膳餘話 百萬両の壺』
成瀬巳喜男監督『銀座化粧』
『十三の眼』 この作品はタイトルに引かれて買うことに。
以上4点のDVDを購入。
2009年04月13日(月) |
『恋のためらい フランキーとジョニー』 ラスト15分未見 |
ずいぶん前にビデオに録画した『恋のためらい フランキーとジョニー』を見る。
冒頭部分が切れている。
一瞬見るかどうかためらったが結局見ることにする。
アル・パチーノとミシェル・ファイファー。
一度見た記憶がよみがえる。
が、細かい場面など覚えていないのでやはり見ることにする。
何だか全体的にボヤっとした印象だ。
感情移入も出来ないし自己投影も出来ない。
考えるにストーリーの進行が説明台詞によるところが大きいからだと思う。
台詞から推測?すると、登場人物たちの葛藤の種?も
字面では何とはなしに理解できるのだが
映像による表現ではなく言葉によるインプットなので
登場人物たちの動機や何に葛藤しているかなど
ダイレクトに感情に響いてこない。
色々場面の変化があって、一見登場人物たちが行動しているように
見えるけど、文字通り場面(場所)が変化しているだけで
そのシーンが登場人物のキャラクターを深める役割を
果たしているかというとそうではない、
などと、全部の場面に当てはめて言うのは言い過ぎかもだけど。
ラスト15分?くらいのところで寝てしまった。
本来はやらないことだが、そこの部分から見直すつもりだ。
アル・パチーノとミシェル・ファイファーの2大スター?の
共演を見ることにウエイトのある映画なのだろうか?
美味しさの価値を不味いものも食べることで知る、じゃないけど
「面白い」作品も「面白くない」作品も、面白いと思う。
『反撥』ロマン・ポランスキー監督 1965年 を見る。
心理ホラーというのか? 心理サスペンスというのか?
内面的なものが描かれた作品だった。
主人公たちの台詞は多くないが、映像に独特の変化と運び?があるせいか
場面が進むごとに引き込まれていく。
手元でクラッカー(ビスケット?)がパキンと折られる場面を
見ただけで、何かが暗示されているような含みを持たされる。
同じテーマを扱ったジョン・カサヴェテス監督『こわれゆく女』
を思い出す。同じ琴線を揺さぶられる作品であっても
「面白さ」を感じるのは『反撥』だ。
革新的過ぎず?微妙なところで表現されている印象だ。
ある意味エンターテイメント性の中に
鋭いナイフで裂いたような切り口が内包されている。
それから山下敦弘監督作品とオーバーラップした。
内容的なことではなく面白さの質が同じだと思った。
細かに積み重ねられたディティールを
淡々とした気分で見ていたのに
最後に見せられた(明らかになった)
森の俯瞰図に心を衝かれる・・・的な
図式があると思う。
2009年04月10日(金) |
『反撥』を見ることに |
ずいぶん前に録画したビデオを引っ張り出してきて見ることにした。
『ホーム・フォー・ザ・ホリディ』ジョディ・フォスター監督
『恋のためらい フランキーとジョニー』アル・パチーノ出演
『反撥』ロマン・ポランスキー監督
1本のビデオに録画してあったこの三作品の中で
どれを見るか迷った挙句
『ホーム・フォー・ザ・ホリディ』を選んで再生したら
冒頭部分が切れてる上、あまりイイ感じがしなかったので
『恋のためらい フランキーとジョニー』を見るつもりが
早送りの途中でなぜか気持ちが変わって結局『反撥』を頭出しする。
自分にとってその作品がどうなのか
ほとんど瞬間で感じることが出来る。
たぶん『反撥』は琴線を揺さぶられる類の映画だ。
中途半端な気分で見るのは超もったいないから
10秒程再生した段階で止める。
状況や気持ちを整えて早く見たい。
映像関係の翻訳本の再読を一章分ほど読む。
充実した内容で勉強になる魅力的な本だが
どーもウキウキしない。なかなか集中して読めない。
「勉強」になる本だから?
集中して読む工夫を考えるコト。
2009年04月09日(木) |
求めよ、さらば与えられん とは |
映像関係の翻訳本の再読を1章分読む。
ふと頭をよぎる。
求めよ、さらば与えられん。
尋ねよ、さらば見いださん。
叩けよ、さらば開かれん。
新約聖書ルカ福音書11
聖書のことはよくわからないので
検索したがこれが正確な出典かどうかわからない。
「求めよ、さらば与えられん」は
神に祈りを捧げると神は正しい信仰を与えてくれる、
というのが本来の意味らしい。
宗教家の人達からすると諺的な意訳には
異を唱えられるのかもしれないが
宗教を知らない者が、額面どおりにこの文章
を受け取って感じる意味に考える指針をもらう。
そうだよな。
何を求め、何を尋ね、何を叩くのか。
答えを出す。
2009年04月08日(水) |
創造と食事について考える |
NHKスタジオパークからこんにちはに
ゲスト出演していた渡辺美佐子さんを見る。なんと77歳!!
NHKドラマ『お買い物』でカメラを東京まで買いに行く夫に付き添う
(老夫婦の)奥さんを演じていた渡辺美佐子さんの印象がまだ浅い。
井上ひさし作『化粧』の舞台はもう20年(以上?)続いているそうだ。
そして、65歳にして初めて主婦業(食事の支度など)を始めたという
エピソードを聞いてかなーり複雑な気持ちになる。
三度の食事の支度(買い物、作る、食器洗い、
という一連の作業)は、かなり時間を食う。
この時間があったら、映画の一作品、
本の数ページが読めるのにという思いになる。
というより、そのようにすり替えてしまっている感じ。
コンビニ的に済ませてしまうのもストレスを感じる。
一度、世間の常識的とか女子だからというカセをとっぱらって
自分がどうしたいのか、どうすることで気持ちが前に向くのか
自問自答して答えを出したい。
王道的な渡辺美佐子さんも素敵だが、
私にとって琴線に触れるタイプの(同年代の)役者さんは
菅井きんさんや市原悦子さんだと思う。
録画してあった「さんま御殿」を3分の2見る。
『おくりびと』を見た。
初めて滝田洋二郎監督の作品を見たのは確か『バッテリー』だ。
原作があさのあつこと知って見たくなったのだ。
無難な匂いがしたので、この監督の作品を追う気持ちにはならなかった。
だから、アカデミー賞受賞と聞き何がバケた?とまず思ってしまった。
佳作だと思う。
気軽に、とっつき易く、と言ったら語弊があるかもしれないが
重苦しさで身構えることなく「死」というテーマが
描かれていて自然に引き込まれていった。
クスクス笑いながら涙がこみ上げてくるかんじだ。
冒頭の納棺のシーンから笑い所があったのだけど
ちょっと性的な匂いがしたせいか大半がお年寄りの場内はシーン・・・。
噴出しそうになったのを我慢した。
登場人物の動機に釈然としない思いが残ったし
妻(広末涼子)の描き方の浅いところはかなり嫌だったところ。
良い女優さんなのにもったいない。
そして、むしろ主人公を演じるモッくんより
モックンを取巻く役者さんたちの演技の方が
味わい深かった。とくに山崎努さんが超魅力的だった。
この作品がアカデミー賞を受賞した要因は何と言っても作品の視点、
そして(異)文化を描いていることではないか。
全体的な作品の質はそんなに高いと思わなかった。
視点の大切さを考えさせられる。
色んなことを思わせてくれたことは確か。
だから、もう一度見直してみたいと思う。
2009年04月06日(月) |
劇場が異空間だった『おくりびと』 |
映画館に『おくりびと』を見に行った。
ある程度収容人数がある映画館に足を運んだのはかなり久しぶりだ。
お年寄りが大半でマジびっくりした。
何かのお年寄りサークルに間違えて紛れ込んじゃったのかと思ったほど。
初めて経験する映画館の空間だった。
数年前にはまっていた梅沢登美男の公演の観客も
これほど年齢層は高くなかったと思う。
以前テレビで上沼恵美子さんの『おくりびと』を見に行ったら
観客のほとんどが平均年齢70歳以上の人達だったという辺りの
おもしろ観劇トークを聞いた時は、いくらなんでも
大げさに色をつけた話だよねなんて思ったのだが、
まさにその通りだったわけだ。
私の前後左(右側は通路)に座っていたのは
みなさんお見受けするところ70歳代以上。
上映前、後ろのオジーチャン軍団は「息子が土地買ったんだけど・・・」
なんていう茶飲み話をでかい声でしながらクチャクチャ何か食べてるし
前のオジーチャンは大きなマスクしてゴホンゴホン咳き込んでいる。
観劇的に大丈夫かな?と頭をよぎった思いは、
いざ上映が始まるといらぬ心配だったことがわかった。
ただ、左隣のオバーチャンは同じ姿勢でいると腰が痛くなるのか
伸び上がったり体を前席の方に傾けたり、寒いわーと言いながら
上着を着たり脱いだり膝にかけたり、ずっと小刻みに動いていた。
私は視界の端に入ってくる程度だったから全然気にならなかったんだけど
後ろの席のオジーチャン軍団のオジーチャンは
時折ゴホン(不愉快ッ)と咳払いのアピールをしていた気がしないでもない。
何だかこういう状況を含め『おくりびと』を見たことだという気もする。
思いのほか上映待ち部分の日記が長くなってしまったので
作品に関しては次の日記に書く。
2009年04月05日(日) |
テレビデー&ラジオデー |
土曜に録画したバラエティ番組を見る。
バナナマンおもしろー。キモカワ(は古い?)ならぬキモオモロ。
繰り返し見てしまう。
たかじんのそこまで言って委員会を見る。
初登場のフリージャーナリスト?の女性が
やり込められていた。女=わかってない者はだまっていろ、
的な図式は少なからず日本のカラーになっていると思う。
つーか、同じ事を言われても同姓の倍はカチンとくるみたいだ。
だから女性は手のひらで転がすなんていう飛道具を身につけるわけだ。
何か面倒くさ、と思ってしまう。
ま、確かにこの女性、ちょっとカチンとくる感じではあった。
NHKラジオ、キラリ!10代が先週で終了し
今日から渋マガZ?という番組がスタートしたらしい。
どこから聞き始めても雑誌のように楽しめる、というコンセプトらしい。
BGM的に聞く。なんでキラリ!10代終わっちゃったんだよー
という思いが余計募った。
全然おもろな。
今日はテレビを見てラジオを聴いて、の日だった。
二面がガラス窓張りのマンション?の一室。
5〜6人の男女が慌しげに立ち振る舞っている。
何かの計画の遂行の準備?逃走?旅立ち?の準備?なのか。
と、そこへ玄関を連打する音がして
引っ越してきました、挨拶に来ました、開けてください、
というような男の大声が聞こえてくる。
言ってる内容と連打がマッチしない異質な空気。
5〜6人の男女に一瞬緊張が走る。
場面が玄関(外)に切り替わる。
深茶っぽい色を基調にしたマンション?の2〜3階?部分の廊下。
ある一室の黒っぽいドアに2つの銃が突きつけられている。
サット?部隊が突入時に持つような近代装備的な銃。
二人の男の顔は見えない。
渡すものがあるので入らせてもらいますね、
というようなことを言いながら何故か持っている合鍵?を
鍵穴に差込みドアを開け室内に入っていく武装?らしき二人の男の後姿。
(5〜6人の人達どうするんだろう、隠れるところないよ)
ひと気のない室内。
二面がガラス窓張り。左方には白いコの字型のローソファー。
右方前方には事務的な用品が色々置かれた机。プロ仕様?な込入った風景。
武装?らしき二人の男はひと気のない室内に銃を向けゆっくり回す。
(5〜6人の人達どこに隠れたんだろう、どういう話の展開なんだろう)
入り組んだ事務机の裏に隠れているひとりの人物。息を殺している。
見上げる机の隙間の空間を武装の男の姿がゆっくり横切る。
(私はこの時点で、隠れている人物の視点になってる。こわい)
と、隠れた空間の前方に腹のたれたかっぷくのいい三毛猫があらわれる。
武装の男に見つかってしまう、という気持ちをよそに
見つかりそうで見つからない範囲をわかってると訳知りな様子で
悠然と歩き毛繕いをしたりしている。
(この話ってこの三毛猫ちゃんがキーワードになってるのかしら。
それにここは5〜6人の男女がいた室内とは別空間なのかしら。)
などと思っているあたりで目が覚める。
玄関先で郵便配達人から低い塀越しに何か荷物を受け取ろうとするが
そっちに回りますよ、とにこやかに郵便配達人が話し、こちらにやって来る場面、
白っぽい服を着た東南アジア系?の男がどこかの石段?を上がりながら
笑顔で振り返っている場面、などの断片的な夢を前後不詳で見る。
夢枕で何度か反芻し半分寝ているような状態の寝起きで打った。
今から顔を洗う。7時20分。
2009年04月03日(金) |
行き当たりばったりありかも |
『卒業』をまた見ようとしたが冒頭場面でやめた。
気分的に何か違う。
映像関係の翻訳本の再読をほんの少し。
1ページくらい読む。
ある程度行き当たりばったりな気分でいた方が
創造する感覚が広がってゆく感じがする。
計画性に過度な罪悪感を持つ必要性はないというか。
だけどそれを逃げ場にしないよう
自分の匙加減を見つけていきたい。
注文していたヘッドホンが宅配便で届く。
うれしいなあ。感謝。
2009年04月02日(木) |
何年ぶりで見る『卒業』 |
ずいぶん前にBSで録画してあった『卒業』を見た。
あー、すごく良かった、見てよかったという気持ちでいっぱい。
初めて見たのは二十歳くらいの時だったかなあ。
ストーカーという言葉も概念も(日本にはまだ)存在しない時代だったから
その時は感じなかったことだと思うけど、
今見るとベンジャミン(ダズティン・ホフマン)って
かなり危ないストーカーぽい。
ま、それはさておき
思った以上にひとつひとつの場面の記憶がなかった。
だから初めて見るような感覚で見ることが出来た。
これは自分で意外だった。
強烈な『卒業』のエッセンスだけ体に残っていたということだ。
裂くような映像表現に胸を突かれる。
驚くほどシンプルな台詞だけで驚くほど人物像を深く想像させてくれる。
役者さんの演技力(特にミセス・ロビンソン=アン・バンクロフト)に
よるところも大きいとは思う。(あと翻訳のおかげ?)
映画を見ても、ある程度は説明台詞があって当然という
感覚になっていたとこの映画は思わせてくれた。
骨太で土台ががっしりしたところに描かれた
クールでキュートで衝動が痛い映画だった。
2009年04月01日(水) |
興味を引いたいくつかの書籍 |
今日は映画も見なかったし本も読まなかったけど
ラジオやテレビで引っかかった事から拡がったイメージを
メモしたせいか充足感(大げさだけど)はある。
BSを録画した「私の好きな本」的番組の切れ端を見る。
山本周五郎「小説 日本婦道記」(やたけ)おもしろうそうだ。
そして「マイナス・ゼロ」。
日本のタイムトラベラー物の最高峰という紹介に興味が沸く。
数えてみたらあと24冊タイトルをメモしてた。
いくつか読んでみたいと思う。
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