今日は昔書いた日記を全て読みなおした。2001年から書いているが既にその時はババアに苛められていた。足掛け五年になる。そしてこの問題もそろそろ終わりかなと思った。y氏に鬱陶しい感を初めて持ったのはもう必要なくなったと言うことだろうか。それならば傷つけない前に離れたほうが良いのではないか。もう少し様子を見るか。y氏には散々世話になった。今更傷つけ合うのは人道に反する。ところで北原は良い奴だ。優しすぎるくらい優しい。私のためにいるようなものだ。でも客観的に見たら私はいじめられている。足を組むなとか食堂で静かにしろとかセクハラすれすれだ。それでも言ってくれる。それくらいこの職場は荒れている。だからリーダーが必要なのだ。こういう汚れ役を引きうけてくれる。課長にも、執行委員にも断られた。でも問題は厳然と存在する。私が弱いからだめなんだ。それもわかっている。でも苛めが始まったら放っておいてはいけない。斎藤一人の本に書いてあった。絶対我慢してはいけない。今問題は解決しようとしている。足を組むなといってそれを聞くのだから勝ったも同然だ。アサーティブに言うということはこの上なく大事だ。嫌いということをアサーティブに言えるかということでカウンセラーと論争になった。私はできるという。y氏はできないという。よくわからない。アサーティブに好き嫌いはないだろう。アサーティブとは嫌わないということだ。それが最低限の条件ではないか。それは今は可能だと思う。嫌いということの背後には差別とかバカにする気持ちがあることは明らかだ。差別する女と仕事しなきゃいけない、まして馬鹿にするおばさんと。それがこの問題の本質だ。嫌わないが危険は避けたい。女と接すると必ず私の嫌な自体が起こる。だから避ける。それは当たり前だ。アサーティブに断ろう。嫌わないがアサーティブに避ける。難を避ける。 長い戦いだった。嫌なババアが来た。恐い。嫌いだ。一緒に仕事するのが嫌だ。ババアは私を眼の敵にするようになった。それが苛めの始まりだ。私は恐いので仕事をしなくなった。できなくなったというのが性格だ。ババアはますます図に乗る。差別されたと思ったババアは逆に私を差別しだす。自分が金持ちとか家がすごいとか言い出す。死ね。キチガイは手が付けられない。キチガイはリーダーを仲間にしてかさにかかって私をいじめるようになった。勝ち誇っていた。お上品で弱い私には反撃する勇気も手段もなかった。五年かかってやっと私はものをいう気力が出てきた。抗うつ剤、カウンセリング、心理療法、グループ、eg、あらゆる手段を使ってやっと浮かび上がってきた。それが2004年五月のことだ。gwに俵山温泉に行ったのが転機になった。すごく生まれ変わった。それから2004年10月にまた目覚めた。そしてegに出て完全に生まれ変わった。もう後戻りできないくらい変わった。そして北原に言った。そして少し変わった。席替えもあった。嫌な奴もいなくなった。かなり改善された。そして今回足を組むなと、眼の敵にするなと言った。これで最後だ。大変効果的だった。アサーティブに言えた。だから効果があった。すっかり様変わりだ。最終的な勝利者が誰か良くわかっただろう。これからも北原とタッグを組んで頑張ろう。 女が嫌いということをアサーティブに言えるかということはこれからの過大だ。私は可能だと思っている。自分に嘘をつくことはアサーティブでない以上、正直に言うことがアサーティブだと思う。でも嫌わないことが本当のアサーティブだろう。それは差別したり、馬鹿にしたりしないということと同じだからだ。アサーティブにいつでも誰とでも話せるという自信があれば女なんか恐くないだろう。嫌いというより怖いといっているのだ。苛められて左遷された。病院でも女が恐かった。会社でも。でもアサーティブに言えれば全然恐くない。 もう何も恐いものなんかない。女なんか恐いもんか。苛めたりしたら絶対許さない。同じじゃないか。すぐいじめられたといって復讐する。絶対許さない。同じことじゃないか。苛められた私は絶対に許さないからな。アサーティブに行こうじゃないか。全てアサーティブに行こう。平等、対等、率直、誠実。アサーティブは弱者の権力闘争だ。 万事うまく行くような気がしてきた。創作に打ちこもう。忙しくなる。まだ創作に本気ではない。真面目ではない。真面目になろう。今考えの筋がすごく良い。何を考えても良い筋で進む。驚異的なことだ。自分の行動に自信が持てる。
今日と言う日は何か特別な一日だった。初めて不快な感じが少なくなった。こだわりが嘘のように少なくなった。hは相変わらず腹が立つが。人はこうあらねばならないというイラショナルビリーフがあって人に腹が立つ。それは幻だ。極端な幻だ。自分の幻で自分が苦しんでいる。世の中と自分との接点に異常にこだわる。世の中は自分の思い通りに自分に接してはくれないことは明らかなのに。ばかだ。そのこだわりが今日はかなり少なくなった。こだわる必要のないことにこだわっていることにようやく気づいた。 アサーティブは本当に役に立つ。自分の言いたいことを言って良いというこの安心感が不安を減らす。そして自分も真面目にやらなければという気持ちになる。 アサーティブをやると真面目にやろうという気になる。遊んでいて金をもらっていて良いだろうか。そんなはずはない。うつが治ってきた。中学のときうつになった時は遅刻して怒られたのがものすごく腹が立った。今と全く変わっていない。うつがそうさせるのだ。うつが治って中学以来初めての青春が巡ってきた。青春とは傷ついても自分を信じて目的に向かって進むことだ。
今日カウンセリングがあった。前回を引きずっているのか何となく敵意を感じた。私も機嫌が悪くあまり良い関係ではなかった。私が全ての女が嫌いだと言いそれをアサーティブに主張したいと言うとクビになると脅された。脅しは彼の得意技だ。私は引っ込まずに反論した。アサーティブの成果だ。オロロにならないでちゃんとアサーティブに主張した。アサーティブは立場は関係ない。立場を利用して不当なことを要求する理論ではない。真の弱者が、強者に対等に率直に誠実に自己の利益を守るべく主張することだ。だから最も弱い立場にある私のようなものが使うものだ。強者ぶったhやkに弱者である私が物申す。これがアサーティブの真の力だ。北原にも主張した。ほぼ要求通りだった。アサーティブの威力はすごい。全てのコミュニケーションに応用が利く。弱いものこそ有効な柔術のような技術だ。 私は女が嫌いだ。病的なものだと思う。それはわかっているが、そのために不利益を受けたくない。女を嫌いなことは認めて欲しいが嫌われるのは勘弁願いたい。虫が良すぎるだろうか。女が嫌いなのは病気なのだから、それで攻撃されるのは納得がいかない。女は嫌いだが会社から消えてはなくならない。でも私は必要最小限の接触にとどめたい。それは許される。しかし積極的に危害を加えることはない。そのことにより制裁を受けるからだ。私の言い分は虫が良いだろうか。私も相当に混乱している。私は女を嫌うのは許されるが、女が私を嫌うのは許さない。それが私の理屈だ。いや、嫌ってもらっても構わないが、攻撃するのは止めろといっているだけだ。アサーティブに嫌うということはそういうことだ。私はアサーティブに女を嫌う。女も嫌っても良いがアサーティブに嫌えと言っている。これなら文句ないだろう。好きになれなんて一言もいっていない。好かれたら大変迷惑だ。だから嫌う。嫌っても良いがアサーティブに嫌え。アサーティブに嫌うとは、申し訳なさそうに嫌え、攻撃するな、排除するなということだ。お互いアサーティブに嫌い合うことが望ましい。嫌いなのは確かなのだから、嫌い合うのは極めて自然な正しい状態だ。無理に好きになれとか好きなふりをしろとか強制されるのは病気の元だ。私は関西人が嫌いだ。これまで好きになろうと努力したがやっぱりだめだった。アサーティブに嫌おう。嫌いだけど申し訳ないなと思う。排除しない、攻撃しない。しかし近づかない、仲良くしない。これが望ましい。 真面目になろう。ここ20年くらいで初めて真面目になろうと思った。人に脅されたからではなく、強いられたからではなく、自分のために真面目になろうと思った。アサーティブとはまず真面目でなかったら話にならない。アサーティブを使って悪事を働こうとか得をしようなんて全く思っていない。虐げられ、踏み付けにされた自分の権利を回復することだ。どんな惨めな状態でもどんな最低の状態でも、どんなに弱くてもきちんと利益を主張し自分を守ることができる。それがアサーションだ。不当に得をすることではない。小説も真面目に書こうと思った。仕事も真面目にしようと思った。あのババアも真面目なのかもしれない。私が不真面目なのを見て真似をしたのだ。それが腹が立つ。私が今更真面目になっても遅いだろうか。そんなことはない。今からでも真面目になれる。ならなければならない。今がそのときだ。本を読んでもすごく良くわかる。人の話も良くわかる。外人の話も良くわかる。ようやく筋が良くなってきた。長い間の努力のおかげだ。アサーティブのおかげだ。アサーティブは力は要らない。無理はしない。人を傷つけたりはしない。今日の主張ももう少しアサーティブにできたら良かった。でもあんなものだろう。あれが精一杯だ。 アサーティブに女を嫌おう。アサーティブに嫌うとは差別しない。排除しない。嫌がらせをしない。暴力をふるわない。意地悪をしない。攻撃しない。苛めない。バカにしない。むしろ尊敬し、価値を認め、許容し、受け入れ、大切にし、協力し合い、助け合い、仲良くする。でも嫌い。そういうことだ。嫌いなことは変えようがない。見ただけで嫌いだ。近づかれたり、性的興味を持たれたり、恋愛感情や親しみの感情を持たれたりしたらぞっとする。それは女がおじさんに抱いている感情じゃないか。お互い様だ。 アサーティブとは誠実で率直であることだ。正直であることだ。だから女が嫌いでも一向に構わない。嫌いなのに引きつった笑顔で恐ろしい女を受け入れる必要があるだろうか。全くない。自分が女を好きになるように誘導も説得もする必要はない。アサーティブとは嫌いという感情を大切にすることであって、嫌いな感情を無理やり押さえこむことではない。嫌いという感情をコントロールすることはできるし、不利益を受けないように注意することは可能だ。女もおじさん嫌いなのに適当に利用しながら生きているじゃないか。援交する奴もいる。嫌いでも適度に距離を保ちながら安全に暮らすことは可能だ。 青春の話をしたらカウンセラーは納得していた。中学以来引きこもっていたが、今ようやく世知辛い世間の方に一歩踏み出したいと考えている。egでもらったエネルギーが私をそちらに押し出しもう後戻りはできない。うずくまろうとすると前よりひどい病気になってしまう。だから前へ進む以外ない。それが青春だ。青春は辛い面がある。辛いことがあるとわかっていても自分を信じて前へ出なければならない。でもそこに甘い青春の味がある。私が味わったことのない甘い味が。あの空港の渡り廊下で味わったあの感覚。やっと私にも青春が巡ってきたと言う。創作に打ちこもう。創作はうつの長い蓄積を昇華するパワーがある。人生にとっては不幸だが、芸術にとっては幸運である。 これからはうつの怠惰から脱出して忙しい躁状態に移行しよう。もう北原に訴えるこの手は使えないと思う。課長や執行委員に言った時も相手にされなかった。北原は感度が特別高いので言ってくれた。嫌いな相手に自分を嫌うなと言うsm的な態度は一体許されるだろうか。対等であるというのがアサーティブの基本ではないのか。嫌いといえば嫌われるのは当たり前ではないのか。向こうも嫌いだろう。嫌わないということは大事かもしれない。哀れみの感情が大事ではないか。好きになることはできない。でもアサーティブであろうとするならば憐れみの感情以外ないではないか。私も混乱している。混乱したまま基幹職に言っても無駄だと思う。ここをこうして欲しいと地道に言うしかない。苦情を言う。お客が良くやる。苦情だ。苦情を言っているのだ。こんなことをされたとかこんなことを言われたとか。 私が女を嫌いになったのは○Mのせいだろう。そんなことは女の知ったことではない。大部分の男は正常で女が好きだ。マイノリティーの私を相手にしていられない。だからアサーティブであれということだ。嫌いということはいくつもの偶然が積み重なった特別なものだ。誰も配慮しない。私は細かいことにこだわる。誰もそんなことを気にしない。アサーティブであること、憐れみを持つこと。それくらいしか今の私にはできない。
私のような人間はヤンキーと同じ考えらしい。女が嫌いと言ってもヤンキーの女に対する態度と同じだ。女が嫌いといってそういう態度をしてもそれは珍しくない。 アサーティブであること、自分の利益を守ること、創作に打ちこむこと。アサーティブであれば怒る必要はなく自分の意思を通すことができる。 私は女が相当嫌いらしい。最近ようやく気づいた。巧妙に自分をごまかしてきた。でももうごまかしきれない。中学時代からもう女が嫌いだった。繰り返し女ともめて結局女嫌いとわかった。このまま女とまともに付き合えると思いこむことのほうがおかしい。危険過ぎる。私がこんなところにまで落ち込んだのは女と仲良くできなかったからだ。銀行に入ってから、病院にいたとき、この会社に入ってから、ずっと転落のきっかけは女だ。女と仲良くできないなら徹底して注意することだ。それが仲良くできると思って気軽に女に気を許してはいけない。対立する以外ないのだからそれなりに考えなければならない。私は女と仲良くできない。どうしても我慢できない。これはアサーティブに主張したい。仲良くなんかできない。そのために不利益を受けるなんて絶対に絶対に我慢できないし、絶対に許さない。殺す。アサーティブとはそれくらい強い気持ちを持たなければならない。女が嫌いで何が悪い。それで何で迫害されなければならないのだ。女を見ているだけで頭が爆発しそうなくらい腹が立つ。そのことを自分で自覚しなければならない。 あのキチガイはオウムのように私のまねをし、鏡のように心も行動も真似する。気が狂いそうになる。私がババアが嫌いだからそれを真似して私を嫌う。嫌わなくても良いんだ。いい加減にしろ。ばか。死ね。女が嫌いで何が悪いんだ。絶対に批判されるいわれはない。ホントに女が嫌いだ。見ただけで腹が立つ。それをアサーティブに主張しよう。必ずできるはずだ。我慢したり、ごまかす必要はない。苦しむだけだ。 女が嫌いで何が悪いということだ。何で反撃されなきゃいけないんだ。本当に嫌いだ。本当にひどいことをされた。何もしていないのに苛められた。苛められるどころか左遷された。絶対に許さない。絶対に許さない。絶対に許さない。女が嫌いで何が悪いんだ。アサーティブに主張しよう。女が嫌いなことをアサーティブに主張しよう。 アサーティブに女が嫌いということを主張しよう。大嫌いだと。女は大嫌いだと。アサーティブに言う分には一向に構わない。昔から女は私のことが嫌いだった。だから私が女を嫌いになっても一向に構わない。何で女なんか好きにならなきゃいけないんだ。大嫌いだ。大大大大大嫌いだ。当たり前のことだ。悪いことをする奴が嫌いなのは当たり前だ。悪いことをする奴が好きだったらmだ。大嫌いしかないじゃないか。アサーティブに主張していこう。 本当に女が嫌いだ。本当に嫌いだ。女はずっと前から私のことが嫌いだった。だから私が女を嫌いになっても一向に構わない。アサーティブに女を嫌いになればいいのだ。本当に女が嫌いという気持ちをごまかしてはならない。自分に正直に生きる。それがアサーティブの第一歩だ。 女なんか見た瞬間全員嫌いだ。向こうも嫌いだとわかったので心置きなく嫌うことができる。死ね。地球上の女は全員死ね。これをアサーティブに主張してマイノリティーである私の権利を死守していこう。自分の利益を守るということが最大の課題だ。
腰痛は少し良くなった。すごい病院だ。注射を打った後は注射の跡が痛かったがだいぶ良くなった。マッサージも良く効いた。大丈夫じゃないかと言う気がしてきた。 今日hが出張から帰ってきて早速私をターゲットにしてグジャグジャ言って来た。完全に頭がおかしい。あいつのせいで治る病気も治らない。kの気違いも騒ぐ必要ないのに騒ぎまくっている。完全に頭おかしい。頭おかしい人間が二人もいる。ホントニ死んで欲しい。北原に言おうかと思う。私を眼の敵にするな。人の嫌がることをするな。きっちり話をした方が良いんじゃないか。完全に頭おかしい。 アサーティブに生きていこう。キチガイにつけこまれないようにしよう。嫌いなことは許される。嫌いというのは真実の感覚であって、民主主義社会では許される。嫌いと言うことをアサーティブに主張していこう。ババアはなぜか自分が当然好かれなければならないと思っているらしい。完全におかしい。亭主にも好かれないのに何で赤の他人に好かれるんだ。お前みたいなキチガイが。憐れみの感情も起こらない。 アサーティブに戦っていこう。引きこもりの繭の中から出ようと決心した。egによってそのパワーを得た。でも外に出ればそれなりに厳しいこともある。でも理不尽なことはノーと言おう。 女が嫌いなのは仕方がない。昔からそうだ。自分をごまかしてはいけない。アサーティブに生きるとは自分を偽らないことだ。誠実で率直であることだ。 私は女を許すことがどうしてもできない。その気持ちは真実だ。それをアサーティブに主張して良いはずだ。ごまかそうとするからややこしくなる。はっきりアサーティブに言おう。 私が悪いんだろうか。私が直すべきなんだろうか。何を一体直すんだ。勤務態度か。女嫌いか。それは違う。 アサーティブと言うのは面白い。嫌いであってもアサーティブであることは可能だ。アサーティブは言いたいことをいうことだが相手にも言いたいことを言われるため結局それに対処せねばならない。でもそれは普通のコミュニケーションということではないか。コミュニケーションは言いたいことを言い合うことだ。私は言いたいことを言っていない。言いたいことを言えればコミュニケーションができたことになる。それは普通のことだ。今までコミュニケーションをしたことがない。コミュニケーションがしたいのだ。あのキチガイは。でも断る権利もある。アサーティブに断ることもできる。嫌いと言うことをアサーティブに言っても良い。嫌いでもコミュニケーションはできるのだ。アサーティブにコミュニケーションをしないからストレスがたまる。 小六の頃変なガキと付き合ったためにおかしくなった。母や姉ともめるようになった。ヤンキーと同じことだ。 私を眼の敵にしている。あのキチガイどもはアサーションのときもおかしかった。私を眼の敵にしていた。絶対におかしい。眼の敵にされるのは絶対におかしい。そんな理由はない。戦わなければならない。ヤンキーとは絶対に合わない。キチガイとも。戦わなければならない。喧嘩を売っているのに平和ではありえない。戦わなければならない。アサーティブに生きなければならない。喧嘩を売るなといわなければならない。
今日腰痛で病院に行ったらいきなり十ヵ所くらい注射を打たれた。あの医者は少しおかしい。金儲け主義かサディストかどちらかだ。中学時代のキチガイ教師と同じ目をしていた。キチガイは治らない。人を信じてはいけない。軽々しく。今日のn氏もどこまで信じていいのかわからない。アサーティブに生きよう。嫌なことは嫌といおう。今日ガイジンと話したがやっぱりうつが治りきっていないから辛いものがあった。でもガイジンは感覚が鋭く何でも気づく。いろんなことをよく知っている。独特のものがある。私の中にも同じ物が流れている。私は通常の日本人より西洋化されている。だいぶ毒を飲んでしまったが。聞き取りはだいぶ上達した。しゃべるほうをもっと頑張ろう。これは訓練が必要だ。聞き取りは座って聞いているだけでいいがしゃべるほうは訓練が必要だ。 今朝は注射の痛みは和らぎ、腰痛もこころなしか楽で落ち着いてきた。昨日のカナダ人はよくしゃべった。聞き取りがよくできたのはよかった。でも途中で腰痛と疲れのため帰りたくなった。アサーティブには正直に腰痛だから帰るといったほうがよかった。今後の課題だ。不機嫌になってしゃべれなくなって人を不快にさせて互いによくない。互いの利益を損なっている。相手の利益に十分配慮して自己主張をするという当たり前のことだ。練習だ。私は自分が愛されることを恐れている。自分を愛することを恐れている。自分の利益を増進することを恐れている。気が弱くて妬まれるのを恐れているのか。でもそんなことは言っていられない。アサーションのほかは、創作活動が良いだろう。あの場所であれば自分が愛されても大丈夫だと思う。愛されると恐くなって嫌われるようなことをしてしまう自分。でも実際妬んで私が人気者になっても邪魔をする奴がいる。あるいは貪ろうとする奴。悪用しようとする奴。それを撥ね付ける勇気がないので愛されることを諦めてしまう。 昨日東北出身のおばさんがいたが関西人よりはまともなことを言うのでちょっと話があった。気持ちの問題かな。恐さが取れたのか。自信を持てば何を言われても動じない。ダニといわれてもお目は何なんだと言うことができる。自分は絶対そうではないと心から思えるので傷つかない。不当な誹謗中傷やいじめにも動じない。創作活動を得て得た自信がそうさせる。 アッシュの飲み会は取るだけとってフォローがない。ぼったくりだ。スタッフの態度も最悪。雰囲気も殺気立っていて恐かった。私のような弱者は狙い撃ちされる。でも私も女が嫌いで嫌いで仕方がなかった。女が平気になるまで近づかない方がよい。そんな日は来ないような気がするが。 全てを諦め、怠惰な生活を送っていたのが、欲望を肯定し、勤勉に働くことにしたのか。でもその激しい競争に耐えられず愚痴を言っている。でも戦わないといけないと思った。戦うというより自分の利益を守らなければならない。それができない人間はいじめにも遭うし、仲間外れにもされるし、最終的には追い出される。それにしてもアッシュは最悪だった。gwcは弱者に優しいので居心地がいい。ただリーダーが頼りない。そこがいいのかもね。 他人の利益に十分配慮した上で、自分の利益を守る。当たり前のことだ。アサーティブというのは安心で快適なものだ。私の利益を損なうものに対してはきちんと主張する。ノーといえる。こうしたいと率直に言える。これは当たり前のことだ。それができないから苛められる。人気者になってもやっぱり苛められる。妬まれて苛められる。女のいない国に行きたい。女とは絶対にうまくいかない。絶対に。だって嫌いだもん。女が。自分が女だから。それで女ではないので仲良くできない。女のいない国に行きたい。同じ空気を吸うのも嫌だ。 女とうまくいかない。嫌いだという気持ちは変えられない。信じられない。恐い。側に来ないで欲しい。見ないで欲しい。私について話さないで欲しい。意識しないで欲しい。忘れて欲しい。相手にしてくれと求めないで欲しい。この気持ちをアサーティブに伝えることが大事だ。自分の利益はこの嫌な気持ちを相手に率直に伝えてわたしの嫌がることはしないで欲しい。最初銀行に入ったときもう嫌だった。中学のとき変なヤンキーにからまれて嫌な思いをした。高校のとき女ばかりのクラスで嫌な思いをした。少しトラブルになった。母親や姉と喧嘩して暴力をふるった。大嫌いだった。 嫌いでもかわいそうと思う気持ちが大事じゃないだろうか。男女の関係にはならないと思う。この嫌な気持ちをアサーティブに伝えるしかない。昨日看護婦やガイジンと話していてもやっぱり好きにはなれないと気づいた。女の方も当惑し、徒労感を覚える。憐れみの気持ちが大事だ。好きにはなれないが好きという感情の代替にはなるだろう。愛されるかどうかというのは女にとって大事なことらしい。男女関係は上下関係とは違う。私は対等で率直な男女関係など経験したことがないのでわからない。愛は無理でも憐れみは可能だろうか。憐れみは保険である。自分を守るための安全弁である。女は愛も憐れみも受けられないと知ると怒り出す。アサーティブにはどうだろう。憐れみは可能なような気がする。憐れみはしかし何かを要求される。憐れむなら何か頂戴と。カズミにお金を渡していたのは憐れみからだったかもしれない。とても残酷な行為だ。今うつだから女が愛せないのか。それにしては長い。中学時代からずっとうつだったと言えなくもない。引きこもって生存競争を諦めた。今それを振りかえってそれではいけないと思ってeg以来色々やってみた。眠っていた何かが動き出した。手遅れの部分もあるだろう。でも間に合うこともある。創作には打ち込んでみたい。今ようやく青春が私にも巡ってきた。誰にも一度は青春がある。今ようやく巡ってきた。アサーティブというのはある意味辛い。人を信じきれないからだ。でも現実がそうなのだから甘えていてはいけない。どれだけ自分の利益を損なえば気が済むのか。はっきりと物を言おう。当たり前のことだ。愛とか信頼とかを求めたいのならば創作に打ちこめ。ポケベルではそれがうまくいった。愛とか信頼で世の中成り立っていると思いこむ情けない男の物語。創作の世界では何でもありだ。モラルも常識も関係なくて、真実が描かれているかどうかだ。 腰がまた痛くなってきた。辛い。注射の分だけ余計に痛い。痛みが引かない。もう嫌だ。そこまでしなくてよい。利益を追求するのはほどほどにした方がよい。利益と引き換えに何かが必要だ。我慢してはいけない。でも我慢しないで言うと余計ひどいことをされたりする。女と仲良くしたいから出会い系とか言っても結局嫌な思いをする。競争があるからだ。昨日の英会話では競争はなく、皆が楽しい思いをすることができる。私は優しさが必要だ。アサーティブに生きることは努力と責任が必要だ。 女が嫌いという気持ちを押し隠して出会い系パーティーなんかでてもだめだ。女も収入も地位も若さもない私に見向きもしない。全く楽しくなかった。それどころか差別され、仲間外れにされて大変傷ついた。アサーティブに振舞おうとすると余計に攻撃性を誘発する場合があるので覚悟が必要だ。アサーティブな男女関係なんかあるのか。アサーティブは非常に限られた場面でのみ有効だと思う。全部アサーションで解決できないし、万能ではないし、ぎすぎすとげとげしすぎるだろう。男女関係では合わないかもしれない。文学の世界でも無用だ。私が職場でおかれている過酷な状況でおいて初めて有効になると思う。穏やかに話しが進む状況ではないのだ。あのキチガイ野郎どもを相手にしているんだから。 うつがややひどくなってきた。このところ薬を飲んでいない。抗うつ剤をまた飲もうかと思う。和やかに穏やかに世の中が進んでいけば良いと思う。でもそうではない。欲が絡むと苦しいこと、辛いことが出てくる。お見合いパーティーも楽しい場所ではない。無条件で受け入れられる場所ではない。あんな目に遭ったのも偶然ではなくまた行けば同じことだろう。甘く見過ぎなんだ、世の中を。アサーティブに考えよう。アサーティブに行動する前にアサーティブに考えられなくなっている。自分が何がしたいか、何が嫌かさえわからなくなっている。自分の利益を犠牲にして自分を傷つけ害することばかりやってきた結果だ。やりたいことをやってから安らかに死んでいこう。江戸時代の農民ではないのだから。女も嫌いだが男も嫌いだ。利害関係がわからなくなった。いつも受身でいるだけで自分の利益を考えないからそうなる。 私は真面目ではないのだろう。自分の利益を追求しないからそう見える。キチガイに迫害されてきたのは同じ理由だ。不真面目だから。やるべきことをやらないから。中学教師とhやkは結局同じだ。不真面目=許せないとなって個人攻撃になるのだ。それ以外でも同じだ。不真面目だ。バカにしている。考えが甘い。体育会系の人間からしたら許しがたいのだ。私から見たらキチガイにしか見えないのだが。文学でも皆真面目だ。私はその中でも真面目に見えないから浮いてしまう。お見合いパーティーで浮くのも同じ理由か。真面目に女を捜そうとか思っていない。雰囲気だけで良いと思っている。それが不真面目に見えるのだろう。不真面目でも良いじゃないか。芸術家なんか皆不真面目だ。でもどこかで真面目で倫理的でなかったら絶対書けない。私はまだ書くことに真摯ではない。書くことで救われたいなんて不純なのだ。ある意味不真面目なのだ。書くことを他の目的に利用しているからだ。良いものを書こうという純粋で真面目な気持ちからスタートしなければいけない。権力欲、射幸心ではだめなのだ。 女を見るだけで腹が立つ。やばいかもしれない。大阪の女なんか全員ヤクザだ。人間じゃない。犯罪者でキチガイだ。 昨日の英会話は大変なストレスになったかもしれない。今日一日誰にも会いたくなくて寝ていたのもそのせいか。女を殺したい。誰でも良いから殺したい。本当にそう思う。相当やばいかもしれない。いつもその気持ちをアサーティブに出していたらこうはならなかった。ババア、何のために生きているんだろう。憐れみが必要なのだろうか。仏陀は女を生涯忌み嫌った。母親さえ遠ざけた。私の場合は悟りのためじゃなく本当に単に嫌いなだけだ。これは寂しいことだろうか。間違ったことだろうか。必ずしもそうではない。kさんは男嫌いだそうだ。同じように女嫌いだっている。問題はそれを抑圧するために苦しむことだ。嫌いなら嫌いで良いのだ。人をだにとか言う奴らが何で好きになれるんだ。私をこんな境遇に追いこんだキチガイどもを何で許せるんだ。私がヒットラーみたいに政権を取ったら、女を強制収容所に送りこむ。ただ憐れみの気持ちだけが私を食いとめている。アサーティブに生きよう。嫌なものは嫌といおう。やめてほしいことはやめてくれと言おう。率直に誠実に言おう。嫌味抜きに本心をそのまま言おう。対等率直誠実なかなか良いことを言っている。 昨日のガイジンは一所懸命に好かれようとしているのにやはり好きになれないので徒労感を覚えただろう。意地悪な冷たい人間と思っただろうか。でもアサーティブに言うとやっぱり好きにはなれないと言う気持ちは尊重しなければならない。それができないからややこしくなる。嫌いなら嫌いで良い。絶対誰も咎められない。誰も忙しいのだ。むしろその気があるように見せることが苦しめるのだ。 私は不幸だ。男も女も愛せない。きれいな女だったら大丈夫だったのに昨日は可愛い若い看護婦もブロンドの白人女性も全然だめだった。受け付けなくなっている。アサーティブに言うと無理をするまいと思う。つまり無理して好きになろうとしなくて良いと思っている。女が嫌いでも人間としての値打ちが変わるわけではない。アサーティブに生きるとは辛い面もある。嫌いなものを嫌いと言い、嫌なことを嫌ということは当然のことなのに侘びしいのはどうしてだろう。気の迷いか。私は女を受け入れることはできない。うつによる一時的なものであろうとなかろうと受け入れられない。人をだにとか蛆虫とか言う奴ら、人をこんな境遇に落として平気なキチガイどもを受け入れることはできない。 うつだから無理はするまい。でも少しずつでもここから脱していこう。中学時代からうつ状態にあったと考えている。一度も正常だったことはない。躁状態になったこともある。考え方に多くの歪みがある。歪んだ思考に陥りやすい。アサーティブと論理療法でいこう。エリスにすがろう。女が嫌いと気づいただけでも偉い。それを少しずつアサーティブに出していけたら今までのような不利益を受けることはないと信じる。派遣でもパートでも正社員でもババアでも娘でも看護婦でも外人でもウェイトレスでもスッチでも全ての女が嫌いで受け入れられない。これをアサーティブに率直に誠実に主張していこう。 受け入れられないことをアサーティブに認めよう。これは本心だ。これに気づかずに今までいたからこそこんな目にあったんじゃないのか。自分が受け入れられないことをアサーティブにしかっり認めることこそが大事な第一歩だ。 アサーティブは好き嫌いとは関係ない。事実を率直に認めることだ。好き嫌いを言っているんではないから批判されるいわれはない。自分の利益は女と距離を保つことと危害を加えられないこと、トラブルを起こさないことだ。相手がヤンキーであろうと感情や好き嫌いではなくアサーティブに行動するなら危険は避けられる。ほんとの気違いはだめだけど。 最近は考えの筋がよくなってきたのでひどいうつにはならない。なるけどとことん落ちないでまた浮かんでくる。青春が始まったのだ。40代半ばまでサラリーマンをやってそれから文章修行をして作家になる。それでいいじゃないか。真面目になろう。作家修行も生半可ではだめだ。命をかけなければ。もっとも若い頃散々命は賭けてきたけれども。 最近は何を読んでもよく理解できる。不思議だ。ガイジンの話もクリアーに理解できる。創作活動をやっているからかな。素直で真面目になる。優しくなる。考えた。女は嫌いだ。嫌いだから受け入れられない。でも私は男なので利得を得ている。だから憐れみの感情は持ってもよい。でもだにとか言うんだったら無理でしょう。それがアサーティブの限界だ。 昨日ガイジンの話でバンフーと言う地名を聞いて横山さんの住んでいた町だと思い出した。今度の小説で書こうとして思い出せずに困っていたのでよかった。何と言う偶然。 全ての人間を好きにならなければいけないだろうか。誰からも好かれなければならないだろうか。それが歪んでいる。無理がある。嫌いな人間がいて当然だ。まして人を攻撃する人間なんか好きになってはいけないだろう。アサーティブに言って良いのだ。自分を苛める人間がいてその原因は自分にあると考えたりむりにすきになろうとしたり、馬鹿じゃないのか盗人に負い銭。バカにもほどがある。アサーティブに生きよう。 アサーティブに生き行動していればうつにはなりにくい。なってもすぐ立ち直る。アサーティブでないと簡単に利益を侵害され、うつにもなりやすい。危害を加えられたり、利用されたりする。差別されたり、迫害されたりする。自分の利益をおろそかにするものは不真面目と見なされ迫害されたりする。自分の利益を守ろう。自分の利益を自分で守れないものはだめだ。あいつらは仕事をしているふりをして私を単に迫害しているだけだ。仲良くする方法などない。なぜ仲良くしようとなどするのか。全くわからない。キチガイで人殺しで人非人なのだ。そんなことを今更指摘しても仕方がない。これだけひどい目にあっても仲良くしようとするなんて頭おかしい。アサーティブに考え行動しよう。自分の利益を守ることを考えれば自然にアサーティブになる。私にもやっと青春が巡ってきた。 アサーティブはどんな場合にも可能だ。hやkがキチガイであろうと私を眼の敵にしていようと関係ない。殺意を覚える。俺を殺そうとする奴らに殺意を覚える。当たり前だ。殺そうとする奴と仲良くできるか。殺意を覚えるのがアサーティブということだ。
昨日の飲み会は最悪だった。あんなお見合いパーティーは私には向かない。女性は悪くなかった。年の割にきれいな人もいた。でも変な男がいて私を仲間外れにした。何であんなやつがいるんだ。理解できない。それともああいう場はあれが普通なのか。最近腰痛とうつによる不眠で限界だ。ヤンキーに「ダニ」といわれた。それがこたえている。あんな職場はもう嫌だ。何で眼の敵にされなければいけないのか。私は女だ。だから女が耐えられない。たまらなく嫌だ。もう性欲さえない。近づく理由さえない。昨日も女を見たとき不細工ではないのにもかかわらずたまらなく嫌だった。あの事件がこたえているのだ。私はあのババアを受け入れることができない。当然受け入れるべきと主張してどこまでも来るその態度が我慢ならない。世の中にはいろんな人間がいる。女を特にババアを受け入れられない男がいてもいいだろう。なぜそれで非難されたり迫害されたりしなければならない。女が嫌になってきた。本当に嫌になってきた。これが私の偽らざる気持ちだ。女が嫌い、嫌だという気持ち。それに嘘をつくと風俗とかs○とか異常な行動に走ってしまう。嫌だったら近づかないのがお互いのためだ。それを無理やり近づいてくる、近づいてもいいと考えるババアの病的な考えがたまらなく嫌だ。ヨン様みたいに商売だったら我慢できるだろう。でも私は商売ではない。お前らなんかの相手をするのが商売ではない。 創作の世界は嘘をつかなくていい。創作に打ちこもう。自信にもなるし、うつも切り抜けられる。昨日あんな不愉快な目に遭っても耐えることができたのは文学のおかげだ。人を観察したいという意欲だ。義務感だ。人に優越して仕事をしている喜びだ。アサーティブに主張していこう。今色々考えるが、考えの筋が良くなってきたのでうつにはならない。 おんなが嫌でも良いじゃないか。嫌だという気持ちをアサーティブに出していこう。自分の本当の気持ちが何かさえわからなくなっている。私はナルシストなのかもしれない。男も女も愛せないならば自分を愛するしかないだろう。女は女が嫌に決まっているのに表面上は仲良くしている。社会的には弱者なので同盟を組んでいるのだ。私はそんなことはできない。大嫌いなのに何でいっしょに行動しなければいけないのか。 性欲と感情が分離している。だから風俗なんかに走ったりする。それだったらせめて近づかないことだ。それは幸せを諦めることではない。安全を守り、利益を守り、誇りを守ることだ。 ノーといえない人間、自分の利益を守れない人間はだめだ。今までずっとそうだった。ババアが嫌でも嫌といえない。全ての人に好かれようと無理をする。その結果が迫害されたり、差別されたり、排除されたりということか。そしてそれに対しても抗議できない。アサーティブに行こう。自然にできるまでは意識していこう。そうすればうつにも効果がある。自分に加えられた理不尽なことを合理化するのはよそう。できないことはできないと言おう。理想ばかり追い求めるのは止めて現実を見よう。女なんか現実そのものじゃないか。昨日来ていた女は悪くなかった。ババアでもブスでもなかった。でも意欲が起こらなかった。うつだからだ。 急に生き方を変えるのは難しい。昨日の飲み会でも今までの行動パターンを変えたのだがうまく行かなかった。結局単に行動を変えただけではついていかない。44年かかってしみついた行動と思考はそう簡単に抜けない。でも方向は間違っていないので少しずつ進歩していこう。egで得たものは前向きに生きるパワーだ。パワーはニュートラルなので扱いを間違えるとネガティブな方向に行くこともある。リスパを飲む羽目になった。でも職場の状況は大きく改善された。これからも改善されるだろう。いくらでも改善の余地がある。丸腰であんなパーティーなんか出ても狙い撃ちされるだけだ。人は欲が絡むとけだもののようになる。それが嫌でこんな生き方を選んだのだ。でもノーと言おう。勇気を持ってノーと言おう。自分の利益と安全を守るためだ。 私は自分の利益を損なうというミスを犯している。仕事を真面目にやらないのはその最も重大なひとつだ。仕事を真面目にやらないと雇用が脅かされて生命さえ危うくなる。こんな簡単なことがわからなくなっているのだからそうとうやばい。あのキチガイに責め立てられて錯乱しているのだ。まずやるべきことはあらゆる機会を捉えて嫌がらせを止めさせ、職場を正常化すること。だいぶそれは実現した。北原という白馬の王子のおかげで。もう一息だ。そして自分の仕事に打ちこもう。それが最大の利益だ。 自分で自分の利益を台無しにする。そんな奴恐くて誰も付き合わない。しかしこれからは違う。自分の利益を最優先する。 今うつだしもっとひどいうつになってもおかしくないのにそうならないのは、創作があるからだ。それが誇りを守ってくれる。生きがいと喜びを与えてくれる。馬鹿にされてもめげない自信を得た。今は彼女とかじゃなくて創作に打ちこんで見よう。うつはクリエイティブイルネスだ。今こそ創作のチャンスだ。私がこの世に生まれてきた理由が見つかった。これに打ちこんで生きていこう。あんなちんけなキチガイどもに悩まされる必要はもうない。私に愛されたいのに愛されないので攻撃する。キチガイババア。ババアを愛せないことを引け目に思う理由はない。 腰痛で病院に行ったら注射された。何か余計悪くなったような気がする。大丈夫だろうか、あの医者。下半身不随にされたくない。もう行くの止めようか。恐ろしい。今日は酒飲むの止めよう。まだ私は十分ではない。青春は始まったが、慣らし運転を十分行わなくてはいけない。 今日看護婦と話していて女が好きではないんだなと思った。向こうは女が好きなんだろうと思いながら接してくるのだがそうではないと気づくと怪訝な顔をする。それはそうだろう。女の皮膚一枚が好きなだけかもしれない。性欲とはそういうものだ。中身を愛することがどうしてもできない。女が好きであろうと演技すると苦しくなってくる。女に無償奉仕している気分になってくる。それに燃えるのだったらそれはそれでいいが、どう考えても健全とはいえない。それが嫌なら距離を置くしかない。距離を置こうとして拒否するといじめに遭うのか。それはセクハラじゃないのか。勘違いもはなはだしい。アサーティブに女が嫌いだと表明し、権利を認めさせよう。女を相手にするのは義務ではない。強制される覚えは全くない。間違っても無償奉仕は止めよう。好きでもないものを好きというふりをすると相手にも自分にも不誠実で率直でないことになり、ひいてはお互いの利益を損なうことになる。私の考えは間違っていない。
今日から三連休。楽しい。自分の利益を守ろう。最優先しよう。自分の利益を損なうようなことばかりしている。自分の利益を最優先すればどうすれば良いかすぐわかる。正義とか面子とかどうでも良い。利益だ。今の私は雇用。こんな人間を雇ってくれる企業はわが社をおいて他にはない。世の中が平和で善意に満ちていると自分を偽るのはやめろ。自分に危害を加える通り魔みたいな連中と戦え。 自分の利益を放棄しても状況は改善しない。利益に固執する他人との確執は解消されないだろう。正解はないが極端にはないことは確かだ。中間的なアサーティブな生き方が一番良いだろう。他人も自分も楽な行き方、親切な行き方。利益を目の前にすると人間性とか優しさなど吹き飛ぶ。そんな修羅場でも生きていけるようにしたい。アサーティブの本がものすごく良く理解できる。うれしい。心が開かれてきた。世界が開かれてきた。自分の利益を何より大事にしなければ。非主張的とは自分の利益を他人に委ねるような依存的な甘えた行き方だ。自分の利益は自分で守らなければならない。当たり前のことだ。それができて初めて他人と対話できるのだ。自分の利益を省みない人間は不気味で付き合う気がしない。何を考えているのかわからない。そんな奴の面倒を見せられるのも嫌だ。 自分の利益を増進できるのは自分しかいない。それは間違いない。他人に依存して自分の利益を守ってもらおうというのは甘えだ。自分で自分の利益を戦い取っていかなければならない。女が邪魔なら邪魔できないようにすれば良い。うまく自分の言うことをきいてくれるなんて甘えた考えを持たないことだ。ホリエモンは金がすべてだといった。それは極端ではあるが確かに金には魔力がある。人の心まで操作できる。でも金は一部に過ぎない。人間が産み出す価値のほんの一部でしかない。私はいくら金をちらつかされても自分の文学的才能を誰にも売り渡したりしない。というかそれ自体がパワーであって金だけ持っている無教養なkみたいなキチガイに十分バランスを取ることができる。金が全てではない何よりの証だ。あんな奴のご機嫌を取る必要なんかかけらもないということだ。女なんか性的魅力さえ感じなければ何の価値もないのだ。憐れな奴らだ。 私の青春は今始まったばかりだ。青春は自分を大事にしよう、自分の利益を大事にしようという人に訪れる。今まで若くても自分の利益を大事にせず、自分を粗末にしていたために青春は訪れなかった。しかし今は自分の大事さがわかり、大事にしていこうと思ったので青春は始まった。旅行に文学に人付き合いに仕事に頑張っていこう。絶対誰にも邪魔させたりはしない。何で邪魔するのだ、ババアは。お前が嫌いで何が悪い。お前が嫌われるのはお前が悪いんだろうが。この色キチガイが。 私が自分の利益を大事にしようとすれば、他人も自分の利益を大事にしようとする。あのキチガイは徹底して私の嫌がることをしてきた。私は根負けして自分の利益を放棄した。それは間違いである。自分の利益を放棄してはならない。その調整は必要だろう。それはアサーティブにやることを学ぶことだ。それを諦めてはいけない。それは自分の利益を諦めることだ。
明日から三連休だ。イベントに参加しよう。何をされてもにこにこ笑い黙って耐えていると言うのはおかしい。明らかにおかしい。あのキチガイはかさにかかっていじめてくるのに何で黙っているのか。はっきり言わなければならない。何で許すのか。女なんか絶対許せない。生涯許すことはないだろう。アサーティブでも何でもいいから言わなければならない。中学以来引きこもってきた。それは間違いである。はっきり物を言わなければならない。
私が腹を立てている理由は何かやっとわかった。私が仲良くやろうとしているのにいつも怒って仲間外れにして邪魔者扱いするからだ。それに対抗する手段は同じことをすることだけだ。怒って相手にせず仲間外れにすることだ。何で人に攻撃してくる奴と仲良くできるんだ。どうして反撃しないんだ。どうして自分の要望を言わないんだ。喧嘩売ってくるんならいくらでも買ってやる。キチガイが、犯罪者が、人非人が。
絶対自分の利益を守らなければならない。それが絶対だ。自分の権利を危険に曝してはならない。絶対原則だ。そうすると女と敵対しなければならないのは明らかだろう。全く利益が対立するのになぜ仲良くできる。私を殺そうとしている奴らをなぜ許せる。絶対に許さない。自分の命を脅かす奴をなぜ受け入れられる。 私は置物ではない。生きているのだ。生きて自分の食い扶持を稼がなければならないのだ。このけだものの街で。なぜ幻想を抱くのか。現実を見て自分を守れ。 女を殺したい。誰でも良いから、一人で良いから殺したい。あいつを殺したい。何でこんな大嫌いな奴らと一緒に生きなければならないのか。目の前から消えろ。全員死ね。何で人を殺そうとしている奴と仲良くできるなんて考えるんだ。殺意を持て。殺して良いから。あんな蛆虫みたいな奴ら。 敵意も何もなく何もしていないのに殺そうとする奴らと何で仲良くしなきゃならないんだ。何で仲良くできるんだ。何でどうやったら仲良くできると悩まなければならないんだ。いい加減にしろ。
今日も早く目が覚めた。眠れない。腰が痛い。頑張ろうという気がしてきた。がむしゃらにやってみようと。青春が初めて私に巡ってきたと。無為にうずくまっているのではいけない。世の中を美化することもできない。さりとて否定することも現実的ではない。私は現実的でない考え方をする。ヤンキーに負けるな。権力者に負けるな。敗北主義に陥るな。最後まで諦めるな。脅しに屈するな。 私は中学以前にうつになって社会から徐々に引きこもり始めた。権力者と対立し、完全に周囲から閉じこもった。どんどん精神的におかしくなっていった。文学に生きる道を求めたが、それは意に染まなかったので、会社勤めを選んだ。しかしうまくいかなかった。引きこもって形成された性格では無理だった。社会に参加するという考えはなかった。私は自分の権利を守りながら社会に再参加することは可能だと思う。その自信がついた。 私はようやく青春のとば口に立った。これからは人間らしく生きていこう。ヤンキーや犯罪者やキチガイや人非人に負けないで人間らしく生きていこう。 受動的で我慢ばかりしていても全然状況は改善しない。戦わないといけない。ああ、戦いの日々。避けていた戦いをもう一度やらなければならない。さもなければキチガイや犯罪者や人非人やヤンキーにやられるだけだ。人が道徳的に振舞うことを期待しても仕方がない。 皆仲良く争うことなく和気藹々と生きていければ良いのだが、そうはいかないらしい。世の中は争いだ。私は高校のとき争いがほんとに嫌になって自分に引きこもった。その結果精神的におかしくなって発狂してしまった。あの頃は本当に辛かった。ようやく私にも青春が巡ってきたと思ったのは病気から立ち直れそうだと思ったからだ。 本が頭に良く入るようになった。旅行中に本を読んだらすごく良く理解できた。今アサーションの本を読んでいる。面白い。東京にトレーニングを受けに行こう。小説を書いていることと関係があるだろう。自信がついた。人間が良く理解できるようになった。 私にもやっと青春が巡ってきた。これからは思いきり青春を謳歌しよう。人目なんか気にしなくても良いじゃないか。自分のやりたいことをやろう。 私はOKである。何か改善せねばならないことはない。このキチガイ、犯罪者、人非人の町で生きていくために改善することはない。私が改善するんじゃなくてお前らが改善するんだ。人非人になぜ私があわせる必要があるんだ。 私はOKである。決して自分を責めてはいけない。 確かに攻撃性が高まり、少しおかしい気がする。リスパを飲もう。でも私は踏みにじられてきたのだから少しは怒って良いように思う。怒るというよりアサーティブになっても良いと思う。 あのくそババアは際限なく私を攻撃して決して止めることはない。それが全ての問題の根本にある。何であいつの暇つぶしとご機嫌取りに私が付き合わないといけないのかさっぱりわからない。死ねと言いたい。それだけだ。 私は青春を謳歌しよう。やっと青春が巡ってきたのだ。 キチガイが私に敵意を剥き出しにして際限なく攻撃してくること。これが全ての問題であって、私の側には何も問題はない。わかったか。バカ。人非人。犯罪者。 バカ、キチガイ、犯罪者、人非人。死ね。私の言いたいことはそれだけだ。女と権力者。私は対立する。必ず対立する。ヤンキーとは必ず対立する。私は自分の利益を守らなければならない。絶対に自分の利益を犠牲にしたり、危険に曝してはならない。私はヤンキーが嫌いだ。ルールを守らない奴がたまらなく嫌いだ。許せない。女が嫌いだ。絶対に許せない。
北海道から帰ってきた。不愉快な思いもいっぱいしたが救われることもあった。気付きも多かった。やっぱり行って良かった。金を遣わないとわからないこともある。桂月館の女将ともめた。電話した瞬間にもうもめていた。結局権力闘争なのか。スッチーとも相性最悪だ。飛行機が嫌いなのでスッチまで嫌いになる。それが跳ね返ってくる。特にjalのスッチーは最悪だ。人見知りと同じだ。不安や恐怖を与える対象を恐れ嫌う心理だ。女が嫌いなのも結局過去に嫌な思いをした、不安だ、だから嫌うという悪循環になっている。飛行機を信頼していない=スッチーが大嫌いということになっている。会社でも会社を信頼していない=OLが嫌いということになっている。飛行機を信頼しないのなら乗るべきでない。飛行機を信頼できるならばそれほど嫌いにもならないだろう。 女が嫌いな理由。同性だから。見るたびに不愉快になる。自分を不快にする対象を好きにならない。なったとしたら病気だ。smだ。性的には女を志向するので女を好きになるにはマゾヒストにならなければならない。それが嫌なら女を、性を諦めるということしかない。 ヤンキーと特に相性が悪い。嫌いだからと言ってもなお近づく奴とか、攻撃する奴とか。好きになったりはしないので自分を守るためには反撃する以外にはないと悟った。自分もヤンキー化する。これしかないだろう。女がいるだけでうつになる。もし攻撃されたら反撃して良い。 私が長くうつだったことに気づいた。中学時代から引きこもり始めた。女を愛の対象とできない自分に気がつき違和感を覚え始めた。男にも向かわないのでナルシズムに走った。文学に逃避した。それがうつだ。生きがいとか、仕事とかに自分が向かなかった。自分の中にうずくまって全てやり過ごそうとした。そんなことは不可能だ。狂気に陥った。 他にも旅行中に気づいたことはいろいろあるが思い出したら書きたい。
早く目が覚める。おかしい。特におかしい。あのクソ坊主はどうもいけ好かない。不愉快なことばかりする。権力志向が強いのだ。私も俗物臭が抜けないからだめだ。芸の道は道徳に通じるから打ち込んでみたら良い。長年の問題を解決する道がきっと開ける。私は確信を得た。道徳的に高めることが必ず正常化に近づくことを。あんなクソ坊主やキチガイどもにいちいち腹を立てたり悩まされることもない。私のような神に近い道徳的存在とあれらの俗物とはステージが違うのだ。仕事は人が道徳的であることをもっとも必要とされるものだ。そこで道徳的である気力を失っていることが一番の問題だ。でもそれに限らず全ての面で道徳的でなければならない。現代人が失っている最も大きなものは道徳だ。 私の考えることは常におかしいということを忘れてはならない。それを忘れない限りは、何とか大丈夫だ。自分がおかしいとわかっている人間はおかしくない。歯止めが利く。おかしくないと思うと歯止めが利かない。自分の感じることが真実だと考え不機嫌になったり落ち込んだりする。いつも冷静でいられるためには自分の感じ方、考え方が長い間にすっかりおかしくなっていることを常に意識しておくべきだ。そして道徳的であれ。道徳的に向上することが成長に他ならない。 気分がさえない。大丈夫なのか。最悪ホテルに横たわっていればいい。日常から離れるだけで癒しになる。今感じ方がおかしくなっているので注意するように特に女。トラブルにならないように。アサーティブに振舞おう。道徳的に向上しよう。 今考えることはほとんどおかしい。だから何も考えないのが一番良い。今までだってそうだった。悩みが嵩じていろいろ考えたことは全て悪く作用した。道徳的に健全で向上を目指すことだ。そういう人間を攻撃することは誰もできない。 少し気分が改善した。もし道徳的に潔癖であれば権力者であろうとキチガイであろうと恐れることはない。受け入れるべきでないものを受け入れると自分が汚染される。寛容さを取り違えてはいけない。10日間も何も考えないでよいというのは良いことだ。 女が嫌いというのも感じ方がおかしいことのひとつだし、深い意味はない。でも何をするかわからないから近づかない方が良い。冷却期間を30年ほど置いたほうが良い。自分の奇妙な思考や感覚に固執することもおかしいことのひとつだ。いずれにしろ女とは距離を置いたほうが絶対に良い。就職した時も女のいない職場を選ぶべきだったのに、銀行とは。そして病院では看護婦。制服を来た女とは極端に相性が悪い。でも一切考えない方が良い。道徳的に潔白であれば絶対につけこまれることはない。道徳的に向上することだけ考えよう。求道者になろう。仲良くする必要はないし、好きになる必要はさらさらない。向こうだってそうじゃないか。キチガイと何で仲良くできるんだ。どうやって身を守るかだ。問題は。道徳的に潔癖であれ。道徳的に向上しろ。危害を加える奴は断固排除しろ。危険なものは受け入れるな。 道徳的に向上しよう。恐がりだから避けられていた危険が恐がりじゃなくなると避けられなくなる可能性がある。それを避けるにはより高い道徳レベルに移行することだ。道徳的に潔癖であれば恐れることはない。 おかしいという意識が肝心だ。そして道徳的に向上すること、潔癖であることが肝心だ。自分を守ること。道徳的である第一歩は危害を加えるものを許さないことだ。道徳的であることは最強の自衛策だ。
あの人の早朝覚醒がうつってしまった。最近明らかにうつだ。脳が疲れきっていて予約も困難だった。ゆっくり休もう。11日間も会わなくて良い、考えなくて良いなんて何て幸せなんだ。私に敵意剥き出しにして攻撃するやつと仲良くする方法なんかない。私が一貫して言い続けたことは私を眼の敵にするな、私を攻撃するなということだ。何でそんな簡単なことがわからないのだ。 私はずいぶん前からおかしい。生きることが困難になっている。仕事も人間関係も何一つやれてこなかった。それはおかしかったからだろう。道徳的に高いステージにどうしても上がれなかった。仕事でも私生活でも。それがegに行ってパワーをもらったが道徳レベルはそのままなので暴走して人と衝突してしまう。y氏の懸念通りだ。これを道徳レベルを高めることに利用できれば問題は解決できる。セネカも重責を負いながら道徳的に高めようと一生努力した。それは楽しみになっていたからだろう。人間は道徳的に高めようと思わなくなると途端に堕落する。もう私は落ちるところまで落ちた。あとは自然に上がるだけだ。自然ではないか。努力を要する。でもそれはセネカのように楽しい努力だ。苦行ではない。 あの人もずいぶんおかしな人だ。ちょっと会うのは恐い気がする。無責任で他人を傷つけることに鈍感だ。何をするかちょっとわからない。理系だし、道徳の意味が私とは全然違う。理系キチガイ系は永遠に相容れない。y氏と2年以上も話しているがいまだにわからない。氷炭相容れずか。 でも不調になってもうつになっても疲労と早朝覚醒くらいで、不安とかいらいらは全くないからだいぶ強くなったのだ。あとは道徳的に高まれば、万事うまくいく。 あのキチガイどもは私の人生に全く無関係だ。私を攻撃する奴と仲良くできるわけがない。私は私で道徳的に高めよう。経済でも十分道徳を実践できる。経済とは道徳の実践に他ならない。金持ちはけちだというのはそれだけ倫理的に高い、自分に厳しいということだ。道徳的に高くなろうとすると他人との摩擦や葛藤が嘘のように消える。まるで自分が透明になったかのようだ。理系キチガイ系の道徳と私の道徳はまるで違うが、氷炭相愛すともいう。違っているから役に立つこともある。全く同じなら互いに必要としないだろう。アメリカ人も欠点は多いがピューリタン的な潔癖さ、勤勉さを持ち合わせている。だてに世界一豊かな国になったわけではなくて倫理的に高いのだ。私は道徳的ではないのでアメリカ人と衝突しやすい。私は何人とでも衝突しやすいが。私が道徳的に堕落したことはきっかけは何か思い出せない。でもそんなことはどうでも良い。今から改めれば良いだけの話だ。 道徳の話に気づいたのは大きかった。私の人生を巡るトラブルの一切は道徳に関するものに全て関わる。遅刻のこと。小六の時は遅刻さえしていないのに苛められていた。あのばかと付き合っていたからだ。でも私の道徳的退廃に気づいていたからそういう行動になったのだろう。そう今は思いたい。教師という職業倫理に忠実だったのだ。私はそれに比べてどうだろう。どんな職業倫理にも忠実だったことは一度もない。中高生の時は勉強に打ち込んだ。点取り虫だった。そこだけ道徳心が高かった。ほとんどマゾヒストだった。それが嫌になって、大学に入ったら勉強を止めた。本格的な道徳的退廃の始まりだ。やがて狂気が襲ってきて私は内側から崩壊した。自分で堕落するスピードより早く。なぜそうなったかはわからない。道徳的退廃がなぜ起きたのかもわからない。狂気がなぜ襲ったのかもわからない。人間は分からないものだ。それ以来私は仕事も勉強も手に着いたことがない。何もかも中途半端だ。周りから見れば使い物にならないのにプライドだけはなぜか高い。これではいけない。やはり道徳的に高める方に進もう。私にはサドの退廃が巣食ってしまっているのでなかなか退治は容易ではないが、自分の敵は本当は自分だ。自分で自分を尊重できなければ誰も尊重してくれない。今回の文校は良かったかもしれない。自信がついた。自分にも何かが残っているとわかった。努力することは尊い。道徳的に高めることは尊い。 すごく今良い気分だ。最悪な場所を通り過ぎてようやく今水面から頭を出した。 道徳的に高まるのは時間がかかる。その間にもキチガイが襲いかかってくる。それを何とかしよう。キチガイにはアサーティブに対処することが肝心だ。弱者の武器だ。モラルハラスメントに対処する有効な武器だ。世の中キチガイだらけだ。キチガイに対処する手段を身に付けなければならない。キチガイには断固たる態度を取ろう。キチガイにはつけこまれないようにしよう。中学時代のあのキチガイは繰り返し襲ってくる。キチガイ対処法。それを考えよう。一方で道徳的に高まる方法を考えよう。 キチガイは絶対に受け入れてはならない。受け入れられていると思うからそこに付けこんで襲いかかってくるのだ。コンクリート詰や宅間の事件と同じだ。信頼や受容に付けこんでくるのだから、絶対に受け入れてはならない。 敵は自分の中にある。それとは別に通り魔的なやつがいる。中学時代の教師とか、hとかkとか他人の権利を侵害するとか危害を加えてくる。これは断固として排除しなければならない。対抗措置を取らなければならない。そもそもは受け入れてはならないやつを受け入れてしまったのは私の優しさであるが、それは私に不幸をもたらした。私の倫理観が内部から崩壊した。おかしなやつは排除しなければならない。道徳的に高める第一歩はおかしなやつを排除することであり、権利侵害を排除することである。それもできなくて道徳的に高めると言ってもだめだ。だからuさんみたいな人は危ない。近づかない方が良いし、近付けない方が良い。 私は受け入れられない。oとかeとかは見た目からしてだめだ。拒否する権利は誰にでもあるのにないかのように振舞うのはなぜだ。お前には拒む権利なんかないんだよ的な態度が一番むかつく。失礼過ぎるんだ。相手の意思を確かめたのか。断固拒否させてもらう。 道徳的に高めるように努力しよう。一生努力だ。禁欲も堕落も知っている。人間は自由だということだ。でも道徳的に高まるよう努力しなければならない。私の敵はあのキチガイどもではない。自分の内部の退廃だ。堕落だ。絶望だ。ニヒリズムだ。 資本主義は欲望を肯定する。でも道徳的に高く保っていれば、大丈夫だ。飛行機に乗るのと同じことだ。許された危険。私は文学に打ち込みたい。文学も道徳的でないと良い作品は書けない。生半可な気持ちではだめだ。いろいろ約束事があるのは芸事の常だ。芸は道に通ず。 egはモチベーションとパワーを与えてくれた。私のやるべきことはやるべきことをやることだ。やるべきでないことを止めることだ。私はようやく道徳的になるチャンスを得たのだ。 嫌なことは嫌、だめなものはだめといえることが道徳的である基本中の基本だ。悪いことをしても何も言えないとキチガイ、犯罪者、人非人は付けこむhやkと同じだ。痴漢と同じだ。 昨日に比べるととても改善した。気分が良くなった。旅行は大事だ。ダイエットと体力増強になる。すぐ回復する力がついただけでも改善だ。前は全く長く回復しなかった。これで何があっても大丈夫だ。egに出て良かったと思えるのはこういう回復力がついたことだ。道徳的に高めなければならないという大きな気づきに至ったということも大きい。 むしろ今まで正気だったことは一度もないんじゃないか。それならこれから正気に戻って頑張ろう。その準備ができた気がする。道徳的に自分を高めて仕事に私生活に頑張ろう。今までの人生は悔やんでも仕方がない。そうなるべくしてなったと思うしかない。 金を遣って快楽を貪ってはいけない。道徳的に正しくなければならない。自分で道徳的におかしいと気づかなければならない。当然のことだ。このことに気づけば大丈夫だ。 昔は本当に道徳的だった。人間は道徳的に生きられると信じる。悪いことをしないと生きていけないとは思わない。egに出て元気が出たとしてその元気を悪い方向とか快楽を貪る方向に向けてはならない。道徳的に自分を高めること、自分の価値を高めること、自己啓発に向けよう。私にはまだまだパワーや能力があるとわかった。あんなキチガイババアなんか比べ物にならない能力がある。道徳的に正しい道に戻りさえすればあんなキチガイが何を考えようが何をやろうが絶対に邪魔も真似もできないことができる。仲良くなんかしなくて良いんだだって向こうが勝手に攻撃してくるのに仲良くなんかできるか。 道徳的に生きよう。道徳がなにより大切だ。目標が見えた。重大な人生の転機だ。これからは上り坂だ。egで生まれ変わって今度は内部から自発的に生まれ変わるときだ。これからが本当の人生だ。 大阪そごうに行って来た。楽しかった。美しい。大阪も捨てたものではない。東京には及びもつかないが。でも人当たりしたようだ。とても疲れた。私はでも大阪にはあるいは都会にはなじめそうにない。あと何年暮らそうとも。私は自然が好きだ。資本主義には違和感を覚える。でもその御蔭で北海道にも沖縄にも行けるんだけどな。道徳一本槍で生きていくことは可能だと確信している。日本中、世界中どこでも。悪いことなんかひとつもしなくても絶対に完全に生きていくことができるのに。何を勘違いしていたのだろう。 道徳おじさんになろう。私はおかしい。おかしいが道徳的に高めることが人生のあるべき姿だ。文学でも同じことだ。 嬉しい。キチガイと11日も会わないで良いということは何て幸せなんだろう。それがなにより嬉しい。もう永遠に何の関係もないのだ。人間じゃないのだ。死ね。今日を限りにこのキチガイどもと永遠の別れを言いたい。君達賎民と私のようなエリートとの間には何の接点もないのだ。死んでくれたまえ。道徳的に遥かな高みに舞う私と君ら汚泥の間を這いずり回るキチガイどもとは全く接触があってはならないのだ。わかったか。キチガイ。 キチガイともう永遠に会わなくて良いんだ。なぜならお前らなんか全く存在しないごみだからだ。道徳的に崇高な高みにいらっしゃる私とお前ら豚のクソと同じ空気を吸うこと自体がありえない間違いなのだ。私は神であってお前らは犬のクソだ。なぜなら道徳的に最低だからだ。キチガイであり犯罪者であり人非人だからだ。 私のような道徳的に完璧な神のようなお方とお前らキチガイで犯罪者で人非人達と同じ空気を吸うことはありえないのだ。神は神、クソはクソなのだ。決して混じり合うことはないのだ。私は道徳的に完成されている。お前らは犯罪と狂気に明け暮れるくずだ。存在していてもしようがない。私は永遠の生命を与えられた神だ。神とクソが何で同じ空気を吸うのだ。ありえない。神は神だ。クソはクソだ。わかったか。永遠に俺の側に近づくな。
今日は昨日に続いて早く目覚めてしまった。最近キチガイのせいでうつがぶり返している。体重が減り気味なのに気づいた。下痢することが多いからな。最近いろんなことを考える。差別されているとか苛められているとか。苛めは今に始まったことではなくて、中学時代からある。私が女性的だからだろう。女性的だから当然女も嫌いだ。そうすると女とも対立する。孤立する。そういう図式だ。権力者からもにらまれる。あの病気はよくなかった。今更悔やんでもしかたがないが。もう考えない。考えても仕方がない。受け入れるべきでないものまで受け入れたからあそこまで行けたのか。何がどうなっているのかわからないが。私の考えることはほとんど間違っている。だから考えない方がましだ。受け入れない。受け入れられることを求めない。 今大変なミスマッチを起こしている。社会あるいは会社と私自身との間に。今考えるのはよして回復するのを待とう。やっぱりあの二人は嫌われている。どう考えても好かれないだろう。あんなタイプは。途方もないバカのくせして。アサーティブに生きよう。そして繊細に生きよう。乱暴に生きても仕方がない。あのキチガイどもみたいに。egに行ってから考え方が乱暴になった。やっぱり人間は優しく真心で生きなければ意味がない。あんなキチガイの人生に意味があるとは到底思われない。 受け入れない。受け入れることと受け入れないことを峻別する。敵と味方は峻別する。受け入れられないことを受け入れようとするから無理がある。無理があるからうつになる。こんなに我慢しているのにと恨みたくもなる。受け入れなければいいのに。そして受け入れることを強いてはならない。 中学の時は無理していた。高校の時も。そしていろんなところにしわ寄せが来た。良い子だった私は問題児になった。いじめられっ子になった。感じ方や考え方が普通じゃなかった。おかしいというか普通じゃない。自分の利益を考えない。受け入れるべきでないものは受け入れない。それが大事だ。 戦う以外ない。仲良くしようとしても向こうは喧嘩を売ってきているんだ。戦う以外ないじゃないか。向こうが殴ってきているのに何でおとなしくしていられるんだ。あの女どもまで喧嘩売ってきた。絶対許さない。喧嘩上等じゃないか。何で喧嘩を売ってくる。受け入れないなら戦う以外ない。なんだ、あのキチガイどもいい加減にしろ。 本当に疲れる。うつになりそうだ。あのキチガイども。死んだら良いのだ。受け入れない。私は受け入れない。あの声と姿を見ているだけで気が狂いそうになる。ほんとに殺意を感じる。死ね。何も考えずに休もう。疲れている。私の考えることはおかしい。普通じゃない。 とにかく疲れている。休もう。11日間も休める。今おかしいから考えても無駄だ。全部今考えることはおかしいので考えることは全ておかしい。考えないのが一番良い。 疲れた。予約はほぼ終わった。ミナミに出かけて帰りに雨にうたれた。驟雨だ。俺が言いたいことはひとつだけだ。俺に嫌がらせをするな。俺を眼の敵にするな。それだけだ。 帰りがけに思った。egである種の力を得た。それも使い果したらまたうつに戻って弱ったところを狙われて攻撃される。力を永続的でポジティブなものに変えていかなければ。道徳的であれ。力を得たものはそれを乱用することは許されず、道徳的に高く自分を律しなければならない。この世に新たに何かを付け加えなければならない。ノブレスオブリージュという。その気持ちが必要だ。力を得たから、それを自分のために全部使おうと言うのは下司な考えだ。道徳的に高いことができるようになることが成長と言えるのだ。女なんかを相手にするのは本当におろかだ。egでパワーを得た時にメサイアコンプレックス的なことをいわれた。それで道徳的に何か高いことをするのは悪いことのように思ったがそうではないと思う。自分の力をより良いことに使うのは良いことだ。少なくとも道徳レベルを向上させなければだめだ。勉強ひとつするのも道徳心がなかったらできない。 私に仕事が見つかった。道徳的であること。この得たパワーを良いことに使うべく努めること。小説に使っても良い。でも堕落的な内容を目的とするのでなく新たな何かを付け加えることを目的とせよ。自己暴露や自虐は何も生まない。成長とはより高い道徳を実践できるようになることだ。真面目な私は堕落においてもトップを走って罪をいっぱい犯した。だったらまた道徳的に向上することも一所懸命できるんだ。ババアのことなんか全く関係ない。 私は残っていた優しさを捨てることで少しだけ強くなったかもしれない。でもそれが何だというのだ。結局同じ穴に戻ってしまった。それは道徳的に何も改善されないからだ。母は私を離れていった。私に優しさがもう残っていないと悟ったからだ。それで満足だろうか。ばあさんが醜いのは当たり前のことじゃないか。そこまで堕落したのか。今日帰りに電車に乗って暇そうな悪臭の漂うばあさんたちを眺めていてそう思った。優れていなくて良いじゃないか。年とって醜いのは当たり前のことなのに。堺市民がバカで無礼で低脳で汚らわしいのはきわめて自然なことだ。 道徳を高めるのは楽しいことだ。文学とは関係ないが、大事なことだ。キチガイのことなんてどうでも良いんじゃないのか。女なんか100%キチガイなんだ。何で相手にするんだ。バカじゃないのか。もっと道徳的に高いところを目指せ。女なんか相手にして一体どうするのか。 道徳的に高いことは良いことだ。宗教とか心理学とか文学とか関係なく、道徳は必要だ。セネカを読もう。
今日キチガイに嫌なことを止めてくれと言ってみた。一応通じたみたいだ。その前に健康診断があってすごく優しい医者がいて78まで生きられると言って握手してくれた。何か私が機嫌が悪そうなので感じたのだろう。すごくいい医者だ。瞬時に見ぬいて癒してくれる。名医だ。私はすっかり癒されて元気になった。そしてアサーティブに言うことができた。役に立った。北原に言う手間が省けた。もしくは言う準備ができた。私は自力で精一杯やったのだ。受け入れる必要はない。何でも受け入れれば良いと言うものではない。信用してはならない。おかしいのは3,4人くらいであとはまともなやつが多い。受け入れがたいものを受け入れようとするからおかしくなる。受け入れなければならないというイラショナルビリーフだ。これを変えなければいけない。受け入れられなければならないわけではない。受け入れなければいけないわけではない。私はあの二人を受け入れることはできないだろう。私が困っているときに苛めた。許されないことだ。egだって私は正直だから受け入れてしまう。でも受け入れれば良いと言うものではない。相手はきっと受け入れられないだろう。私もあんなおかしなババアは100年経っても受け入れられない。絶対に私は女一般が受け入れられない。絶対無理だろう。お見合い20回以上やったけどだめな理由は好きじゃないからだ。受け入れられないのだ。それでいいのだ。 私はおかしい。いつからおかしいのかわからないし、そんなことはわかりっこない。交流分析など役に立たないと思っている。治すことも不可能だと思う。egに行って良くなっただろうか。性格は変わった。しかしむしろ悪くなったかもしれない。あいつらみたいに人非人に近づいただけともいえる。性格は変わったけどもそれで良かったのかはわからない。誰にも。苦しいところを抜けて更に苦しいところに来ただけかもしれない。受け入れないことが大事だ。それが何より肝心だ。それと自分がおかしいと気づくこと。自分が考えたり感じたりすることの100%がおかしいと知ること。そうすれば危険は少しは避けられるのではないか。女が嫌いとかババアが嫌いとかおかしいといえばおかしいがおかしいことを知っておけば少しは対処できる。 昔はもう少し優しかった。egに行く前は。性格が変わって残酷になった。御蔭でババアに抵抗することができた。私は女を受け入れることはできない。絶対無理だろう。気持ち悪い。異性としても同性としても気持ちが悪い。許すわけにはいかない。受け入れないというのは良い選択肢だ。こちらも全く受け入れられてはいないのだから受け入れてはいけないし、受け入れることを求めてはいけない。 誰でも受け入れようとすること、誰にでも受け入れられようと求めることは私の最も大きな、はっきりした、一貫した、重大な、致命的な、長く続く、有害な、放置できない欠点である。自分及び回りに重大な損害を与えることを全く顧慮しない向こう見ずな態度。今すぐ止めるべきだ。その覚悟はついた。予防なしに外国で誰とでもセックスするようなものだ。誰も受け入れないこと誰からも受け入れられないことから始めよう。 眠り○も被害者なのかも。私と同じマゾ体質でマインドコントロールされている。あいつらの関係はおかしい。新興宗教の教祖と信者のようだ。これはマインドコントロールを解く必要がある。受け入れられるためには何でもするという態度はおそらく厳格な両親に育てられたことと関係あるだろう。okではなかったのだ。頑張ったときだけいい子みたいな愛情の与えられ方だったのだ。かわいそうなやつ。それを利用するあいつらはどうかと思う。でも依存せずに生きることはもはや彼女には不可能なのだろう。まあ誰でもそうだが。 受け入れられてもいないのに受け入れられていると思うのも不幸な話だ。私はどこへ行っても受け入れられない。
今日キチガイから嫌がらせを受けた。絶対北原に言おう。完全におかしい。はっきり嫌がらせされた。やっぱりキチガイだ。絶対受け入れてはならない。何でキチガイを受け入れなきゃいけないのか。絶対受け入れてはだめだ。その方が楽だろう。あんなキチガイ何で受け入れなきゃいけないのか。大体受け入れなきゃいけないものなんかあるのか。受け入れてはならない。信用してはならない。絶対に。完全におかしい。あのキチガイは完全におかしい。絶対に受け入れない。受け入れる理由がないからだ。キチガイで犯罪者で人非人だからだ。わざと音を立てて嫌がらせしてきた。絶対に許さない。絶対に一緒に仕事をしたくない。絶対に受け入れない。何で受け入れなきゃいけないんだ。絶対に受け入れない。今日で良くわかった。 キチガイ、絶対に許さん。人に危害を加えるって何を考えているんだ。絶対に受け入れない。絶対に許さない。 私はおかしい。私の感じ方、考え方はおかしい。ずいぶん前からおかしい。100%おかしい。でも危害を加えられたらわかる。それは許されないことだ。絶対にあいつを許さない。今日の態度は一体なんだ。何を言っているんだ。あのキチガイは。あの犯罪者は。あの人非人は。 私はおかしい。こんな仕打ちを受けて黙っていることがおかしい。自分はおかしいということにせめて気づこう。おかしいということに気づけばおかしいやつにやられていることに気づくはずだ。危険な状態にあることに気づくはずだ。完全なキチガイは間違っていようと法に触れようとやる。だから我慢してはならない。即座に抵抗しよう。あいつらは生まれながらの犯罪者なのだ。それに気づいて良かった。犯罪者やキチガイや人非人は絶対受け入れてはならない。許してはならない。絶対に。私はおかしいからバカにされているのだ。絶対に許してはならない。受け入れてはならない。 死ね、キチガイ。絶対に許さない。絶対に受け入れてはいけない。絶対に。絶対に受け入れてはならない。キチガイなんだから。犯罪者で人殺しで人非人なんだから。 死ね。キチガイ。絶対許さない。キチガイ三人組。死ね。キチガイ。
今日気の狂った女から罵られた。全然悪いことしていないのに。絶対女は許さない。絶対近づきたくない。絶対話したくない。絶対関わりを持ちたくない。以上。 受け入れてはいけない。何でも受け入れれば良いと言うものではない。何も受け入れない。何も信用しない。それでいいのだ。一体何を信じるのか。あいつら完全におかしい。キチガイで犯罪者で人非人だ。絶対許さない。私は女を絶対一生受け入れない。許さない。受け入れなくて良いものは受け入れてはいけない。キチガイで犯罪者で人非人。 私はおかしいと気づいた。あるときからおかしいというわけではなく、気づいたらおかしかった。虐待などある出来事によっておかしくなったのではなく、どの出来事がきっかけと言うのでもなくいつのまにかおかしくなっていた。ある子供と付き合ったためというがなぜそんなやつと付き合ったかがわからない。なぜ危険を冒してそんなことをしたのか。元々おかしかったと考える方が自然だ。おかしいと言う意味は感じ方、考え方が少しずつおかしい、歪んでいる普通じゃないということだ。現実ばなれしている。もうひとつは自分が考えたことは全て真実だと考える。そんなことはない。勘違いや邪推や被害妄想もある。歪んだ考えをする上に考えたことが全部正しいと考える。これがおかしいということだ。認知療法や、論理療法が役立つだろう。私の今感じること考えることの99%は間違っている。泥酔した人の思考のようだ。しかも間違っているのに正しいと信じる。まず自分の考えることを受け入れるな。何も受け入れるな。何も信じるな。それが覚醒への道だ。自分の感じ方を一切受け入れるな。他人を一切受け入れるな。自分も他人も一切何も信用するな。 自分の感じることは受け入れない。他人も一切受け入れない。私の考えることは100%おかしい。でも考えてしまうことはし方がない。女が嫌いでも仕方がない。私の感じることはおかしいだろう。小さい頃から少しずつおかしかった。中高生の頃は既におかしかったし、大学の時は発病して入院した。原因はもはやわからない。おかしいということだけだ。ただおかしいということを認めたのは初めてだ。そうすると楽になる。どんな激しい怒りや憎しみもおかしいからと思えば収まる。でも女がその怒りを引き起こすことは間違いないので絶対に近寄りたくないし、話したくない。関わりになりたくない。絶対に。絶対に受け入れない。信用しない。何でも受け入れれば良いと言うものではない。どうやって受け入れるかなど考える必要はない。おかしいことは確かだがそういう感情を持つことは消せない。 嫌いと考えること、感じることはおかしいかもしれない。おかしいけれども感じることは本当のことだから避けるのは当然だし、関係が悪化するのは自然なことだ。憎みあってくれ。仕方がないことだ。 受け入れるべきでないものは受け入れてはいけない。女を受け入れることはできない。それならそれでいい。自分を騙すことはできない。嫌いなやつと仲良くしようとすることは不可能で虚しい。絶対に止めたほうが良い。おかしなやつ、キチガイ、犯罪者、人非人を受け入れることはできない。そうする必要はないし、絶対にそうしてはならない。
ほんとにhは気持ちが悪い。世界一薄気味悪い。あんなワニみたいなやつと何で仲良くしなきゃならないんだ。kよりひどいかもしれない。女とはどうしても仲良くできない。今までされたことから考えてどうしても近づく気にはなれない。絶対に一生。あのバカは完全に頭おかしい。キチガイで犯罪者で人非人。世界一気持ち悪い。絶対に嫌だ。殺意さえ覚える。 ところで私はおかしい。ずいぶん前からおかしい。いつからとはいい難い。元々遺伝的におかしいかもしれないし、何が原因かわからない。そんなことはわかりそうにもない。いろんな心理療法がいろんなことをいうがどれも確信が持てない。正解はないかも。あすみと言う人がemdrとかいろいろやって原因を探ろうとしているが逆に苦しんでいるかもしれない。おかしいということさえわかっていれば良いんじゃないのか。直す方法はない。最近egに行ってからますますおかしい。おかしさは別次元に進んだ。また新たな苦しみを抱え込んでしまった。文校に行っていることは関係ないかな。でも今休みだから楽だ。誰でも少しはおかしい。でもhは完全におかしい。おかしくて気持ち悪い。我慢ならない。許すわけにはいかない。完全におかしい。kも完全におかしいがあいつは完全にいっちゃっている。egは薬物で自分を変える行為に等しい。あれは法律で取り締まるべきだ。学問の名の下にあんな野蛮で非科学的な犯罪行為が野放しにされているなんて。私はおかしいと言う自覚が芽生えたことは進歩だ。小学生の頃からおかしい。でも真面目だったからここまでもったとも言えるし、真面目だからひどくなったとも言える。自分の感じ方、考え方がひどく歪んでいる、偏っていることは明らかだ。私自身がおかしいわけではない。しかし周りはそうは思わないだろう。hに対する殺意はあるがそれも病気のせいとも言える。だから安心していられる。殺意は本物だが、幻であるとも言える。 自分がおかしいと思えることはいろんな意味で進歩だ。自分が許せる。おかしいのは前からで私のせいではないし、おかしいと思えばひとから何で攻撃されるのかわかる。もちろん攻撃を正当化しているのではないし、逃げる口実が得られるということだ。私は苦しみすぎておかしくなっている。楽になろう。おかしいのに立派であろうと思わないことだ。仲間はずれされているのに仲良くなろうとしたり、人にストレスを感じているのに人に近づこうとしたり。 自分がおかしいと認めることはすごく楽だ。苛められなくてすむ。自分はおかしいから人に近づかない。従って苛められない。私がおかしくなったのは小六の頃だ。多分。おかしいと思えば楽になる。自分を正当化しようとして苦しまなくて良いし、戦わなくて良いし、考えなくていい。おかしくても自己防衛はできる。おかしいと苛めてもいいと思われるが決してそうではないということだ。楽になろう。考えることなど何もない。楽になろう。 おかしいと認めることは逆に強くなることだ。おかしい人間を苛めることは道義的に許されない。従って思う存分怒ることができる。おかしいと認めることは楽になることだ。我慢しなくていいことだ。おかしいのに女と付き合わなくて良いし、働かなくて良いし、子供を育てなくていい。一人だからおかしくなるわけではなくおかしいから一人でいることが楽なのだ。だから私のやってきたことはいいことなのだ。 おかしいのは性的にもおかしかった。変態性欲に惹かれた。政治的にも極端が好きだった。あれもストレスと脳内物質のなせるわざか。何でも受け入れれば良いのではない。あんなキチガイや犯罪者や人非人のことを受け入れる必要などない。おかしいのはそういうやつをうけいれるからおかしいと言うのだ。変態性欲とかどうして受け入れるのか自分は汚れがないと思うのか。おかしいとは自分を守れなくなっていることがおかしいのだ。あんなキチガイ、犯罪者、人非人。絶対に受け入れてはならない。 自分はおかしいと認めることは楽だ。そしておかしなやつを受け入れないことだ。yとかkとか完全におかしいやつはいくらでもいるのだ。何で他人を正当化するのだ。自分を正当化しろ。自分はおかしいと認めたうえでおかしいやつは受け入れない。これが大事だ。
疲れがたまっている。なぜ疲れるかすごくよくわかった。文校に通ってる成果かな。権力者とうまくいかない。前は権力者のいうことを良くきく良い子だったのにいうことをきかなくなってしまったからだ。権力のいいなりになるのは嫌だ。そうすると権力者から嫌われる。攻撃を受ける。遅刻することは権力への挑戦と受け取られたのだ。t氏も権力的なところがある。文校は学校であって権力が働く。そうするとo女史とかk師というような輩が動き出す。私だってそうだ。権力を欲しているのだ。oやkが大嫌いというのはそういうことだ。権力を疎ましく思うのだ。人間とは非人間的な部分をもつものだ。私はもともと権力に従順なおとなしく真面目な良い子だった。優等生タイプとは権力に従順ということだ。t氏が嫌いなのは作家なのに権力的だからだ。私も法学部行ったりして権力的だ。そこが衝突する。でももう私は疲れた。権力からも疎まれ、会社からも疎まれ、女からも疎まれ、(女はもうひとつの権力装置だ)病み衰えている。kやhは人間ではない。狂人であって犯罪者だ。なぜか。私を攻撃するからだ。何もしていない私を攻撃するからだ。権力大嫌いなのに権力の意を体して動くなんてできない。一人でいるときだけ争いは止み、心安らぐ。一人で楽しく過ごす方法を見つけた。でも権力者は弱い。不安定な立場にいるからだ。すぐ追い落とされる。うつになるべくしてなった。y氏も権力との関係で病んでいるようなものだ。従順な部分と反抗する部分と。yなんか完全に人非人だ。人をしつこく苛める。仲良くなんかなれるわけない。あの兄や姉も理由もなく私を攻撃してきた。理由もなく私を攻撃する奴は人非人とみなす。kとhとyとtは人非人だ。私は女とうまくいかない。理由はわからない。見ているだけでいやになる。向こうも理由もなく攻撃してくる。あんなkなんかと仲良くする方法などない。絶対にない。向こうが攻撃を止める以外にないだろう。反撃しようと思った。恨みが鬱積している。反撃ではなく復讐しようと思った。女は自分が弱者だと思ってひどいことをする。私もやらせてもらおう。ひどいことを。ひどい奴らなんだ。狂人、犯罪者、人非人。そういう奴は確実にいる。仲良くなんかできない。嫌いだからといって私を攻撃してくる奴は全てそうだ。復讐する。人間じゃない。許さない。絶対に許さない。 もうひとつは我慢が大事だ。ババアとか殺したくなっても我慢しなければならない。日本人は我慢強い。言いたいことがあっても我慢している。生きるということは我慢するということであってこれがやむ時は死ぬときまでない。 昨日は家に帰らなければならないと気づいたとき急にいらいらしてきた。それまで楽で楽しい気持ちだったのに。それで飲み会でもその気持ちが態度に出たような気がする。ババアが嫌いとかブスやデブやおしが嫌いという残忍な気持ちになってしまった。でも私はコントロールできる。自分がなぜ機嫌が悪いかわかるし、そうである必要はないし、止める方法もわかっている。それにしても熊野大学に行った時に嫌な気持ちになったことを思い出す。それを何年も続けようとする。無理があるような気がする。でも居場所が欲しいのだ。私はどうしても。 人と一緒にいるとストレスに感じる。悲しいが事実だ。でも少しずつなれて一緒にいられるよう練習している。大変な試練だ。何で理由もなく嫌いというだけで攻撃してくる人間と仲良くできるんだ。できないし、する理由もない。人非人、キチガイ、犯罪者。この三つとは仲良くできないし、する必要もないし、してはいけない。あんなものと仲良くすることは親不孝だ。私はすごく良い人間なのに良い人間の存在が信じられないか、許せないらしく、攻撃してくる。でもyさんの作品は攻撃したくなるのは良い人ばかりで納得いかないからだ。 うつやイライラから解放される方法がほぼわかった。自分を楽しませることはいつでもできる。緊張からリラックスする方法もいくらでもある。私は生き抜かねばならない。攻撃を排除せねばならない。我慢して病気になりたくない。私を攻撃する奴は誰であっても許すわけにはいかない。何で私はこんな迫害されなきゃいけないのかあの途方もないバカどもに。殺すぞ。正真正銘の殺意を覚える。何の理由もなく私を攻撃する奴。何らの落ち度もない私を。絶対に許すわけにはいかない。人非人、狂人、犯罪者。これらのものを許してはいけない。女に近づいてはならない。絶対にうまくいかない。嫌いなんだから。お互いに。それを隠してもどうしても出てくる。今までうまくいったことあったか。母親や姉を含めて。姉は私に殺意さえ抱いていた。そして私も。絶対にうまくいかない。お互い殺意を抱きながら愛し合える関係はSMくらいしかない。だから近づくべきではない。絶対に。緊張から解放されたい。理由のないいじめ。悪意、殺意から解放されたい。キチガイ、犯罪者、人非人から解放されたい。それは可能だ。今すぐ可能だ。人非人は人非人ということだ。そういう態度を取ることだ。それが男らしさではないか。 女とは相容れない。絶対に普通には話せない。普通を装っていてもじきばれてしまう。ババアの中にはそれでも寄ってくるセクハラババアや苛めキチガイババアがいる。俺が女嫌いで何が悪い。誰に迷惑かけたんだ。そんな罪科のない私を調子に乗っていじめるやつは絶対に許さない。 忘れていいから。あんなキチガイ、犯罪者、人非人。人間じゃないから。楽しく生きよう。楽しくなる方法はいっぱい知っていていつでも楽になれる。楽しくなれる。忘れることだ。堂々と忘れていいから。仲良くなんかしなくていいから。 北海道行きも少し息切れしてきた。はしゃぎすぎた。うつなのに頑張ってはいけない。自分が恐い。自分が恐いから一人でいることができない。誰も皆そうだ。自分と向き合っていると誰でもおかしくなる。昨日は大嫌いなババアでもきれたりせずに仲良くお話できた。 楽しいことをやろう。楽しいことだけやろう。小説に打ち込もう。 楽しいことといっても鬼畜みたいに金で享楽を買ったり、蕩尽的な遊びに耽ると言うのでは決してない。ささやかで穏やかで上品な遊び。いくらでもある。自己評価を上げよう。自分は十分価値があると認めよう。あんな鬼畜のような脳足りんと比べて劣っているわけはない。創作に打ちこんでみよう。そうすれば次第に心が開かれ、頭が動き出す。 今外出してきたが十分自分をコントロールできるし、人は十分愛するに値する。少し人を愛することができるようになった。被害妄想になっている。自分が苛められているとか虐待されているとか。自分の被害妄想やいらいらが全く根拠のないものであり、完全にコントロールできるので全く不安を感じない。ババアやブスやおしやデブこそ愛するに値する。憐憫を誘うのだ。大阪に美男美女はいない。すぐれた人間もいない。自分を愛するようになろう。いつでも簡単に自分を愛することができるようになろう。 俺をいじめてきたやつらはまったく人間じゃない。全く顧慮するに値しない。人をひどい目に遭わせておいて人間面するなんて虫酸が走る。絶対に許せない。 確かに私は変になっている。石垣に行った時ものすごく不審な目で見られたり馬鹿にされたりした理由が思い当たる。精神状態がすごく変だ。それがはっきりわかるようになっただけでも大きな進歩だ。犯罪者か精神異常者のような落ち着かない不安な気持ちになる。リスパはそこにすごく効く。ただ頼りすぎると全く不活発になってしまうので、少し減らして自分の意志でコントロールするようにしている。その方が仕事にも役立つ。挙動不審になり目が宙を泳ぐ。最近難しいことは考えないようにしている。わかるはずのないことを考えようとしたり、自分探しとか言うのは自殺行為だと誰か言っていた。もっともだ。自分の考えることが事実に反することやつじつまが合わないことがわかる。それだけでも進歩だ。嫌なことは嫌だと言えるようになってきた。昨日も飲み会で不機嫌になってしまい、恥ずかしいことをした。結局自分に戻ってくるので良いことはない。しっかり自分を持って確かな人生を送ろう。犯罪者にも精神障害者にもなりたくない。精神障害は仕方がないが早くコントロールできるようになろう。犯罪か精神異常か区別がつきにくい。h君の行為は両方に該当している。原因は精神障害かもしれないがやったことは犯罪に見える。これだけは避けたい。やっかいなことだ。自分で自分がコントロールできないなんて。t氏はどうやってセルフコントロールしているのだろう。 今ずいぶんおかしな状態だ。おかしいことがこんなにクリアーにわかるということは良い兆候だ。自分がおかしいことに気づけばあと一歩だ。文校にはいったとき何で苛められたのか今ではわかる。というか今までいかにおかしかったか今ようやく気づきつつあるのだから良いのだ。自分がおかしいことがこれまでになくすごくクリアーにわかる。難しいことを考える必要はない。というより考えてはいけない。おかしいんだから考えたらよけいおかしくなるだろう。創作に夢中になって打ちこんだらきっと良いことがある予感がする。良い作品が書けて誉められたことは大きな自信になった。最近10年以上誉められたことはない。良いことがなかったら誰も誉めてくれない。良いことができたから誉められた。それが嬉しい。 ずいぶん調子が悪い。うつ気味だ。辛い。頑張れない。こういう時はおとなしくゆっくり休もう。無理は禁物だ。自分は今おかしい。おかしい時は無理しない。これが鉄則だ。かなりおかしい。ずいぶん前からおかしい。おかしいという自覚はしめたものだ。これから良くなる可能性大だ。旅に出ても大体犯罪者か異常者に見られる。誰が見ても挙動不審なんだ。昔イタリアに行った時既に変な目で見られていたからそのとき既におかしかったことは間違いない。大学のとき入院した。それ以前からおかしいから多分約30年くらいおかしいと思う。でもおかしいと気づいたのは今だ。このままじゃいけないと気づいたのは今だ。おかしくなるようなことばかりするからおかしくなる。おかしなやつとばかり付き合ったり、おかしなことばかりして。それはおかしなことするやつはおかしなやつだろう。自分はおかしいと認めることは何と楽なことだろう。何と希望に満ちていることだろう。世の中を呪詛することに比べて。人を憎むことに比べて。私はおかしい。ずいぶん前からおかしい。何て楽なんだろう。自分がおかしいと認めることは変われるチャンスだし、豊かなことだ。何か発見できるからだ。どんどん発見できる。今まで自分がおかしいと感じたことはあるだろうか。ただ受動的に苦しんでいただけだ。うつに不安にさいなまれ苦痛に耐えるように耐えていただけだ。でも今は違う。これからは違う。おかしい時でもおかしいとわかっていれば自分の感じたことがおかしいと幻だとわかる。だから暴走しないし、コントロールできる。自分の感じ方はおかしい。被害妄想だ。誰も私を傷つけようとしてはいないのにそう思いこむ。自分はおかしい。これは貴重な発見だ。自分の考え方、感じ方はおかしい。それを人に指摘されるとキレル。それは自分がおかしいと認めていない、気づいていない状態だ。魔境にあるのだ。歪んだ鏡をいくら見つめても何もない。ますます魔境に引き込まれるだけだ。いつも自分の感じ方がおかしいと意識すること。昨日何とか乗りきれたのは自分がおかしいと気づいているから人の言葉が耳に入り、軌道修正が可能だからだ。おかしいと気づいていなかったら人の注意も忠告も耳に入らないだろう。でも私は小学生のときから魔境に魅入られながら必死で勉強だけはしていい大学に入った。それがいっそう自分を苦しめることになろうとは夢にも思わなかった。今からいくらでも変わっていける。 私はおかしい。私の感じ方はおかしい。それは長い間にそうなったので簡単ではない。でも気づいたことは大事なことだ。自分がおかしいと気づかなければ薬も飲まない。暴走する。突然、発作が襲ってくる。うつだったり、不安だったり、怒りだったり、無差別な殺意だったり、狂暴な性欲だったり、反権力だったり、粗暴な暴力衝動だったり。絶対におかしい。私はおかしい。中学生のとき家庭内暴力に走った。私はおかしくないと思っているのに批判されたのが腹が立ったのだ。苛めにあった時も私はおかしくないのにという意識が怒りを引き起こした。それ自体は良かったが、後でおかしくなる元になった。今はおかしいと思う。長い間に私はすっかりおかしくなった。感じ方考え方までおかしくなった。こういう時は何も考えてはいけない。おかしい頭で何を考えてもどんどん泥沼にはまるだけだ。私が中高大学とやってきたことはまさにそれだ。自分がおかしいと認めることがどうしても嫌さに問題をこじらせてしまった。わたしがおかしいと認めることは確かに抵抗があるが、感じ方がおかしくなっていることははっきり認められる。脳内物質のバランスが崩れているかもしれない。だから罪悪感など感じる必要はない。ただ感じ方がおかしい、歪んでいることを素直に認めるだけですっかり楽になる。認めることは楽になることだ。薬を飲む勇気が出てくる。悪いのは自分のせいではない。脳内物質のせいだ。自分がおかしいのにお前らが指摘するなんておかしいというのはだめだ。自分がおかしいと認めることは決して恥ずかしいことではない。いくら頭が良くても知識があってもおかしくなっていたらそれは生かせない。何も偉くない。おかしくなくなって、良い目的に使えるようになって初めて偉いと言えるのだ。それを強引に間違った道を突き進み、絶対に自分は正しいと信じこむからどうしようもない暴走になってしまう。おかしいと認めることが楽になる一番の早道だ。 母親は偉大だった。私がおかしくなった出来事をはっきり覚えていた。でもこうなってしまったものは仕方がないではないか。それを許せるのも自分がおかしいと言う自覚が芽生えたからだ。だから行動や考え方を改めようという気になる。最初はちょっとした綻びだったのだ。でも自分がおかしいと認められなくて改めるチャンスを失っていたのだ。ダイエーと同じだ。気づけよと言う話だ。 私が自分がおかしいと認めることは敗北ではなく勝利だ。ものすごく楽になる。いくら賢ぶっても盗人が頭が良いのと同じで誉められはしない。おかしいと認めることは楽なことだ。自分を救うことだ。治る始まりだ。改善への第一歩だ。今まで自分がおかしいと思ったことはない。自分は天才で自分の考えることは絶対正しいと思いこんでいた。大変苦しい。もう既におかしくなっているのにおかしくないと言い張ることは大変辛い。自分がおかしいのに善悪二元論に逃げ込むのでy氏がおかしいと言ったんじゃないかな。おかしいと認めることは楽になること、救うこと、助かることの第一歩だ。
男嫌いの女もいれば女嫌いの男もいる。私は女嫌いだ。でも不利益は嫌だ。損するのは嫌だし、直接危害を加えられるなんて真っ平だ。どうしても仲良くできない。中学くらいから関係が悪化した。同時に権力者との関係も悪化した。女と権力者は同じものか。嫌いな点が共通している。文校のkさんも男嫌いだ。権力からの逃避かな。でもすごく優しい良い人なのにもったいない。私も同じかな。自分で自分を台無しにしている。 どん底に落ちたときの最高のニヒリズムは明るさだそうだ。すごく良い言葉を聞いた。うつから脱するのは自分だと実感した。自分で気分をコントロールできそうな気がしてきた。考える必要のないことを必死で考えてうつになり、苦しむ。バカな人生は一刻も早く改めて明るく生きていこう。ありもしない悩みを悩むふりをするのはやめよう。私が明るく生きることが死んだ父親を喜ばせるのだ。楽しく明るく生きることに罪悪感を持ってはいけない。 どんなときでも明るく生きていける。死を目前にしても恐れない。死は最高の楽しみだ。よく生きた後の良き死は最高の安らぎであり甘美な経験ではなかろうか。三島はちょっとやり過ぎだけど。 私に攻撃してくる奴は人間ではない。小六のときの教師、中学の時の教師、バカな子と付き合った私も私だが、そんなにいじめることはない。いろんな子がいても良いではないか。自分が正しいと思うのなら戦うべきだ。自分が間違っていないと思うなら戦うべきだ。私は小六のときバカな子と付き合って小説に興味を持って自分の世界に引きこもった。でもそれはそれで仕方がなかった。そうなるべき運命だったのだ。今こうして楽しい文校の仲間に会えたのもその御蔭だから良いのだ。 あんなキチガイどものことなんか気にする必要なんかない。完全に頭がおかしい。犯罪者だ。人間じゃない。私を攻撃する奴はそうだ。正論で武装して実は嫌いだから、目障りだから攻撃しているに他ならない。そんな奴に何の配慮が必要なんだ。無視しろ。反撃しろ。というか忘れることが最高の復讐だ。 世の中我慢が必要だと思った。リスパを飲む前はかっとしてキレそうになることが多かった。でも誰でも人に対していらいらすることがある。それをいちいち表に出していたらたちまち捕まる。それをぐっと我慢しなければならないのだ。リスパダールを飲め。でも多く飲まないでも自分をコントロールできるようになった。自分でリスパダールを飲んでるのと同じ状態を再現できるようになった。我慢は絶対必要だ。誰でも気を使ったり我慢したりしている。若い奴らでも気を使っている。 いつでも楽しむことが可能だ。いつでも楽しむべきだ。辛いことは全て忘れて良い。楽しいことだけ考えていよう。自分を完全にコントロールできるとわかった。楽しいことだけ考えよう。それは可能だ。
札幌で掲示板の人と会うことになった。これも出会いだから大事にしよう。お互い変わり者同士だ。昨日の文校はつまんなかった。またe女史が私に噛みついてきた。やめて欲しい。でも結局私の意見が通ったけど。そのあとババアのo女史が前に座って私は凹んだ。あの坊主がまた私に敵愾心を燃やすし、ほんとにうんざりする。酒飲まずに飲み会なんて自虐的なことはやめた方が良い。ひとつ気がついた。自分の精神状態がすごくわかる。薬の御蔭だ。脳に傷がつくのがわかる。あのキチガイ二人組にはうんざりだ。あんなキチガイはいない。私だって誰もかも嫌いではないしおかしいと言っているわけではない。誰もがおかしいと思う奴がおかしいと言っているだけだ。 ところで私は考えすぎてうつになりやすい。だから意志の力でそれをセーブして楽しむようにできる。楽しんで良いんだと考えればすっと心が楽になる。あのキチガイ二人組は人間じゃない。キチガイで犯罪者で人間じゃない。全く相手にする必要はない。完全に忘れて良いから。
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