ずいずいずっころばし
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2007年06月13日(水) |
負け犬なんてもう言わせない! |
ヴァージニア・ウルフの「自分だけの部屋] A Room Of One's Ownの書評を書いて以来、再度英文を読み直している。
ウルフはその中で日本の紫式部についても言及していて、英国の中でもかなりのインテリ階級のなかで育ったウルフの博学に恐れ入ってしまった。
もっとも同時代に生きた与謝野晶子も鉄幹のあとを追って渡欧し、見聞をひろめているのだから何ら知識の互換は不思議でないのだが・・
晶子も同じように女子への啓蒙をその評論の中でおおいに語っている。 「女であるまえに一人の人間であるべし」と。 「女性の経済的独立と精神の自立」を謳っている。 全くおなじことをウルフは著書「自分だけの部屋」で言っている点が感興。 英国父家長制社会にたいする痛烈な弾劾。 英国のこうした父家長制は女性を劣者として教育の機会も財産の所有も参政権の行使も認めてこなかった。 女性が自分の意見を持つなら真に「経済的独立」があってはじめて精神的自立があると導くのは晶子、ウルフでなくとも自明の理。
こうした先駆者の苦難をバトンタッチし、さらなる飛翔をと呼びかけるウルフや晶子に対して、現代はどうであろうか?
「負け犬の遠吠え」論争がある。 未婚か既婚か、子なしか子ありか、・・などにより勝ち順、負け順があるという論。 全くもって世の中天下太平。と言おうかむしろ世も末!
やっと「自分だけの部屋」を獲得した女性は今自らの首を自らが締め上げようとしているようなもの。 いつになったら「女であるまえに一人の人間であるべし」という晶子の精神が全うできるのであろうか?
「既婚だから、未婚だから、子供があるからないから、そのこが女であるか男であるか」で負け犬、勝ち犬の序列を云々するなどなんとなげかわしい退却ぶりであろうか?
これは精神の退化だ。
「一人の人間」としてどうあるべきかという当たり前の論に基づいてページをさいてほしいものだ。
市井でかわされる会話の中にもにそれと同様なことが幅をきかせている。 つまりこうだ。
・結婚していないものをみつけると「なんで結婚しないの?」ととがめる。
・結婚したら「子供は?」と聞く。
・「子供が一人できると一人っ子はかわいそうね。もう一人産みなさいよ」と言う・
・「女の子を出産すると、男の子が欲しかったでしょ?」と言う。
おしなべて隣りと同じでいると安心する感覚。 異端は排除あるいは奇異なるものとして見る感覚。
いじめもこんな発想から生まれるのでは? みんなとおなじでないと排除しようとする感覚からでは?
社会全体が成熟した物の考え方になるべきなのではないだろうか? 異なるものも含めて他を尊重する考え方をしよう。
隣りがするから我もするということになるとそのうちとんでもない闇がそこに深い穴を掘っていることになるのだから・・・
100年前に掲げた与謝野晶子、ヴァージニア・ウルフの「女である前に、一人の人間であるべし」を再考してみようではないか。
狭量な世界から成熟したものの考え方へと移行しようではないか。 負け犬なんてもう言わせない!
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