ずいずいずっころばし
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ペンシルバニア大学に留学していた次姉は最初、寮に入り、後に友人たちとシェアして一軒家に入った。 私がイギリスでホームステイすると言うと家族全員の反対にあった。 わがままで他人と暮らしたことがない私が外国人の家庭で上手くやっていけるわけがないというのがみんなの意見だった。 でも私はイギリスの普通の家で、普通の暮らしを英国人と共にすごしてみたかった。寝食を共にしてはじめてその国を知ることができ、暮らしの中から学ぶことのほうが意義があるし、それよりなにより、「家庭」がなければ過ごせない私の習性がそうさせたのだった。 「ただいま〜」と帰宅して待つ人がいない家は「家庭」でなく、物理的な「家」でさみしい。 さみしがりやで人恋しい私には「家」でなく、「家庭」がなくてはならない。 夕食の手伝いをしながらママの味を教えて貰ったり、学校をさぼったのがばれて台所でママに叱られている高校生のイアンの後ろで私まで叱られているような気持ちになって小さくかしこまって聞いていたり・・週末に帰ってくる女子大生のクレアはへそピアスをしていて、百合もやれとけしかけられたり・・・ 長女のクローリーとは、長電話のことで大喧嘩したり、・・・ そんなどこの家でもあるような出来事を寮やフラット(アパート)に住んでいては出来ない事柄だった。 でも一度だけ短期間、寮に入ったことがあった。厳しい寮監が午後9時になると点呼にやってくる。 だらしなく部屋が散らかっていないか、危険物がないか、男の子を隠していないか(?)などをチェックする。 ロシアからの留学生は学校一の美貌の持ち主だったけれど、みんなから嫌われていた。 幼い頃から英国の学校に放りこまれていたせいか(?)、手くせが悪かった。国へ帰ることも出来ず、両親は会いに来たこともなかった。お金はたくさんあるようなのに、人の物を盗る。けちでどんなものでも欲しがるのだった。物欲でなく、精神が餓えていたのだろう。 英国に来て最初の頃、友人もなく、ぽつんとしていると、この子が私の机に何かを放り投げた。見るとキャンディーが一つ。 にこっと笑って、目で食べろと合図した。 思わず私も笑ってそれを食べた。 心にしみるような甘さだった。 おそらくこの子が他人に分け与えた初めてのものだったに違いない。 さみしさを誰よりも身にしみて知っているただ一人の女の子だった。 その後も、多くを語り合うほど仲良しにはならなかったけれど、すれちがうとき、お互いに温かなものが流れあうのを感じた。 そんなとき、二人ともほんの少し、”孤独”という文字が心から薄らぐのを感じあうのだった。 物には光と影がある。 人の心にもみえない影がある。 そんな陰影をそっと汲む心があってほしい。 欠点ばかりをほじくり返したり、弱いところを叩く心ばかりが育つことのないように・・と思う。 母を亡くし、父を亡くし、・・・ 私のさみしさにじっと寄り添ってくれる野の花。 その野の花に心を寄せるとき、いつもあの子をおもいだす。
自分の部屋にいると落ち着いて色々な世界が広がり湧いてくるような気がする。 小さな狭い部屋である。おまけに雑然としている。しかもうるさい。ジャズががんがん聞こえたり、クラシックの調べが聞こえたり、髪の毛振り乱してピアノを弾いていたりする私がいる。無線機から外国語がピーピー、ギャーギャ、ノイズと共に聞こえたりもする。 夜中にそっとこの部屋を覗くと、あんどんの油をなめていたり、包丁をといでいたり、鶴が機を織っていたりする・・なーんてことあるわけない。 しかし不思議な素敵な部屋だと私だけが思っている。 設計段階ではこの部屋は小間の茶室になるところだった。天井も凝って、がまで組んだかけこみ天井とするか、編み込み模様のような網代天井にする予定だった。 しかし、最後の段階で私がその計画をひっくりかえした。 一言。「書庫にしよう!」 私の一言は雅な茶室計画をくつがえしてしまった。 三度のご飯より本が好きな私は書庫を持つのが夢だった。そしてついに書庫となり、ピアノルームとなり、無線室となりパソコンルームと化した。いつしか誰ものぞかない、足を踏み込まないサンクチュアリとなった。 無線機の前に座って海外の局とおしゃべりを楽しむ。ヨーロッパの局が束になって呼んでくる。 それが済むと江戸期の祇園南海の「詩画の歌」を読む。曰く、「詩の云う能(あた)わざる所以をもってその体を尽くし、画写すあたわざる所、詩もってその解を得る」 さっぱりわからない。どうやら「三体詩」についてのべているような・・・。 あれ?またまた面白い詩を見つけた。 Coleridgeの“Ancient Mariner”だ。
The horned Moon、with one bright star Within the nether tip. 三日月の下弦のうちに、 星ひとつ照る。
科学者から否定されそうな句である。 しかも奇々怪々な言葉に満ちている。 このAncient Marinerにおいては骸骨船が海を走り、その上に立つ「死」の肋骨を通して夕日が見えるとある。 Coleridgeが描く世界は超自然的で奇抜で大胆なところが好きだ。
They hear, see, speak, And into loud discoveries break As loud as blood.
この詩について誰かと話してみたいなあ…・ などととりとめもなくこのサンクチュアリで独りごちる。 さて、 サンクチュアリとひとからげに言ってしまったけれど、それはいったい何だろうか? 人は日々雑駁に過ごす中、静かに内なる声を温め、熟成させる時と空間が欲しくなるものだ。それは沈思黙考の中から見いだすことも有れば、書物の人となっているときにでも、それらに自らを投影し、その打ち返す波のなかに自己を見いだすこともある。 サンクチュアリとはそんな自らを見つめる空間のことなのだろう。 静かな時のまにまに漂って、なにものにも犯されない時空のたゆたい。 雑然とした小さな私の書庫というサンクチュアリから今日も発信する。 「何か素敵な本はありませんか?」と
お能の稽古に通い出してから何年経つだろうか?
中断してはまた通い、通い、して久しい。
稽古するには遅まきなスタートだったかもしれない。
高校に「謡曲」クラブがあり、そこで謡曲と仕舞いを始めたのがきっかっけだった。
クラブ員はおおむね子供の頃より家族共々稽古に通っていたという連中が多かったような気がする。
私の両親、特に母は幼少の頃から宝生流に師事しており、父は結婚後母の影響で同じ派に所属していた。
私はそんな両親に逆らって観世流。
違いなど分からないまま、ただ逆らってみただけだった。
今は稽古場を3箇所も通っている。
一箇所は集団で稽古するカルチャーセンターのような所。(月に2回だけの稽古)
ここは個人で稽古をつけてもらえないが、兎に角先生が素晴らしくてやめられない。
名人がかならずしも良い指導者とは限らない。
このカルチャーセンターの先生は中堅どころの先生だけれど、教え方がぴか一!
苦労して習得した人だけに、素人の私達がどうして出来ないのかを良く心得ていて、憎いばかりに的を得た指導で私は涙がでそうになるくらい納得してマスターして先に進めるのが嬉しい。また、素人が到底しりようのない伝統の世界の裏話、能舞台での苦労話, 芸談義などが聞けて、面白くて、やめる人は皆無と言って良い。
この稽古が済むと昼御飯をそそくさと済ませ、バスを乗り継いで次ぎの稽古場へ向かう。
そこは、おおだなの呉服屋の2階。
百畳敷きの広い所で一人づつ稽古をつけてもらう。先生はこの道では画期的な女性能楽師。
中年になろうとしている凛とした人だが、名人の誉れ高い人。
能に生涯を捧げて独身。
1階にいると階上の師の謡いの声がガラス窓をびりびりと鳴らせて今にも割れそうなすごさだ。
稽古はとにかく厳しい。
なぜか私の仕舞いの稽古には厳しさが並のものではなく、音をあげそうになったり、泣きべそかきそうになる。
しかし、稽古を待つ間、弟子の一人であるおばさまがお抹茶を点ててくださり、おいしい御菓子が頂けて嬉しい。
食い意地の張っている私は実はなにを隠そう、このひとときが大好き。
お弟子さんはご高齢の方が多く、謡曲歴数十年という人ばかり。私は超若手で皆に可愛いがられていて幸せ。
しかもこの待ち時間に貴重なお話を弟子の長老方から聞けるのでゆめゆめ耳をおろそかには出来ないのである。
古老方は教えたがり!
待ち時間に能の鑑賞の仕方、名人の芸についてぼそぼそ語ってくださる。
私は御菓子に半分気を取られながら半分の注意を半分の耳で聞く。
その話しの中でも白眉なものは「橋懸り」について。
能舞台で能役者が出てくる橋のような場所を「橋懸り」と呼ぶ。
私は能鑑賞するとき、「あ!いよいよ登場だわ!」などときゃぴきゃぴしているだけだが、この長老は名人はその橋懸りを1歩出た瞬間に分かるとおっしゃる。
その1歩に若い女か翁か、もののふか、年齢や心情すべてが込められているからそこを見なければならないとのたまう。
そうかぁ・・・知らなかった・・・
っと私はそこで始めて能の深さを学ぶのであった。
また、たかだか素人の稽古とあなどっていてはいけないという場面に遭遇したことがある。
それはこの長老が先生に「影清」という重習いを習っていた時に起きた。
私はまたまた恥ずかしながらおいしい御菓子を口に頬張ってにんまりしていた時、突如、高弟の一人のおば様が忍ぶようにすすり泣きをしたのであった。
稽古と言ってもさすがに長老はすでに枯淡の息に達しており、稽古と言っても全霊をこめて「影清」を演じていたのである。
年齢もこの平家の流人、悪名高い「悪七兵衛影清(あくしちびょうえかげきよ)」の年齢と同じ。
さて演目をかいつまんで説明すると、盲目になったかつての勇将、影清が九州日向の地にて、見る影もなく老いさらばえてあばらやに住んでいる。そこへ鎌倉に住む娘が訪ねてくる場面。
要約すると、過去を封印して生きている昔の武将「影清」が思いがけなくも現われた娘を前にしての心の動揺を描いたもの。
封印していた過去(屋島の合戦で敵将三保の谷との力戦の顛末)を娘に心をこめてじかに語り明かすことで強い「父」を与え,自らは独り盲目のまま辺地に留まることを選ぶ。
この甘えのない非情とも言えるかたくなさ、自己抑制の見事さがみどころ。
語ることによって、勇ましい合戦での強い武将の父の像を娘の胸に焼きつかせる。
しかし、現実は盲目の老いさらばえた乞食となっている悲惨。
この対比のすごさが演じての技とも言えるかもしれない。
強い父を娘の胸に焼きつかせることで草庵独居の盲目の淋しさを決してみせようとしない「父」のかたくなな誇り。
たけだけしい過去、現在の零落した盲目の孤独、娘への父としての心情。
これらを演じるのは枯淡の境地に達した名人でなければ、出せないものである。
話しを前にもどすとしよう、
この有名な「影清」を稽古する弟子の長老の謡いは、今まさにお茶を淹れ様としていた瞬間の高弟のおば様の胸に感動を呼び起こしたのである・
老いた影清の心情を想い
そして哀感のこもった謡いの素晴らしさに
おばさまは忍ぶようにすすり泣いた。
あたりにいた弟子達も落涙。
素人が稽古で喚起した感動。
芸の素晴らしさがそこにあった。
素人、玄人の垣ねなど超えた感動。
私は体が震えて声がでなくなった。
忘れ得ぬ稽古だった。
子供の頃から客人がお見えになるとお茶だしをするのは私の役割だった。
年の離れた姉たちに半ば強制され、嫌な役割を押しつけられたからだった。
母が客間で接客している間、洋菓子を出すか、和菓子を出すか考える。
お客様のランク付けも自分で考える。
ちょっと寄っただけの客か、父の重要な客か、知己かなど。
それによって紅茶、コーヒー、ジュース、煎茶、玉露か等を決める。
和菓子となると虎屋の羊羹などを漆の菓子皿にくろもじを添えて厚めに切ってだす。
虎屋の黒餡の羊羹が大好きな私は残り少なくなると後で自分にまわってこないといけないので、客にはださず、私の嫌いな抹茶羊羹を出す。
ケーキも私の好みのケーキは客にださず、バームクーヘンをこれでもかとばかりに厚く切って客に出す。
でも大好きなケーキしかなく、しかもそれがわずかしかないときなどは、泣く泣くそのケーキを客にだす。いつもはお出ししたらすぐに引っ込む私だけれど、そんな時はそばに立って客が食べてしまうのを恨めしそうな目で眺めているので客もそんな視線に気が付くのか食べずに帰っていく。
さもしい根性の私は後で母にこっぴどく叱られる。
「もう二度とお茶出しなんかしないもん!」と言ってスカートの端を噛みながら泣きべそをかく。
客人はジャーナリスト関係の人が多く、お茶を出す私をつかまえちゃあ、ああでもない、こうでもない、誰それに似ている、似ていないと品定めをしていく。
ある日、玄関に客が来て応接間にいつもの通りお通しした。
「あの〜。お名前をうけたまわりたいのですが?」と母にいつも教えられている通りに言うとその人は「お嬢ちゃん、僕の名前は「すーさん」ですと言えば分かるよ」とおっしゃる。
きまじめな私は母に後で叱られないようにしっつこく食い下がって「あのー。どちらのすーさんですか?」と大人びて言ってみた。
するといたずら好きのこの人はこういった。
「助平のす〜さんだよ、お嬢ちゃん」
私は忘れないように「すけべえのすーさん、すけべえのすーさん」とお経のように暗記しながら、奥へ入って母の顔を見たらほっとして、家中に聞こえるような大声で「すけべえ〜のすーさん」がいらっしゃいました〜〜〜ぁ。と言った。
その後母はしばらく客間に行かなかった。
行かなかったのでなく、行けなかったのだった。
どんな顔をして出ていって良いやら分からなかったのだろう。
子供にお茶だしをさせるからこんなことになるのよ。
以後、私はお茶だし係りから放免された。
番茶もでばなの年頃になっても、私の出番はまわってこなかった。
(*^_^*)
つまり古い言葉で言えば「お茶をひく」ことになったのである。
そうか、それでこの年になってこんなところで「ちゃ、ちゃ」をいれてるのね。(^_-)(^-^)(~o~)
人間の心の闇ほどわからぬものはない。
病的に底意地の悪い人がいる。
病的と言ったけれど、厳密に言うなら病気なのかもしれない。
昨日の日記にも書いたけれど、美の感じ方は人それぞれ。
絵画でも、音楽でも、文学でもしかり。
前々回の(?)芥川賞受賞作品では、あまりの暴力シーンに嘔吐しかけた。
本を読んでいて嘔吐しそうになったのは生まれて初めてのことだった。ついには完読できず、放擲した。
絶賛する人もいれば、完読すらできない私のようなものもいる。
以前書評に書いた野見山暁治氏の絵画展に行ったときも、私はその絵に心を揺さぶられたけれど、一緒に見に行ったものは抽象過ぎて分からないと言って出ていってしまった。
つまり世の中には二分の一ばかりでなく三分の一のようにどこまで行っても割り切れない数の存在はある。
精神分析医が数十枚の分析カルテ分を母は一瞬のうちに読みとってしまう。「ただいまー」と言って玄関を入ってきた瞬間、夫や子供の心を読んでしまう魔術。
それはコンピューターにも分析できない愛情というもののなせるわざなのだろう。
しかし、この「心」。
全ての人が読みとれたらどんなに恐ろしいことか。透視できないからなりたつ人と人。
それは「信頼」というものの存在が心を読もうとしなくても人と人を結びつけるもの。
しかし、人間ほど複雑怪奇なものはない。
知っていると思っても知らない「心の闇」がある。
あの東電OL事件のように、一流大学を出、一流企業に勤める堅実な家庭の子女が夜の巷に立って春をひさぐ怪。お金に困るわけでもなく、男性にもてないわけでもない。
まさに「心の闇」。
さて、話が拡大して収拾がつかなくなってきた。
先を急ごう。
話とは実はこんなことなのだ。
花を一輪活けた。
野にあるように、一輪挿しに侘びた花を活けるのが好きな私。
いけおえて花を愛でていたら、ついっとそばを通る者がいた。
通りしなに、「トイレの花!」と捨てぜりふ。
しばらくして、私の一輪を「ぐいっ」と抜きさると、いつのまにか持ってきた花器に「花はこのように活けるものよ」と豪華な花を活けはじめた。
いけおわって会心の笑みをもらしながら「ね。素敵でしょ!」と言った。
それが豪華で素敵であっても、花の腕前が私よりはるかに勝るものであっても、その「心」が私には恐ろしかった。
なぜここまで人の心を踏みにじらなければならないのか?
この人の「心の闇」に触れた思いがして寒気がした。
分析すれば思い当たることもあるだろうけれど、この「心」をどうすることもできない。
闇は闇を底なし沼にずぶずぶと深くするばかりだ。
この場合、一輪挿しの美と豪華な花の美の差などではない。前述したような美的感覚の差うんぬんなどでは決してない。
人間は生きて行く過程で様々なものをなくし、様々なものを得る。
喧嘩をし、悪行もするだろう、嘘もつき、罵詈雑言を吐くこともある。
人を傷つけ、自らも傷ついて生きていく。
人の行為をあしざまにののしろうとすると、母は必ずこういった。
「人の振りみて我が振りなおせ」と。
心に鬼を住まわせないことだ。
他人の行為に自分の中にもあるものを見ることがある。
しかし、私の花を捨てて豪華な花を活け直した人の心を理解することは難しい。
怒りを通り越して、苦々しくやりきれない寂しさに返す言葉もなかった。
凍り付くような心の荒涼がその笑顔に貼り付いていた。
人間が大好きな私でも、時々この「心の闇」の暗渠(あんきょ)に足を取られて立ちすくむ。
小説家はこんな不可解な部分に光をあてるのだろう。しかし、人の世は「小説よりも奇なり」の部分が多い。
カラヴァジョの絵のように光源がひときわ明るいところは影もまた深いのである。
供の頃、父親があらゆる新聞、雑誌、書籍に目を通す仕事をしていた関係で家の納戸には処分すべくこれらの書籍がうずたかく積まれていた。
何ヶ月かごとに古本屋がトラックでこれらを集積していく。
一応儀礼的に書籍は古本屋のおやじが値踏みして吟味する。
子供向けの雑誌もそのなかに含まれていた。
誰よりもはやくこうした子供雑誌を読める幸せに浴した私であるけれども、同時にその至福のタネであった雑誌をこのおやじが無慈悲にも持っていってしまう憂き目にもあうのであった。
子供雑誌についている付録をこっそり隠しておくと、このおやじはするどく見抜いて、「お嬢ちゃん、確かこの本には付録がついていますよね」と言って、じろりと睨む。
母が「はやく付録を出しなさい」と迫る。
無慈悲にトラックに積まれた私の愛読書を「シェーン!カムバック!」とばかりに毎度毎度、涙声が追うのであった。(シェーンは古いっつうの!)
またあるときは、おかっぱ頭の私と父が並んでヌード雑誌を見ることもあった。
父親がこの種の本が好きであったわけではない。ありとあらゆる本に目を通さなければならなかったからだ。(っと信ずる私)
また少しもいやらしさのない裸ではあった。
幼い私は「お父さん、こっちの裸より、こっちのほうが綺麗よ」と言うと、父が「そうだなあ」などと言い合って似たような後ろ姿の親子がそこにはあった。
全く奇妙な光景だ。
そうかと思うと書きかけのシナリオをそのままに席を離れた父を目の端に置いて、そっとそれを盗み見したことがあった。それからほどなくしたある日、学校から映画を見に行ったことがあった。
気が付くとそれはあの盗み見した父のシナリオの映画だった。友人に「この話お父さんが作ったのよ」と言うと友達に信じて貰えなかったばかりか仲間はずれにされてしまった。
父はシナリオライターでもなんでもないのに不思議なことであった。
おてんばで体育会系の次姉は本嫌い。
おとなしく読書好きの妹がなぜか小憎らしく思うらしい姉は誕生日プレゼントに貰った本をどこかに隠してしまった。
悔し泣きをして降参するのをひそかに楽しみにしていた姉。
こんな意地悪にまけてはならじとじっとこらえてそしらぬふりをした私。
それから何年も経った大晦日の昼下がり、額のほこりを払おうとして絵をはずすとばたりと本が落ちた。
あの時の誕生日プレゼント「小公子」だった。
大学生になった姉にボーイフレンドが出来た。
文学好きのハンサムボーイ。
デートの話題は本のことばかりだったとか。
読書が何より嫌いな姉は困って私になきついた。数冊の本の名前を列挙してそのほんの内容と感想を聞かせてくれと言う。実は次回のデートのときにその本の話をしようねと言って別れたとか。
おやすいご用!熱を入れて解説し、感想をつけて、おまけにそれらに付随するエッセイまで紹介した。
デートは予想外に好転。「君がこんなに文学にあかるいとは思っても見なかったよ」と感激した彼はわが家に次回やってくるというところまで進展。
その後の姉と彼氏はどうなったかは聞かぬが花。言わぬが花。
本についてのエピソードは尽きないわが家。
めでたくもあり、めでたくもなし。
2005年05月22日(日) |
“昔を今になすよしもがな” |
「ふたりしずか」の花の風情が時々まぶたに浮かぶ。
そして、能「二人静」の謡いを思い出す。
「しづやしづ 賎(しづ)の苧環(おだまき)くりかへし 昔を今になすよしもがな・・・」
と静御前が別れて暮らす義経を恋 慕いながらも敵の目の前で舞いを舞いながら歌う。
“昔を今になすよしもがな”
あの日に帰れるすべがあるのなら・・・
私は何をするだろうか・・・
野の花に心を寄せ、露がたまを結んだ草のしとねに横たわりながら、心静かに月の光を浴びる時、過ぎ越し方と、恋しい人を想う。
誰かがこんな事を言った。
「月や星、花がやたらにきれいに見える時って、何かすごく悲しいことがあるときだって」
そうかもしれないと思った。
人は恋をするとき、あるいは悲しみにくれるとき、月を仰ぎ、花にものを想う。
それは恋しさゆえだったり、悲しみだったりが、人に月を仰がせ、花に心を寄せ、自らを投影させるのだろう。
ひなびた当地に来てからどれだけ月を仰いだことか
名もなき花にどれだけ心を寄せたことだろう
書庫から亡き父の「能百番集」を出してきた。
稽古で使い込まれたため、表紙はぼろぼろ、紙は茶色に変色している。
稽古したものには鉛筆で印がつけられていた。
「二人静」をあけてみた。
「ページ」の変わりに「丁」とある。
367丁(367ページ)、
「二人静」世阿弥元清作
最後のくだりの地謡:
「物ごとに憂き世のならひなればと、思ふばかりぞ山桜、雪に吹きなす花の松風・・」
(何かにつけて憂いことの多いのはこの世の習い、だからしかたのないことと思うばかりなのだ、ちょうど山の桜が松風によって花の雪と吹き散らされるように・・)とある。
私も憂き世に咲くあだ花か?
いずれ風に飛ばされ散ってしまうのだろうか?
心静かに花を愛で、泡立つような熱情の焔(ほむら)がほこを治める今、
ざわざわと浮き立つ、あの獣の匂いのする青き春が懐かしい。
夏だというのに小寒い夜更け。
夜の帳(とばり)は感傷にひたるには恰好の緞帳。
朝がくればこの感傷の緞帳は輝ける朝日にかき消されてしまうことだろう。
「日はまた昇る」のだもの・・・
父と私はほとんどまともに一対一の会話をかわしたことがない。 それは、父が海外赴任で不在期間が長かったり、企業戦士としていつも疲れていたからだった。 だから、よその家の子のように父親にまとわりついて甘えたこともない。
幼稚園の時から絵画教室に通っていた。男の先生だった。まあるい黒い瞳が澄んで、ひとなっつっこい目が笑っていた。一目で先生が好きになった。先生が絵を直してくださっている間に背中におぶさったり、首にかじりついてもにこにこして叱ることがなかった。
私は男の人の大きな背中の温かさをはじめて知った。それから8年間、絵画教室にはほとんど休まず通った。相も変わらず先生が絵を直してくださっている間中、首にかじりついたり、おぶさったまま先生の注意を聞いていたのだった。
ある日先生は「ゆりちゃん、自分だけの色をみつけなさい」と言った。
「誰にもマネできない自分だけの色を見つけるんだよ」と言って、画用紙にパステルで様々な色を重ねるよう言った。重ねた色の上からクギで絵を描くのだ。エッチングの練習だった。
日々色を重ねる内に不思議な色調が表れた。先生は非常に喜んで「いい色だ!ゆりちゃんの色だ!」といった。柔らかな青みがかったグレーとでもいおうか…
それからそれを背景色に使ったり、様々な試みをするようになった。
自分の色をみつけてから先生にかじりつくのをいつのまにかやめた。
絵画教室をやめる日、先生は「ゆりちゃん、誰にもマネできない自分だけの色を見つけるんだよ」とまたおっしゃって目をしばたかせた。
私はそのころには随分大きくなっていたけれど、また先生の背中におんぶしたくなった。
絵の具がこびりついてぼろぼろのセーターから出ているずんぐりした首にかじりつきたくなった。
それなのに「うん」といって鼻水をすすることしかできなかった私。
先生は幼少時の私が甘えることができた、たったひとりの男の人だった。
「誰にもマネできない自分だけの色を見つける」は私の人生の指標となった。
わが家の庭には想い出深い木が一本ある。
木瓜の木だ。
花は白地にほのかな淡い赤がにじむように咲いて美しい。
入院している母に庭の木瓜の花を一枝とって持っていった。
花瓶にいけるとそこだけがあっというまにわが家の庭と化した。
「家に帰ったような気がするわ」と母は喜んだ。
髪をきちんと整えてほほえんでいた母は、病室にはふつりあいな程美しかった。
「爪を切ってちょうだい」と母が言った。
爪切りはどこを捜してもなかった。
買いに行けば良かったのにそうしなかった。
「今度ね」と私は愚かにも答えた。
その「今度ね」はもう二度とこなかったのに・・・
木瓜の花を見るたびにいつもにじんで見えなくなる
デパートの古書展へ行ったら父親が書いた本が古本として売られていてびっくり!
もっとも父個人の名前でなく、勤務先の出版物として編纂された全集だった。
日本全国を回って神社仏閣、秘仏などを見て歩き、日本を海外に紹介する為の書だった。
なんだか嬉しいようなさみしいような気持ち。
安かった!
月日をかけて書いたものに値段をつけて出されること。そんなことにこんなに不本意な感じを覚えるのははじめてだった。
おまけにすでに古書となっていたことも。
当たり前と言えばあたりまえなのに・・
はたして誰の手に渡るのだろうか?
誰かが買って大事に読んでくれたらあの年月は生きてくるというもの。
書物は読まれるためにあるのだと今更ながら感じるのだった。
専門書のようなものなので何かの資料として読まれるのであろう。
日々手にとって愛読する類のものではないのできっとほこりをかぶって本棚の片隅におかれる運命の本なのだろう。
そう。わが家にある同じ本のように。
ああやって日焼けしたように変色した父の本を目の当たりにすると、書いた者の渾身を思う。
本はやはり愛して読むとその書物に命が吹き込まれる。
書評をお気楽にしたためる今日この頃の自分を顧みると、愛してやまない本というものがあっただろうかと疑問に思う。
父の書斎の本棚から本を選ぶとき、なぜか父の心を読むような気持ちになったものだ。
一冊一冊を父がどういう気持ちでその本を選んで、どう読んだのだろうかと探った。
古びた本がここに一冊ある。
「経済学の基礎理論」
本の裏に父が自分で彫って作った落款がおしてあった。
絵心のあった父は自分独自の落款を彫って作ったのだった。
何と愛しい本なのだろう。
こうして自分が愛して読んだ本に落款をおして自分の書の証としたのだろう。
とぼしい小遣いの中からひねりだしたお金で買った本はひとしおのものがあって愛読してやまなかったにちがいない。
父の時代の人間は本をこのように愛して読んだのだ。
本を読む姿勢にあらためて衿をただしたくなった。
私の書庫の守り神はこの古びた父の書だ。
人間の体は滅びても、魂は様々な形となってそこここにあるのだ。
それを見つけるのは故人への哀惜の情がさせるのだろう。
古書にもの想う時をすごした。
2005年05月16日(月) |
「センセイの鞄」とジョージ・ギッシング |
小学、中学、高校、大学と使用したそれぞれの教科書を後生大事に本だなに納めている人は一体どれぐらいいるだろうか?
私はといえば、小学校の教科書以外は全て保持している。
時折、それらの教科書を取り出して読むと、中に書き込んだ落書きに往時のクラスメイトや退屈で十年一日の如き授業をしていた女教師の顔などが浮かんでくる。
思い出す教師達の中でも、高校の英語の教師は異端であった。
服装には頓着せず、着たきり雀。
びん底眼鏡をかけ、発音が悪く、風采があがらない中年のおっさんそのもであった。(先生は東京外語大出身。)
隣のクラスの英語教師は学校で一番人気のあった独身、ハンサム、ソフィア出身。
風采のあがらない英語教師にあたったのは身の不運とばかりに我がクラスメイト達は大いに嘆いたのである。
しかし、最近になってなぜか私はこの風采のあがらない中年のおじさん先生のことが思い出されてしかたがない。
まるで番外、川上弘美の「センセイの鞄」の如し。
なぜこの風采のあがらない不人気であった教師を思い出すのかよくよく考えてみると、それはあのジョージ・ギッシングにあった。
授業はほんとんど聞いていなかった私であったが、この教師、ジョージ・ギッシングの話しをしだすと止まらない。
しかもギッシングの話しになると俄然豹変!
ビン底眼鏡の奥にある眼がキラキラ輝いて、ギッシングの洗練された文章がよどみなく流れ、
ギッシングが乗り移ったかのようであった。
そして私達女生徒はいつのまにかこの教師に、いや、ギッシングに、いやそのどちらでもなく、一人の人間が光彩を放って輝き出す瞬間の魅力に惹き込まれて行ったのである。
さて、大都会から辺境なこの田舎に移り住んだ今、ひなびた田園の風景が寂しい私の心を慰めてくれるにつけ、思い出すのがジョージ・ギッシングとあの英語教師。
日記風に田園を叙し、世態を批判しつつも、洗練されたジョージ・ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」の文が五感をふるわせる。
如月に入ったばかりの今日。
春を待ち焦がれる境地しきり。
「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中の「Spring]の一節を読みなおしてみる;
Above all on days such as this when the blue eyes of Spring laughed from between rosy clouds when the sunlight shimmered upon my table and made me long long all but to madness for the scent of the flowering earth for the green of hillside larches for the singing of the skylark above the downs.
さながらイギリス版「徒然草」の趣がある。
春夏秋冬と続く随想のテキストを楽しみながら再読したいと思う。
川上弘美の「先生の鞄」ならずも、あの英語教師が提げていた「先生の鞄」にはきっとジョージ・ギッシングの愛読書が入っていたのだろう。
そうそう、そう言えば、あの英語教師の妻は20も年の離れた美しい人だった。
かくも美しい若妻を娶った先生にはきっと私など知りようのない隠れた魅力があったに違いない。
先生はHenry Ryecroft?
はたまたジョージ・ギッシングの生まれ変わりだったのかも・・・・。
さても謎めく先生なり。
2005年05月15日(日) |
「喫茶去(きっさこ)」 |
竹で編んだ朽ちかけた小さな扉を開けるとしっとりと露を含んだ飛び石が私を導いてくれた。
庭と呼ぶにはあまりにも狭いたたずまいだが、つくばいがあり風情があるひなびた趣を呈していた。
昔風な引き戸を開け声をかけてみた。
「ごめんください・・・」
目に飛び込んできた最初のものは真っ白な足袋。
白髪を品良く結い上げた着物姿の老婦人がでてきた。
それが私のお煎茶の師とのはじめての出会いであった。
人づてに聞いて訪ねたお茶の師匠の家。
それはあばら家と呼んでもよいくらい質素な家だった。
引っ越してまもない私は茶道の稽古を再開したいとおもい、茶道の師を探していたとき、ここを紹介されて訪ねたのだった。
老婦人は私の訪問の意を解すと、居ずまいを正してご挨拶下さった。
「あいにくではございますが、当方は茶道は茶道でも煎茶道をご教授しております」とおっしゃった。表千家の茶道を希望していたのにとんだ勘違いのお煎茶の師を訪問してしまったようだった。
しかし、この老婦人はこれも何かのご縁、「喫茶去(きっさこ)」と言う禅の言葉がございます。どうぞおあがりになってお茶でもお召し上がりくださいまうよう・・っと勧めてくださった。
「あばら家に鶴一羽」という風情のこの老婦人の凛とした、しかもただものではない立ち居振舞いに私は興味を惹かれ、言われるがままに上がった。
6帖間に煎茶の道具が置かれてあった。
見たこともない煎茶器の飾りつけだ。
涼炉と呼ばれる白泥でできた炉が置かれ、同じく白泥でできた湯燗、羽箒がセットされている。
老婦人が戸口で扇子を膝前においてご挨拶の口上を述べられ、お煎茶のお点前が始まった。
見るもの全てはじめてのことばかりで驚きながらも非常に興味ある光景だった。
出されたお茶は今まで飲んだこともないくらい甘露なものだった。
お茶がこんなにも甘く香り豊なものだったのだろうか?とおもわず目をつむって味わったほどだ。
茶たくは純錫で出来た蓮の葉型のもの。
お茶碗は何と古染付「大明制喜年製」(?)とあった。
明の時代のもの!!!!
急須は紫泥の美しい色の逸品だった。
何もかもが静かで凛として美しかった。
そしてこの老婦人の言葉のたおやかなこと!
美しい言葉。
家具らしきものとてない本当に草庵と呼ぶようなこの家にたった一人で煎茶三昧に暮れるこの鶴のように美しい老婦人はいったいどんな過去を持つ人なのだろうか。
私はもうすっかりこの老婦人のとりことなってしまい、以来煎茶道に励むに至った。
夏目漱石の草枕の中に、玉露の味について書いてある一節がある。
「濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一滴づつ落として味わってみるのは、閑人適意の韻事(暇な人間が気ままにやる風流)である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。舌頭へぽとりとのせて、清いものが四方へ散れば喉へ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たるにおいが食道から胃の中へ染み渡るのみである。歯を用いるのは卑しい.水はあまりに軽い。玉露に至ってはこまやかなること、淡水の境を脱して、あごを疲らすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。眠れぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい」
とある。玉露の味わい方にしてけだし名言なり。
こうして私は茶道と煎茶道の二股の道を日夜歩み漱石の言う「閑人適意の韻事」にうつつをぬかし、恋をし、音楽をし、時には苦渋の悩みを背負い歩んでいる。
ひょいと迷い込むように訪ねた庵で禅の言葉「喫茶去」をこともなげに投げ掛けられた縁。
縁は異なもの味なもの。
それはあたかも「玉露」のような味。
※「喫茶去(きっさこ)」
中国の禅僧の鞘州という人が残した有名な禅の言葉。「お茶でも召しあがれ(喫茶去(きっさこ)」と主人はお客のためにお茶を用意してすすめます。お客もすなおに喫茶去とそのお茶を頂きます。喫茶去と客と主人が一つ心となったところに本当のお茶の味が生まれる。
父は不思議な人だった。
幼い私に李白の詩を読んで聞かせてひとりで頷くのだった。
私はどう聞いてもお経にしか聞こえない李白をBGMによそごとを考える。
ちょうど今頃の季節になると、独り静かに独酌しながら、これまた幼い私に「山中対酌」をつぶやいてみせる。
曰く:
「山中対酌」
両人対酌山花開 (両人対酌して山花ひらく)
一杯一杯復一杯 (一杯一杯 また一杯)
我酔欲眠卿且去 (我酔うて眠らんと欲す 君しばらくかえれ)
明朝有意抱琴来( 明朝 意あらば琴を抱いて来たれ)
つまり
山中誰にも邪魔されることなく 二人差し向かいで
いっぱいやっている。折から季節の花が咲き乱れ
ここは楽園のようだ。一杯一杯と杯を重ねる。
ああなんと気持ちのいいことか。いよいよ眠くなってきた。
君はしばし帰っていてくれ、私はこの眠りを楽しむ
こととしよう。そうだ、気が向いたら明日の朝、琴を
持ってもう一度きてくれ。今度は君の琴を聞きながら
いっぱいやろうじゃないか。
と、おかっぱ頭の女の子をつかまえて呪文のようなもの。
女ばかり三人の娘。きっと息子と酒を酌み交わすのが夢だったに違いない
気の毒なお父さん!こんなに美しく愛らしい娘でごめんなさい!(?)
しかし、三つ子の魂百までとはあな恐ろしや!こうして時々、花を酒のお供に庭を
眺めているとふと「一杯一杯また一杯、我酔うて眠らんと欲す・・」と言う句が私の口を
つく。
小学校の時、国語の時間に、知っている歌を一つ挙げてみろと言われ
「は〜い、先生!しらたまの歯に染みとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
と言ってしまった私って酒精?
違いますとも!勿論「妖精」です!
さて、この辺でお酒の話しにふさわしい歌を挙げて締めくくりとしよう。
対酒(白楽天)
蝸牛角上争何事 (かぎゅうかくじょう何事か争う)
石火光中寄子此身 (せっかこうちゅう此の身を寄す)
随富随貧且歓楽( 富みに随い貧に随いしばらく歓楽す)
不開口笑是痴人( 口を開いて笑わざるは これちじん)
つまり
物事を大きな目で見ると、全く意味がないほど小さな事で
いったい何を争っているのか。まるでカタツムリの角の
上のことではないか。実に愚かだ。
人生は石火の如く過ぎ去り、そこに身を寄せるはかなさ。
お金持ちはお金持ち、貧乏は貧乏、分に応じて
とりあえずは酒を飲もう。
口を開いては悩み、悲しんだりするなんてバカげたこと。
大いに笑おうではないか!
まことに言い得て妙。父に献盃!
2005年05月13日(金) |
Habit is a second nature |
日本人が英語を学ぶとき、一番難しいのが前置詞と冠詞(不定冠詞)。
イギリスにいたとき、宿題の提出では必ずこの二つに朱を入れて直された。
なにしろ膨大な量の本や資料をよむだけでも一苦労なのに、それらをまとめて文にするとなるとお手上げ。
朝までかかってもまだまにあわず、朝食のパンをくわえながらまだ宿題を書いてる有様。それでもダメでついにママにチェックしてもらったことがあった。
ママも出勤前のお化粧中でファンデーションを半分塗りかけのところを捕まえて「ここをチェックして!」と頼んでやっとぎりぎりでまにあって提出。
ママは顔半分のファンデーションのまま出勤。
ところがである。返されたものは直された箇所ばっかり!
ネイティブが書いた英文でも訂正されるのだから、もう次からは自学自習に腹をきめることにした。
直され直され、学んでいくもの。
詩の授業のときはシェリーやキーツの詩をプリントされたものが配られる。「さ、各自読みなさい」と言われ、ぼんやり読んでいると「はい、回収」と先生が言うではないか!
「えぇぇぇぇぇぇ・・・私、まだ読み終わっていませ〜〜ん」という悲痛な声はかき消され、無慈悲にもかいしゅうされてしまった。
それからさらに悲惨な場面が展開!
次ぎに配られた詩の中の1行だけが書かれた紙切れがランダムにくばられる。
持ち時間の間にその詩のフレーズを使って自分で創作した詩を作れという。
みんなは各自さらさらとノートに創作詩を書いていく。
私は呆然!時間だけは刻々と過ぎていくので火事場の馬鹿力!
もうでたらめに思いつく端から英文を繰り出していくことにした。
もこうなったらシュール!
さらに悪い場面が。
「ではみなさんの詩を前にでて発表して下さい」というではないか。
私は服の襟首の中に頭ごと亀のようにひっこめたくなった。
どうか、あたりませんように・・・と祈っていると「はい!百合。読んで」
「あの〜〜。百合は腹痛の為、欠席です!」と自分で答えると爆笑の渦。
他の生徒は頭韻、脚韻を踏んでみごとな出来映え。
私は・・・・・・・・
あの短時間に優れた英詩を作ることが出来たら私は天才です!
今頃カズオイシグロに続く、英国の直木賞、ブッカー賞を受賞してますって!
英国国民の為に才能は襟首の中にひっこめて隠す事にしました。
え?もうそろそろ才能をだしてもいいのではないかって?
才能を襟首の中に引っ込ます習慣はもうすっかり習い性になってしまった私。
Habit is a second nature.と申します。
父はわが家では王様。と言っても暴君だったわけでもなく、自ら望んで王様の座についたわけでもない。威張るわけでもなく、いたって物静か。
母が父を王様に仕立て上げた。ご飯茶碗もお箸も湯飲み茶碗もおかずも、父親のそれらは特別だった。お刺身が大好きな父親のために母は毎日クーラーボックスを持ってバスを乗り継ぎ遠くの魚屋まで新鮮な魚を買いに行った。座布団は母の手作りのふかふかの大判座布団。テレビを観ながらごろりと横になるとこれまたごろ寝用ふとんが枕と共にさっと出る。
朝、新聞を読み始めるときりりと爽やかなお煎茶を淹れる。出勤の支度にズボンをはき、Yシャツの裾をズボンに入れようとするとさっとズボンのベルト部分を押さえ、ずり下がらないように持つ。父が「オッ」と言う暇(いとま)を与えずに持った手をはずすとぴしりとシワ一つなく、Yシャツはズボンの中に。
くわえたままのタバコの灰が落ちる寸前に灰皿がすっと出る。
すでにピカピカに磨かれてある靴を履くとすかさず靴べらを差し出す。
門のところで「いってらっしゃいませ」とお辞儀をすると居合わせた隣の奥さんまでつられて深々とお辞儀をしてしまう。
これらの流れが全てよどみなく何十年と繰り返された事柄。
家族一同見慣れた風景なので何の違和感もなく過ごしてきたルーティーン。
普通のおじさんである父親は会社ではおそらく下げたくない頭もさげざるを得ないことも多々あったであろう。しかし、ひとたびわが家へ帰ると心づくしの手料理と団らん、王様の座布団が待っている。
がみがみ口やかましく鞭を持って叩きそうな奥さんよりも、もしかしたら亭主操縦術にたけているのかもしれない。
こんな居心地の良い家庭を持っていたら亭主としたら世の中で誰よりも光って働かざるをえないのかもしれない。
してみるとこの王様の座布団は真綿で包まれた甘美で世にも厳しい叱咤激励の玉座なのかもしれない。
してみると母はなかなかの知恵者なのか?
いえいえ、そうは思いたくない。心から湧きいずる愛のなせるわざ!
あまり父親ばかりを優遇するのでひがんで「お母さんは何てったってお父さん命だもんね〜〜〜ぇぇ」とからかったりしたものだ。
しかしここで問題。
こうした母を見て育った娘三人は、はたしてどんな生活をしているのだろう?
それは聞かぬが花!言わぬが花!
ただ、一言付け加えるならば、
トランプには王様もいれば女王様もいることをそっとつけくわえておくとしよう。
おいしい野菜スープが出来た。
少しお裾分けとある人のところへ持っていった。
お気に入りの白磁のキャセロールに入れて持っていった。
日を置いて器を取りに行くと「ああ。あの器、割れちゃった」とあっさり言う。
内心ぎょっとして、返答につまっていると、
「あれ温めようとガスにかけたら割れちゃったのよ」と言う。
ひょえ〜〜〜〜〜〜〜!
陶器をそのまま火にかけたら割れるにきまっているじゃないか・・・・何という常識のなさ!
私はそのとき自分の顔がどんな表情をしていたか鏡をみなくても分かった。
「ナンタルチア、サンタルチア!」
紛れもなくこれは「惨たるちあ」ざんす!
しかし、元を正せば、おいしいスープを味わって頂こうという事だったので、怒るなんてことはお門違いのことなのだろう。誰にでもある「粗相」なのだから・・・
「しかし」・・・という但し書きが心の中に去来したことは確かなことだった。
私はふとお茶の稽古の時のことを思い出した。
お茶の師匠は普段の稽古でも名人が作った茶碗を惜しげもなく弟子に使わせる人だった。
あるとき、若いお弟子さんが名品と言われた楽茶碗を稽古の時に使用した。
楽茶碗は焼きが柔らかいので、扱いには気を遣わなければならない。
茶室でお点前がはじまり、そのお弟子さんがお茶碗を茶巾で拭いたとたん音もなく茶碗の口が欠けてしまった!
茶室にいたみんなは思わず「アッ」と声をあげた。
私はと言えば心の中で「あ〜ぁ!わっちゃった!」と叫んでいた。
すると「お怪我はございませんでしたか?」と先生がお弟子さんに駆け寄った。
若い弟子は「すみません!」と言って泣き出した。
何と言っても名物と言われる由緒ある茶碗だったのだから・・・
「陶器は割れる物。それよりお怪我がなくて良かったわ」と先生はそうおっしゃって割れ茶碗をさっさと片づけて、代え茶碗を持っていらっしゃった。
う〜ん。少し時が経てばそいう返答もあり得ただろうけれど、間髪を入れずに「お怪我はありませんでしたか?」と弟子の身を案じたとはさすがに師匠だと思った。
何かと難しい師匠だったけれど、さすがに人間の出来が違うと思った。
さて、話を戻そう。
陶器を火にかけて割ってしまった人に私は「お怪我はなさらなかったですか?」と咄嗟に言えただろうか?
う〜ん。やっぱり言えないわ。
心の中で
「ナンタルチア、惨たるちあ!」と叫ぶのが私!
器を割って知る、人の「器」の話。
青春とは
青春の詩(サムエル ウルマン)
青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう。薔薇の面差し、紅の唇しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。年を重ねただけど人は老はしない。理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増やすが、情熱を失えば心はしぼむ。苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥になる。六十歳であろうと、十六歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への深求心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にしていまだ巳む。 (作山宗久 訳)
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多くのトップビジネスマンに愛され続けたベストセラー詩として有名。
若さだけで、何も考えなかった私の青春は途方もない時間の無駄使いだった。
しかし、今になって考えると、人生にはそんな「時間の無駄使い」も必要なのかもしれない。
なぜなら、その後に待ちかまえている厳しい人生にはそのような贅沢な時の使い方はないのだから。
父は学生時代に働くことを禁じた。
世の中に出たら嫌でも働かなければならないのだから「遊べ。本を読め。生涯の友を作れ」と言った。
でも私はひものついた状態の犬は駆け回れないと思った。
ヴァージニア・ウルフが言うように経済的な独立があってはじめて精神の自立があると思った。
自分の力でお金を得た時、はじめてフレッシュな空気を胸深く呼吸できたように感じた。
何かから解き放たれた開放感と充実感。何でも自力で切り開いていけそうな意欲が全身にみなぎった。
さてさて、青春ということからいささか外れたけれど、「青春とはたくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。。」とサムエル ウルマンが詩っている。
さあらば、私はいつまでたっても青春真っ只中ということになろう。
さて、あなたの青春はいかに?
2005年05月09日(月) |
目には見えないけれどあるもの |
塾でアルバイト教師をしていたときのこと、一人の女の子が入塾してきた。
そのこの母親は心臓病で妊娠を禁じられていたのだけれど、命と引き替えにその子を出産した。そしてやがて亡くなってしまったという。
そんな妻が命と引き替えにしてまで産んだ子供をその夫は、後妻のいうがままに、独身の妹つまりそのこの叔母にあたる人に預けて遠方へ去っていってしまったという。
独身の叔母さんは助産婦をしながらそのこを育てた。
明るく元気一杯の女の子。勉強も良くでき、笑顔が愛くるしいこだった。
ある日塾が終わって後かたづけをしていたら、その叔母さんがやってきて風呂敷包みから重箱を出した。
「いつもお世話になりっぱなしで、ご挨拶もままならずに失礼しています」と丁寧なご挨拶。
「子供が大きくなったら先生のようになりたいと言ってはりきっています」と言う。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」とにこにこする私。
「母親が生きていたらどんなにか喜ぶ事でしょう。今日はその母親が生前好きだったぼたもちを作ってきました。」と言って重箱を差し出した。
重箱の中身は大きな田舎風ぼたもちだった。
家に帰ってさっそく食べてみたら昔母が作ってくれた素朴なぼたもちと同じ味だった。
もち米を半突きして、つぶし餡がたっぷりからまったおいしい、おいしい、懐かしい母の味だった。時間と手間とたっぷりの愛情で出来た味だった。
食べ終わって、すぐに私は可愛い端きれで小さなポシェットを縫った。そのポシェットと一緒に重箱を女の子の家に返しに行った。
小さな露地を入るとその子の家があった。
ポシェットをみつけると、女の子は「わ〜い」と言ってうさぎのようにはねた。
「わ〜い」と言ってうさぎのようにはねたかったのは私も同じだった。思わぬ時に懐かしい母の味をいただけたのだもの。
こんな愛情たっぷりの叔母さんに育てられたその子はきっと幸せだ。
目に見えないものでも、心のなかにいつまでも灯(とも)る「灯」ってある。
そういう灯って不思議な灯なのだと思う。
さみしいときや、くじけそうになったときに心をあたためてくれるのもその灯。
心に邪な気持ちが沸いてきたときとか、捨て鉢になったとき、その灯が一瞬心をかすめる。
するとわずかのとまどいと共に「待て!」と自らを止めようとする声がする。
言葉にすると何か形のない漠としたものだけれど、小さくても、大風が吹いても消えることがない「灯火」のようなものがある。
母親も、父親もいない子だったけれど、生活するのに精一杯の叔母さんだったけれど、見えない灯がこの子の心にはともっている。 命とひきかえに産んだ母の愛情と、叔母さんの愛情が、見えないともし火となってこの子を温め育んでいる。
この世には目にはみえないけれど消えることのない灯火がある。
子供の頃、母の手のしわをこすったり、のばしたりしてみたことがあった。 両親が歳をとってから産まれた私だったので、友達の若い華やかなお母さんが羨ましかった。 出しゃばったり、自慢げな態度を恥としてきた母は、慎ましく、しかし、凛とした人だった。 母の親指はとても長かった。 それは手先が器用な証拠として裁縫が得意だった母は秘かにその親指の長さを誇りにしているようだった。 朝から晩までコマネズミのように良く家事をこなした母の手は「家事をする手」だった。 父が何かの業績で公に名をなしたことがあった。。 その記念にと母に翡翠の指輪を買った。 ダイヤでなく翡翠にしたのは、その神秘的な瑠璃色が指を美しくみせるからだった。 母は自分の贅沢のために貴金属を買うことはまれだった。 しかし、買うときは必ず記念になる理由をもっていた。 娘3人を持つ母は、それらの宝石をゆくゆくは娘等に譲る時のことを常に考えるのだった。 両親の記念の思い出や、その宝石にまつわる思い出と共にあることが、その宝石が単なる石、単なる宝石でなく、それ以上の付加価値を持つ物として娘等に代々伝わることに意義を見いだしていたのだった。
私にはその思い出の翡翠の指輪が母の遺品として譲渡された。 その翡翠の指輪をつけるたびに母は私に言ったものだった。 「翡翠はね、つけたとたんにどんな手指をも美しくしてくれるのよ」と。 そして少し荒れた手につけた指輪をみせて「ほらね」と言ってほほえむのだった。
しとやかで慎ましい母にその神秘な深い色は似合っていた。 しかし、あの微笑みは指が美しくみえたことへの喜びばかりではなかったような気がする。 父を陰ながらつつましく、ひたむきに支えた母があったからこそ、成し遂げた父の業績記念の指輪だったからではないだろうか?
家事労働に評価などなく、子供たちや夫から感謝の言葉もない報われない日々。 一人で大きくなったような態度で反抗ばかりする私に手こずった母。
そっとその指輪を出して指につけてみた。 まだ私には似合わないけれど、深い瑠璃の色は遠い母のあの日のほほえみをおもいださせてくれた。
宝石は思い出を持つとき、その美しさが冴え冴えと光彩を放つ。
優しさの表し方はさまざま。 例えば私の初恋の人。 そう。あの家庭教師の先生。 大学受験に合格した私は大学生に、先生は東大を卒業して社会人になり海外に赴任が決まった。 つまり家庭教師と生徒という繋がりも同時に卒業することになった。 その最後の日に私は生まれて初めて「デート」というものを先生とすることになった。 先生が大学合格祝いをして下さるという名目だった。 何もかもが初めてづくしの日だった。 ヒールのある靴を初めて履いた。 薄化粧も初めてした。 口紅は先生のお母様から頂いたものをつけた。 二人っきりで、しかも大好きな先生とお食事をするなんて考えただけで胸が一杯になる。 おいしい料理もろくろく喉に通らない程うわずってしまった私。それでもどうにかこうにか時が過ぎて帰宅時間になった。 バスに座るとそこへおばあさんが乗ってきた。 先生は自分の席を少しずらして空間をつくり、おばあさんに目で合図して「ここ、ここ」という風に座席を手でとんとんと叩いた。 おばあさんは「どうも」と言って座った。 席を立って譲る方法もあるけれど、私は先生のこの方法は双方にきづまりがなくとても心地よいと思った。 いかにも先生らしい何気ない優しさの方法だった。 最寄りのバス停の一つ前で先生は突然「ここで降りよう」と言った。
そこから私の家まで二人並んでゆっくりと歩いて帰った。 そう。一つ前で降りて歩けば、その分長く一緒にいられるわけだ。 相変わらず二人ともとりとめもない話をしながら歩いたけれど、このままずっと家にたどりつかなければ良いと願った。 そしてついに先生も私も言いたい「肝心の事(好きだ!)」を言えないままわが家に着いてしまった。 門の扉を開けた私はもうこれで先生とお別れだと思うと涙がでてしまった。 先生はじっと私の目を見つめて手に包みを渡した。 「僕が作ったペンダント。僕からのささやかなお祝い」と言った。 それは先生が軽井沢の窯場まで行って焼いた楽焼きだった。四つ葉のクローバーが手描きされていた。
あれから随分長い時が過ぎた。 バス停を一つ前でおりようと言ったあの一言は千語以上の胸の内を語っていたことを今になって知る私。 華やかでなく素朴で慎ましい手作りのペンダントはそれだけに心がこめられていていかにも先生らしかった。
あの日のバス停は淡い初恋の停留所でもあり、そこからどこまでも一緒に歩いていけそうな分岐点でもあった。
2005年05月05日(木) |
打てば響く太鼓の音色 |
機知に富んだ会話ほど魅力あるものはない。 なにげなく交わされる会話だからこそ、なおさらとっさの機知のひらめきが、その人の内面の奥行きがはかれるというもの。 昔の人でいえば、西行と遊女「江口」の会話の妙。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 男と女がある日雨宿りがきっかけで言葉を交わす。 女は目にも妖しき色香漂う遊女の風情。 男はというと男前の僧。 「遊女」の宿へ雨宿りを乞うた「僧」の物語。 さてどんな物語かというとこれはお能の中の一つ。「江口」という演目なのだ。女は遊女「江口の君」。男は誰あろうあの「西行法師」。 西行が天王寺参りの帰途、降り出した村雨を避けようと遊女の宿に立ち寄る。ところがここの宿の主(あるじ)でもある遊女は、こんなところで雨宿りは困ると西行を追い立てた。そこからが会話の妙の始まりだ。 西行はそんなに嫌がらなくても良いではないかと一首詠む。 「世の中を いとふまでこそ かたからめ かりの宿りを 惜しむ君かな」と。 すると遊女は笑ってこう返歌する。 「家を出づる人とし聞けばかりの宿に 心とむなぬと思ふばかりぞ」 とぴしゃりと筋の通った厳しい返答を返した。 法師だから断ったのにじゃらじゃらと甘えるんじゃないよと小気味よい遊女の気迫ある答えは白眉(はくび)。 遊女「江口の君」は才たけた美貌の人。元をただすと平資盛の娘。 平家没落後、落ちて落ちて、ついには、遊女にまで身を落とした人だった。 能では遊女「江口」は西行に一夜の宿を貸すが、「江口」の正体は普賢菩薩であり西行が気がつくと江口は白象に乗って白雲と共に西の空に消えていくという筋立てになっている。 実際は歌のやりとりのあまりの面白さに江口は西行を招き入れてもてなす。 才気に満ちた魅力的な西行と美しくこれまた才ある遊女「江口」の夜もすがら語りあかす感激は一期一会の法悦の極みだったであろう。 ---------------------------------------------------- そしてもう一つはあの太田道灌の山吹伝説があげられるだろう: ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけてにわか雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきた。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。 その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに 【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】 という歌があります。その娘は蓑(みの)ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。 驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この話は年端もいかない貧しい娘の深い教養の素晴らしさにある。 貧しいので傘(蓑)はありません。と言ってしまっては身も蓋もない。 貧しくとも口にだしてそれを言わずに歌に寄せるこの誇りと機知。 奇(く)しくも両方の逸話とも「雨」が元。 西行と遊女「江口」の場合は打てば響く会話の妙。 こんな軽妙洒脱なやりとりは相手あってのこと。 太田道灌のように歌の意味を知らなければ折角の機知もからぶりに終わってしまう。世に座談の名手と言われる人がいる。 例えば英文学者の渡部昇一氏。 その博識多才に裏打ちされた会話は座談の相手が、打てば響く相手であるからこそ互いが光りあうというもの。 一方が輝くだけでは暗闇の中のダイヤモンドと同じ。 光源と対象があってこそ光あうというもの。 黙っていても、惹かれ合う関係というものがある。 それは互いの関心事、価値観、ある種の匂いのようなものが同じでそこに響き合うように惹かれていく。 そんな二人が探し求め合っているとき、ある日突然姿を発見する。 それはまるで長年さがしていた恋しい相手に出逢ったときのような瞬間。
西行と遊女「江口」が交わし合った歌で、お互いが驚きと歓喜に打たれた瞬間だったのではなかろうか? 落ちぶれた零落の遊女が名高い歌人の西行に勝るとも劣らない歌でぴしゃりと答えた瞬間。 そしてその丁々発止の歌のやり取りのなかに互いの魅力の深みを量り合ったのではなかろうか?
そんなやりとりが出来る魅力を自分の中に持たない限りはそんな相手にも恵まれないということになろう。 人生は長いようで短い。
そんな一生の中で打てば響く会話の妙を味わいたいものだ。 磨け、磨け 私! 響いて鳴ってくれる人はいずこ?
暑くなった季節は茶席も炉から風炉に変わる。
なるべく暑い炭の熱気をさけて炉を閉じて風炉釜を据えて火をみえないようにする心遣い。
そんな暑い季節の花は昨日の「回り花」のかわりになるような「花寄せ」というものがあってとても楽しい。
これは葦(よし)の屏風などに掛け花入れをたくさん架け、客が思い思いに花をいける楽しいもの・
用意された花台から好きな花を選んで好きな懸け花いれにいけるもの。
侘びた茶席が花だらけになってこのときは茶席が華やかで楽しい雰囲気になる。
こんなこともお茶にはある。
しかつめらしくお茶を点てるだけがお茶ではない。
季節を楽しむこうしたお茶席の楽しみを味わうのもなかなか良い。
ここでちょっとひとくさり:
無学和尚は般若心経の名句「色即是空 空則是色」を引いて、「色則是空擬思量即背」(しきそくぜくうしりょうをこらせばすなわちそむく)とといている。
美しい花の色、形をとらえて、これを空といい、それでは空とは何であろうかと反問。それはこの美しい色、形そのものであると端的に答えている。
花をいけるには、そのすがすがしさを心にうつして、自分と花と一体になっていけるものであるとは不白と言う人が言っている。
上記の「思量を凝らせば即ち背く」とは、あれこれ思案してつくろったのでは、この真のすがすがしさを失ってしまうということをいましめたものなのだろう。
「回り花」でも「花寄せ」でもまた普段の茶席の花でも、このいましめにのっとって、いけるときは一手ですっきりいける。
あれこれ思いわずらって上手く活けようなどと考えずに、一気にしかも花台の上で大方まとめたらそれを一束にして一気に花入れに活けてしまうのだ。
なかなか哲学的であり、面白い発想だと私は思うのだが、実際やってみると邪気もなく活けた花は実にすがすがしい。
「思量を凝らせば即ち背く」
あれこれ思案してつくろったのでは、真のすがすがしさを失ってしまう。
人の心もそうかもしれない。
心に曇りがあって、あれこれとりつくろうと失うものが多いというものだ。
たかだか古くさい茶の湯、などと言うなかれ。
四季を通じて学ぶことはとても多いのである。
しかも楽しい。
ここが肝心。
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