ずいずいずっころばし
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今日は夕方から雨が降ってきたのでお散歩は中止。
愛犬が悲しがるけれどしかたがない。 きんもくせいの香りがしてきた。
寝室の側の植え込みには銀もくせいが植わっている。 銀木犀は金モクセイよりも香りがおだやかでつつましい。
慎ましいものは地味で控えめであるけれど、奥ゆかしい美がかくれているものだ。 母はそんな慎ましい人だった。 いつも大島紬の着物を着ていた。 地味な大島の美しさは子供の私には分からなかった。
他のお母さんのように華やかな服を着て花のようでいてほしかった。
母は「大島の着物はね、普段着のよそゆきね」といって笑った。 「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ。 分かる人にだけわかる美しさかしら。」 「着れば着るほど肌になじんで、味がでてくるのよ。」
「へー」と聞いていた私だけれど、なんとなく母の矜持をそこにみた。
普段着に格のあるものを着るという「粋」。 しかも、それは決してでしゃばらないものであること。
大島紬は黒っぽく地味だったけれど、母は袖口や裾になんともいえない渋い色調の赤をほどこすのだった。
えりあしのほつれげをかきあげる時など、袖ぐちからちらっと渋い赤がこぼれて美しかった。 そしてなにより私が美しいと思ったのはその絹ずれの音。 母があるくたびにシュッシュッと心地よい雅(みやび)やかな音がして、同時にその裾裏に配したほんの2,3ミリの赤い裏生地が地味な着物を一瞬のうちにつややかなものにしたのだった。
「たおやか」とは着物姿をさすのだと思った。
物をとるとき、たもとを片方の手で押さえながらとる。 その美しい手元の三角形が女らしいたおやかな美をかもしだしてため息がでる。 着物の袖というのはすごい女の美をかくしている。 真っ白な女の二の腕がものをとろうとして袖からちらりと見えるとき、それは今までかくれていただけにあっと思うほどなまめかしく美しい。
母は自分の贅沢のために宝飾品を買うことはなかったけれど、買うときは何かの記念のときだった。 その記念を宝石にこめて娘たちに伝えたいと思うのだった。 母がいつも身につけている宝石はヒスイの指輪の他に結婚するとき、祖父が自らデザインしたダイヤの指輪だった。二月生まれの母のために祖父は梅の花をかたどったプラチナ台の花芯にダイヤをはめこんだ見事な指輪をつくった。
学者だった祖父が娘のためにデザインした美しい記念の指輪だった。
母は質実剛健な祖父がデザインしたその指輪を大事にしていた。
指輪は高い安いでなく、そうした思い出が伴ってはじめて光彩を放つのではなかろうか。
私も大島が似合う年齢になった。 私は一つ発見したことがある。 それは地味な大島は顔を華やかにすることだった。 渋さ、シックなものというのは「若さ」「華やかさ」を逆に引き出すのだということをみつけた。
そうか!母亡き後に母の「大島紬」への想いに気がついた。 母が子供の私に言った「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ」 ってそういう意味だったんだね。
母は本当のお洒落の真髄を知っている人だったのだ。
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