ずいずいずっころばし DiaryINDEX|past|will
槿(むくげ)の花の季節となった。
一瞬「宗湛」は千宗旦かと思ったが、これは違ったようで博多にすむ茶人のようだ。 茶会を催すと必ず、「茶会記」「会記」なるものを書き表すならいである。 それには茶会で扱ったお道具(釜、茶碗、お茶器、茶杓など)、掛け軸、茶花、お菓子などすべてを書き表す。 その会記を読むとその茶会に行かずとも亭主(茶会を催した席主)のもてなしの心を読み取ることができ、茶会の様子などがうかがい知ることができ、大変趣のあるものである。 会記にある道具の取り合わせはその席主の「もてなしの心」が百の言葉であらわさずとも読み取ることができる。 『神屋宗湛の残した日記』 井伏鱒二はまだ読んでいないのでどんなものかはわからないけれど、茶人宗湛が私心を交えず書いた日記とは、会記に近いものなのだろうと私は推測する。 茶の道をかじるものにとって「会記」を読むことは非常な楽しみであり、あれやこれやと茶会の席を想像する手がかりとなるものである。 その会記に近い日記(Sさんはこれを乾いたとあらわしていてすばらしかったが)を読んでこれまた骨董や茶道具にうるさい井伏鱒二がそれを読み取って解説するのは趣がある。 ことに席主が秀吉とくればなおさらである。 秀吉と茶会には逸話が山のようにあって、それこそ文才があれば、それにちなんだ物語を創造したくなるの難(がた)くない。 先にあげた「朝顔の茶会」の後、秀吉は利休の茶の心に感嘆の声をあげたと共に内心、また「やられた!」とも思ったのではなかろうか。 仕返しに似たことをやってのけた秀吉だった。 ※ある日、水のいっぱい入った大きな金色の鉢を用意させた秀吉、そばには紅梅一枝を置かせた。 利休を呼ぶと「大鉢に、この紅梅を活けよ」と命じた。普通に活けたのでは、紅梅の枝は鉢の中に全部沈んでしまう。 さて、どうなることかと内心懐手をしながらにやにやする秀吉。 利休は澄ました顔で「かしこまりました」と言うと、やおら紅梅を手にしたかと思うと逆手に持ち替え、片手でそれをしごき、紅梅の花びらや蕾を水面に浮かべた。 金色の鉢に映える紅梅の花びらを見た秀吉は、あまりの美しさに声をあげて驚いた。同時に一瞬のうちに「美」を見抜くことができ、利休の臨機応変さに、頭を下げる思いになったという。 「秀吉と茶」。「会記」から読む茶席。井伏鱒二が読む『神屋宗湛の残した日記』。 面白いこと極まりないではないか。 時の宰相や主君にまつわる逸話に「紅茶」や「コーヒー」があるだろうか? 美しい日本に茶の道があり、花がその美しさに「花を添える」。 利休が丹精こめた朝顔の全てを摘んでしまってただ一輪活けた床の間の花。そこに「侘び」の美を見出す茶の心。 「侘び」を外国人に説明するのは難しい。日本人ですらいまやその心を知るのは難しい。 せめて夏のひと時、槿の花をめでることにしようではないか。
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