ずいずいずっころばし
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人間の心の闇ほどわからぬものはない。
病的に底意地の悪い人がいる。
病的と言ったけれど、厳密に言うなら病気なのかもしれない。
昨日の日記にも書いたけれど、美の感じ方は人それぞれ。
絵画でも、音楽でも、文学でもしかり。
前々回の(?)芥川賞受賞作品では、あまりの暴力シーンに嘔吐しかけた。
本を読んでいて嘔吐しそうになったのは生まれて初めてのことだった。ついには完読できず、放擲した。
絶賛する人もいれば、完読すらできない私のようなものもいる。
以前書評に書いた野見山暁治氏の絵画展に行ったときも、私はその絵に心を揺さぶられたけれど、一緒に見に行ったものは抽象過ぎて分からないと言って出ていってしまった。
つまり世の中には二分の一ばかりでなく三分の一のようにどこまで行っても割り切れない数の存在はある。
精神分析医が数十枚の分析カルテ分を母は一瞬のうちに読みとってしまう。「ただいまー」と言って玄関を入ってきた瞬間、夫や子供の心を読んでしまう魔術。
それはコンピューターにも分析できない愛情というもののなせるわざなのだろう。
しかし、この「心」。
全ての人が読みとれたらどんなに恐ろしいことか。透視できないからなりたつ人と人。
それは「信頼」というものの存在が心を読もうとしなくても人と人を結びつけるもの。
しかし、人間ほど複雑怪奇なものはない。
知っていると思っても知らない「心の闇」がある。
あの東電OL事件のように、一流大学を出、一流企業に勤める堅実な家庭の子女が夜の巷に立って春をひさぐ怪。お金に困るわけでもなく、男性にもてないわけでもない。
まさに「心の闇」。
さて、話が拡大して収拾がつかなくなってきた。
先を急ごう。
話とは実はこんなことなのだ。
花を一輪活けた。
野にあるように、一輪挿しに侘びた花を活けるのが好きな私。
いけおえて花を愛でていたら、ついっとそばを通る者がいた。
通りしなに、「トイレの花!」と捨てぜりふ。
しばらくして、私の一輪を「ぐいっ」と抜きさると、いつのまにか持ってきた花器に「花はこのように活けるものよ」と豪華な花を活けはじめた。
いけおわって会心の笑みをもらしながら「ね。素敵でしょ!」と言った。
それが豪華で素敵であっても、花の腕前が私よりはるかに勝るものであっても、その「心」が私には恐ろしかった。
なぜここまで人の心を踏みにじらなければならないのか?
この人の「心の闇」に触れた思いがして寒気がした。
分析すれば思い当たることもあるだろうけれど、この「心」をどうすることもできない。
闇は闇を底なし沼にずぶずぶと深くするばかりだ。
この場合、一輪挿しの美と豪華な花の美の差などではない。前述したような美的感覚の差うんぬんなどでは決してない。
人間は生きて行く過程で様々なものをなくし、様々なものを得る。
喧嘩をし、悪行もするだろう、嘘もつき、罵詈雑言を吐くこともある。
人を傷つけ、自らも傷ついて生きていく。
人の行為をあしざまにののしろうとすると、母は必ずこういった。
「人の振りみて我が振りなおせ」と。
心に鬼を住まわせないことだ。
他人の行為に自分の中にもあるものを見ることがある。
しかし、私の花を捨てて豪華な花を活け直した人の心を理解することは難しい。
怒りを通り越して、苦々しくやりきれない寂しさに返す言葉もなかった。
凍り付くような心の荒涼がその笑顔に貼り付いていた。
人間が大好きな私でも、時々この「心の闇」の暗渠(あんきょ)に足を取られて立ちすくむ。
小説家はこんな不可解な部分に光をあてるのだろう。しかし、人の世は「小説よりも奇なり」の部分が多い。
カラヴァジョの絵のように光源がひときわ明るいところは影もまた深いのである。
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