天使に恋をしたら・・・ ...angel

 

 

どうしてこういう勘は - 2002年09月30日(月)

土曜日の夜。クッキーを焼いた。
明日期限のペーパーがあるってカダーが言ってたから、差し入れに持ってってびっくりさせようと思い立った。もう11半を回ってたけど。
こんなふうに突然行って、そしたら他の女の子がいたりして。
これが勘だったらまた当たったりして。
そしたら、ああどうしてこういう勘は当たってしまうんでしょうって、もう笑い話だな。
って、運転しながら、真面目なんだかふざけてるんだか自分でもわかんなかった。

カダーの家の前から電話する。
「何してたの?」
「ん・・・何も。これから勉強始めようと思ってたとこ。」
「今あなたのおうちの前にいるんだよ。」
「嘘だろ?」
「ほんと。クッキー焼いたから持ってきてあげたの。」
「冗談だろ? ほんとはどこにいるの?」
「ほんとにおうちの前。」
「・・・。今さ、うちじゃないんだよ。友だちのとこにいるんだよ。」
「・・・。」
「ごめん、あとで電話するからさ。」

カダーの声は少し変だった。
リビングルームとカダーのベッドルームには灯りがついてた。

「・・・。なんで嘘つくの? だって灯りがついてる。」
「友だちのとこにいるんだって。うちには誰もいないよ。ちょっと今話せないから、30分後にかけるから。」

リビングルームのカーテンの向こうに人影が見えた。そっと外を確かめてるみたいだった。

「・・・。わかった。いいのいいの、いないんなら。」

それでもほんとにいないのかもしれないと無理に思って、クッキーの袋とカードを、アパートの玄関に回ってドアの下に置いた。ノックしてみたけど、誰も出て来なかった。

車のところに戻ったら、さっきは半分しか閉まってなかったカダーのベッドルームのカーテンが、今度は全部閉まってた。胸にズンとなんか重たいものが沈んだ。ほら、やっぱり勘が当たったんだ、って、思った。怖かった。でも不思議と落ち着いてた。


30分したらかけてくれるって言ったんだからって、じっとおうちの様子を見ながら待ってた。リビングルームの窓とカダーのベッドルームの窓と自分の腕時計を、代わりばんこに見てた。携帯、役に立ってるじゃん、ってこんなときにそんなことも思ってた。そして待てずに、わたしから電話した。

「なんで嘘つくの? おうちにいるんでしょ? じゃなきゃ、あなたのお部屋のカーテン閉めたの誰?」
「知らないよ。僕はうちにいないんだから。ごめん。今日は会えないよ。今は会えないよ。」
「・・・。会わなくていいよ。クッキー持って来ただけだから。会わなくていいの。でもなんで嘘つくのか知りたい。」

カダーは少し黙ってて、それから言った。
「・・・。後で説明するから。」
「誰かが一緒なの?」
「違う。きみが考えてるようなことじゃない。とにかく、また後でかけるから。わかった?」
「ほんとにかけてくれるの? あたし、ここで待ってるよ?」

もう殆ど涙声になってた。とうとう今日は帰りの高速をこれからボロボロになって走るんだって思った。それでもなんとなく落ち着いてた。

ドライブウェイから車が一台バックで降りて来た。
カダーかと思ったけど、カダーの車じゃなかった。
ライトを消して停めてるわたしの車の横を、その白い車はゆっくりすり抜けた。目を凝らして運転席を見た。女の子が乗ってた。助手席にも誰かがいた。

車が行ってしまったすぐあとに、携帯が鳴った。
さっきまで少しおかしかっただけのカダーの声はトーンが変わってた。わたしが問題を大きくしたとかなんとか言って、わたしを責めてるふうな口調だった。意味が半分しかわからなかった。女の子のことには間違いなかった。

やっと心臓がどきどきしてきた。黙ってたら、前のガールフレンドがその子のルームメイトと遊びに来てたんだってカダーは言った。今でも友だちって知ってる。その子がまだカダーのことを愛してることも知ってる。

「だってそう言ってくれなかったじゃない。うちにいないなんて嘘ついたじゃない。人が来てるからとか前の彼女が来てるからって言ってくれてたら、あたし諦めて帰ってたのに。」

違う。それでも玄関に回ってドアをノックしてクッキーを渡して、わたしったら確かめてたかもしれない。そして女の子が来てるって知って、やっぱり泣きながら帰ってた。

「白い車が出て行っただろ? 見た?」
「うん。」
「・・・。アパートにおいで。中に入りなよ。話すからさ。」

カダーはいつもの声に戻っててわたしはちょっと安心して、その子が帰ったことにも安心して、カダーが帰れって言わずに中に入れてくれることにも安心して、わたしは車を車道に置いて真っ暗なドライブウェイを歩いて登って、だけどまだどきどきがおさまり切らないまま、ドアをノックした。


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携帯電話 - 2002年09月28日(土)

昨日、カダーはルームメイトと一緒に「うどん」を食べに来ることになってた。
「電話するよ」って言ったくせにかけて来ないで、こっちからかけたら忙しそうですぐに切られて、今日になった。
夕方電話が鳴る。「ねえ、うどん作ってあげることになってたじゃん」。そう言ったら、「ああーっ。忘れてた」って言われた。

忘れるのかあ。


ジェニーがわたしの携帯かわいいって言ってくれた。
カダーの友だちは黒い革のケースをオマケにつけてくれて、なんだか競馬の馬が顔につけてるマスクみたいだなって思ってたけど、「何それ? 意味わかんない。かわいいじゃん、このケースも。いい革だし。いいなあ」ってジェニーは言った。

だから気に入った。


何もしなかった土曜日。
お昼前に近くのグローサリー・ストアに、イタリアンブレッドを買いに行った。
ジーンズのポケットに携帯つけて。

お昼過ぎに公園を歩いた。
ジーンズのポケットに携帯つけて。

でも携帯は鳴らなかった。
そして夕方、うちにいたらカダーから電話がかかる。携帯に。
「どこにいるの?」「うち」。


携帯、意味ないなあ。
やっぱり要らなかったかもしれない。


さっき、またカダーが電話をくれた。
うどんのこと忘れてた罪ほろぼしかな。でも今日はなんか優しい。「きみに Hi が言いたかったから」って、さっきの電話もそう言ってた。嬉しくて笑ったら、「何が可笑しいの? 僕はちっとも可笑しくないよ」って言った。これから明日の授業の課題をするって言ってた。


明日は何をしようかな。
出掛けようかな。
出掛けてる間に携帯鳴れ。
でもわたしの番号知ってるのは、カダーとカダーのルームメイトと、カダーの友だちの携帯電話やさんと、ジェニーだけ。


明日も携帯意味ないね。




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キッチンの森 - 2002年09月27日(金)

大きなキッチンの窓にかかった緑色のカーテン越しに陽が差し込む。
やわらかな薄いグリーンに染まったキッチンが、森の中みたいに見える。
リビングルームのまん中に立って、ぼうっとしばらくカダーんちのキッチンの森を見てた。

素敵なアパート。
ここに、何度でも来たいと思った。
お庭の木が金色に染まるところを見たいと思った。
ふわふわと落ちてくる雪を外に眺めながら、毛布にくるまって暖炉の火に手をかざして、「夏になったらお庭で BBQ しようよ」って話したいって思った。
そして、朝が来ればキッチンの森に佇みたいって思った。

シャワーを浴びて、カダーのベッドのところに戻る。
カダーは腕を伸ばして、わたしの頭を引き寄せて、おでこにキスしてくれた。あごのところに切り傷があって、「髭剃るときに切った」ってカダーは言った。「まだ痛いの?」「ちょっとね」。そこにそうっとくちびるを触れてから「これで大丈夫だよ。もうすぐ治るよ」って言ったら、「My lovely。My sweetheart。早く行かないと遅れるよ」ってカダーは笑った。

お部屋の外からドアを閉める前に、片目をつぶって人差し指と中指で投げキッスしたら、カダーはベッドの中から、目をぎゅっとつぶってから尖らせたくちびるを音を立てて放して、お返しの投げキッスをくれた。

キッチンの森を抜けて、外に出る。
こんな朝がいつまでも欲しい。


お昼休みに、フィロミーナがアップルパイをくれた。「あんたはもっとカロリーが必要だからね」って。「ちゃんと水分取ってる?」ってローデスが聞く。「私のサンドイッチもあげるよ」ってエスターがツナフィッシュのサンドイッチをくれようとする。

「ほらね、ここはこんなに愛で溢れてるよ。みんながアンタに愛をいっぱい注いでるじゃん。男の愛なんか要らないじゃん」。ジェニーが笑って言う。

「だってそれは種類の違う愛だもん。ときどき頭痛の伴う愛だけど」。ラヒラが言う。
「うん、頭痛は伴うし、痛みは伴うし」
「それでもその愛が欲しいんでしょ?」。

わたし、愛が欲しいの?

わたし、キッチンの森が欲しいの。

カダーの腕の中で迎える朝が好き。
キッチンの森がわたしを迎えてくれる朝が好き。

こんなふうに、ときどき、
こんなふうな突然がいい。
わたし、キッチンの森が欲しい。

愛が欲しいなんて。

誰のでもいいわけないじゃん。


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3番目にいい男 - 2002年09月26日(木)

買ったばかりの携帯電話に誰かから電話がかかるはずもなくて、つまんないからカダーに電話してみる。
カダーは「Hello」って言わずに、いきなりわたしの名前を呼んだ。それから、「今買い物してるとこ。今日これから僕はスープを作るからね、親愛なるルームメイトときみを、僕のスープに招待してあげよう」。招待って、ルームメイトは一緒に住んでるんじゃん。またただふざけてるんだと思って、「冗談?」って聞いた。「冗談なんかじゃないよ。今からおいでって」「ほんと?」「ほんとほんと。そのかわり、遅くなるなよ。待たないからね」「うん、行く行く。出来るだけ早く行く」。

急いで用意する。明日の仕事の用意とお泊まりの用意。途中で携帯が鳴って、「今どこ?」ってカダーが聞く。まだ高速に乗る手前だったけど誤魔化して、「あと20分で着くから」って言った。それからぶっ飛ばした。びゅんびゅん飛ばした。それでも20分で着くわけがなく、多分30分はかかったと思う。

ドアの窓から中を覗いてカダーに手を振る。カダーはドアを開けてくれて「Wow! 早かったじゃん。ぶっ飛ばした?」って言った。「飛ばした飛ばした。車の中でわたしも走った」。そう言って、おなかに抱きつく。リビングルームに座ってたルームメイトがにょっきり立ち上がって「Hi」って言った。

スープが出来上がるまで、ルームメイトがイタリアンブレッドをスライスして、わたしはコーンビーフをスライスした。

トマトとリマビーンズのスープは、すっごくおいしかった。全然期待してなかったのに。
ルームメイトは「ちょっと塩入れていいでしょうか、サー」ってカダーの許可を取って塩をがんがん振ってたけど、わたしにはパーフェクトな塩かげんだった。「旨い。めちゃくちゃ旨い。すごいよ、これ。いや、ほんとに旨い」。カダーは自分もちょっと塩を振りながら、そう言って食べてた。それからボウルを両手で抱えて「ほら、こうやって食べな。その方が旨いから」ってわたしに言う。大きなボウルに入れてくれたスープを全部平らげたら、「おかわりは?」って聞く。「おなかいっぱい」って言ってるのに、もっと食べなきゃだめってスープをわたしのボウルに注ぐ。食後にクッキーをほおばりながら、わたしにひとつ渡す。「ほら、デザート。遠慮しないで食べな」って。遠慮してない。おなかいっぱいなんだって。

「いいなあ、このおうち。あたしすっごくくつろげるよ。大好きだよ」って、リビングルームのカウチに座って言ったら、カダーが「僕はきみのアパートが好きだよ」って言った。


朝仕事に行くときにラジオで聞いた「女が求める男のクオリティー・トップ8」ってやつの話をしてあげたら、その話で延々盛り上がる。ナンバー1は、「自信」だった。カダーはそれを聞いて、「なんだ、僕はあるよ、自信」って言った。「知ってるよ。聞いたとき、カダーだ、ってひとりで笑った」。自信家だから、誉められるのは当然で、誉められなかったらちょっと気にする。「カダーはあたしが今まで出会った男の中で、3番目にいい男だよ」って言ったら、もう話題がほかのことに移ってしばらく経った頃に「ねえ、僕はほんとに3番目なのか?」って、真面目な顔して聞いた。「だめじゃん、カダーらしくないじゃん。自信あるんでしょ?」って言ってやった。

3番目なんて、適当。そんなふうに思ってない。わたしはもうカダーを誰とも比べてない。カダーは素敵な人だと思う。ときどき意地悪で冷たくて、わたしは振り回されてるけど、自信のあるところが好き。どういう男が好きかって聞かれてひとことで答えるなら、「自信のある人」ってわたしも答える。自分に自信のある人は輝いてる。内に秘めた自信は内側から輝いてる。でも、わたしはカダーが自分では知らないカダーの素敵なところを、ほかにいっぱい知ってると思う。そこが全部とても好き。

カダーはわたしの携帯電話のゲームで遊び始めて、わたしはカダーのルームメイトとおしゃべりしてた。夢中になって話してたら、カダーは自分のベッドルームに行っちゃった。ルームメイトに「あたし、歯磨きしてくるね」って言って、それから顔も洗って、カダーのお部屋に行った。カダーはベッドに入ってた。シャツとパンツを脱いで、カダーの腕の中に滑り込んで抱きついた。カダーの体はあったかくて、わたしの体は少し冷たかった。「寒い?」ってカダーが聞いて「うん」って言ったら、「すぐあったかくなるよ」って大きな体で足の先まで包んでくれた。

「スープ、おいしかった?」ってカダーは聞く。「うん。すごくおいしかった。変に凝ってなくてシンプルでそれでいてコクがあって素材が生かされてて。あたし、そういうの好き。あんなの全然期待してなかったよ」。カダーは返事の代わりに目をつぶって嬉しそうに微笑んだ。

わたしは、カダーのほっぺたとおでこと鼻の頭と眉間と、くちびるの端っことくちびると、あごと喉と、目とまぶたと、耳たぶと耳の横に、ゆっくり順番にキスした。おいしいスープのお礼に、愛を込めて。
「3番目」をちょっと気にしてるカダーに、愛を込めて。


1番目はあの人。2番目もあの人。だからカダーは3番目ってことにしとく。


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わたしのもの - 2002年09月24日(火)

約束の時間通りにカダーのアパートに着いた。
明るい陽差しの中で見るおうちは、前に見たよりずっと素敵だった。
ドアの窓から中が見えるけど、鍵がかかってて、ベルを押してもノックしてもカダーは出て来ない。
10分ほどノックし続けて、やっと出て来たカダーは「ごめん、寝てた」って言ったあと、「How are you?」って抱き締めてくれた。

カダーがシャワーを浴びてるあいだ、古い本棚に古い童話の本を見つけて読んでた。「僕は獣医さんになりたい」って題のお話だった。シャワーから出てきたカダーに言う。「この男の子の名前さ、Dick だってさ。絶対今じゃつけない名前だよね。そう言えば昔アメリカ人の友だちがね、お父さんの名前が Dick っていって、お母さんがお父さんを大声で呼ぶたんびに顔が真っ赤になるって言ってたよ」。カダーは笑いながら、笑ってるわたしのくちびるをくちびるで塞いだ。


カダーとカダーのルームメイトにうどんを作ってあげることになってて、「いつ作ってくれるのさ」って昨日電話でカダーが言った。ルームメイトが日本の料理が好きで、インスタントじゃないちゃんとしたうどんが食べたいって言ってたから。
「だって、あなたずっと忙しいじゃん。」
「そうだけど、知ってるだろ? ほんとに忙しいって。仕事行ってて、学校も行ってて、課題はたくさんあるし、ほかにもやることいっぱいあるし。」
「女の子もたくさんいるし?」
「女の子もたくさんいるし。」
「・・・。」
「何黙ってんだよ。女の子なんかいないよ。」
「女の子いないの?」
「いないよ。あれからセックスもしてないよ。あれからだよ?」
「信じられない。」
「信じようが信じまいが、してないものはしてない。」


コンドームつけようとするカダーに、「なんで?」って聞く。
「ほかの男とやってない?」「ないよ。そんなわけないじゃん」。



コーヒーを煎れてくれる。それから「チョコレートチップのクッキーがあるよ」ってお皿に並べてくれて、冷蔵庫からオリーブのペーストを出した。プレッツェルをクッキーの横に乗っけて、「これつけて食べてみな」って言う。オリーブのペーストなんて初めてだった。カダーはそれからオリーブの木の話や世界一古い町の話や、自分の国のことをたくさん聞かせてくれた。物語を聞いてるみたいに胸がドキドキする。カダーの国のことを聞かせてくれるときのカダーが好きだと思う。

オリーブのペーストはおいしかった。カダーはわたしが気に入るのをきっと知ってた。「おいしー」って言いながら、舌を使ってプレッツェルの穴をオリーブのペーストで埋めてから、「ほら、かわいい?」って見せたら呆れられた。あの、呆れたときの表情と左手をくるっとフリップする癖が好きだと思う。

テーブルの上を急いで半分だけ片付けて、出掛ける用意をする。
クッキー持って行きなよって、子どものおやつみたいに持たせてくれるのが好きだと思う。

カダーがわたしの車を運転して、携帯電話を買いにカダーの友だちのところに行く。

カダーの運転は強引なのに丁寧で、スピード出すのに優しくて、マナーの悪いドライバーをマザーファッカーなんて罵るくせに落ち着いてる。「運転の仕方って性格出るよな」って言うから「うん。あなたの運転、アグレシブ」って言ってやったけど、ほんとはそんなこと思ってない。「あたしは?」って聞いたら「言わないほうがいいと思う」って言われた。カダーの運転の仕方が好きだと思う。

友だちにわたしを紹介してくれるときのやり方が好きだと思う。
わたしのことを何でも知ってるみたいに、ちっちゃなことを自慢げに言ってくれるときの言い方が好きだと思う。
自分で決められないわたしに、冷静でかしこくて救い上げてくれるような助言をくれるときの自信が好きだと思う。



だから、わたしのものにしたいと思う。
わたしだけのものにしたいと思う。
そんな、わたしの好きなカダーのもの、全部。


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世界で一番行きたい場所 - 2002年09月23日(月)

何度も何度も名前を呼ぶ。
大好きな、あの人の名前。
なんて素敵な響きなんだろうって思う。

なんて幸せなんだろうって思う。
あの人の名前を呼ぶわたしのこころが、声になってあの人に届く。
あんまり何度も呼ぶから、あの人は笑い出す。


今日徹夜で準備を終わらせて、明日からあの人は1週間、レコーディングの缶詰に行く。

「頑張ってね。」
「頑張るよ。」
「応援してるからね。」
「うん、ありがと。頑張ってくる。」
「死なないでね。」
「死なないよ。」
「ほんとに死んじゃだめだよ。」
「なんで死ぬんだよ。」
「死んだら教えてね。」
「教えられないだろ。」
「やだ。教えて。」
「だから、死なないだろ?」
「ほんと?」
「だから。死なないって言ってよ。」
「死なない。」

それからまた名前を呼ぶ。
「どうした?」ってあの人が聞く。
呼吸を飲み込んで、目を閉じる。
なんて優しい時間。止まれ。止まれ。止まれ。

「好きだよ。」
やっと、また聞けた。
止まれ。止まれ。止まれ。

「あなたが大好き。」
「僕も好きだから。」
やっとわたしもまた言えた。
止まれ。止まれ。止まれ。

「帰って来たら、一番に電話するよ。レコーディングした曲、一番に聴かせてあげる。」
「ほんとに?」


また名前を何度も呼んで、今度はわたしが自分で笑い出す。
あの人がつられて可笑しそうに笑う。
「なかなか電話切らせてもらえないって思ってるでしょう?」
ピアノの鍵盤を駆け登るみたいにあの人が笑った。
わたしの大好きな、あの笑い方。
笑顔が見えた。
あの笑顔のままだよね。


あの人の胸に飛び込みたい。
まっすぐその腕の中に飛んで行きたい。
世界で一番行きたい場所。
一番行けなくて、
一番行きたいところ。







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エスプレッソにはレモンの皮 - 2002年09月22日(日)

窓の外でデイジーの気配がするから覗いてみる。
デイジーが窓辺にいるチビたちと遊びたくて、スクリーンに鼻を押しつけてくんくん言ってた。
お兄ちゃんチビは全然平気で、いつもデイジーと鼻をこすりつけ合うけど、妹チビはだめ。気が強いばっかで意気地なしだから、フーって威嚇してるつもりだけど、忍び足ですこうしずつ後ずさりしてる。

デイジーは相手の気持ちなんかお構いなしに、どんなときもしっぽを振って目を細めて遊ぼー遊ぼーってチビたちにすり寄る。

大家さんのフランクがお庭にいた。
「プレゼントがあるんだよ」って、顔を覗かせて言った。

エスプレッソ・メーカーだった。
電気のやつじゃなくて、重たいアルミのパーコレーター。
ミルクスティーマーがついててカプチーノも作れる電気のやつが、前の街に住んでるときからずっと欲しかった。でも、フランクがくれたパーコレーターが、「本物」って感じですごくいい。
ちゃんとイタリー製なのもカッコイイ。
2カップ用のちっちゃいサイズもかわいくていい。
エスプレッソの豆も一緒にくれた。スターバックスなんかじゃない。
嬉しくて、「ありがとう。ちょっと早いクリスマスプレゼントだね」って言ったらほっぺたをぎゅってつねられた。


今日はレズも、日曜の出勤だった。B4 のフロアで一緒になった。「あたしランチに行ってくる。あなたはもう食べたの?」って聞いたら、「一緒に食べよか」ってレズは言った。病院の裏のデリでサンドイッチを作ってもらってコーヒーを買って、中庭のパティオテーブルで一緒に食べた。このあいだ行ったレズんちの近くのレストランがすごくおいしくて、また行こうよってレズが言って「明日は?」って聞かれた。

火曜日にカダーと会うことになってるから、明日仕事終わってからレズと出掛けて帰りが遅くなるのをためらった。カダーは明日の晩泊まりにおいでって言ってくれるかもしれないし、なんても思った。だから「明日じゃないほうがいい」って言った。「じゃあ週末だね」ってレズが言った。


帰って来てチビたちのトイレをキレイにして、今日3本めの0.5リットル入りのお水のボトルを飲み干した。今日で4日目。患者さんにいつも言う「一日2リットル」を自分も実行することに決めた。「公園を端から端まで歩く」は昨日一日で挫折。ただ歩くだけなのに。

カダーに火曜日何時に会うのか聞こうと電話したら、携帯が切られてる。

エスプレッソに入れるレモンとたばこを買いに行った。フランクがいつもそうしてくれるから、「エスプレッソにはレモンの皮」がわたしの中に永久インプットされた。ナイフで厚く削るレモンの皮。青くて香りのいいレモンを4つ選ぶ。

デイジーのお散歩に出掛けるフランクと出くわして、「コーヒー煎れた?」って聞かれた。絶対聞くと思った。「今レモンを買って来たの」って言ったら、フランクは嬉しそうに笑った。でも多分今日は煎れない。あと一本お水を飲まなきゃいけないから。


もう一度カダーに電話したけど、やっぱり携帯は切られてる。
夜の11時半。ほかの子とセックスしてるんだろうなって思った。「もうほかの子のところに行かない約束」だってにせものなのに、信じかけてたみたい、わたし。
その子のこと、愛すのかな。もう愛してるのかな。「愛せる子を見つける」って言ったね。


明日、レズとごはん食べに行くことにすればよかった。

エスプレッソ煎れる気分じゃなくなったのは、お水のせいだけじゃないよね。
せっかくレモン買って来たのにな。


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優しく殺されたい - 2002年09月21日(土)

電話を取る。
意識は夢の下に潜んでても、受話器を取る手がちゃんとあの人の電話ってわかってる。
来週の水曜日から一週間、レコーディングの缶詰だってあの人が言った。

「きみは何すんの、今日?」
「しごと〜。」
「え? 土曜日なのに?」
「あしたもしごと〜。」
「え? 日曜日なのに?」
「なーにいってんのー? しゅうまつしごとのときもあるじゃんあたし〜。」
「ああ、そうか。最近世間のことわかってないからなあ。そう言えば日本は三連休らしいけど。僕には関係ないし。」
「なあに? ああ、えっとー、しゅんぶんのひー?」
「そういうやつ。先週も三連休だったみたいよ。」
「いいなあ、にほんはいっぱいおやすみがあってー。」

あの人は、レコーディングしたら新しい CD 送るよって言った。
前の分は?
アメリカに来たとき買ってくれたつるつるになる石鹸は? あわあわのお風呂の素は? 絵本は? カレンダーは?
去年の誕生日に送ってくれるはずだったお人形は?
それから、それから、あとなんだっけ?

「住所、教えてくれないの?」

だって教えたらまた待っちゃうもん。送ってくれないじゃん、ちっとも。
眠たくて、声にならない。
「いまなんじー?」
「夕方の4時半。」

じゃあ朝の5時半かあ、ってぼんやり思った。
でもそれ、間違ってた。3時半だったんだ。

おかげで起きられなくて、10分遅刻しちゃった。ボスのいない週末でよかった。

帰って、Radio VH1 を聴く。
いつもは聴かないステーションに行ってみたら、「Killing me softly with his song」が流れた。

その指で私の痛みをかき鳴らし、その言葉で私の人生を歌い、その歌で私を優しく殺して、その歌で私を優しく殺して、その言葉で私の人生の全てを語ってた。群衆の中で私は恥ずかしさに火照った。まるで私の文字をひとつずつ読み上げてるかのようだった。歌が終わって欲しいと祈った。でも彼は、ただ、ただ、その指で私の痛みをかき鳴らし、その言葉で私の人生を歌い、その歌で私を優しく殺して、その歌で私を優しく殺して、その言葉で私の人生の全てを語り、その歌で私を優しく殺し続けてた。


人生のシナリオは、ときどき出来すぎてる。出来すぎて滑稽なお芝居みたいに。


あの人の曲でわたしは優しく殺されたい。
わたしの全てを見透かすようなあの人の心が創る音で、わたしは優しく殺されたい。
キーボードを走るわたしの大好きなあの指が生み出すメロディーで、わたしは優しく殺されたい。
天使の奏でるあの美しい音楽で、わたしはうっとりと優しく甘く、殺され続けたい。


だから住所を教えなくちゃ。
明日も電話するよって、あの人は言ってた。


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レイチェル - 2002年09月19日(木)

来週の月曜日だったはずのお休みが、ビクトリアのわがままのせいで火曜日に変更された。でもおかげで別に休みを取らずにすんで、火曜日にカダーに会える。

「休み取れる日決めたら教えてよ」って言ってたから、今日は電話するちゃんとした理由が出来た。電話を取ったカダーが、「今トイレ中だから、1分経ったらかけ直す」って言った。切ってほんの少し経ったら電話が鳴る。知らない男の人の声だった。「レイチェル、いますか?」って。カダーが声色変えていたずらしてるのかと思った。「いいえ。レイチェルって名前の人はここにはいませんよ。番号お間違えじゃないですか?」って言いながら、まだカダーかもしれないって思ってた。

「あなた、誰ですか?」って男の人が聞くからちょっとムッとしたけど、やっぱりカダーがいたずらしてるのかなって思って、「あなたこそ誰?」って笑いそうになって聞いたら、「コンラードですけど」。ほんとにコンラードさんみたいだった。声が心配そうだった。ここにレイチェルがいないのが本当ってわかって、その人は丁寧に謝って切った。

それからすぐにカダーからの電話が鳴った。今日はちゃんとかけ直してくれた。
ルームメイトと一緒にマジェッドのアパートに来てるって言った。カダーがこのあいだまで住んでた場所。わたしの前のアパートとおんなじところ。

「なつかしい?」って聞いたら「なつかしいよ」って言った。「あたしもなつかしいな。いいアパートだったよね」「うん、いいアパートだよ」。ルームメイトがプレイボーイのチャネル観てるって言う。マジェッドはケーブルTV の会社に勤めてるから、200近くあるチャネル、全部ただで観られる。「アイツが観てるってことは、必然的に僕も観てるんだけどさ」「プレイボーイのチャネル観るためにマジェッドんち行ったの?」「違うさ。ランドリーしに来たんだよ」。おうちのアパートはランドリールームがないからやっぱりカダーも不便なんだ。このあいだは大学の寮にランドリーしに行ったって言ってた。

「久しぶりにマジェッドに会いたかったしさ。そしてプレイボーイがおまけについてくる」。相変わらずカダーは器用に、わたしとのおしゃべりにほかの二人も交えて、電話なのにみんなでおしゃべりしてるみたいなシチュエイションを上手に作る。不思議な人。

「また電話するよ」って言うから、「してくれないじゃん」ってちょっと拗ねた。「今日は僕がかけただろ? あれ、どっちがかけたんだっけ?」「あたしでしょ?」「いや、この電話は僕からかけた」。「ちっとも電話くれない」ってまた拗ねたら、じゃああとでまたかけるからってカダーは言った。カダーの前じゃいい子でいなくちゃって頑張るけど、ほかの二人がいるからなんとなく緩んでしまう。それでそれがちょっと心地よかったりする。

1時間くらい経って、ほんとにかけてくれた。マジェッドのアパートからの帰り道。
「ほんとにかけてくれると思わなかった」って嬉しそうに言っちゃった。「なんでさ。ちゃんと僕からだって電話してるじゃん」。「忙しいからさ、時々しか出来ないけどさ。心配するなよ、ね?」「うん、わかってる。わかってるよ、忙しいって。いい子だもん、あたし」。忙しいって言いながらほかの子と寝たじゃないって、思った。「いい子だよ。きみは sweetheart だよ」。違うよ、無理してるのに、って、思った。

「キスして欲しい?」「うん、うん」「ン〜マッ」「ふふ。それ好き」「おやすみ。いい夢見なね」「うん、おやすみ。あなたもね」。


カダーがいなかったら、今日もわたしはひとりであの人の電話を待ってた。鳴らない電話を待ってた。鳴らないからこっちからかけてた。繋がらない電話にかけてた。

だから、少し切ないけど、こんなだけど、カダーに会わせてくれたことに感謝。
誰? あの娘? わかんないけど。


また電話が鳴った。あのコンラードっていう男の人だった。
レイチェルの電話番号を探したいって言った。この番号の前の持ち主の連絡先がわからないかって聞かれた。そこはニューヨークの○○なのかってここの場所の名前を確かめてた。わたしはもう2ヶ月くらい前にこの番号を取って、前に誰がこの番号を使ってたかはわたしではわからない、その人がここに住んでこの電話を使ってたわけじゃないから、でも電話会社には記録があるはずだから分かるかもしれない、教えてくれないかもしれないけど、って説明した。コンラードさんだって落ち着いて考えたらそんなのわかるだろうに、とても落ち着いてるふうじゃなかった。「そうですか」ってがっかりした声で言ってから、「何度も電話してご迷惑おかけしました」ってまたとても丁寧に謝った。「いいえ。見つかるといいですね」ってわたしは言って、コンラードさんが切るのを待ってから切った。

レイチェルが見つかるといい。ほんとにそう思う。
レイチェルの事情なんか知らないから勝手にそんなこと思っちゃいけないけど、コンラードさんのために見つかって欲しいと思う。

レイチェルは意地を張って、新しい番号を教えなかったのかもしれない。もしそうならレイチェルのためにも、コンラードさんに早く見つけてあげて欲しいと思う。


みんな幸せになれ。前より、今より。少しくらい切なくても。


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スイート・ドリーム - 2002年09月18日(水)

今度の週末仕事だから、今日はその分のお休みだった。
目が覚めたら、3時。お昼の3時。びっくりした。
このあいだ行った検査機関で採尿したとき量が足らなくて、「うちで採って持ってきてください」って言われてたから、それをする。

それからアボカドとチーズのサンドイッチを作って食べた。ハムも挟もうと思ったけど、ハムは腐りかけで、慌てて捨てた。

おしっこのサンプルを検査機関に持って行く。
そのあとちょっと離れたところの通りをぶらぶらしに行く。
好きな洋服のお店がたくさんあった。知らなかった。ほんとに、何も知らない。もうここに引っ越して一ヶ月半以上経つのに。
ウェスタンブーツに似合いそうな、ロングの素敵なスカートを見つけた。ウェストのところがシャーリングになってて、そこが微妙にちらちら覗くような裾のカットのトップも見つけた。でも我慢した。来週のお給料日まで待ってたら、なくなっちゃうかな。なくなってたら、縁がなかったってことにしよ。


夜、カダーが電話をくれた。
今日、カダーと同じ大学を卒業したって人に会ったって、嬉しそうにカダーは話す。その人が携帯電話の会社をやってて、カダーはルームメイトに代わりに携帯を契約してあげたらしい。
「大学って、あなたの国の?」「そう、僕の国の」。ほんとに嬉しそうだった。「あなたって、友だち見つけるの上手だねえ」「そうかな。友だちはたくさん作りたいとは思ってるけど。友だちって大事だからね。いい友だち見つけるのは簡単じゃないけどね」。カダーはほんとにたくさん友だちがいる。才能だろうなって思う。自分が生まれて育った国でもないのに。まだこの国に来て1年と少ししか経ってないのに。努力もあるんだろうな。カダーは選んだ友だちと大事につき合う。

わたしはどうかな。友だち見つけても、深くつき合うのが苦手かもしれない。長いこと会ってない友だちがわりといて、長いこと会わないのは大して大事じゃないからだろうなって思う。もしかしたらとっても大事な友だちなのかもしれないのに。それでいて、時々無性に恋しくなったりして、なのに連絡取るのが億劫だったりする。


「携帯、持ちなよ」ってカダーが言う。
病院に勤めていると、携帯を使わない。病院内は携帯禁止だし、勤務時間に外に出ることもないし。国際電話をかけるからうちの電話は必要で、うちの電話があるとますます要らない。お金も余分にかかるし。だけど最近、ヴォイス・ストリームの時間数の少ない安いパッケージを見つけて、持とうかなって思ってた。ないならないで困ったときもやり過ごしてたけど、ものすごく不便な思いを何回かしたから。ここの公衆電話はひどい。

カダーがその友だちのところに連れてってくれるって言う。ヴォイス・ストリームのやつ、僕もそれでいいと思うよって。マージンもらうのかなって疑ったりしたけど、それより会えるならそれがいい。

わたしは今度の月曜日がまたお休みだけど、カダーは一日仕事で、火曜日は夕方から仕事で水曜日は仕事がなくて夜クラスがあるだけだって言った。「火曜日か水曜日に、休み取りなよ」って。取る取る、絶対取るよ。ああバカだ、わたしって。

これからルームメイトと晩ごはん食べに行くって言う。「何食べて欲しい?」。カダーもときどきあの人とおんなじこと言う。だけどドクターのときみたいに、おんなじに響かない。「地中海料理」ってわたしは答える。「あたし、もうずっと食べてないよ。あたしも食べたいなあ」って言ったら、カダーは黙ってた。連れてってなんて言ってないじゃん。

今日お休みだったって言ったら、「なんだ。知らなかったよ」ってカダーは言った。言ってないもん。言ったら会ってくれてたのかな。地中海料理の晩ごはん、一緒に食べられたのかな。でも来週会える。それだけで、今週の残りも週末も頑張れる。ほんとにわたし、バカ。

おやすみの代わりに「Have a good dinner」って、 night をもじって笑って言った。
カダーはいつものように、「Have a good night」って言ってくれた。それからいつものように、「and sweet dreams」って。


カダーがわたしに祈ってくれるスイート・ドリームって、どんな夢? 
わたし、昨日見たよ。カダーの夢、はじめて。


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a peaceful day - 2002年09月17日(火)

憧れの Dr.ラビトーとお話しちゃった。
この前エレベーターホールで会ったときは、ずいぶん頬がこけてて、「痩せた?」って聞いたら「ちょっと体重落とし過ぎた」って笑ってた。今日は少し頬が戻ってたから「体重戻ったの?」って聞いたら、「え? 太った? 太ってる?」だって。「そんなこと言ってないよ。カッコいい」って言ってあげた。ますますカッコよくなってた。あのハンサムドクターとは違うカッコよさ。

Dr.ラビトーはほんとにカッコいい。中身も外見もカッコいい。
プライベートな中身なんか知らないけど、ドクターとしての中身がめちゃくちゃ出来てる。「人間が出来てる」じゃなくて、「ドクターが出来てる」。でも人間が出来てなきゃいいドクターなんかじゃないよ、と思う。アテンディングのドクターはみんな尊敬出来る。能力もだけど、やっぱりドクターとしてのケアリングな人間性だろうなって思う。

夕方、仕事の間に GI クリニックに行く。GI の検査を受けるための診察に。
ドクターは、よく知ってるドクターだった。フロアでたまに一緒に仕事する。
知ってるドクターだから恥ずかしかった、おなかと胃触られて。胸はさすがにセーターまくりあげなくて済んだ。セーターの裾から手を入れて聴診器当てられた。でも恥ずかしかった。
GI シリーズ受けるはずだったのに、それじゃ不十分だからって、胃カメラすることになった。12月まで予約でいっぱいだったけど、10月に無理矢理入れてくれた。「スタッフの特権」ってドクターが笑った。少しはあるんだ、特権も。それまでにウルトラサウンドと、この間の検査機関とは別の血液検査もすることになった。


帰りに CD を買いに行った。買いたい CD がたくさんあった。
CD 探してると、気持ちがすうっと落ち着く。CD やさんに行くと、いつもそう。
そして、気持ちがあの人のところに飛ぶ。
音楽は、いつもあの人に繋がる。
あの人が作るみたいな曲、とか、あの人がきっと好きになる曲、とか、あの人に聴かせてあげたい曲、とか。あの人に似合う曲とかあの人が好きって言った曲とかあの人に好きって言った曲とか。

あの人とここに来たら、何時間でも一緒に過ごすんだろうなって思う。
そんな日が来たらいいなって思っても、泣きそうにならなかった。

カダーが教えてくれた曲とか古いなつかしい曲とかも選んで、
13枚も買っちゃった。もっと欲しかったけど。


メイリーンが久しぶりに電話をくれた。
火曜日に、一緒にお昼ごはん食べに行こうって。
メイリーンは病院のすぐ近くにある病院付属の WIC のクリニックで働いてる。
グリークのバフェに連れてってくれるらしい。病院の近くにそんなとこあるの、知らなかった。


CD たくさん買ったからか、Dr.ラビトーと話したからか、いろんな検査してもらえることになって安心したせいか、メイリーンとおしゃべりしたせいか、
うちにいても、今日は「平和」って言葉が似合いそうな日だった。

カダーに電話しなかった。
もしもずっとかけなかったら、カダーは追いかけて来てくれるんだろか。それとも、そのままいなくなっちゃうんだろうか。
考えても無駄なことだけど。だって、そんなことわたしには出来ない。試してみたくても、出来ない。

あの人だけが、ずっとそこにいてくれるって信じられる。


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日記 - 2002年09月16日(月)

明日はジェニーのバースデーだから、今日お祝いに晩ごはんを食べに行った。
明日はジェニーは仕事のあと学校があるから。ジェニーも9月から夜にマスターのコースを取ってる。カダーがコースを取ってるのとおんなじ大学で。

久しぶりにジェニーと出掛けて、楽しかった。ジェニーはカダーを知ってるけど、わたしとカダーとのことは何も知らない。わたしがカダーを好きなことも知らない。こんな幸せじゃない関係を知ったら、ジェニーはきっとまた怒る。カダーのことを、またドクターのことみたいに「ひどい男」って思われたくないから言えない。レズがわたしをずっとデートに誘ってたのは知ってる。ジェニーはレズをよさそうな人って言ってて、だから土曜日にごはんを一緒に食べたことを話した。わたしから電話をかけたって言ったら、ちょっとびっくりしてたけど。

楽しくて、帰り道、またうちに帰ってひとりになるのが辛くなる。あれからカダーは電話をくれなくて、わたしからかけてばかりいる。忙しいと「あとでかけるよ」って言いながら、かけてくれない。


今日もわたしからかけてしまった。また忙しいって言われたらやだなって思いながら。今日はたくさん話せた。カダーは「日記、もう書いたの?」って聞く。わたしが日記をつけてることを、まだ前のアパートにいるときに話してた。ほかの誰も知らないこと。あの人にだって内緒のこと。

どんなこと書いてるのさってカダーは聞いて、毎日一体何を書くのかよくわかんないよって言った。それから、読んで聞かせてって言った。「日本語で?」「英語でだよ」「だめ。内緒のことだもん」「その日にあったことを書くんじゃないの?」「その日にあったこととかその前にあったこととか、その時に考えたこと」「聞きたいよ」「だめ」「いいじゃん。一日分だけ、英語に訳して聞かせてよ」。

カダーは言い出したら聞かない。しょうがないから、一日分を選んで、英語に訳しながら読み始めた。カダーと初めて会ったときのことを書いた日の日記。

途中でためらって止まったら、「飛ばしたり変えたりするなよ。ちゃんとそのまま読みなよ」って言う。飛ばすに決まってんじゃん、あの人のことの部分は。ドクターのこと書いてる部分も誤魔化した。

読みながら、「覚えてる?」って聞くと、「覚えてるよ」って言う。わたしは照れて、笑いながら「やだ。恥ずかしいよ」って言っては止まる。カダーは笑わずに「ほら、待ってるんだから」って言う。「最後まで読んだら、何くれる?」「キスしてあげる」。そう言ってまたあの「ンーマッ」のキスをくれて、「最後まで読んだらもうひとつあげるから」って言った。

「ほかには何もくれないの? あたしの誰にも秘密の日記を読んで聞かせてあげてるんだよ?」「何が欲しいの?」「会いたい」。

いつって約束出来ないって言われた。ウィークデイは毎日忙しいし、日曜日もクラスがあるし、今度の土曜日はルームメイトの友だちのバースデーパーティに一緒に行くって。

「・・・。わかった。じゃあ続き、行くよ?」。明るい声で言う。
最後の部分を飛ばしたから、尻切れトンボになって終わった。「終わったよ」って言ったら「また飛ばしたな」って言われた。「これで全部だって。終わったからキスして」。

「いいね。I liked listening to that. I liked hearing you read it. 書き留めておいたことを、その日に戻って読んだらその時の感覚が蘇ってくるんだね。そういうのっていいね」。

そう言ってくれて、嬉しかった。カダーは言葉が好きで、感覚を大事にする人で感情にセンシティブで、わたし、カダーのそういうところが好きだ。はじめの頃の感覚が蘇って、カダーはどんな気持ちになったんだろう。少しだけ、電話から聞こえる呼吸に乗って伝わった気がした。そのままあの頃の感覚がずっと蘇っててくれればいいのに。


おやすみを言って切ってしばらくしたら、あの人が電話をくれた。
あの人ったら、わたしが教えた電話番号の、一番最後の数字を書き落としてたらしい。最後のひとつが足りないのに気がついて、0から順番におしまいにくっつけてかけて、6のとこでやっと録音したわたしの声が聞こえてメッセージを残したって言った。それはおとといのことだったらしいけど、留守電には何も入ってなかった。

何てメッセージ入れたの? って聞いたら、「かけたよー。またかけるねー」だって。
時が蘇る。


ちょっと幸せな日だった。
その日がちょっと幸せならそれでいいって思えるようになりたい。
遠い先のこともすぐ近い先のことも、憂えることなく。
考えたくないことは何も考えずに。


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男ともだち - 2002年09月15日(日)

「Hello」って言っただけで、思いっきり明るい「Hi!」が返って来た。
誰かと間違えてんのかなと思ったけど、レズはわたしってわかってた。
病院でこの前話したの、いつだっけ? 多分4、5日は経ってるのに、なんかまるで続きを話してるみたいに、わたしが電話したことも別に驚いてなかった。

「晩ごはん一緒に食べようよ」って言ったら、レズはさっきもう食べちゃったって言った。でも、シティに出ておいでよって言ってくれた。友だちと飲みに行くことになってるから、一緒に来る? って。その前にごはん食べればいいじゃん、僕は軽いものつき合うから、って。

安心した。アパートにおいでって言われたわけじゃないし、飲みに行くのも友だちが一緒。ここから初めて地下鉄に乗ってシティに行った。待ち合わせた駅がアップタウンの方だったから、アップタウンに住んでるんだと思ったらダウンタウンだって言う。レズは自分のアパートの近くにカジュアルで美味しいお店があるからって言って、それから多分ビレッジ辺りに飲みに行くからって言った。

明るい。ほんとに明るい。だからおしゃべりが途切れない。まるでジェニーと話してるみたいに、いっくらでも話がコロコロ転がって行って、それで何のこと話してたんだっけ? って元に戻るのが大変だったくらい。そういえば、病院で短い時間話すときだってそれの縮小版だ。

わたしには日本に仲のいい男ともだちがいる。高校の時の同級生で、ステディにつき合ってた時期があったわけでもなく、初めからほんとにずっとただのいい友だちで、もちろんセックスなんかしたことない。泊めてもらったこともあって一緒のお部屋で布団並べて眠って、翌朝「よく男の横で短パン履いてへそ出して口開けて寝られるよな」って言われた。おととしの夏に日本に帰ったときも、何日か泊めてもらった。お風呂あがりにバスタオル一枚で目の前ウロウロしても全然平気な、全く色気抜きの男ともだち。

レズは、ジェニーよりもその友だちといるときみたいな、そんな感じもした。

女ともだちは日常生活に不可欠だけど、男ともだちはそういうわけじゃなくて、でもたまに一緒に出掛けたいときに、男ともだちとの方がちょっと余分に満たされたりする。そしてわたしはジェニーと出掛けるときよりも、ちょっと余分に満たされてた。

ごはん食べたって言ってたくせに、レズも結局フルポーションのアントレ食べて、おまけにデザートまでシェアした。時計を見たら、ミッドナイトをとっくに過ぎてた。もうおなかがいっぱいすぎて飲みに行く気分がなくなった、ってレズは言ってバーにいる友だちに電話した。「アパートに来る?」なんてやっぱり言わずに、地下鉄の駅まで送ってくれた。最後まで、これもやっぱり、途切れることなくひたすらおしゃべりしてた。改札口のところでレズはわたしの肩に手を置いて、ほっぺたにほっぺたをくっつけてくちびるを触れずにスマックする、親愛のバイの仕方をした。

仲のいい男ともだちになってくれるかなって思った。
セックスする友だちじゃなくて。

でも、わかんない。何かを判断するときのわたしのそういう直感はいつも間違ってるから。




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抜け出す方法 - 2002年09月14日(土)

午前中、照会された検査機関に血液検査と尿検査に行く。
夕べ8時以降 NPO だったから、っていうより実際にはお昼ごはん以降何も食べてなかったから、血を抜かれたあと、そのままふらふら近くのカフェに入った。Dr. ナントカが「いいよ」って言ってたカフェだった。

うちに帰ったら、車のウィンドシールドに駐車違反のチケットが貼られてる。
絶対駐車禁止の場所じゃないのに。中をよく見たら、車両登録が期限切れになってることが理由だった。更新の手続きの書類はちゃんと郵送してて、新しいスティッカーとライセンス・プレートを待ってるとこだったのに。そして皮肉にも、郵便受けに届いてたわたし宛ての一通の封書を開けたら、仮登録のスティッカーが入ってた。

コンピューターに向かって、手紙をタイプする。今回こそほんとに plea of non-guilty だ。裁判所でもどこでも行ってやる。わたし悪くないもん。絶対罰金払わないから。


それから車のオイルチェンジに行った。初めて行くところだった。ブレーキがキィキィ言うからそれもチェックしてもらおうとしたら、チェックだけでお金がかかる。だから「じゃあいいです」って言ったら、オイルチェンジの記録の下に「ブレーキチェック」ってコンピューターに入力しながら「特別に無料でチェックしてあげるよ」って言ってくれた。

ブレーキパッドがすり減ってるって言う。「そんなはずない。だって一年前にブレーキ換えたばっかりなんだよ」「一年前? 一年前? うそだろ? ブレーキパッドはねえ、半年に一回換えなくちゃいけないんだよ」「そんなの聞いたことないし、したこともないよ」「ほっとくつもりかよ。ほっとくと完全にすり切れて、このスティール版がこげついてしまうんだぜ」「・・・今すぐ換えなきゃいけないの?」「僕なら当然そうするけどね。説明するからちゃんとここ見てな。ほら、ここから覗いて見たら分かるだろ、すり減ってるのが」。

って、ここでわたしがそのまあるい穴からパッドを覗いて、「なんだー。すり減ってないじゃん」って笑うことになってたらしい。すり減ってるかすり減ってないかもわかんなくて、メカニックのお兄さん二人がケタケタ笑い出すのをきょとんと見てた。「オーケーオーケー。だからね、なんともないんだよ。ブレーキは全然イカれてないって言ってるんだよ」。やっと分かって「からかわないでよー」ってお兄さんの胸をげんこつで殴る。「でもじゃあ、なんでキィキィ言うの?」「さあ。だけど全然ブレーキの機能には問題ないから」「ほっといていいの?」「キィキィがイヤならパッドを交換すればいいけど」「さっきしなくていいって言ったじゃん」「だから、しなくても全然問題はないんだよ。音が気になるなら換えろってこと」。

いいかげんだなあ。よくわかんないよ、信用していいんだかどうか。取りあえずそのままにしておくことにしたけど。ココナッツの匂いの、貝殻の形をしたエア・フレッシュナーを買って車につけたら、車中あの甘い匂いに溢れてココナッツクリームパイが恋しくなった。あの街じゃあ、アップルパイとバナナクリームパイと並んで「3大どこにでもあるパイ」だったのに、ここじゃ何故だか見かけない。


ランドリーを済ませてから、どうしようか迷う。

カダーはこの週末、ボストンの友だちが遊びに来ててシティに泊まってるから、一緒に過ごすんだって言ってた。昨日は3分の2信じてたけど、今日は3分の1しか信じてない。このままひとりでうちにいたら、3分の1さえ信じられなくなる。

あの人に電話したけど、繋がらない。ひとりでいたら、カダーのことで苦しくなりながらあの人に電話番号教えたことが苦しくなる、そんな気がした。そして泣く。絶対泣く。嫌だ。泣きたくない。あの人のことだけで泣くのはいいけど、それにカダーへの思いが加わって泣くのは嫌だ。ぐじゃぐじゃはいいけど、どろどろは嫌だ。


迷った。
迷ったけど、電話した。
抜け出す方法を、どうしても見つけなきゃいけなかったから。

Dr. ナントカ。まだ名字がちゃんと覚えられない。ザーとかガーとかがついてた。
ファーストネームだけ知ってる。引っ越し手伝ってくれたとき、電話番号と一緒に書き留めた。Rez っていった。

わたしはレズに電話した。




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ジンクス - 2002年09月12日(木)

ずっと寒いくらいに気温が低かったのに、真夏みたいに暑かったこのあいだの日曜日。アニーのオフィスのアニーじゃないほうのアニーと、ぼうやのエブラハムと3人で、ビーチに行った。カダーも一緒に行ったあのビーチじゃなくて、少し近い方の、人が一番よく行くビーチに。

急なプランでほかの誰も都合がつかず、でもエブラハムがどうしても行きたいって言うからって、3人っていうよりふたりと半分だけだったけど行った。

波が多いビーチで、サーフボードを抱えた人もたくさんいて、眩しい陽差しをいっぱいに受けて大きな波にみんな大はしゃぎしてた。わたしはエブラハムを抱っこして、ママになったような気分でエブラハムを波に乗せて遊んでた。

「すごい人だったよ。多分これが夏の最後の日曜日だものね」。

夜にカダーが電話をくれたとき、そう話してから、「もうすぐ秋が来るね」って言った。

「秋になったらね、行きたいところがあるの。」
「どこ?」
「セントラル・パーク。葉っぱがすごく綺麗だから。去年もおとどしも行けなかったんだ。だからまだ一度も秋の色のセントラル・パークに行ったことないの。」
「ああ、綺麗だろうね。秋の色が綺麗だろうね。」


あの人と真似したかったオータム・イン・ニューヨーク。
ドクターと歩くはずだった黄金色の落ち葉の雨の下。

それは望むと叶わなくなる願い。消えてしまう夢。そしてそのまま失くなってしまう現実。


「秋になったら、セントラル・パークに行きたい。あなたと一緒に行きたいな。」

カダーにそう言った。
叶わないんだろうなって、そう思いながら言った。
もしもカダーも消えてしまったら、そのせいにしようと思って、そう言った。
あのとき、何故かそう思った。


だから、ほんとに叶わなくなったんだ。
まだ秋にもならないのに、もう叶わない。
消えてしまうわたしの小さな夢。
訪れない現実。

カダーはいなくなる。きっと。


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忘れない日 - 2002年09月11日(水)

少し寒かったから、熱いお湯をたくさん出して時間をかけてシャワーを浴びる。
濃い黄色の、片方の端に濃いブルーの四角が一列に並んでる新しいバスタオルは、わたしのためのタオルだってカダーは言った。バスルームには、おんなじタオルのサイズの大きいのがかかってた。
バスルームも広くて綺麗で、大きな窓には、わたしに選んでくれた紺色のスクロールカーテンとおんなじカーテンのサイズの大きいのがかかってた。

きちんと仕事の支度をして、カダーのベッドルームに戻る。
まだ眠ってるカダーを覗き込んで、「行ってくるね」って小声で言ってみる。
カダーは目を覚まして、わたしの髪を撫でて、とても素敵に微笑んで「綺麗だよ」って言った。

「何か食べる? シリアル? フルーツ?」「ううん、何もいらない」「食べて行きなよ」。そう言って体を起こすから、「いいの。寝ててよ、このまま」って言ったけど、カダーはベッドから起き出してわたしの肩を両手で抱きながらキッチンに連れてった。「バナナ、好き?」。笑いながら「好きだよ。大好き」って答える。「じゃあ、持って行きなよ」「うん」。大きなバナナを一本ちぎって、わたしに持たせてくれた。

そして抱き締めてくれる。また泣きそうになる。でもそれは、痛みよりも切なさに似てた。「またここに来たいな」「おいでよ」「電話してくれるの?」「もちろん」「また会える?」「会うって」「いつ?」「きみが会いたいときにいつでも」「うそつき」。ふたりで笑った。それから顔を見上げて、言ってみた。「もう、ほかの子のところに行かないで」。

「行かない」「ほんと?」「行かない」「約束する?」「約束する」「ほんとに?」「約束する」。

背伸びをして首に抱きついて、耳元で「I like you」って言ったら、ぎゅうっとわたしを抱き締めたカダーが「I love you」って言った。

わたしは笑った。「もうふりしなくていいんだよ」って言いかけてやめた。また泣きそうになった。でもそれは、切なさよりも幸せに似てた。

何度も何度もキスしながら送り出してくれる。
車を出すあいだもずっと見ていてくれる。
見えなくなるまで手を振っててくれる。


多分、今まで一緒に過ごしたなかで、一番幸せに近かった日。
ふりでもお芝居の幸せでも何でも、ほんとみたいに幸せだった。
全部ほんとのことって思いそうになるくらい、幸せに似てた。
だからきっと、もうこんな日はないんだろうなって思う。
そしてこの日のことを、忘れないんだろうなって思う。


似たような日があった。
似たような切ない夜と一緒に。
おんなじように幸せに似ていた。
そして日付がまったくおんなじ、忘れないあの日の前だった。





9月11日。
アプリシエーション週間にこの日を重ねて、病院でお昼にスタッフへの感謝とあの日の追悼のパーティがあった。
だからといって、誰もあの日のことをもうわざわざ口にしない。それは、今日が思い出すための日ではないから。忘れないことと、思い出すことは、違う。この街に住む人たちの誰の胸にも、それぞれの形でそれぞれの思いで、それはずっと忘れられずに留められていて、口にするにはまだひりひりと痛すぎるものだから。

静かに穏やかに、ひとりひとりが特別な思いを胸に、過ぎて行った日。


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「I love you」 - 2002年09月10日(火)

仕事に疲れてベッドでうとうとしてたら電話が鳴った。
「今からうちにおいで。今日泊まって、明日ここから仕事に行きなよ。そうしなよ」って、カダーが言った。

どうしたのかな、ルームメイトが今日は帰って来ないのかな、って思いながら、待っててくれてるガスステーションに向かって高速をぶっ飛ばした。わたしがカダーの新しいアパートの場所を知らないから、「僕たちの前のアパートのそばのモービルのステーションで待ってるから」ってカダーは言った。ああそうだ、おんなじアパートのビルに住んでたんだよね、って、カダーの「僕たちの」って言い方がなんか可笑しくて嬉しかった。

「今の時間なら高速空いてるから30分で来られるだろ?」ってカダーが言ったから、遅れないように必死で飛ばした。またスピード違反で捕まったら罰金払ってもらうからねって思いながら。

チビたちのごはんの用意と「おりこうにして待ってるんだよ。明日の夕方まで帰って来ないからね。大丈夫だよね」って言い聞かせてたのと、高速が思ったほど空いてなかったのとで15分遅刻した。怒ってるかなと思って、ガスステーションに見つけたカダーの車の横にピッタリ自分の車を滑らすようにくっつけて顔を覗いたら、カダーは窓からこっちを見て笑って手を振った。

カダーの車のあとについて、カダーの新しいアパートに行く。
素敵なお家のアパートだった。
リビングルームがとっても広くて、暖炉があって、古い本棚に古い本が並んでるのもアンティークなカボードも、そこのお家のものがそのまま置いてあってそれが素敵で、おしゃれなのっぽのランプがすごく似合ってた。
「素敵だねえ。あたし、自分ちに帰りたくなくなるよ」ってわたしははしゃいでた。

カダーの新しいルームメイトはシャワーを浴びてた。
カダーは暖炉の上に並んでる4本のワインを指さして、「どれにする? 一番左のがきみのために買ったヤツだけど」って言う。それはちょっと変わった形の黒い綺麗な瓶で、わたしはワインのことなんかわかんないけど、カダーがわたしのために買ってくれたっていうならそれがいいに決まってた。

カダーのルームメイトが加わって、カダーは青いりんごとキーウィーを切ってくれて、カダーとわたしはくっついて座って、カダーはずっとわたしを抱き寄せてくれてて、3人で電話でしゃべったときみたいにたくさん笑ってたくさんおしゃべりした。

それからルームメイトは「じゃあ僕は失礼するよ」って自分のベッドルームに行った。

ワインはおいしかった。ゆらゆら気持ちよかった。ゆらゆら揺れながらわたしたちもカダーのベッドルームに行った。カダーはお財布にコンドームを入れてて、別にそのせいじゃなかったけど、そのあとそのままベッドで甘えておしゃべりしながら、わたしは「ほかの子と寝た?」って聞いた。カダーは答えないで「きみは? ほかの男と寝た?」って聞いた。「ううん。あなたは寝たの?」。別にセックスがなんとなく違ったとかそういうんでもなくて、ほんとにただ、そう聞いた。一ヶ月近く会ってなかったからだけかもしれない。わかんない。でもそういう勘は当たることになってるんだ。「そういうこと聞くなよ」「平気だから教えてよ」「泣きたいの?」「・・・」。それからカダーは寝たって言って、わたしは「前のガールフレンド?」って聞いた。今でも友だちって前に言ってたから。カダーは「そう」って言ったけど、それはどうだかわかんない。「何回?」「・・・多分2回」。

一生懸命笑顔を作って、でもダメだった。
カダーは泣くなって言ったけど、「あたしそんなに強くなれないよ」って、笑いながら泣いた。カダーはとても優しくて、でもダメだった。眠られなかった。カダーが寝てる間にこっそり洋服を着てバッグを持ってお部屋を出ようとしたら、見つかっちゃった。

カダーはこっちにおいでって言って、長いこと抱き締めてくれて、額や頬やくちびるにたくさんキスをしてくれて、隣りにわたしを座らせて、カダーの国の言葉の本を読んで聞かせてくれた。わたしはカダーの国の言葉を聞くのが好きだった。それは詩集で、カダーは詩が好きだった。全然意味なんかわからない不思議な言葉をカダーが声に出して読むのを聞きながら、「意味わかんないだろ?」ってカダーが言ってわたしは笑って首を横に振って、「好き?」ってカダーが聞いてわたしは笑って首を縦に振った。

「ここにいなよ。いやなら僕はリビングルームのソファで寝るから。帰るなんて言うなよ」。わたしはカダーの額に泣きながらキスした。「キスしてくれたの?」ってわたしをまた抱き締めて「ありがと」ってカダーは言った。

わたしはわかってた。帰りたいけど帰ったら、帰りの高速でまたあのときみたいにボロボロになって泣いてしまう。わたしの新しいアパートはドクターのアパートに行くときのあの橋の手前にあって、だから前のアパートの近くにあるカダーのアパートからは、あの日とおんなじ道を逆に走ることになる。

おんなじ道を逆に走りながら、おんなじようにボロボロになって泣くのは辛すぎる。

悲しくて帰りたいけど、哀しくて帰れない。

カダーの胸はあったかくてカダーはとても優しくて、わたしはカダーの言葉に一生懸命笑いながら、少しずつ、「恋人じゃないんだから、しょうがないじゃん」って笑って思えるようになっていった。そして、楽になるかもしれない方法を見つけた。

「恋人のふりして。今だけ。それから・・・」
「それから?」
「それから。Tell me you love me.」

「I love you」。カダーは言った。わたしの名前を呼んで、もう一度言った。

にせものの I love you に痛みが溶けて行って、わたしはカダーの腕の中で朝が来るまで眠った。


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電話番号 - 2002年09月07日(土)

何回目かに、やっと電話が繋がる。
「よかったー。かけてくれた。きみの前の番号にかけても、全然どこにもかからないんだよ。テープももう聞けないし」。
ほんとなのかな。日本からかけるとそうなるの? わたしが前の番号にかけると、ちゃんとまだ新しい番号のメッセージが流れるのに。

「怒ってる?」って、笑いながら聞く。
「怒ってるよ。きみはちっともかけてこないし」。あの人は笑わないで、ほんとに怒ってる。

接待中だから、今話が出来ないって言う。
どうしよう? どうしようかな。明日かけてって言ってもまたかけてくれないかもしれないだろ? どうしよう? ねえ、いいかげん番号教えてよ。

本気で困った声で、そう言う。
泣きそうな声で「お願いだから、教えて」って言う。

だから教えちゃった。
新しい電話番号。

どうしよう、は、わたしだ。
教えちゃった。

明日の朝かけるって言ってた。
また待つのかな、わたし。
また待ち続けるのかな。

いやだってば。

ほら、もうあの人の明日の朝待ってる。




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Give me a kiss - 2002年09月06日(金)

リビングルームで、買ってきたアイリッシュ・ビア飲んでるカダーはご機嫌で、昨日よりもずっとおしゃべりになってる。かけてくれるって言ったのになかなかかかって来なかったから、わたしはその少し前に、マジェッドに「このあいだビーチに行ったときの写真を送ってよ」って電話してた。

「もしかしてかけてくれた?」
「いいや。今帰って来たとこ。なんで?」
「さっきまでマジェッドに電話して話してたから」。

マジェッドとはビーチに行ったとき以来話してなくて、なんとなくカダーのことちょっと探ってみたくなったりした。「あれからカダーにも会ってないんだよ」って。「ほんとに? もう会ってないの?」なんて言うところが、なんか嘘っぽいなってちょっと思ったし、カダーはそういうつもりなのかなと思った。「もう会ってないの?」ってマジェッドが言ったのは、「もうつき合ってないの?」って意味だから。「ううん。電話では殆ど毎日話してるけどね」って言ってから、「でもつまんないよ。カダーが会ってくれないからたいくつ」って言ってみた。言ってみたけどマジェッドは「あいつはめちゃくちゃ忙しくなったからね。夏の間はヒマでしょうがなかったけどさ」って笑うだけだった。

マジェッドはマジェッドで、ジェニーのことを探りながら聞き出そうとする。ジェニーをほんとに好きになっちゃって何度も電話してるみたいだけど、わたしはジェニーにその気がないのを知ってるからなんとなくはぐらかす。

ふたりで似たようなことし合ってるなって思ってた。

「なんでマジェッドに電話したのさ?」
って、カダーは2回もそう言って怒る。写真を送ってって言っただけだよって言ったら、「そう言えば、ほかの写真はなんで送ってくれないんだよ」ってまだしつこい。
「そのうちね」って笑ったら、「送ってくれなかったらもうキスしてやらない」なんて言う。

カダーの新しいルームメイトと「話す?」ってカダーが聞く。
「なんで? いいよー」「なんでだよ。Hi って言いなよ」。
それでその人が電話に出たら、カダーと声がそっくりだった。「うそ。ほんとはカダーでしょ。からかってんの?」って言ったくらい。
カダーのルームメイトもカダーみたいに可笑しい人で、ゲラゲラ笑っておしゃべりした。横からカダーが大声で会話に入って来たりして、3者通話みたいにおしゃべりしてた。
楽しかった。だけど、今週も週末に会えない。

忙しいのは本当なんだよね。毎日仕事してて、9月から、ウィークデイに3日仕事が終わってからと日曜日にもマスターのコースを取ってる。

切るときに、「いつ会えるの?」なんて聞いてしまう。「わかんない。多分、来週」。
多分、違うだろうな。会えないんだろうな。
それから、また名前を呼んだ。「カダー?」「何?」「・・・」「言いなよ」「Give me a kiss」。
「ンン〜〜〜マッ」って、ふざけたおっきなスマック入りのキスしてくれた。
可笑しそうにわたしは笑った。笑ったけど、ほんとは可笑しくなかった。
ほんのちょっと嬉しいだけだった。

淋しいなら、なんとかしなくちゃ。
もっと自分を傷つけるまえに、なんとかしなくちゃ。
傷がどんどん大きくならないうちに、なんとかしなくちゃ。

そう思う。
でも、やっぱりやり方がわからない。



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あやつり人形 - 2002年09月05日(木)

ひどい吐き気がして、頭痛がして、目眩がして、足が痺れて立てなくて、汗が吹き出て体が冷たくて、寒くて寒くて、胃の奥の方が刺すように痛くて、肩と首が重たくて、それで昨日は仕事を休んだ。先月はなんともなかったのに、その分が回って来たみたいなひどい生理痛。今朝は大丈夫かなと思って、まだなんとなくズンと重たい体を引きずって仕事に行ったら、オフィスに入ったとたんみんながびっくりする。顔が真っ青って。

みんなに帰れ帰れって言われて、帰って来た。
そして、昨日あまりにひどかったから、お医者に行った。
病院休んで医者に行くってなんか変だけど。

近くのクリニックのドクターは、優しくて素敵な女のドクターだった。血液検査と尿検査と消化器系の検査を生理が終わってから受けるように言われて、専門の検査機関を照会してくれた。GI の検査はうちの病院でやってもらう。それからお薬を処方してもらった。

医者に行ったってだけで元気になったような気がした。処方箋もらったのに薬の保険のカードをうちに置いてきちゃってお薬を買いに行けず、でも気分よくなったからいいか、ってそのままうちに帰った。

気分よくなったからたいくつになって、仕事中ってわかってるのにカダーに電話した。
電話はうまく繋がらなくて、切れた。しばらくしてからかかってきた。
「ごめん、シグナル届かなかったみたいだ。なんでうちにいるの? どうしたの?」。
昨日体がものすごいことになっちゃって、今朝は仕事に行ったけど顔色悪いから帰れって言われて、それでお医者に行って来たった話してから、慌てて「もう平気。生理が始まったからなの。それだけ」って言った。

カダーには弱いとこ見せちゃいけないって、意地になって思ってしまう。

夜になって、また電話をくれた。心配してくれてた。
それから、新しいアパートで暮らし始めたカダーに昨日送った housewarming の E カードを、ほんとに嬉しかったよ、って。
ちゃんとメールで返事くれたのに、またそう言ってくれる。
きみってほんとに素敵に綴るね、It was so sweet って。
こころをそのまま言葉にしただけ。それだけなんだよ。
ふつうの言葉に想いを隠しただけ。見えないように。


昨日フランクに言われたことをずっと考えてた。
「友だちとして」とか「シリアスじゃない関係」なんて男は誰でも言いたがる。だからそう言われれば、自分もそういうふうにつき合えばいいんだよ。楽しいなら楽しめばいいんだよ。「友だち」がいっぱいいたっていいじゃないか。そうしながら真剣に愛し合える人に巡り会えるもんだよ。男のことなんか一番最後に心配することさ。ちゃんと巡り会えることになってるんだよ、一番相応しい相手に。

「優しくされたり冷たくされたりしてるんだね? だから諦められないんだね?」。
そう言われて、ほんとにそのとおりだって認めた。
わたしったら、ほんとにすっかりカダーの手のひらで踊らされてるんだ。


友だちでもなんでも、好きだと思ってくれる気持ちを大事にしようと思うのは、バカ?
送ったカードをあんなに喜んでくれるのは、言葉にこっそり託した想いが伝わってそれを受け止めてくれてるからだと思うなんて、間違ってる?

大事にしたら大事にしてくれるときが来るって信じるなんて、子どもすぎる?

わたしって、可哀相な女なのかな。


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参ったよ - 2002年09月04日(水)

参った。
フランクに言われた。
「Are you a happy person or a sad person?」。

外では思いっきりハッピーパーソンなわたしのはずなのにな。
バレるか、やっぱり。うちにいるときのわたし。大家さんだもんね。

だって心細いよ。
将来のこととかお金のこととか
いろいろあるけど、突き詰めれば誰もいないってこと。

恋人とかそういうんじゃなくて。

家族ってさ、いるときはそのことにあんまり気づいてないんだよね。
その存在がどんなに心強いものかって。
守るものがあって、守られてるものがあって、
そういうのがどんなに人を強くしてくれるかって。

ひとりでいても孤独なんか感じたことない、ひとりの時間がすごく大事。
フランクはそう言うけどさ、
孤独じゃないからそうなんだよ。
例えば一緒に居る家族と上手く行ってなくたって、
例えば家族がどっか遠くに住んでたって、
例えば親戚の誰かさんと一年に一回クリスマスに会わなくちゃいけないのがめんどくさいなって思ったって、
そういう誰かがいるのと、だあれもいないのとじゃ、
違うんだって。

家族が誰ひとりいないこの国でひとりで生きてるってどんなに心細いだろうねって、
それはいつも思うよって、
そう言ってくれるけど、
わかんないだろうな。

わたしだって、知らなかったもん。
ひとりでいる淋しさよりふたりでいる淋しさのほうが、ずっと淋しい。
そう思ってたときがあったもん。

あの頃は確かにそばにいてくれる家族がいた。
こころが通わなくなって、それが淋しくてしかたなかったけど、
それでも誰かがそばにいるって、
全然違うんだよ。
淋しいことと心細いことは違うんだよ。

でもね、自分で選んだことだから。
後悔なんかしてないし、これからだってここでひとりで生きてく。
それにさ、この国になんて、ひとりぼっちで生きてる人なんかいっぱいいるじゃん。

ただね、
どうしようもなく心細いときに、
そう言えて胸に甘えられてそれを涙にして流してしまえる人が欲しいよ。
家族なんかいなくてもいいから。

カダーはだめなんだ。
泣くわたしは好きじゃないから。

自分を傷つけちゃだめ、自分を苦しめちゃだめ、自分をハッピーにしてあげなくちゃだめ。
って、フランクは言う。

わかってるけどさ、やり方がわかんないんだもん。


参ったよ。
フランクがそんなこと言い出すからだよ。


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天使の策略 - 2002年09月03日(火)

電話した。
あの人は寝てた。
ものすごく久しぶりの寝ぼけ声。
わたしの好きな寝起きの声。
寝ぼけ声でいきなり聞く。
「ねえ、アルコールって、英語でちゃんと発音したらどうなるの?」

カッコつけて言おうとするからあの人はホのところがフォみたいになって、
「ちがうちがう。フォじゃなくて、ホ」「コホッて咳するときみたいに言うの」「ホのあと伸ばすとき R が入ってるよ、カッコつけないでふつうに伸ばすの」「んーだいぶ上手くなった」「そうそうそう」「あ、またもとに戻った」
とかやってるうちに時間が過ぎてく。

「もうやだ。話ししようよー、ふつうに」
「あ、じゃあもうひとつだけ。『ムラムラしてきました』は?」
「何聞いてんのよ。まあいいよ、教えてあげる。Iユm getting horny.」
「もいっかいもいっかい。フォーニー?」
「違う、またフォって言うー。ホだって。あなたちょっとホに弱いよ。だからさー、もうやだってば」
「じゃあさじゃあさ、『勃起しました』は?」
「うるさい。もう教えない。なんでそういうのばっか知りたいわけ?」
「わかったわかった、じゃあ『きみ勃起してるよ』にするよ。これならいい?」

そんなことばっか言ってるうちに、あの人は「仕事行く用意しなきゃ。うそ。ほんとはうんこしたくなった」とか言い出す。バカみたいにしょうもないことで笑って笑って、1時間以上も話したのにちっとも素敵な会話なんか出来ないまま終わった。

ねえ、これって何?
わたしさ、ほんとにほんとに真剣に深刻に、
もうあなたのこと待たずに生活しなきゃって、
あなたと話せなくなることに慣れなくちゃって、
一生懸命考えて考えて我慢して我慢して
でもやっぱり愛してて大好きで心配で、
どうしても声聞きたくて我慢出来なくなって、
だけどなんとなくもう大丈夫な気がして
そんな気がしたからこの間とうとう電話しちゃって、
そしたらやっぱりわたしあなたが大好きだって思って
あなたもわたしのことやっぱり大好きでいてくれてるんだって分かって、
でも思ったよりあなたが平気そうだからちょっとつまんなくて、
だから意地悪して新しい電話番号まだ教えないでいて、
このあいだより少しは分かってくれて
また魔法の言葉くれて素敵なおしゃべり出来るかなって思って、
そう思って今日また電話したのにさ。

ねえ、もしかしてちっとも分かってない?
そういうわたしのものすごい複雑な葛藤。
絡んでもつれて必死になってほどこうとしてるうちによけいこんがらがっちゃったけど
落ち着いてほどいたらほどけるかもしれないって思えてきて
きっとそうだ、大丈夫、ってそう思い始められるようになったまでの奥深い過程。
引っ越すこと決めてから今日までの、わたしにとってはそれは長くて険しかった道のり。
大げさじゃないんだって。

「大好きだよ」って言いたかったのに。聞きたかったのに。
そしたら飛び越えられると思ったのにさ。

分かってないんだろうな、ちっとも。
まあいいかな。これでいいのかな。
楽しかったから。
あなたとじゃなきゃ、あんなふうに心底バカになれないし笑えないしそのバカさ加減が愛おしいなんて思えないよ。

だからこれでいいのかな。

でも何がいいのかな。
ほんとにいいのかな。
それともまた苦しむのかな。

わたし何を飛び越えられると思ったんだろ。
それとも何かをもう飛び越えたのかな。

ほんとは分かってて、一緒に飛び越えてくれたの?
無邪気に笑いながら、手を引いてくれてたの?

だったら、もうなかったことにしてもいいや。
ひとりで少しだけ離れてみようって思ったこと。
出来そうな気がしてたこと。

ねえ、めちゃくちゃ楽しかったね。ね。


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雨の日はオカシクなる - 2002年09月02日(月)

どしゃ降りの日曜日。一歩も外に出ないでいた。
雨の音を聞きながら、嫌い嫌い嫌い嫌いっていつものように雨に嫌いをぶつけてた。
夕方にバスタブにお湯をいれてお風呂に入った。引っ越して来て、初めてバスタブに浸かった。ブルーのバスタブに溜めたお湯にミルクのオイルを落としたけど、お湯はミルク色にならずに濁ったグレーになった。濁ったグレーがここの雨みたいなのがイヤで、スポンジにボディジェルを山盛りに絞ってごしごしからだを洗ってお湯を泡だらけにして、雨色のお湯を泡の下に隠した。バスタブの栓を開けてお湯を落としながらシャワーを一番強くして体中に打ちつけてたら、オカシナコトになってしまって気持ちよくなって気持ちよくなって気持ちよくなって、イッた。雨の日は、わたしはますますオカシクなる。

レイバーデーのお休み。今日も雨。仕事だった。
レイプされて運び込まれた患者さんを診る。綺麗なドレスを着てシルバーのネックレスを付けたままだった。顔も体も痣だらけだった。声が出ない。動けない。食べられない。水も飲めない。一言ずつゆっくりゆっくり、出来るだけ優しい言葉で接する。体中のエネルギーをぎゅうっと凝縮させて、わたしの口から出る息すら彼女にそれ以上痛みを与えることのないように、静かに、だけど安心をあげられるだけの強さは保って。妹らしい女の子が、お兄さんらしい男の人の胸にしがみついてずっと啜り泣いてる。ナースステーションに戻ると手が震える。犯した男を殺してもその男は天国に行く。殺したわたしも天国に行く。この世はそういうところ。


大家さんのフランクがベイクト・ズィッティとチキンとオリーブのお料理を持って来てくれる。「半分は明日食べればいいよ」って言ったけど、一週間持ちそうなくらいの量。食後にたばこを吸いに外に出たら、フランクもたばこ吸いに降りて来た。雨は小降りになってた。車の保険の話をして、明日フランクが手続きを手伝ってくれることになった。エスプレッソを煎れてくれるって言うからごちそうになりに行く。本物のエスプレッソ。レモンの皮をナイフで削ってカップに入れてくれる。スターバックスとはワケが違う。おいしい。でもわたしはスターバックスで11年生きてるから、スターバックスも好き。って言ったら、あんなのは水だって言われた。イタリア人はスターバックスのエスプレッソなんか認めない。イタリー街にまた行きたいとふと思う。ちょうど一年くらいになる。カリビアン・パレードの少し前だった。


カダーが新しいアパートに移って、電話をくれる。
どんなアパートか教えてくれる。本棚を組み立てながら「引っ越しのライブ」とか言って、やってることをイチイチ解説して笑わせる。「今右手だけで棚付けてるところ」って、荒い息づかいと一緒にウッとかアーとか「shit!」とか聞こえる。「You sound sexy」って笑ったら、「左手で何握ってると思う?」。黙ってたら、「バカ、電話だろ」。それから、「ちょっと待ってよ、これから肝心なとこだからライブ中継中断。この音楽いいから聴いてて」って、アフリカっぽい音楽を電話で聴かせてくれる。「聞こえる? 聞こえてる? じゃあそのまま待ってるんだよ」ってカダーはしばらくいなくなる。音楽を聴きながら、あの人みたいってちょっと思った。あの人の曲長いこと聴いてない。聴きたい。送ってくれた新しい CD、戻って来たって言ってた。聴きたい。聴きたいよ。聴きたい・・・。

エッチなこと話してはゲラゲラ笑い合う。そのうちカダーが「服脱いでごらん」って言い出す。今日は嫌がらないでいてあげる。嫌がらないで、昨日シャワーでイッちゃったこと笑いながら話して、服を脱ぐ。今度はわたしが実況中継してあげる。「今パンツ脱いだところ」「今シャツ脱いでるところ」「今下着だけになったところ」。「今左手だけでブラ外してるところ。右手で何してると思う?」「電話持ってるんだろ?」。クスクスケラケラ笑いながら、「見たい。触りたい。キスしたい。舐めたい。それから・・・くわえたい。それから・・・食べたい。それから・・・奥まで呑み込みたい。それから・・・」。吐息を混ぜていくらでも言ってあげる。「ビッ・ディ・ズィッ・バック。あってる?」。カダーの国の言葉で言うと、カダーが笑う。「You sound sexy」。「ビッ・ディ・ズィッ・バック、ビッ・ディ・ズィッ・バック。ビッ・ダ・クースィ?」「Yeah」。わたしはカダーの「Yeah」が好き。それからカダーがわたしに命令する。命令されるままに指を動かして、声をあげる。


「Do you miss me?」「Yeah...」「ちゃんと言って」「Yes...I miss you」「I miss you too, カダー」。
わたしは勝ったような気持ちになる。だけど負けたような声を出して、カダーのおやすみにおやすみを返す。雨の日の子犬みたいに、きゅうんと濡れた声で。

雨の日だから、わたしはオカシイ。こんなふうにオカシイならカダーは許してくれる。


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説明なんか要らない - 2002年09月01日(日)

「新しいとこ、どう?」。あの人は聞いた。黙ってたらまた、「ねえ、どう? 新しいとこ」。全然変わんないあの声で、まるで昨日まで毎日電話してたみたいに。「そんなことしか聞かないの?」。わたしは拗ねた声でそう聞く。

2週間以上も電話しなかったのに、なんでそんなに平気なの?
あーあーもう。あんなにあんなに我慢してたの、何だったんだろ。
あの人がまるで平気そうで、力が抜けた。なんでかわかんないけど、ほんの少ししか悲しくなくて、それより安心して、なんだか愛おしくなって可笑しくなってくる。だけど拗ねてるふりして絡んでた。

あの人は話をはぐらかしてる。
そのうち誰かといるんだって分かった。
しばらくして誰かに何か言って、それから急に普通のあの人に戻った。

「ヘンだっただろ? 仕事の人と一緒だったから。」
「ヘンだった。別に電話しなくてもどうでもいいんだって思った。」
「違うよ。前の番号にかけたんだよ、何度も。」
「ほんと?」
「ほんとさ。何度もかけた。もう繋がらないってわかってからも。」
「新しい番号、テープで言ってなかった?」
「え? 新しい番号テープで流れるの?」
「そうだよ。」
「・・・そこまで行き着いてない。テープの声聞いてすぐ切ってたよ。教えてくれないの? 教えてよ。」

やっぱり忙しくて、「もう仕事に戻らないと」ってあの人が言って、わたしは「やだ、だめ」って甘えて拗ねてわがまま言ってる。「ちゃんといっぱい話がしたい」って、もう泣きそうになってる。わたしも、まるで昨日まで毎日電話してたみたいに。

一体ほんとにわたしって、何のために電話するの我慢してたんだろう。昨日はいい子になれると思ってた。カダーの電話で頑張ったから、そのままあの人にも素直で聞き分けのいいわたしになれる気がしてた。クールを装える気さえしてた。カダーにするみたいに、うんと甘えたい気持ちも泣きたい気持ちも抑えて。大好きな気持ちさえ抑えて。


出来るわけない。出来るわけなかった。
3週間我慢したって、2ヶ月我慢したって、1年我慢したって、きっとおんなじ。

わたしはあの人にどんな気持ちも隠せなくて、だからいい子になんかいつになってもなれない。そしてあの人は、わたしのどんな気持ちも受け止めてくれて、どんなに時が経ってもわたしの愛を信じてくれてて、いつが来てもいつでも真っ直ぐな愛をくれる。

変わらない。絶対に変わらない。「この気持ちは変わらない」。あの人が言ってた言葉の意味が分かる。それは、小難しい哲学でも考え抜いた理屈でも甘い愛の言葉でもなくて、ただ、確かなこと。理由なんかなく、確信出来ること。


ねえ、カダー?
愛するってことに、説明なんか要らないんだよ、きっと。
謎解きみたいに、解いて行かなくてもいいんだよ。
それともそんなこととっくに知ってて、だからわたしを愛せないって言ったの?
わたしへの想いには説明が必要だから?


わたしはあの人にまた電話番号を教えなかった。

待たないことにもう少し慣れてみよう、なんて思ってるんじゃない。
悲しんでくれるかどうかであの人の想いを試したかったわけでもない。
前の番号にかけて AT&T のテープに録音された新しい番号をあの人が書き留めてくれるのを、待っていたいんでもない。

ちょっと意地悪したかっただけ。

大好きだから。


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