天使に恋をしたら・・・ ...angel

 

 

ふたり、ふたつ - 2001年09月30日(日)

おじいちゃんが倒れた。やっとお母さんの容態がよくなって、退院出来たばかりなのに。昨日の真夜中のはずの電話は、12時頃にかかってきて、元気のない声に驚いたらそういうことだった。

これから病院に行くからって言いながら、あの人は気が動転してるふうだった。「なんでこんなことばっかり・・・」って言う。「だめだよ、そんなふうに思ったら。あなたがそんなこと思っちゃだめ」。そう言いながら、わたしの心臓もドキドキしてた。

さっき、電話があった。日本の朝。まだ ICU にいて、検査の結果がわかってないって言った。どうしてそんなにかかるんだろう。日本じゃそれが当たり前なの? まして、ICU なのに。それでもおじいちゃんはちゃんと話が出来る状態だったって言うから、安心した。「大丈夫だよ。しぶといおじいちゃんだからさ」なんて、またあの人は冗談っぽく言う。「ごめんね、心配かけて」って、わたしの心配の心配をする。「ちゃんとごはん食べた?」なんても聞く。バカなんだからって思いながら、「あなたが大丈夫って思ってなくっちゃだめよ。あなたが大丈夫って思ってれば、大丈夫なんだから。ね」って、こんなときにはわたしもちゃんとおねえさんになる。

「わかった。ありがとう」。そう言ってあの人はキスしてくれる。わたしは3回お返しする。「ひとつはおじいちゃんへだよ」「うん、伝えとく」「だめだよ、ちゃんとキスしてあげて。わたしのかわりに」。やっとあの人は笑ったけど、わたしは本気だったのに。「わたしのかわり」は本気じゃないけど。

キスはいつだって、誰にだって、どんな時にだって、魔法なんだよ。

わたしは愛を感じた。あの人をやっぱり愛してると思った。なんでそう思ったのかわからない。ただ、感じた。自分が、とてつもなく、計り知れなく、あの人を愛してると思った。男とか人とか、そういうのを越えて愛してるんだと感じた。あの人の愛も感じた。理由はわからないけど、感じた。絶対消えない。


朝11時頃、ドクターに電話してみた。ドクターはいた。寝てるとこ起こしちゃった。「ごめんね、起こした?」って言ったら「いいよ、いいよ。元気にしてる? 元気? きみは元気?」って何度も聞いた。「メール送ったでしょ?」「見たよ。返事書いただろ?」「あれからまたくれたの?」「きみが Dr. カプリンのこと怒ってて、それからは書いてない」「なんだー」「カード、嬉しかったよ」「その前のも届いた?」「猫のやつ? あれ、かわいかった。ペンギンのもかわいかったけど」。あの人みたいなこと言う。

休暇はブラジルに行くことになったって言った。スキューバダイヴも出来るんだよってはしゃいでた。きみにビキニ買って来てあげるよって言った。ストリングのちーっちゃいやつだからね、着る場所ないかもしれないけどって。
「平気だよ。どこでも着ちゃう。」
「ここのビーチで?」
「ダメ?」
「セルフ・コンシャス過ぎるよ。」
「あなたと一緒だったらいいじゃん。」
そしたらドクターは言った。
「もし僕がきみといたら? そういうこと?」

どういう意味かわからなかった。来年の夏はもうドクターはここにいないから? 7月まではいるはずなのに。それとも、その前に、もう半分のガールフレンドでもなくなっちゃうの? 10ヶ月の間にいろんなとこ連れ出してあげるって言ったじゃん。このあいだ、わたしが泣いちゃったときだって、「今はシリアスな関係は欲しくないけど、つき合ってくうちにそうなるかもしれないから」って言ったくせに。泣いた理由はそれじゃなかったけど。

短い間にぐるぐるぐるぐる考えて、返事出来ないでいたら話題が変わってた。何でもないふりして、わたしは Dr.カプリンの悪口言ってた。

「今週、きみは休みなし?」
「ないよ、ウィークデイは。」
「そっかー。こっちの病院に夜会いにおいでよ。ヒマな日もあるんだよ。」
「どうやって? 入れないじゃん、夜なんて。」
「そっちの病院の ID があれば入れるはずだよ。」
「だって、理由聞かれたら何て言うの? ドクターのアポイントがありますって?」
「ダメだね、夜じゃ。」

会いたいって思ってくれてるの? それとも、わたしが「会いたい」ってメールに書いたから? そんなふうに思っちゃうなんて、もうわたしの負けだね。最初に声かけてきたのはドクターの方なのに。今はわたしが恋焦がれてる? なんか、そういう歌あったっけ。

どうやって、どこまで、好きになってていいのか、わからなくなってる。



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返事 - 2001年09月29日(土)

返事遅くなってごめん。
今、朝の5時。ERのスタッフルームにいる。
このところずっと ER ばっかりだよ・・・。
元気? B5はどう? Dr. カシーは?
返事ちょうだい。どうしてるのか教えてよ。


朝起きたらメールが来てた。ドクターの名前を見つけて、胸が躍った。長い返事を書いた。


メール嬉しかった。もう長いこと会ってないみたい。
B5は変わったよ、あなたがいなくなってから。誰も笑わなくなったの、あなたがいないから(笑)。みんなあなたを恋しがってる。じゃなくて、わたしが。

わたしも忙しいよ。忙しいのは、毎日新しいドクターたちが口説きにくるから。でもソノ気になる人はいなくて(あなたみたいに?)断るのが大変。よその病院にボーイフレンドがいることにしてるの。

冗談だよ、もちろん。そんなこと起こりません。新しいドクターたちはとても真面目でお行儀がいいです。そうじゃなかったのはあなただけだよ。

金曜日は忙しくて7時まで仕事した。あなたの忙しさに比べたら、何でもないけどね。重症の患者さんがたくさんいて、その上精神病棟の患者さんからカウンセリングの依頼受けて、それが延々かかったの。

Dr. カシー? ほんの時々だけ見る(残念)。でも元気そうだよ。フランチェスカ? 相変わらずいい子です、心配しないで。最近スーザン・バークとよく話します。かわいいね、彼女。大好きだよ。 Dr. カプリン!!!! 頭に来る!!!! 彼女はビッチです。最低! 彼女がそっちの病院に行って、あなたが戻って来るべきだよ。本気だよ。彼女、患者さんたち殺しちゃう! それからわたしのことも!

ミズ・ベンジャミン、あのちょっと年輩のよく働く信頼できる素敵なナース、いつもあなたのことでわたしをからかうの。昨日言われたよ。「見たわよ、カレに何かあげてるとこ。あれは何だったの?」。わたしはもう、白衣のポケットにクッキー入れて歩いてません。

そんなとこ。いつもあなたが恋しい。会いたいなあ。あなたもわたしが恋しい??

仕事、頑張り過ぎないでね。自分の体も気をつけてね。しっかり食べてね。もう病院で女の子口説いちゃだめだよ。わかった?


書いて送ったらまた寝てしまって、起きたら夜。何時間眠ったんだろう、全部で。夕べおなかの下の方に鈍痛があって、来る頃だなと思ってたら、来た。敏感になった。からだがじゃなくて、こころが。またちゃんと周期が気になるようになってる。先月はドクターが生理痛をとても心配してくれた。いつだったかあの人も、「今日はおなかが痛い」って言ったら「生理になった?」って心配そうに言った。そうじゃなかったんだけど。生理痛って、男の人はどんなふうに心配するんだろう。なんか不思議だ。夫はあんまり気遣ってくれなかった。


今日は夜中にあの人から電話がある。

遠くにいても、どこにいて、何をしてて、いつ声が聞けるのか、わかってる人。そばにいなくても、そばにいないから、そうやって安心をくれようとする人。


顔を見上げて名前を呼んだら、「何?」って返事してくれるドクターのあの言い方が好き。そばにいて、名前を呼べるはずの人。すぐそばで、返事してくれるはずの人。


会えることを、遠すぎるから諦めなきゃいけない人と、近くにいるから諦められない人。近いのに遠い。遠いけど近い。どっちがどっち? どっちも悲しい。









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こんなんじゃなくて - 2001年09月27日(木)

なんかね、どうしちゃったんだろ、わたし。

ドクターはいっつもそばにいてくれて、

「ハンバーガー食べたいー。ハンバーガー食べに行こーよー。」
とかっていきなり言えて、
「なんでさあ、ハインツのケチャップって、いっつも満タンにしてあるの? だから出てこないんじゃん」
って言いながら、ビンのお尻をバンバン叩いて、
見かねたドクターが「かしなよ」ってビン取ってブンブン振って、
そしたら突然ドバーッってケチャップが出てきて、
ケチャップまみれになったパティにトマトとオニオン乗っけてふたして、
ナイフとフォークで半分に切ったら、おもむろに半分を手で掴んで、
口のまわりケチャップだらけにしながら、ガバッと思いっきりほおばって、
「やっぱ、ハンバーガーが一番のディナーだね」ってふたりで真っ赤な口でニカッて笑って、
「幸せー」とか思って、

とか、

「土曜日、久しぶりにデートしようか?」って電話くれて、
「ほんとー? じゃあさ、行きたいとこある」って言って、
「どこ?」って聞いてくれて、
「ストリップショー」って答えて、
「いいねいいね、じゃあ、おしゃれしといでよ」って言われて、
ストリップ観に行くんだから、ちょっと清楚なおしゃれして、
「うっわー、あの人おっぱいデカイ」とか「あのブラ素敵ィ。ああいうの欲しい」とかはしゃいで、
オリエンタルの女の子に目が釘付けになって「Sheユs great」ってドクターがため息混じりに言うから、
「だめー。オリエンタルの女の子はあたしだけにしてよ」って拗ねて、
帰りに「今度あたしがストリップしてあげるね」って言ってあげて、

とか、

「今、仕事終わったー」って病院から電話したら、
「今から来なよ。リゾット作ってるとこだからさ。おなか減ってるだろ?」って言ってくれて、
「おいしー。さすがおばあちゃんの秘伝のレシピだね」って誉めてあげて、
「後片づけあたしするから、用意してきなよ」って言ってあげて、
それから ER 用の服着たドクターが車のとこまで送ってくれて、
「今度はあたしが材料買い込んで来て、チャイニーズ作ってあげるよ」って言ったら、
「じゃあ、チャイナタウンで一緒に買い出ししようよ」って言ってくれて、

とか、

「何してたー?」って、うちに帰ったらすぐに電話がかかってきて、
「今電話しようと思ってたの。聞いてよ、今日さあ、あのビッチドクターがまたさー」ってムカついた話したら、
「それはしょうがないさ、きみはわかってないよ。ドクターの仕事っていうのはねえ」
とかって説教くらって、
頭に来るからメールに「バカ」って書いて送って、
そしたら「バカはないだろ、あやまれ」って返事が来て、
無視したら3日くらい経ってまた、
「何してたー?」って電話くれて、
わたしもすっかり機嫌直ってたりして、

とか、


ドクターはいっつも手の届くところにいてくれて、
だから毎日一緒にいなくても、毎日声聞かなくても、そんなの全然平気で、

きっとあの人と彼女みたいな、そんなふうなのがいいなって思うのに、

なんかね、また心配ばっかりになっちゃって、
なんで電話くれないのかなって胸が痛くて、
メール送って、きっと仕事中だから返事なんか来るはずないのに、何回もチェックしたりして、

わたし、ただの女友だちに格下げになったのかなあ、とか

会いたいよ、声聞きたいよ、どこにいるの? 何してるの? って、そんなんばっか思ってる。



「きみの土曜日の夜中に電話してもいい?」「あなたの日曜日のお昼?」「うん、だめ?」「デートじゃないの?」「きみと話したい」。

傷口を天使が翼で優しくなぞってくれる。天使を翼ごと抱きしめたくなる。


どうなっちゃったの、わたし?
こんなの、違う。


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Close your eyes - 2001年09月26日(水)

涼しくなった。昨日まで半袖で平気だったのに、今日は薄いジャケットじゃ寒いくらいだった。ほんとにここはいつもそう。季節が突然ジャンプしたみたいに変わる。素足にパンプス履くのが好きなのに、もう出来なくなるかなって思う。帰り道ももう暗い。

今日はいいことがあった。可愛いインターンのドクターと仲良くなった。ショートヘアがボーイッシュで、すっぴんにそばかすが似合ってて、ひょろっと伸びた手足の表情がサバサバしてて、そういうのがさまにならないただ男みたいな女の子はいっぱいいるけど、彼女はそれが滅茶苦茶可愛い。大股広げて椅子の背に思いっきりふんぞり返るとこなんか、吹き出しちゃうくらい可愛い。

ドクターについて何回か一緒に仕事してたから、顔は知ってた。ちょっとだけ話をしたこともあった。今日は突然話しかけてきてくれて、とりとめのない話いっぱいした。ドクターなのに、「あたしもカウンセリングして〜。教えて欲しいこといっぱいあるの。自分の体に必要なものもわかってなくて、どうすればいいのか知りたいの」なんて言うところが、ほんと可愛いと思った。

そんなことだけで、なんか一日また頑張れた。フロアの担当医のリストのなかの、ドクターの名前の上に線が引かれてるの見つけて淋しくなったり、患者さんのメディカルレコードの担当医の欄の、ドクターの名前の下に新しい名前を見てがっかりしたり、そんなのもあったけど。

わたしのからだを覆ってた、そばにドクターがいるっていう安心のベールが消えちゃって、殻から抜け出たみたいに元気よく仕事してる自分にも驚いた。


あの人は10月に、予定通りアメリカに来ることになった。日にちが少しだけずれるけど。アメリカ人にウケるジョーク教えてよって言う。簡単なやつふたつ教えてあげたら、「ウケる? ほんとにソレ、ウケる? 信用できないなあ」って言いながら、ちゃんと気に入ってるのが可笑しい。それから「こういうのは?」ってあの人が聞く。
「『Close your eyes』って目ェつぶらせて、自分の目に10円玉入れて、『オッケー、目開けて』って言う。」
「うん、うん、ウケるウケる。でもさあ、一体何考えてんの? 何しに来るのよ。」
「いや、愉快な日本人を紹介しようと思ってさ。」

「Close your eyes」の歌が頭の中で流れ出す。




目を閉じて、深呼吸して。
それからこころを開いて、囁いて。
愛してるって言って。愛してるって。愛してるって。

きつく抱きしめて、おやすみは言わないで。
今だけ全ては上手く行ってるから。
抱きしめて、ねえ、愛してるって言って。

違う。違う。違う。
こんなのが欲しいんじゃない。
でもふりをしなくちゃいけないのなら、
それでもかまわない。

目を閉じて、大きく息をして。
こころを開いて、そして囁いて。
愛してるって言って。愛してるって。愛してるって。




恋人のふりをして、会いに来て欲しい。
恋人のふりをして、抱きしめて欲しい。
恋人のふりをして、愛してるって言って欲しい。

ドクターにもずっと、恋人のふりしていて欲しい。


今日もドクターの声は聞けなかった。恋人のふりも消えちゃったの? 素足にパンプス履けるあいだに、会いに行きたい。



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ドクターがいない - 2001年09月25日(火)

違う病院で一日ずっと研修があることになってた。1時間半待っても講師が来なくて、キャンセルになった。ほんっとアメリカなんだからって思いながら、そのまま自分の病院に仕事に行く。ドクターのいなくなった病院に、今日は行かずに済むと思ってたのに。もう探しても待っても、絶対に会えない。クッキーもあげられない。お昼ごはんも一緒に食べに行けない。帰り際にペイジもできない。ギフトショップのとこで「気をつけて帰りなよ」って言ってもらえない。誰もいないスタッフルームで抱きしめてもらえない。それに、ドクターのアパートからもう一緒に仕事に行けないよ。今度は運転してもらおうって決めてたんだよ。オーバーナイト明けの日曜日の朝に、迎えにも行ってあげられない。

全部一回ずつだった。クッキーを除いて。でもちゃんと一回ずつ、スリリングな素敵をいろいろくれた。違った、アパートから一緒に病院に行ったのは2回だ。最初のはドクターだけが日曜出勤で、そうだ、あの時はドクターが運転したんだ。病院の前で車を止めて二人で降りたあと、わたしは運転席に移った。病院の前なのに、抱きしめてキスしてくれた。

前の日の土曜日、出かける用意してたら「早くおいでよ。ローラーブレードしようよ」って電話がかかった。「じゃあ、ドレスはダメだね。もう着てたのに」「持って来ればいいじゃん、セクシーなドレス。夜も出かけるからさ」。それから「今日はうちに泊まるんだから、スーツケースに要る物全部詰めておいでよ」なんて笑わせた。ローラーブレードするから、ストレッチのパンツ履いてった。Vのローカットの、ストレッチのスリーブレスをトップに合わせて。アパートのドアを開けたドクターは、「素敵だね」って、いきなりわたしを抱きしめた。長いこと抱きしめられて、いっぱいキスされて、そのままベッドでパンツもトップも脱がされた。

もう暗くなってた。一緒にシャワーを浴びたあと、わたしは持ってきたドレスを着て見せる。
「ねえ、素敵でしょ、これ?」
「うん、セクシーだよ。」
「ローラーブレードしなかったじゃん。」
「しょうがないよ、忙しかっただろ?」

そういえば、ローラーブレードはしてないんだ、一回も。もう出来ないよね。夏は終わるし、ドクターは今までよりずっと忙しい。今度いつデート出来るんだろ。


仕事で頭に来ることがあった。つんとすました女のドクターが、自分の間違い認めない。わたしの処方を拒否して、勝手にめちゃくちゃなオーダーしてる。説明しても聞き入れてくれない。わたしの声が大きくなるから、ナースステーションで注目浴びちゃう。Dr.カシーが驚いた顔して見てた。プライドばっか高い女ドクター。わたしの方が専門なんだよ。患者さん、死なせる気? モルモットにしないでよ。ばかばかばか。メディカルレコードに、ドクターの間違い、事細かに指摘してやった。だけどアイツのオーダーが通るんだ。自分が一番偉いと思ってるから。フランチェスカなんかより、ずーっとずーっとビッチだよ。

うちに帰ったら、キッチンの天井から汚い色の水がポタポタ漏ってる。コーヒーメーカーとトースターの上に落ちて、ドロドロ。床もドロドロ。管理人さんに言いに行ったけど、原因の2つ上の階の人が留守で、今日は直してもらえない。しょうがないから、バケツで汚い色のポタポタを受けて、汚い色の水びたしになった床を掃除する。コーヒーメーカーとトースターもごしごし洗う。


やっと着替えてたら、あの人が電話をくれる。
「今ね、下着姿だよ。」
「何言ってんだよ、また。」
「ほんとなんだから。ちょうど洋服脱いだとこだったの。見たい?」
そのまま下着姿でベッドに転がって話す。今日もいっぱい笑った。体中凝ってるっていうあの人が、「20年くらい経ってオヤジになったら、マッサージ機買うよ」って言ったときだけ笑わなかった。「彼女と仲良く使うんだ」って言ってやった。「奥さんと」なんて言いたくない。

ドクターは電話くれたのかな。もしかしたら、あの人と電話してる間に。ビッチなドクターのムカつく話聞いてもらおうって思ってた。せっかく昨日、電話するって言ってくれたのに。ちゃんと時間聞いとけばよかった。もうかかって来なかった。


あの事件以来、事故が多い。毎朝いくつも事故のニュースを聞く。帰りも高速の入り口近くで、180度ひっくり返ってる車の事故を見た。高速を、相変わらずポリスカーと消防車がサイレンを鳴らして走り抜ける。夕方のシフトのナースが、「来るとき高速がまたブロックされてたよ。検問してる、どの高速も」って言う。別の人にそのこと話すと、「また何か恐ろしいことが起こったの?」ってすくんだ。緊張と不安が、ずっと街中に残ってる。研修の講師が来られなかったのも、何かに関係あるのかもしれない。

あの人は言ってくれた。「大丈夫だよ。もうあんな怖いことは起こらないって。大丈夫だから、ね」。

ドクターしか、そばにいてくれる人はいないのに。


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助けて、天使 - 2001年09月24日(月)

今日は一日ドクターに会えなかった。土曜日も昨日も声も聞けないで、今日やっと顔が見られると思ってたのに。お昼休みにペイジしても、帰るときにペイジしても、電話もかかって来なかった。

どうしたんだろ? いろんなことが頭をよぎった。疲れすぎてぶっ倒れちゃったの? ふらふらになってて事故に遭った? 誰かに不幸があって突然どこかに行ったの? 休暇の予定が急に早まって旅行に行っちゃったの? ・・・誰かのことを好きになってわたしの顔が見たくなくなった? 

心配で心配で、帰り道中泣きそうだった。

帰ってからあの人に電話した。昨日時間を間違えたから、また間違えたかもしれないって思ったけど、あの人はまだちゃんと寝てた。いつもより眠たそうな声。いつもよりろれつが回ってない。なのにいつもよりおしゃべりだから、何言ってんだかさっぱりわからない。大笑いした。今日新聞に載るだとか、せっかくビルを作ってもテロに壊されるから意味がないだとか、わからない。「何言ってんの? わけわかんないよ」「僕は寝ぼけてるし、きみはバカだしな」。寝ぼけてるのは分かってるんだ。寝ぼけててもキスしてくれる。最近はわたしのお返しを待ってる。「10回して」とか「あと5回」とか、自分がした数よりたくさん要求する。「今のは鼻息が混ざってたからやり直し」。吹き出したら「今のグッてのは何さ。罰としてもう一回」。笑って話せるのが嬉しかった。 

またドクターに電話する。やっぱりいなくて留守電にメッセージを入れる。「どうしてるの? 元気でいるの? 心配だよ。電話して」。待っても待ってもかかって来ない。初めてデートしたあの日から、ちょうど1ヶ月経ってた。もしかしたら1ヶ月の間違いだったのかなと思った。10ヶ月じゃなくて・・・。初めからドクターは1ヶ月って決めてて、それでもう電話さえしてくれないんだ。それならそれでもいいや。しょうがないよ。「騙されちゃった」って笑い飛ばそ。それであの人に笑いながら話してあげよ。「ヤッちゃった」部分は全部省略して。また強がってそんなこと考えてた。そして、もう一回だけって思って、電話のリダイヤルボタンを押した。

「Hello?」
いた。もうそれだけで胸がいっぱいになった。いっぱいになった何かが今度はどこかに流れ出して、からだがヘナヘナになりそうだった。「どうしてたの?」。それだけ言うのが精一杯だった。昨日もまた、オーバーナイト明けてからもうひとつの病院で仕事だったって言う。今やっと帰って来て、メールしようと思ってたとこだよって。すっごく疲れた声だったけど、いつもと変わってなかった。
「よかったー。声聞けて。心配したんだからー。すっごい心配したんだよ。」
思いっきり元気いい声でわたしは言う。
「僕は大丈夫だって。何があったと思ったのさ?」
「それがわかんないから、心配したんじゃない」
真面目に言ったのに、ドクターは笑う。
「今日も仕事だった?」「そうだよ」「一度も会わなかったじゃん」「あそこじゃないもん。もうひとつの方」。そして、続けた。

「もうあそこの病院はおしまいだよ。昨日が最後だった。」
「・・・。うそ。そうなの? 聞いてないよ。知らなかった。」
「これからもうひとつの方で、夜はER。昼はクリニック。ER はブレイクもないしさ、もう大変だよ」。

ほんとに知らなかった。まだ休暇の前までは一緒に仕事出来ると思ってた。

「聞いてないよー。なんで言ってくれなかったの?」
「言ったじゃん。あそこは1ヶ月だけだって」。

少し話して、切った。切る前に、「明日クリニックと ER の間に電話出来たらするよ」って言った。それからいつもの優しい声で「おやすみ」って言ってくれた。

よかった。いつものドクターだった。だけど、ほんとに知らなかった。ちゃんと日にちまで聞いてなかった。最後の日が知らない間に過ぎちゃったなんて。嬉しかったのと淋しいのとで、また胸がいっぱいになって、それに、体の心配が加わった。


話せてほんとに嬉しかった。
3日間ずっと、ほんとに心配して、ほんとに淋しかった。
今日は特別淋しかった。
わたし、もうわかった。あなたのことほんとに好きなんだって。
「ほんとに」ばっかだね。でもほんとにそうなの。

あっちの病院、ER もほかのことも頑張ってね。女の子のこと以外だよ。
でも頑張り過ぎないでね。患者さんだけじゃなくて、自分の体もケアするんだよ。
それから、わたしと「keep in touch」しててね。ホントの touch も、ね。

p.s.  会えなくてまだ淋しいよ。


いつもあの人に送ってたみたいに、Eカードを送った。
わたし、好きって書いちゃった。言葉で書いちゃった。いっぱい想いを伝えちゃった。

天使の微笑みが頭から離れないよ。あの人に手を伸ばしたい。
どうしよう?


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胸がひりひりする - 2001年09月23日(日)

お掃除した。
キッチンの床まで洗った。
バスルームもピカピカにした。

結局ドクターから電話はなくて、ピックアップにも行かなかった。あの人が10時頃に電話をくれた。「いてくれたんだ。どこにも行かなかったの? ひょっとして、僕のためにうちにいてくれた?」。「そうだよ」ってわたしは答えた。

10月にアメリカにレコーディングに来るはずだった仕事はあの事件のためにキャンセルになった。反対側だからどうせ会えなかったけど、アメリカにまた来てくれるだけで嬉しかったのにな。

あの人のコンピューターは例のウィルスにやられたらしい。NIMDA virus のこと? 違うのかな。だから今はメールも出来ない。「電話短くする分、メールいっぱい送るからね」って言ってくれてたのに。

何にも上手く行かないんだ。

短い電話は、ただそれだけで淋しい。電話が繋がってるってだけで、近くにいるふり自分に出来るのに。言葉が途切れたって、あの人のまわりの気配を感じて幸せでいられるのに。「ケンカ」したって、叱られたって、泣いてたって、あの人の声と息が届く唯一の時間なのに。

「うちにいるかどうかわかんない」なんて昨日言ったくせに、何言ってんだろ、わたし。でもね、やっぱりあなたは特別なの。ほんとに特別なの。こんな特別、ほかにはないよ。


「今日、どこに出かける予定だったの?」ってあの人は聞いた。
「デート」。短い電話が悲しくて、言ってやった。あの人のせいじゃないのはわかってるけど。

「誰と?」
「・・・。」
「ねえ、誰と?」
「・・・。」
「あー、ドクターか。」
「うん。・・・でも行かなかったでしょ?」。

あの人は思ってもいなかったみたいだった。わたしがまたドクターとデートだなんて。
明日の朝、起こしてって言った。わたしの今日の夜。時間になって電話したけど、もう携帯は切られてた。時間、間違えちゃったんだ。あの人はきっと、わたしはドクターと会ってると思ってる。出かけるかもしれないなんて、また言ったから。

胸が痛い。でも言っちゃいけない。悲しませたくない。それでいいんだよね? それにわたし、ドクターとステディな関係ってわけじゃない。たとえ言いたくても言いようがない。

ドクターは電話もくれない。かけてもいない。メールも来ない。

こんな気持ちになるはずじゃなかった。淋しいよ。淋しい。


「これから何するの?」
「お風呂に入る。」
「じゃあ、僕も入るよ。一緒に入ろ?」

ひとりで入ったあわあわのお風呂。
ちょっとだけドキドキして、とても悲しかった。

お部屋がうんときれいになったから、
あなたに遊びにきて欲しいよ。


今、胸がひりひりしてる。
忘れかけてたあの痛み。


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猫アレルギー - 2001年09月22日(土)

あの人が自分ちの犬の話をしてくれる。
去年の夏、飼い始めた犬。

わたしは会ったことがない。
会ったことないけど、会ったことあるみたいにいっぱい話を聞いてる。
ずっと会いたいと思ってる。
クリスマスにも、バレンタインデーにも、イースターにも、
きれいに型抜きして作られた犬用のクッキーを送ってあげた。

あの人がその子の話をするたびに、
かわいくてかわいくて、嬉しくて仕方ない。

その子のクセをきくたびに、
うちの子もそうだったんだよ、って死んじゃった犬のことを話してあげる。
日本から連れてって、前のところで一緒に住んでたあの子のこと。

まだ会ったことないのに、夢にも出てきた。
「写真送るよ」って言いながら、まだ送ってくれなくて、
どんな子なのか想像でしかわからないのに。

チロに会いたいな。

「あたし、もうチロには会えないの?」。
昨日そう言ったら、あの人は「どうかな」って笑った。

悲しかった。会えないんだね。
日本にわたしが行ったって、やっぱりあなたにも会えないんだね。
そういうことだよね。

結婚するとき、チロも連れて行くの?
猫たちはお母さんが大事にしてるから連れてかないってわかる。
だけど、チロはあの人の犬だから。

ねえ、チロを連れてくの?
ずっと聞きたいけど、聞けないでいる。


この間、ドクターがタクシーのなかで聞いた。
「もしも僕たちが結婚するとしたら、きみは猫たちどうする?」。
ドクターは犬が大好きだけど、猫アレルギー。
やっぱり猫アレルギーの友だちが、猫飼ってる彼女と結婚したとき、
彼女は猫をどうしても置いてけなかったらしい。
友だちはひどいアレルギーに毎日悩まされて大変だっていう。
「ひどい女だよな」って言うから、「でも気持ちわかる」ってわたしは言う。

「きみは猫たち、置いてける?」
どうせドクターと結婚なんてあり得ないんだから、
わたしは置いてくって答えてあげる。
そんなことほんとは出来っこないじゃん。
チビたちはわたしのかわいい子どもたちだよ。
置いてくところも預けるところも、あるわけない。

ドクターと結婚するわけないって思いながら、
「でも犬は飼ってね。それならいいでしょ?」って言う。
「犬ならいいよ」ってドクターは答える。

10ヶ月だけの、半分だけのガールフレンドなのに、
そんなこと聞かないでよ。
空想しちゃうじゃん、一緒に暮らしてる生活。
でもだめ。そこにチビたちがいないなんて。


わたし、チビたちとチロとあなたと一緒に暮らしたい。

いつかね。
いつか、遠い遠い、いつか。

だからそれまで、彼女とチロと3人で暮らさないで。
わたしが会ったことない大好きなチロを、彼女のところに連れてかないで。



猫アレルギーは、どうして治らないの?
ドクターでしょ? 治療法見つけてよ。




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笑顔 - 2001年09月21日(金)

お昼一緒に食べよって言ってくれてたのに、今日も昨日もダメだった。
昨日はお昼前に「ランチに出られそうにないよ」って言いに来てくれて、それっきり会えなかった。今日はずっとフロアにいたけど、やっぱりお昼前に「今日もだめだ。ごめん」って言った。ものすごく忙しそうで、走り回る姿と仕事の声に殺気さえ感じた。それでも時々声かけてくれるけど、笑顔がなかった。重症の患者さんが多い日。こんな日は、精神的にもたまらない。「エネルギー源あげるよ」って、またポケットに忍ばせてたクッキーを差し出すと、フォイルをドクターはこっそり開けて中を見ながら「今日はどのクッキー?」って笑ってくれた。「あたしの一番好きなやつ」。いつもの笑顔が戻った短い時間。よかった。わたし、励ましてあげたいよ。ちょっとでもほっと出来る時間が出来てくれればいい。

わたしも辛い一日だった。今日入院した癌のほぼ末期の患者さん。もうごはんが食べられない。それでもなんとか食べて欲しくて、食べられそうな食事を処方してあげる。本人はしゃべられなくて、だんなさんと話す。この病院のホスピス病棟に移るか、よそのホスピスに行きたいか、担当のドクターが入ってきて相談をする。あんなにしっかりしてただんなさんが、そのあと廊下で声を殺して泣いていた。長いこと長いこと泣いていた。


フロアには、笑顔が戻って来始めた。どんな日にも時間は流れて止まってはくれない。時間と一緒にすべてのことが少しずつ少しずつ変わっていく。悲しみにくれてても、少しだけ笑えることも訪れる。時が流れなければちっちゃな幸せにだって出会えない。例えば昨日は雨だった。雨が降るとあの場所がまた大変だって気が沈む。だけど今日は晴れた。それだけでよかったって思える。作業が大変なことには変わりないけど、悲しみはおなじだけど、きっと誰もがよかったって思えたはず。そうやって少しずつ少しずつ、ちっちゃな笑顔を作っていける。時の流れはときには残酷だけど、それがなければ悲しみは滞るばかりになる。

癌の患者さんが少しでもごはんが食べられたら、だんなさんにきっと笑顔が戻る。悲しみの中のほんのちっちゃな笑顔。それでもそれは幸せなこと。必要な慰め。


カナダの友だちが毎日メールとEカードをくれる。「アメリカ人が同じ痛みを抱えた心を一つにして支え合って、困難なこの時を慰め合える術を見つけたなら、それは素晴らしいことだと思う。わたしは星条旗に思いを込めて国歌を聴く人々の姿を見たいと思ったよ」。「God bless the USA」が悲しいと書いたわたしのメールに、今日そんな返事が来た。

そうかもしれない。街のあちこちに掲げられた国旗を見て、小さな星条旗をはためかせて走る車とすれ違って、知らない人の襟元に国旗のピンを見つけて、笑顔になれるのかもしれない。ほっと出来るのかもしれない。それは、アメリカという国に対する思いとか、報復を支持するとか、そういうのとは別のところで、同じ痛みと悲しみを分かり合って慰め合って励まし合おうとするあたたかさなのかもしれない。


「今日は雨だったの」って昨日電話で言うと、あの人は「知ってるよ」って言った。「毎日テレビで見てるから」。あれ以来、ずっとずっとわたしの住む街を気にしてくれてる。

隣りの国に住むカナダ人のリサが、アメリカ人の中で混乱してるわたしの気持ちを和らげてくれる。

アメリカにいるのに、すぐそばで起こったことなのに、恐ろしさに目を逸らして悲しみとやり切れなさにくれるばかりで、わたしは何もわかってなかったのかもしれない。

星条旗のピンを襟につけ始めたドクターも、「戦争だけは起こして欲しくない。それだけは絶対に、やめて欲しい」って言ってた。街の星条旗のすべてに、「God bless the USA」の文字に、同じ祈りが込められていてほしい。

悲しんでばかりいてはダメ。笑顔にならなきゃ。自分に言い聞かせる。


わたしは週末はお休み。ドクターはまた泊まりで仕事。

明日は今日よりいい日でありますように。笑顔になれますように。
日曜日の朝、仕事が終わったらピックアップしてあげてもいいよ。うちまで乗せてってあげる。そのままわたしは帰ってもいいから。だからそうしたかったら言ってね。

今日帰り際にエレベーターホールで偶然会って、「帰ったら電話してね」って言ったのにかかって来なかった。だからメールを送ったけど、返事はない。きっとくたびれて寝てるんだよね。

あの人と電話で話せない土曜日。でも、日曜日のわたしのお昼に電話するって言ってくれた。「うちにいるかどうかわかんない」って言ってしまった。こんなことは今までなかった。いつもいつも声を聞ける日だけを待ってたのに。あの人は理由を聞かなかった。そのかわりに、「出来るだけ、出来るだけ、うちにいて」って言った。

笑顔で愛せるようになりたかった。それが叶いかけてるのに淋しい。あの人を悲しませてるかもしれないから。だけどドクターの笑顔も欲しい。わたしはずるい? 欲張り?


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ひとりで迎えた朝 - 2001年09月20日(木)

昨日はずっと一緒にいられると思ってたのに。

タイヤの交換に行ったら、1時間かかると言われて、1時間半に延びて、あと45分って言われて、もう30分延びて。結局3時間近くかかった。なんで?って聞いたら、今日は人手不足。お昼に2人行っちゃったから。・・・。じゃあ、初めから言ってよ。こんなに時間かかるんだったら、今度にしたのに。こういうとき、ちょっと頭に来る。「アメリカ人のいいかげんさが好き」とか「クレイジーなところが好き」とか、そういうこと言う人、日本の友だちにいるけど、こんなのが日常茶飯事だと大変なんだから。

ドクターのところに着いたのは、もう夕方近くだった。

わたしはくたびれて、待たされたのにくたびれて、なんか誠意のない修理屋さんにくたびれて、予定よりもう少しかかる修理代にくたびれて、高速の渋滞にくたびれて、まだ真夏みたいに熱い陽差しにくたびれて、ドクターの顔見たとたんになんだか悲しくなった。

「座りなよ」。そう言ってベッドにわたしを座らせて、話を聞いてくれる。しょうもない愚痴話をちゃんと聞いてくれて、「ちょっと横になりなよ。疲れてるよ」って言う。ぎゅうって抱きしめてくれたあと、優しいキスをいっぱいくれて、わたしは悲しい気分から解き放たれて行く。

オーバーナイトが終わって午前中には帰れたのに、ドクターはそのあともうひとつの病院に行かなくちゃならなかった。ほんとにほんとに疲れてるのはドクターの方。夜7時からはミーティングがあって、そのあとまたもうひとつの病院に行くって言う。だから朝まで一緒にいられない。

ドクターが出かけなきゃならない時間になって、わたしは腕の中で甘える。「行かないで」。「そんな淋しそうな顔するなよ」って、ドクターはわたしの顔をじっと見て言う。抱きしめてくれるドクターにわたしはキスをして、喉にキスをして、胸にキスをして、おなかにキスをして、ドクターの体の下をトンネルをくぐるみたいに滑り下りて行ったら、その場所にとどまる。ドクターの息づかいが荒くなるのを聞きながら、「ミーティングなんか行かせてやらない」って悪魔になったわたしは思ってる。

突然上体を起こして、ドクターはわたしを枕元に抱き上げる。「もっと欲しい?」。わたしは答えない。「やっぱりミーティング、行かなきゃ」って今度はちょっと思う。「もっと欲しいの?」「・・・。」「答えなよ。Yes or No?」「・・・。」「答えなってば。Yes? No?」「Yes」。首に抱きついてわたしは答える。

もうミーティングが始まる時間になってる。「いいさ。定例の、なんて事ないやつだから。でも仕事には行くよ。行かなきゃ」。そして「キスして」ってドクターは言った。悪魔はもうおしまい。

ドクターは車のところまで送ってくれて、いつもみたいに抱きしめてくれる。何回も抱きしめて、何回もキスしてくれた。小鳥がついばむような、優しいキス。あの人もそうだった。エレベーターの中で、喫茶店で、ホテルからの帰り際に、そっとそっと優しくくちびるを重ねてくれた。「来てくれてありがとう。車、気をつけるんだよ」。そんな決まり文句を、ドクターは抱きしめながら耳元で囁いてくれる。特別なことなんかじゃない。大事な友だちにならわたしだってすること。それでもドクターの声はとてもとても優しくて、嬉しかった。もう通い慣れた高速を、ちゃんと死角確認しながら走る。そして、あの人のことを考えてた。あの人は知らない。わたしがこうやってドクターと会ってること。「デートしようかなあ、ドクターと」なんて、もう言わなくなった。言わなくなったから、わかってるかもしれない。朝までドクターと過ごせなかったからってあの人の声が聞きたいなんて、いいかげんな女って思った。

うちに帰ると9時半だった。あの人はわたしの7時に電話してって言ってた。かけられないと思うって言ったから待ってはなかっただろうけど、話せるかなと思って電話した。携帯は切られてた。

予定になかったひとりの夜。チビたちのつめを切ってやる。

朝、6時頃に電話で起こされた。「電話してくれた? ごめんね、こんな時間に」。まどろみながら聞くあの人の声。なつかしいと思った。こんなふうに朝電話をくれたのはいつが最後だっただろうって思った。そんなに前じゃないのかもしれないのに。大好きな大好きな人。誰よりも愛しい人。想いは変わらない。切なく甘くわたしを包む。あの人が望んでるようにあの人を愛せる気がする。ドクターとの恋を終わらせなきゃいけない来年の7月までは。

そして気がつく。あのままドクターのところに朝までいたら・・・。


昨日、ドクターはシャツの襟に星条旗のピンをつけてた。理由を聞きたかったけど、聞かなかった。アメリカ人として、そうしたい心情だけなのかもしれない。アメリカ人同士なら、そういう気持ちが分かり合えるんだろうと思う。そこまでは分かるけど、わたしにはない感情 ー「God bless the USA」。なぜ、「God bless the world」じゃないんだろう。

毎日祈る。すべての人がそれぞれの天使に守られますように。


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恋しい人 - 2001年09月18日(火)

約束通り、今朝会ったときわたしはとっても優しくしてあげた。
それでかどうかわかんないけど、今日は殆ど一緒のフロアにいて、何度も話しかけてくれた。コンピューターを使うときも、メディカルレコード書くときも、何度も隣り合わせになった。笑顔もいっぱい見せてくれた。

ドクターがいるだけで、安心して仕事が出来る。仕事中にあの人のことを考えることが減ってる。あの人を想うたんびに胸の奥をぎゅうっと絞られるようだったあの痛みが、今はない。よかったじゃん。・・・よかったのかな。よくないよ。なんだか淋しい。


ドクターは今日もオーバーナイトで、明日は午前中に終わる。わたしは明日、やっとお休み。昨日の電話で「どっか行こうか」って言ってくれた。
「明日、どうする?」って、夕方ドクターが聞く。
「あなた次第だよ。きっと疲れてるから。」
「うん。帰ったら取りあえず寝るよ。昼間は寝てるよ、いい?」
「うん。そうして。・・・でも会いたい。」
会えないのかな、と思ってちっちゃい声で言う。
「会うよ。心配するなって。」
ドクターは笑って言った。
「明日の朝、ここから電話するよ。」

この間、ソーシャルワーカーのフランチェスカに聞かれた。「つき合ってるの?」って。誤魔化し切れなかった。フランチェスカは言う。「気がついたよ。だって、あのドクターは絶対笑わないのに、あなたがフロアにいると笑うんだもん。顔がパーッと明るくなるの。ほんとに絶対笑わないくせに、あなたがいると全然違うんだよ」。ドクターに言うと、怒る。「僕が絶対笑わない? よく言うよ、あの仏頂面が。僕が笑わないだって? そりゃあね、忙しくていつもニコニコなんかしてられないよ。だけどアイツにだけは言われたくない」。フランチェスカは美人なのに、ほんとに愛想が悪くて、冷たくて、お天気やで、話すとぶっきらぼうで威圧的で、とっても失礼なやつ。だからフランチェスカにそんなこと言われてびっくりした。ドクターは彼女のことが嫌いで怒ったけど、わたしは『あなたがいると、パーッと顔が明るくなる』の部分が嬉しくて言ったのにな。

10月になったら、ドクターはこの病院からいなくなっちゃう。そしたらわたしは誰のことを想って仕事するんだろ。あの人を想って、また胸がぎゅうっと痛くなる? ドクターが恋しくて、淋しくて仕方ない? なんで誰かのこと想わなくちゃ仕事出来ないの、わたし? バカじゃん・・・。


夜、あの人が電話をくれる。うちに帰る頃にかけるよって言ってたのにかかってこないで、夜中の1時ごろにかかってきた。わたしは今までみたいに、待ちわびてよけいなこと考えたりしなかった。最初からこんなふうに、ちゃんと落ち着いて愛せればよかったのに。あの人が彼女を愛してるのは今でも痛い。だけど、彼女を愛しながらわたしを想ってくれる気持ちが少しだけわかるような気がしてきた。

「明日も電話出来る?」ってあの人が聞く。きみの夜の8時頃に電話かけてって。明日はお休みだって言えなかった。「何するの?」って聞かれるのがわかってるから。夜の8時に電話も出来ない。わたしはドクターのところにいる。

あの日からずっと恋しかったドクターの腕の中。やっと明日はあの腕で抱きしめてもらえる。今はドクターの腕が欲しい。あの人の代わり? 多分違う。


それにしても、もっと早く救出活動が捗らんものかねぇ〜。まだ120万トン中の2万トンしか瓦礫の排除が出来て無いんだろ? しかも、奥の方は燻ってるし・・・。
報復攻撃より先に現場の救出活動にもっと人を出せんのかなぁ?

日本の友だちから来たメール。違うよ。

毎日毎日、救出作業は続いてます。緊急車両は今も絶え間なく走ってる。
ボランティアの人たちも増える一方なんだよ。
そんなに頑張っても頑張っても、簡単にはいかないんだよ。
それほどのことだったんだよ。

わたしは返事を書いた。メディアが伝えることなんか、そんなもの? 

患者さんのひとりが泣き出した。お母さんから病院に電話があって、彼女の幼いときからの友だちが死体で見つかったって知らされたらしい。あれから1週間も経って、やっとわかった悲しい事実。精神的なショックが手伝って、患者さんの容態が悪くなる。高熱が出て、震えが止まらずに、吐く。軽い錯乱状態になる。

「生存はもう確認されないでしょう。それでもわずかな希望は捨てられません」。
今朝ラジオでアナウンサーが言ってた。

星条旗が街に増える。星条旗のピンをつける人も増える。
どうなるの?


ドクターの胸が恋しい。早く抱きしめて欲しい。


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叱られてばっか - 2001年09月17日(月)

アッカンベーをしてやった。朝、ナースステーションに向かって歩いてくるドクターがわたしを見てにっこり笑ったとき。「なに? なに? なんで?」。そう言って慌ててわたしのそばに来て、ちらっとドクターの顔を覗いたあと下向いて仕事するふりするわたしに、ドクターは言った。「昨日は一日仕事だったんだから。朝8時から夜10時まで」。見てるふりしてるメディカルレコードのファイルが、逆さになってることに気づいて焦った。慌てて誤魔化すように、聞く。「8時から10時? 夜の?」「違うって。8:00 AM から 10:00 PM」。AM と PM のところに力を入れてドクターは言う。「ホントに? そうだったの。でも、見かけなかった」。わたしは口を尖がらせる。「ここでじゃないよ」。ドクターはもうひとつの方の病院の名前を言う。仕事だったんだ。笑った。ドクターも安心したみたいに笑った。「あと1時間くらいはここにいるから。わかった?」。ドクターの「わかった?」はとても優しい。わたしは思わずこっくりする。あの人の「わかった?」もとても好き。でもあの人にこっくりしても、見えない。


車のブレーキの調子が悪くなって修理してもらったら、タイヤも交換しなきゃもうバースト寸前だって言われた。「よくこれで高速毎日走ってたよ、怖い」って言われた。修理代に全部で1000ドル近くかかる。タイヤだけもう少しあとにしようと思ってたら、今朝父から電話で叱られた。あの日から心配して毎日のようにメールを送ってくる父に、何気なくそのことを書いたら。「すぐにタイヤも交換しなさい。事故になったらどうする。加害者まで出したらどうするんだ。こんなときにそんなことで命を絶つような真似をするな」。朝、6時頃だった。眠気も吹っ飛んで、「はいっ」「はいっ」って大きな声でよいこの返事をしてた。父に叱られてこんな返事をするなんて、生まれて初めてかもしれないと思った。

電話代がきつくなった。昨日あの人に話したら、電話の時間を短くしようって言われた。だだをこねたら叱られた。「僕が心配してるのがわからない? きみが食費削って電話代に当てたりしやしないかって、心配なんだよ。こっちからもかけるから、一日に10分くらいにすれば今まで通り毎日話せるだろ?」。それでもいやだといって、叱られた。今日はあの人が時間を気にして話してた。明日は僕がかけるからって言ってくれたけど、悲しかった。


切って少ししたら、うちに帰ったドクターが電話をくれた。疲れてた。体も疲れてるけど、精神的に参ってるって言った。どうしようもなく憂鬱な気分だって言う。「あっちの病院、患者さんいっぱいいたの?」「たくさんはいないよ。みんな死んじゃったんだから」。怒るように言い放った。「なんでこんなことが起こらなきゃいけないんだろう。悲しすぎるよ。何千人もの人が・・・」。みんな思いは一緒だ。日が経つにつれて、悲しみが増す。

「ちゃんとごはん食べたの?」「食べたよ。きみは?」「食べた」「何食べたの?」。あの人とおんなじこと聞く。「サンドイッチ」「それだけ?」「だって。お金ないんだもん。ほんっとないの。バイトでもしようかなあ」「何言ってんだよ」「それか、娼婦しようかなあ」「・・・。真面目に言ってんの?」「娼婦ってお金になる?」「そりゃあなるさ」「ねえ、知ってる人いる? 誰か紹介してくれる?」「いるよ、いくらでも紹介してやるよ。本気で言ってるの?」「わかんない。でも興味ある」「冗談だろ?」「半分」「半分は本気なの?」。わたしは笑う。そしたらいきなり叱られた。「なんでもっと違う方法考えないんだよ、お金が要るにしても。いろんな男に抱かれて金にするのが平気なのか。ストリッパーでもしてろよ。その方がよっぽど綺麗だよ」。わたしは慌てて言う。「冗談だよ」「冗談じゃないんだろ?」「冗談だってば」「本気だって言ったじゃないか。半分本気なんだろ?」「違うよ。本気じゃないよ。冗談だって」「引っ込めなくていいよ。真剣に考えてるんだろ?」「違うってば。怒ってるの?」「怒ってないよ。驚いたよ。きみがそんなこと考えるなんて」「だから、冗談で言ったんだってば」「・・・わかったよ。信じるよ。もう言わないよ」。

ドクターは疲れてる。ソーシャルワーカーのフランチェスカがひどいヤツだと言って、「ビッチ」って罵る。「ごめん。今日はどうかしてるよ。たまらない気分なんだ」。悲しすぎるよ、やり切れないよ、って繰り返した。あの日からずっと休みなしで、オーバーナイトが続いてたのに、やっとお休みのはずだった昨日の日曜日ももうひとつの病院で仕事。疲れすぎてる。「今朝はきみが怒ってるしさ」。「怒ってないよ」ってわたしはまた慌てて言う。「ちょっとだけ本気で怒ってただろ?」「ふりしただけ」。抱きしめてあげたくなった。「明日は優しくしてあげる」「ありがと。恩に着るよ」。そう言ってドクターは笑った。それから、また言う。

「きみが娼婦になるんだったら、男紹介してやるよ。だけどね・・・」「だけど何?」「僕はきみにもう指一本触れないからね」。そんなに怒ると思ってなかった。「そんなこと言わないで、お願い。ほんとに本気じゃないよ。冗談だよ。ごめんなさい」。わたしは泣きそうな声になる。「ごめん」。ドクターが言う。


明日はうんと優しく微笑んであげる。こんなときに、自分ばっかり支えてもらいたいと思って、ドクターのこころなんか癒してあげられてなかった。うんと優しくしてあげるよ。

「僕は少しの時間でもいいから、きみと毎日話がしたい」。あの人はそう言ってくれた。聞いたときにはちゃんとわかってなかった言葉。あの人にもちゃんと優しくなろう。


叱られてばっかりの日。だけど気持ちがふさぐのは、そのせいじゃない。
「悲しすぎるよ、やり切れないよ」。ほんとに、毎日がそう。ずっと、そう。


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もうこれ以上 - 2001年09月16日(日)

土曜日、午前中はいるはずだったドクターに一度も会えなかった。Dr.カシーとは一緒に仕事したのに。ドクターがいないだけで、こんなに心細いんだって思った。仕事が終わってから会いたかったけど、ペイジャーにかけてもうちにかけても、話すことすら出来なかった。帰るとき、留守電にメッセージを入れた。「今日会いたかった。でもいいよ。8時頃なら帰ってるから、電話して。何時でもいいから。かけてくれるまで起きて待ってるから」。もし会えたら、また朝まで一緒に眠りたいと思ってた。ちゃんと用意してたお泊まり道具をそのまま持って帰った。電話はかかって来なかった。きっと誰かと遊びに行ってるんだ。女ともだちの一人? とても淋しかった。「そんなに思い入れしちゃいけないよ」って誰かがわたしに忠告してるのかもしれない。あの娘かもしれない。起きて待ってるなんて言いながら、疲れがひどくて知らないあいだに寝てしまってた。

今日は日曜日。また仕事に向かう。閉鎖されてた高速道路も、ひとつを除いて解除されて、普通に走れる。それでもラジオでは言い続けてる。「緊急車両の邪魔にならないように、車での外出は避けてください」。病院は少しずつ落ち着いて来た。患者さんの対応が落ち着き始めると、今まで誰ひとり口にしなかったことがスタッフの会話に出る。「知り合いの人はみんな大丈夫だった?」「トレードセンターで働いてる人に知ってる人はいなかった?」。友だちはみんな無事だった。家族は誰もいない。だけどあんまり関係なかった。近い人がいないからそう思うだけなのかもしれない。ただ、ただ、誰がということなしに、たくさんのたくさんの死が悲しい。

わたしは初めから、テレビのニュースが見られない。起こったことをちゃんと直視出来ないでいる。うちに帰ってひとりでなんか見られない。新聞は読むけど、どうしようもないやり切れなさでいっぱいになる。車で聴くラジオで、「何が出来ますか? 何をすればいいですか? 今何が一番必要ですか?」っていう電話がひっきりなしにかかってくると言ってた。食べ物も水も洋服も、物資はもう有り余るほど届いてます、今必要なのは資金です、5ドルでも10ドルでも寄付してもらえるとありがたい、そうアナウンサーが言っている。何かせずにはいられないと、ボランティアの人が後を絶たない。仕事を休んでボランティアに行く人がたくさんいる。こういうときに、物も時間も惜しまない人たち。唯一ほっと出来るニュース。

弱虫でテレビが見られなくても、ずっと漂う重たい空気で感じ取る。人の悲しみも怒りも。小さな星条旗をつけて走る車が増える。人々の怒りがもっと大きくなったとき、一体何が起こるんだろうと思う。誰かのそばにいたくても、きっとそれはドクターじゃない。わたしは何処に行けばいいんだろう。

今日もドクターは電話をくれなかった。わたしからはかけなかった。明日会ったら、話しかけてくれる。わたしは笑えないかもしれない。でももう泣き顔は見せたくない。10ヶ月だけの、ステディじゃないガールフレンドになり切らなくちゃ。会えなくて電話がなくて淋しかったそぶりなんか、見せないでいなきゃ。それでも笑えないかもしれない。

「魚座はロマンティストなんだよな」。初めてデートしたときにそう言ってた。「星占い、詳しいの?」って聞いたら、最近知り会った子が詳しくて、別れた恋人の性格も自分の性格も上手く行かなくなった理由も別れるまでの過程も、全部言い当てたから信じるようになったって言ってた。「そうだよ、魚座はロマンティストなの。それから優しいの」「優しいってのは聞いてないよ。あと、守られたい。きみもそう?」「守られたいって? 自分が弱いってこと?」「自分が弱いとは限らない。強い男が好きってこと。違う?」。別れた恋人が魚座だったんだなって思う。「そうかなあ。あたしは自分が弱いと思う。だけど強がってるからみんなは強いと思ってる。だけどね、ほんとは弱いんだってこと分かっててくれる人がひとりだけいてほしいの」。あの人のことを思ってた。

「きみは強い女だからひとりでも生きていける」。夫はそう言って日本に帰った。あの人は最初から、強い女なんかじゃないって知ってた。あの人と違うところで支えてて欲しいことを、きっとドクターは知らない。明日会ったら、笑うかわりにアッカンベーしてやろう。ひとりだけでいい。あの人が分かってくれてるだけでいい。これも強がりなのかもしれないけど。


病院には、ケガを負った人よりも、急性の精神疾患の人が増えている。極度のうつ状態。不安症。パニックアタック。それから、呼吸困難症。今までなんでもなかった人たちを、そんな状態に追い込んだ出来事。お願いだから、もうこれ以上何も起こらないで。

そしてあの人に願う。もうこれ以上、遠くに行かないで。
ドクターに思う。これ以上、・・・好きにならせないで。

苦しみが増えていくばかりになるよ。





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遠い - 2001年09月14日(金)

今朝はどしゃぶりの雨で、あの場所はどうなるんだろうと思ってた。いつのまにか雨が上がってまた眩しい陽差しが戻ったけど、急に秋がやってきたみたいな涼しさになった。

ドクターは今日もオーバーナイト。オーバーナイトがずっと続いてる。明日はお昼には帰れて、日曜日はやっとお休みだけど。わたしは明日も日曜日も仕事。この週末はデート出来ない。またキッチンからもらったクッキーを、白衣のポケットに忍ばせて会えるチャンスを待つ。

夕方、最後の患者さんを診てナースステーションに戻るとき、素敵なドクターの Dr. カシーと入れ違いになる。もうすぐ秋だね、なんて話をする。「あっちの紅葉はすっごい綺麗なのにね」。おんなじ出身のあっち側の秋のことを言う。「コネティカットの方まで行くと、綺麗だよ」。ああ、そうだ。2時間かかってインターンの時に2週間通ったあの病院。あの辺ならきっと綺麗だ。その頃ハンサムドクターは、もうこの病院にいない。でも一緒に行きたいな。行けるのかな。「週末は休み?」「ううん。土日、両方来るの」「僕も今日は泊まりだから、明日は昼までいるよ。日曜日はやっと休み」。ハンサムドクターとおんなじだ。

ナースステーションに戻ると、ハンサムドクターがいた。ほかのドクターと熱心に患者さんのこと話してる。わざとそばをすり抜ける。ナースステーションにやって来た若い男の患者さんとおしゃべりしてると、突然横に座りに来た。街でも誰かがわたしにちょっと視線を送っただけで、わたしを抱き寄せる。「あたしだってほかのドクターに『かわいい』って言われるんだから」。あんまり自分がモテるみたいなこと言うからそう言ってやったときも、「誰だよ? どのドクター? 仕事中にそんなこと言ってくるなんてプロフェッショナルじゃない」って怒った。さっきまで Dr. カシーと話してたって知ったら、妬いたかなって思う。ポケットに忍ばせてたクッキーをあげる。「きみっていつもクッキー持ってるの?」って笑うから、「あなたにあげるためよ」って言ってあげる。

「何時まで?」ってドクターが聞く。「もうすぐ終わり。メディカルレコードと、あとコンピューターの入力だけ」「じゃあ、終わったらペイジしてよ。ERにいるから」。

オフィスからペイジしたけど、忙しくて離れられないって言う。「気をつけて帰るんだよ」って言ってくれる。そして、夜時間出来たら電話するよって言った。わたしの6時半に病院からあの人に電話するはずだったけど、出来なかった。出来ないかもしれないよって言ってはいたけど「待ってたかな」って心配しながら、帰り道ずっとドクターから電話があればいいなって思ってた。


うちに帰ってひとりになると、まだ続く病院での緊張が一気にほどけて、また怖くなる。もう仕事に行っちゃっただろうなと思いながら、あの人に電話する。あの人はまだうちにいた。「嬉しかったよ、電話くれて」。2回もそう言ってくれた。

「あなたが遠くに行っちゃったみたいだよ。」
「なんで?」
「わかんない。」
「きっとあんなことがあったからだよ。不安になってるんだよ。」
「そうかな。でもあなただけ、遠くに行ったみたい。」
「ちゃんと近くにいるよ。どこにも行かないよ。遠くなんかないよ。」
「今までとおんなじ?」
「おんなじだよ。」

遠くに行ったのはわたし? だけどあの人の声を聞くと、こんなにからだ中に甘い旋律が走る。ドクターの手のぬくもりとは違う暖かさを感じる。あの人のそばにいて、抱きしめてもらえたら、どんなに幸せだろうと思う。どんなに満ち足りるだろうと思う。ドクターは優しい。素敵な時間をくれる。ステディじゃなくても、大事にしてくれる。ドクターの存在はどんどん大きくなってく。きっとわたしはドクターがとても好き。だけど、本当に本当に欲しかったものには、手さえ届かない。あの人は、近くて遠い人。こころだけ近くて手が届かない人。


今日は、午後7時にキャンドルに灯をともす日だった。一斉にキャンドルに灯をつけて、亡くなった人たちをおくる。帰り道の高速から、歩道橋でたくさんの人がシティの方に向かってキャンドルを掲げてるのを見た。高速道路のショルダーに車を止めて、ハザードランプをキャンドル代わりに点滅させて星条旗を振ってる人たちもいた。7時には間に合わなかったけど、わたしもうちに帰って窓辺でキャンドルに灯をともす。あの娘の写真の前のキャンドルにも灯をつける。「たくさんの人が行ったでしょ? みんなと仲良くするんだよ。いい子でいて、かわいがってもらうんだよ」。

天国は、ただ幸せなところ。苦しみも悲しみも痛みも憎しみも、何もない。亡くなった人たちのことはなんにも心配していない。うんと幸せになってください。


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まだ好き? - 2001年09月13日(木)

このあいだの月曜日。ドクターのアパートから一緒に仕事に出かけた。
高速でレーンを変えるときにわたしが死角確認をしないと言って、ドクターは怒る。前にも叱られて、「わかったよ、わかったよ。もううるさいから言わないの」って、わたしは右手を伸ばして助手席のドクターの口を塞いだ。「わかってないよ。あのね、バイクを巻き込んじゃったりしたらどうするんだよ。目でちゃんと死角確認するのは運転の常識だろ。相手が死んじゃって、自分まで死ぬかもしれないんだよ。」「はいはい。もうこれからちゃんとします。うるさいからあなたは寝ててよ。目がさめたら天国だよ。あなたの場合は地獄かもしれないけどね」。そんな憎まれ口叩きながらも、あれからちゃんと目で死角確認するようになった。今日だってちゃんとしてたのに。5回に1回くらいドアミラーしか見なかったからって、そんなに怒らなくたっていいじゃん。あのとき「もう今度からは僕が運転するよ」って言ったくせに、疲れてるから僕はナビゲートするって、ドクターはわたしに運転させた。わたしが大好きになったこの橋を、あの人を助手席に乗せて走るのはいつだろうって思った。「ごめんね、怒んないでよ。もう絶対死角確認忘れないからさ」。ちょっと不機嫌なドクターにそう言いながら。

フロアで仕事してると、ドクターが来る。「ちょっと元気になったよ。車ん中じゃめちゃくちゃ疲れてて機嫌悪かったけどさ」「ほんと? よかった。もうほんっと、分かりやすいんだから」。ドクターは大笑いする。


前の晩、公園を歩いた。何が食べたい?って聞かれて、ドクターが挙げたリストの中からちょっと遠いキューバンレストランを選んだ。歩きたいって言ったから、ドクターは公園を通って遠回りする道を選んでくれた。風が心地よくて、素敵な夜だった。レイク沿いの道を手を繋いで歩きながら、前に住んでた街を思い出した。いつもあの娘を連れて、あの大きな公園のレイクの回りをそんなふうに歩いたことを。水の向こうに高層ビルの灯りが揺れてる。そばにいて、手を繋いで歩いてくれる人がいる。どんな時も手を離さないでいてくれる。あのなつかしい街に思いを馳せながら、ドクターの手からからだ中に広がってくる温もりを感じてる。通りに出ると街は賑やかで、夜の雑踏に溶け込む瞬間が嬉しかった。わたしはドクターの胸にもたれて名前を呼ぶ。「なに?」「あたし、この街が好き」。ドクターは笑う。わたしはいつも、この街を好きになれないって言ってたから。「今日決めた?」「ううん。少しずつそう思うようになったの」。好きになれなかった理由はたくさんあるけど、一番の理由はあの人をここで待ちくたびれてたこと。今は待てる。きっといつか会いに来てくれると信じて。

タイは雨期だから、計画を変更することになったらしい。どこにしよう? どこがいい? ドクターはわたしに何度も聞く。「だって、あたしが提案したとこ全部却下するじゃん」「ろくなとこ提案しないからだよ」。キューバがいいってわたしは言う。ブナヴェスタ・ソーシャルクラブのビデオで見たキューバの町並みを話してあげる。「CD持ってるよ」「あたしも持ってる。素敵だよね」。キューバの食事をしながら、「やっぱりキューバがいいよ」ってわたしは言う。「うん、キューバいいね」。だけど、アメリカからはキューバに行けない。「敵」ばっかり作る国。ブックストアで旅行の本を一緒に見ながら、「あたしも連れてってよ」って言う。「だって、きみは休暇取れないだろ?」。いつか一緒に旅行に行きたいなって思った。キューバがいいな。メキシコからなら行ける。突然、あの人と行くはずだった京都の旅行に思いが飛んだ。


翌日だった。
2001年9月11日。わたしはドクターの笑顔に支えられながら、悲しさと恐ろしさの中で仕事した。おんなじ思いを抱えて一緒に仕事に追われたこの日のことを、そしてこの数日のことを、絶対わたしは忘れない。わたしの中に、あの人と重ならないドクターがいた。


あの人はショックを受けている。わたしが住んでる街で起こったことに。ずっとわたしに会いに来たいと思いながら、遠くて近くなった街だと言ってた。わたしはあの人が遠くに行ったような気が少しした。


「あたしのこと、まだ好き?」
「好きだよ。なんで?」
わからないけど、確かめたくなった今日の電話。








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ツインタワーが残したもの - 2001年09月12日(水)

病院の立体駐車場から、ツインタワーが見えない。跡形もなくて、どこにあったのかさえ正確な位置が分からない。黒くて厚い煙がまだモクモクと青い空を汚して行くその場所が、いつも眺めてたあのツインタワーがあったとこなんだってこと以外。

シティに向かう車の中から見えるあのタワーが消えたんだ。
橋の上から見るあの風景が変わったんだ。

まだ1年しか住んでないわたしでさえそれが悲しいのに、ここで生まれて育った人たちは一体どんな気持ちでいるんだろうと思う。あの下に愛する人や家族を失った人たちは、ツインタワーの消えた跡に何を見るんだろうと思う。

いつかあの人が言ってた。
「時々ふと思うよ。世界が平和でありますようにって。今こうしてきみと電話で話してる間にも、世界のどこかで紛争が起こってるんだよ。世界中がどうして平和になれないんだろうって、ふと思うことがある。そんなこと、ない?」
「あたしは、世の中の人がみんな幸せになれますようにって思う。」
「おんなじことだよ。」
「でもね、遠い国の、どうしようもない人たちのことみんなそうやってなんとかしてあげたいって言うけど、じゃあ自分のすぐそばの人をちゃんと幸せにしてあげてる? 近くにいる人の悲しみを分かってあげてちゃんと愛してあげてる? みんながそばにいる人を愛して大切にしてあげれば、それが遠いところまでひとりずつ順番に伝わっていくんだよ。そしたらみんなが幸せになれるんだよ。」

人を愛する気持ちはいつも優しくて強い。だけど愛なんて、頼りないんだ。ひとつずつ伝わっていくはずの愛は、どこかで誰かが必ず止める。


「第2のパールハーバー」とか、「大統領を支持して国民は一丸となって・・・」とか、なんでそんなふうに煽るの? 誰のせいとかどっちが悪いとか、議論するのももうやめてよ。たくさんの人が死んだんだよ。家族をなくしたんだよ。人の手で殺されたんだよ。身体にも心にも傷を負って、こんなに苦しんでいるんだよ。理屈はもうたくさんだよ。愛国心なんか愛じゃない。ちゃんと人を愛してよ。


高速道路は相変わらずシャットダウンされたままで、サービスロードを歩くより遅いようなスピードで車を動かす。途中からサービスロードさえ閉鎖される。道が分からなくなって、2時間半かかってやっと病院に着いた。今日も慌ただしく一日が過ぎたけど、昨日より病院のまわりは落ち着いていた。

お昼にドクターがランチに連れ出してくれた。ドクターは疲れ果ててる。それでもおいしいごはんに誘ってくれて、楽しいおしゃべりをして、慰めてくれる。まだ陽差しが眩しい外は、2日前と何も変わらないみたいなのに。お昼から、またもうドクターには会えなかった。ずっと胸の奥で悲しみが重たい。抱きしめてほしいと思う。安心が欲しい。いつドクターの腕で甘えられるんだろう。「今日もあなたが来てくれてよかった。来られなかったらどうしようかと思ってた」。患者さんの一人が言ってくれた。わたしのささいな力なんか、負傷した人たちのとてつもない大きな悲しみと苦しみと痛みを救う役になんか立つんだろうかって思ってたのに。涙が出そうだった。


あの人の声は優しかった。遠い遠いところにいても、こころも身体も疲れ切ったわたしを、こんなに支えてくれる。飛行機には、遠く離れたところに住んでる愛する人にやっと会いに行ける人も乗っていたに違いない。そんなことを考えた。


「いつもより、シティは明るい日の出を迎えました。ツインタワーが日の出を遮ることがなくなったから」。朝、車のラジオで聞いたアナウンサーのくぐもるような声が、忘れられない。いつもと違う日の出は、誰の目に美しかったんだろう。









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悲しくて恐ろしかった一日 - 2001年09月11日(火)

朝、仕事に行ったとたんに、事故が起こった。ツインタワーに旅客機が激突。
そんな墜落事故がどうして起こりえるんだろうってみんなで震えて話してた。今日はERが大変だね、フロアの病室もいっぱいになりそうだね、ってオフィスで口々に言ってたら、そんなどころじゃないことがわかった。

ディレクターが、入った情報をその都度知らせに来る。1機だけじゃなくて、2機。墜落事故じゃなくて、テロリストのハイジャック。ワシントンDCでペンタゴンが追撃されて、燃えている。JFKの空港も燃えている。シティからの橋は全部遮断されて、交通機関も全てストップ。

ERに続々と患者さんが運び込まれるから、受け入れ体制についてお達しが出る。

怖くて、泣きそうで、震えて仕事なんか出来ないと思った。

一歩も外に出ないように言われ、病院内でもIDは絶対外さないようにと言われる。ERへ運び込まれる患者さんへの対応だけじゃなくて、病院の玄関の警戒体制もすごい。入り口はメインエントランス以外は全部シャットアウトされて、病院内のシティホスピタルポリスの警官が総出で張る。

フロアに行くと、いつも通りの冷静さでみんなが対応してる。すごいと思った。わたしは正常な精神状態で仕事が出来そうになかった。病室では入院患者さんたちがみんなテレビのニュースに釘付けになっている。事件と関係のない入院患者さんたちを、いつもどおりに診なくちゃいけない。不安にさせちゃいけない。泣きそうになってる場合じゃない。

なのに、フロアでハンサムドクターの顔を見て、泣きそうになった。
ゆうべもオーバーナイトだったドクターは、帰れなくて今日も引き続き仕事。「何が起こったか、知ってるよね」「うん、・・・コワイよ」。病院で抱きしめてもらうわけにはいかない。だけど、すがりつきたかった。ドクターはやっぱり冷静で、どんどんかかってくる電話にテキパキと対応して指示してる。ERから移される患者さんを待機して、すべてのフロアを回る。

その合間にも、わたしのフロアに来てくれて、わたしにはにっこり笑ってくれる。「おなかすいた。朝ご飯つきあってよ」って言ったりする。行きたかったけど、そんなわけにはいかなかった。手にしてた液体のサプルメントの缶を見せて、「これ飲む?」なんて言うわたし。ドクターは笑った。

大変な一日なのに、何度もわたしのフロアに見に来てくれた。途中で、ピッツバーグでまた1機飛行中の旅客機が発見されたことを教えてくれる。「きみのペイジャーの番号、置いてきちゃったよ。教えて」って言われて紙に書いて渡した。それでも午後遅くになってからは、もう姿が見えなかった。ペイジャーも鳴らなかった。

なんでこんなことが起こらなきゃならないんだろうと思った。ずっと思ってた。人がたくさん死んで、傷を負って、住むところもなくして、シティはもとの姿を当分取り戻せない。あのシティが瓦礫の山になっている。時間が経つにつれて、もう事件のことは当然のように誰にも受け止められる。わたしはいつまでも悲しくて、恐ろしかった。

今日は泊まりだと言われてたけど、2時間くらいいつもより遅くまで待機したあと、帰って来られた。帰りの高速は、シティに向かう方向はほとんど通行止めで、ポリスカーと消防車がサイレンを鳴らして走り続ける。検問もすごかった。

ひとりで寝るのがなんだか怖くて、ドクターのところに行きたいと思ったけど、無理な話だった。帰ってくると、たくさんメールが来てた。夫からも父からも母からも、心配の電話がかかってきた。

あの人に電話する時間になってかけたけど、「国際通話がかかりにくくなっています」っていうメッセージが流れて、何度もかけてやっと繋がった。

「よかったー」。わたしの声を聞いて、そう言った。
心配したよー。ずっとニュース見てた。何度も電話したけどいなかったし、仕事に行ってるんだとは思ったけど、ずっと心配してた。よかった。一睡も出来なかった。よかった。よかった。よかった。きみが無事でよかった。

何度もそう言ってくれた。あと少ししたら、またかける。「安心したから、少し寝られるよ。2時間経ったら起こして」って言ってたから。嬉しかった。そんなに心配してくれたんだ。ほんとに嬉しかった。


わたしは明日も仕事に行く。きっと今日よりもずっと大変な一日になる。頑張らなきゃいけない。


心配してメールくださった方たち、ありがとう。
わたしは大丈夫です。でも、たくさんの人たちが犠牲になってます。天災じゃなくて、人の手によって。少しでも救いになれるように、頑張って仕事してきます。


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しっぽのない悪魔 - 2001年09月10日(月)

アパートにいると、電話が鳴る。ドクターは取ろうとしない。留守電にメッセージを残す女の子の声が聞こえる。その前にも別の女の子からかかってきてた。「出なくていいの?」「いい。僕のことが好きな子なんだよ」「ふうん。女の子はみんな自分が好きだと思ってるんでしょ?」「思ってないよ。みんながそう言うだけさ」「あっそう。あたしは好きじゃないよ」「好きじゃないの?」「好きじゃないよ」「ほんとに好きじゃないの?」「好きじゃないよ」「ひどいなあ」「あなたはあたしのこと好き?」「好きだよ。好きに決まってるじゃん」「一体何人ガールフレンドがいるの?」「ガールフレンドはいないよ。そう言っただろ?」「じゃなくて、女友だち」「7人」。

突然、涙がこみあげてきた。わたしはその中のひとりで、ドクターは7人の女友だちとおんなじようにこうして過ごすんだと思った。みんなおなじように好きなんだと思った。ドクターへの想いとあの人への想いと、あの人の彼女への想いとわたしへの想いと、どれひとつみんな悲しくなった。いつまでたっても抱えたまんまの自分の痛みが、一気に押し寄せてきた。

気づかれないように、ふざけてるふりしてドクターのシャツに顔をうずめる。ぎゅうっと顔をうずめて離れない。何やってんの?ってドクターが笑いながらわざと立ち上がっても、自分の体をずるずると引きずって、顔をうずめたまま離れない。わたしも笑いながら、離れない。

気がつい て、ドクターはわたしの頭を掴んで無理矢理離す。涙と化粧でぐちゃぐちゃになったドクターのシャツ。「見ないで」って、ぐちゃぐちゃの顔をそむけようとするわたし。ドクターは驚いた顔してわたしを見る。その顔を見て、ポロポロ涙がこぼれた。

「どうしたの?」
「・・・。」
「僕がいいかげんなことしてきみを惑わしてると思ったの?」
「・・・ううん。」
「僕はね、今はほんとにシリアスな関係が欲しくないんだ。それなのにきみとこんなふうに会ってるのが、きみはいや?」
「・・・。」
「僕は好きだよ、きみといるのが。楽しいよ。きみと過ごせる時間がすごく楽しくて、幸せだよ。だけどきみがただの友だちでいたいなら・・・」
「違うの。違う。心配しないで。なんでもないよ。平気だから。」
わたしは笑って見せる。あの人の電話で泣くみたいに、子どもみたいにひくひく泣きながら。
「なんでもなくない。平気じゃない。」
あの人とおんなじ言葉だ・・・。

ドクターはわたしにキスする。ひくひく泣くからいつもみたいにちゃんと応じられない。「もう、キスしてくれないの?」。わたしは返事をしないで、自分からドクターにキスをする。

男の人は、どうして泣いてる女を抱きたがるんだろう。泣いてるときに抱かれると、どうしてあんなにいいんだろう。長い長い時間だった。言葉もいっぱいくれた。頭がくらくらして、もう動けないほどに果てた。キッチンからペーパータオルを取って来て、ドクターはごわごわのペーパータオルでわたしの鼻水と涙を一緒に拭いた。

「ちゃんと話して。僕はきみに正直にしかなれない。だけどきみを傷つけたくない。ただの友だちでいたほうがいいの? 傷つけたくないから、ちゃんと話して。」
なんでそんなにあの人みたいなの?
「ううん。このままがいい。」
「ほんとに?」
「そうじゃないの。そのことじゃないの。あたし、あなたがシリアスなガールフレンド今は欲しくないって気持ち、ちゃんと理解してる。だけど。だけど、じゃあなんであたしを誘ったの? 6人もシリアスじゃないガールフレンドがいるのに。だって」
「聞いて。ちゃんと聞いて」。
わたしの言葉を遮って、ドクターは言う。またあの人とおんなじ言葉。
「ただの仲のいい友だちだよ。一緒に出かけたりするけど、誰ともキスだってしたことない。」
ほんとに? ドクターの目を見つめる。
「信じてよ。きみだけだよ。ほかの誰ともキスさえしない。・・・わかった?」

「キスしないでセックスするの?」。わたしはもう笑ってる。
「バカ。娼婦相手だよ、それじゃ。あのね、7人の女の子と平行でセックスなんかしてたら、精液が枯れてペニスが脱水状態になるよ。ドライプルーンだよ。レーズンふたつ付きの。」「それ、診断名は『重体の脱水症状』だね」。笑ってわたしは抱きつく。


「きみはお尻に骨があるんだよ」。わたしは思わず自分のお尻に触る。「これ、骨じゃなくてしっぽだよ」「猫なの?」ってドクターは笑う。「猫じゃなくて、悪魔なの」「悪魔なのか」。また笑う。「違う、やっぱりあたしは天使。しっぽが生えてる天使だよ」。言ってから、胸が疼いた。「悪魔はあなたよ。しっぽのない悪魔」「僕は天使だよ」。

どきっとした。わたしは笑う。笑いながら、切なさで胸がいっぱいになる。
違うよ。あの人が天使なの。


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全部 - 2001年09月08日(土)

朝6時ごろ目がさめて、今日は頑張って勉強しようかなって思ってたら電話が鳴る。

「Hello?」

うそ。あの人の声?
黙ってたら、「もしもし?」。

大きな声で名前を呼んだ。「なんで? どうしたの?」。あと2日あるはずなのに。
答えないであの人が言う。「今かけなおせる?」

これからまた大阪に出張だって言った。あんまり疲れたから一旦うちに帰ることにしたって。明日また朝早く行くんだよって。

「変な夢見たよ。」
「どんなの?」
「きみがガムくれってきかないんだよ。ガムちょうだい、ガムちょうだいって。あげないでいたら、泣き出しちゃってさ。そんな夢見たから、早く電話しなきゃって思った。」

わたしの夢見てくれた。夢の中のわたしは去年の夏の初めのまんま? 送った写真のわたし?
もうずっとずっと長いこと、声を聞いてないみたいだった。
「すっごい久しぶりみたい。」
「すっごい久しぶりじゃん。」

わたしが言ったのは、もう何年もって意味だったんだよ。


あの人の声は、わたしのからだを優しく砕いていく。
そして、クラッシュの氷の上からお湯をかけたみたいに、砕かれたからだが音を立てながら溶けていった。水になったわたしが、あの人の声にゆらゆら揺れてる。

「めちゃくちゃ疲れた〜。」
「大丈夫?」
「うん・・・。でも楽しいよ、疲れるけど。『お疲れさま』って言ってよ。」

やだよ、そんな奥サマっぽい台詞。夫にだって言ったことない。彼女に言ってもらえばいいじゃん、って思う。だけど言ってあげる。思いっきりかわいい声で、「オツカレサマ」って。そして少し悲しくなる。

疲れてるなら、この水を飲んで。
あなたのからだの中に閉じ込められてしまえればいい。
ずっとそこにいて、あなたのからだを守っててあげるよ。
あなたの命の水になりたいよ。


あなたがふたりいればいいのに。
「なんでひとりしかいないの?」って、いつか泣いて困らせた。

「そんなにガムが欲しかったのか。」
「なんでくれなかったの?」
「あげたよ、最後には。」

ちょうだい。
あなたを全部ちょうだい。
最後には、わたしに全部ちょうだい。

あなたじゃなきゃだめ。やっぱりだめ。
涙が出るくらい、あなたが好き。


なのに、明日わたしはドクターに会いに行く。
そしてドクターの腕に手を伸ばす。
ドクターをもうひとりのあの人だと思いながら。









-

半分 - 2001年09月07日(金)

今日は夜勤明けのドクターは、朝11時ごろにオフになる。わたしはまたいつもと違うフロアをカバーしたから一緒に仕事が出来ない。いつものフロアのスタッフルームを覗くと、ほかのドクターがいて、慌ててその場を離れる。少ししてまた覗いてみたら、ハンサムドクターがひとりでいた。名前を呼ぶ。顔見に来たりして、とてもストイックなんか装えない。「今日あたし、ICU 全部カバーするんだ」。顔見たかったのは、その不安があったせいもある。「大丈夫、大丈夫。ちゃんと出来るよ」って励ましてくれる。「もう帰るの? 帰っていっぱい寝なきゃだめだね」「うん、寝るよ。もうくたくた」。

忙しい一日だった。いつもより1時間も遅く終わって、オフィスからドクターに電話した。ドクターはうちにいなくて、留守電にメッセージを残す。「今終わったの。いるかなあと思ってかけたんだけど。夜電話してね」。

うちに帰ってほんの30分ほどしたら、電話が鳴った。「寝たよ。あーでもまだ疲れてる」。そう言って大あくびを3回するとこなんか、あの人とまるで一緒。1時間くらい、バカなこといっぱい話す。明日はビーチに行くって言ってた。「今週末、きみ仕事だと思ってたよ。そう言ってたじゃん」「違うよ、来週って言ったじゃん」「なんだ、来週だったのか」。明日わたしがお休みってちゃんと知ってたら、わたしをビーチに誘ってくれた? 女友だちと行くって言った。黙ってたら、「ただの友だちだよ、ほんとに」なんて言う。妬いたと思った? 妬いたかな。わかんない。「顔いいヤツだからなあ」とは思った。「日曜日は何も予定ないよ、きみは?」「あたしもない。どっか連れてってよ」。自分から誘っちゃった。だめじゃん、ほんとにストイックなふりが出来ない。


「あたし、顔がいい男信用してないの」。顔がいいって自認してるドクターは言う。「じゃあなんでデートに誘ったとき、オーケーしたのさ」。「だってたいくつしてたんだもん」「言ってくれるじゃん。じゃあなんで電話番号教えたのさ」「思わず言っちゃったのよ。流れってものがあるじゃん」「うそだよ。好きだっただろ? 僕が声かける前から」「何言ってんの。顔がいい男信用してないって言ったでしょ」「いや、きみは僕のこと好きだった」「やめてよ、違うったら。じゃああなたはなんであたしを誘ったの?」「たいくつだったから」。仕返しされる。「あたしのこと、いつから知ってた?」「何回もフロアで見かけてたよ。話してみて、いい子だなって思ってた。きみは?」「あたしも前から知ってたよ。顔がよくてヤなやつだなあって思ってた。話しかけられて、気をつけなきゃって」「じゃあなんで、オーケーしたんだよ」。まだ言ってる。

だって、あのときはあの人の「きみと同じくらい大事」が悲しかったんだもの。どうしようもなく淋しくて辛かったんだもの。気晴らしが欲しかったの。でもほんとは、デートも乗り気じゃなくなってたんだよ。あの日の朝まで、後悔してたんだよ。そんなこと内緒だけど。

「簡単にオーケーすると思ったんでしょ? あたし、ほんとはそんなに簡単じゃないんだよ」「わかってるよ、誰にでもは簡単じゃないって。僕にだから簡単だったんだろ?」「ねえ、なんでそんなに自信家なのよ」「自信家じゃないよ。誰でも僕には簡単なだけさ」。バカ言って。


そんなことばっかり言いながら、今日もまた「なんでオーケーしたの?」って聞く。なんでそればっかり聞くの? 誰でもみんな簡単にオーケーすることを、密かに悩んでたりして。まさかね。 Dr. カシーのことも気にしてる。あの、素敵なドクターのこと。「ほかのドクターに誘われたことある?」って聞くから、「ないけど、素敵だと思うドクターがいたの」ってわたしが話したから。今でも素敵だとは思ってるよ。でも言ってあげる。「Dr. カシーは、ただ素敵なの。あなたのことは、デートしたとき『顔がよくてヤなやつ』は消えた。 どうせ調子のいいちゃらちゃらしたヤツって思ってたけど、そうじゃないってわかった。あなたはただのいい人じゃないよ。それ以外もある」「それ以外って、何?」「悪いヤツ」。


どんなにどんなにどんなに、どんなにあの人を愛してても、わたしはあの人の特別な友だち。半分だけの恋人。それがいやなんじゃない。苦しいだけ。

ハンサムドクターは、一緒に過ごせる時間をくれる。触れ合える肌のぬくもりをくれる。どんなにどんなに願っても、あの人からはもらえないもの。あの人が彼女にしかあげられないもの。ほかの誰かにそれを求めてたわけじゃない。ただ、突然やって来た居心地のいい場所。まるであの人といるみたいな。

わたしはドクターの、半分だけのガールフレンド。それも10ヶ月の期限付きの。

半分と半分を足したって、ひとつにはならない。


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行く - 2001年09月06日(木)

ドクターはわたしのことを、日本人に見えないっていまだに言う。アジア系のハーフかなとは思ってたけどって。「絶対日本人じゃないよ。嘘だろ、日本人って」「なんでよ。正真正銘の日本人だよ。日本人ってどんなのよ? あたしはどう違うの?」「違うよ。日本人の顔じゃない。日本人はそんな顔してない」。わかんないよ。確かに、日本人の女の子ってもっと楚々としててきちんとしてて、柔らかくて儚げだとは思うけど。わたしって、粗雑で野蛮っぽい顔してるのかな。

証拠に日本語しゃべってみてよって、日本語知らないくせに言う。
「おなかすいた」とか「眠たい」とか、しょうもないことしか思いつかない。

「じゃあさ、おもしろいこと教えてあげる。英語じゃ『来る』っていうでしょ? 日本語は『行く』って言うんだよ。」
「へえ? なんで『行く』なんだろ?」
「わかんない。come の意味の『行く』だとは思うけどね。でも単語にすると『行く』なの。」

ドクターと話してると、いくらでもおしゃべりが続く。時間が経つのを忘れる。「ジムに行く時間、なくなっちゃったよ」って言いながら、「泊まってく?」ってドクターは聞く。だめだよ。あんな背中の開いた短いドレスで仕事に行けるわけないじゃん。

「きみと話してると、すぐ時間が経っちゃうよ」って、またあの人の言葉を思い出す。

わたしはドクターの腕の中で言う。
「お願いがあるの。」
「何?」
「Let me go. I wanna go.」
「わかった。」
ドクターは上体を起こす。帰りたいって言ってると思ってる。わたしはくすっと笑って言う。
「わかってない。」
そして抱きつく。
「・・・。日本語の You wanna go?」
「そう。」
「だって、生理だろ?」
「できるよ。」
「どうやって? 手で?」
「うん。」

ドクターはわたしを抱いてくれる。さっきのお返し。

「I came」って言ってから、「I went」って言い直してわたしは笑う。
「どこに行ったの?」ってドクターが聞く。
「天国。天国に行って帰って来た」。
ドクターは笑いながら、抱きしめてくれる。


今日はわたしは一日いつもと違うフロアで仕事だった。昨日の病棟の患者さんが気になって立ち寄ったときに、廊下を向こうに歩いてくドクターの後ろ姿をちらっと見かけただけだった。帰る時にペイジする。ER にいるって言う。「帰るの?」「うん」「ギフトショップのとこまで来れる?」「うん。でも ER でしょ? 抜けられるの?」「今ならちょっとだけ。顔見てバイって言いたいから」。

「今日はどうだった? 一日顔見なかったね」「あたしは見たよ、後ろ姿ちらっと」。いつも、仕事のことをどうだった?って聞いてくれる。あの人と一緒。ドクターは今日もまた泊まりらしい。夜電話するよって言ってくれる。


今日はとても辛い患者さんを二人診た。知らない男に性暴行を受けて、4日間吐き続けて高熱が下がらない小児科の ICU の13歳の女の子。お母さんがストローでジュースを飲ませようとしても、イヤイヤをして泣き続ける。それから、何もしゃべられなくなって、何も食べられなくなった、精神科の韓国人の35歳の女の人。来ていたお姉さんに、「お家で食べてる韓国の食事、彼女の好きなものなんでも持って来てあげてください」ってお願いする。土色の顔は無表情で、生きてる人とは思えない。

苦しい思いをいっぱい抱えて、それでも人は生かされる。
わたしはいつも思う。だから天国はきっととても幸せなところなんだって。あの娘が教えてくれたように。そして、どんな人だって、必ずみんな天国に行って、幸せに暮らせるんだって。


あの人の声が聞けるまで、あと4日。


-

煙草 - 2001年09月05日(水)

カリビアン・パレードからまた地下鉄に乗ってドクターのアパートに帰る。やっとふたり分の席が空いて並んで座ると、ドクターはわたしのこめかみにキスしたまま目をつぶって寝てしまう。向かい側の窓に映るドクターの横顔にときどき目をやりながら、その窓の下に座っているカップルをわたしは眺めてる。綺麗で上品な感じの女の子と、優しそうな彼。女の子は左手に Victoriaユs Secret の薄いピンクの小さな紙袋を持っていて、薬指にダイヤのリングと結婚指輪をしてる。ちっちゃなくちびるをしきりに動かして続ける女の子のおしゃべりを、微笑みながら彼は聞いてる。幸せそうだなって思いながら、あの人と彼女のことを想像する。

アパートに着くと、夜勤明けで疲れ切ってるドクターはベッドに倒れ込んでもう目を閉じてる。地下鉄の駅から歩く道であんなにふざけておしゃべりしてたのが嘘みたいに。わたしはベッドの端っこに座ってドクターの顔をのぞき込む。「寝ちゃったの?」「ん・・・。殆ど寝てる」。わたしはふざけて言ってみる。「キスして」。ドクターは目を閉じたまま、首を横に2回振る。「キスしてよ」。片目を開けるから、その隙に「お願い」って付け足す。「お願い、お願い、お願い」。3回繰り返す。ドクターは笑い出して、「もっとちゃんと懇願してごらん」って言う。「Could you please」。わたしは真面目な顔をしてみせる。今度は笑わないで、頭を引き寄せてキスしてくれる。

ドクターはわたしを抱き寄せる。「5分だけ寝させて」。ドクターが言う。

「あと10分寝させて〜。」
あの人のいつもの朝の寝ぼけ声が聞こえる。

「きみも寝る?」。ドクターがまた片目を開けてわたしに言う。

「一緒に寝よ?」
またあの人の声が聞こえる。わたしが寝る時間で、あの人がお休みのお昼に、電話を切る前にときどきそう言ってくれる。一度、「あたし、まだ寝ないよ」って言ったら、「一緒に寝ようよー。僕も昼寝がしたいからさー。こんなチャンス、めったにないんだよ」って言った。「抱っこしたげるから」。いつからか、電話の向こうのあの人に抱かれて眠るふりも上手に出来るようになる。

サンダルをベッドのわきに脱ぎ落として、わたしはドクターの隣りに滑り込む。ドクターの寝息を聞きながら、あの人が仕事に疲れて彼女に会いに行く時はこんなふうなのかなって思う。

目をさましたドクターはわたしをいっぱい抱きしめて、いっぱいキスしてくれる。そしてわたしのドレスを脱がせる。だけどわたしを抱けない。だからわたしが抱いてあげる。ドクターはわたしの頭を抱きしめて、わたしの髪を掴んで、わたしの口の中で果てる。

「たばこ吸っていい?」。たばこを吸わないドクターは答える。「窓のところでならね」。わたしは素肌にシャツをはおって、窓辺に立ってたばこを吸う。灰皿がないから、下の階のバルコニーに灰のかたまりが落ちないように、親指で吸い口をはたきながら灰を風に散らす。日が落ちかけたビルの谷間をぼんやり眺めながら、あの人のことを考える。きっとわたしのことを心配してる。声が聞けなくて、淋しくて泣いてるわたしを心配してくれてる。

ベッドに戻るとドクターが聞く。「Do you feel better?」。何て答えたらいいかわからない。違うよ。そんなつもりじゃなかったの。わたしは答えないで思い出してる。あの人と一緒に吸ったたばこ。わたしのメンソールを吸ってみたいって言うから、自分のたばこに火をつけて、それをあの人に渡した。「メンソールって、強さがわからないね」。そう言ってわたしに返したたばこを、わたしが吸って、またあの人に渡す。そうやってベッドの上で一本を一緒に吸った。


今日は新規の入院数が多い上に、難しい患者さんが多かった。病室からナースステーションに戻ると、ドクターがいた。わたしを見つけて話しかけてくれる。「今日はどう?」「ちょっと大変。お昼からB4もカバーしなくちゃいけないし」「僕は昼からB6だよ」。ドクターもB4だったらいいのになって思ってたから、がっかりして「B6なの?」って聞き返す。「うん。そのあとクリニック。でもその前にまた会えるよ」って言ってくれる。

お昼からB4で、また難しい患者さんのメディカルレコードに頭を悩ませる。ふと顔を上げると、ドクターが立っていた。「大変そうだね」「うん、あとまだ7人診るの。出来るかなあ」「大変じゃん。僕はこれからクリニックだよ。頑張れよ。じゃあ、また明日ね」。わざわざ来てくれたんだ。素敵な色のシャツを着てた。「素敵だね」って言ってあげたかったのに、言い忘れた。「夜、電話して」って言おうと思ったのに、いいそびれた。


急いで帰る必要がない。あの人にモーニングコールをしないから。うちに帰ると、まるでいつもは待っててくれてる人がいない家に帰って来た気分になる。いつもチビたち以外には誰もいないのに。

わたしは窓辺でたばこを吸う。


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季節 - 2001年09月04日(火)

季節が変わりそうで変わらない。
まだ陽差しがとてもまぶしくて、
ずっと夏服を着ていたいわたし。

「ちょっとでも時間ができたら電話する」。

わたしはバカみたいに待ってる。

今度声が聞けるときには
もう少し秋に近づいているのかな。


生理痛がひどくて
ほとんど一日仕事にならなかった。
一回だけちらっとドクターの顔を見て、安心した。

夜中に夫から電話があった。
とてもなつかしかった。
「またかけるよ」って言われて
「またかけて、待ってる」ってすがるように答える。
身体が辛くて、何を話したのか覚えてない。


人は季節を追って生きているの?
季節が人を追い立てているの?

なんでわたしは、
ちゃんと時の流れについていけないんだろう。



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腕の中の安心 - 2001年09月03日(月)

昨日からあの人は1週間の出張。
地獄のような出張って言ってた。
土曜日から帰って来るまで、もう電話出来ないはずだったのに、
「行く日の朝起こして」って言われて電話した。
いつもよりたくさん時間を用意してくれてて、たくさん話せた。
たくさん話して、たくさん笑った。

切るときが淋しかった。
「もう行く時間?」「もう行っちゃうの?」。
何度もそう言いながら引き延ばしたから、
「朝ご飯食べる時間なくなっちゃったよ」って言われてしまった。

「気をつけてね。頑張ってね。」
「気をつけるのと、頑張るのと、どっちが大事?」
「両方。」
「うん。」
切ってから、ひとりで泣いた。そしたら電話が鳴る。
「泣いてると思ったよ。」

「帰って来たら、すぐ電話するから。でも心配だから、時間がちょっとでも出来たら電話する。」

わたしはちゃんと愛されてるよね?
彼女のことをどんなに愛していても。
手に触れられるものも、目に見えるものも、確かめられるものは電話の声以外に何もないけど。


今日はレイバーデーの休日だった。
ドクターがカリビアン・パレードに連れ出してくれる。
まるで別世界のお祭りさわぎ。
カリビアンな熱気。ジャマイカのリズム、キューバのリズム。ウェスト・インディアンのセクシーな民族衣装。きらびやかなオーナメントとコスチューム。カラフルなバンダナを頭に巻き付けた見物客も踊る、踊る、踊る。わたしは腰まで思いっきりベアなミニのドレスを着て、背中に浴びる陽差しがじりじりと気持ちいい。屋台のおもしろそうな食べ物を買っては、ふたりで順番にほおばる。

ドクターは最初から最後まで、はぐれないように手を繋いでいてくれる。
人にぶつかりかけると、抱き寄せてくれる。
時々立ち止まって、抱きしめてくれる。
ときめきじゃなくて、情熱じゃなくて、わたしは心地よくて安心する。


「いい曲だね」ってふたりで聴き入ったダミアン・マーレー。
お祭り騒ぎの中でさえ、ドクターといると穏やかな時が流れる。
音楽に声がかき消されるから、抱き合いながら大声でおしゃべりして笑い合う。
それでも穏やかな時を感じる。
はしゃぎまわる天使を追いかけたときも、夢の話を聞いたときも、ジョークに笑い転げたときも、いつもいつもわたしの中で時が穏やかに流れてたあの5日間のように。

言葉が違うのに、ドクターのおしゃべりがあの人の話に聞こえることがある。
こんなことは2回目。
NユSYNCの「This I Promise You」を車の中で初めて聴いた去年の秋、まるであの人の言葉を聞いてるみたいで泣きそうになった。

ドクターはいったい誰?
天使じゃないのは確か。


会いたい。会いたい。会いたい。
あの人に会いたい。
今すぐ飛んで行きたい。
あの人の腕の中で安心したい。


-

予告編 - 2001年09月02日(日)

わたしはドクターにあの人を重ねてる。
チャイナタウンでごはんを食べて、イタリー街を歩いて、
あの人を連れて来てあげたいと思いながら
一緒にいるドクターに、遠いところにいるあの人を感じてる。

ブックストアーの中のスターバックスでコーヒーを飲みながら、
ドクターが抱え込んできたタイと日本のガイドブックを一冊づつ手にして、
ドクターはときどき「見てこれ。すごいよね」って言いながら、美しい絵が彫られたタイの古代の金の刻版の写真をわたしに見せる。
わたしは「観光客が知っておくべき日本の事実」のページの嘘だらけに吹き出しては、「ねえ、ここ読んで。これ嘘ばっか。ほんとはねえ」って教えてあげる。

そんな、ものすごくくつろいだ気の休まる時間を、
まるであの人と過ごしてるような錯覚に陥りそうになる。
あの人が突然ここに現れて、
もう彼女なんかいなくて、わたしにも日本に戸籍上だけの夫なんかいなくて、
苦しかった時間が全部飛んで何もかも忘れて、
はじめから恋人だったみたいに一緒に過ごせたらきっとこんなふうなんだろうなって思う。

わたしがずっと信じてる、百年か千年か二千年後にまた出会えるあの人とわたしの未来の、これは予告編なのかもしれないと思う。

ブックストアーから地下鉄の駅まで歩きながら、ドクターが話す。

3ヶ月前に恋人と別れたこと。それはこの前聞いていた。その別れが彼にとってものすごい痛みで、そのあとの3ヶ月間、まるで痛みを癒すためだけみたいにたくさんの女の子と出会っては別れたこと。一晩だけの関係もあったこと。行きずりの相手なのかなと思って、わたしは聞く。

「一晩だけって、どういうの?」
「きみと先週デートしたみたいな。それであのままおしまいになったみたいな。あの時きみはガールフレンドじゃなかったろ?」
「今は? あたしはガールフレンドなの?」
少し黙ったあとで、ドクターは答える。
「慎重になってると思う。あの失恋が大きすぎたせいだと思う。」

地下鉄の、人が溢れる夜遅いプラットフォームで、どちらからともなく抱き合いながら、そんな話を続ける。決して深刻にではなく。

「あなたはあたしから何が欲しいの? 何を求めてる? セックスの関係?」
「きみとのセックスは好きだよ。だけどそれだけじゃない。なんでそんなこと聞くの?」
「あたしはあなたがあたしに何を求めてたとしても、ちゃんとそれを知っておいて、はじめからそのつもりでいたいって思うから。」
「きみはセックスの関係が欲しかった?」
「No! No, no, ・・・no.  そうじゃない。絶対違う。」

なぜかとても、安心した。セックスを求め合ってるんじゃない、ってことにじゃなくて、抱き合ったからそのまま繋がっていたいわけじゃないってことに。お互いの求めてるものが同じようなものだということに。ふたりとも早急ではなくて、慎重にこの関係を見つめてることに。お互いに、何も約束なんか出来ないってことに。

ドクターは10月に休暇でタイに行ったら、そのあと別の病院で働く。そして来年の7月には、こことは方角が正反対のところであと3年レジデントをする。「10ヶ月のあいだにきみを出来るだけ連れ出してあげるよ。ここのこと、きみはまだなんにも知らないからさ」。

それでいいと思う。ドクターはそのあいだに、今まで癒せなかった痛みをきっと癒してくれる。わたしの痛みは消えそうにはないけど、居心地のいい場所が出来る。うんと遠い未来の、わたしだけのあの人を想いながら過ごせる場所。



来年の7月。

あの人はもう結婚してるんだろうか。
わたしがまたひとりぼっちになってしまうときに。


-

あわあわのお風呂 - 2001年09月01日(土)

早起きして、
シャンプーして、
バスタブに泡をいっぱい作ってお風呂に入る。

ウィークデイの朝は
急いでシャワーを浴びるから、
週末はゆっくりバスタブに浸かる。

あわあわのお風呂にあの人と一緒に入りたいなあって思う。

「プリティウーマン」のジュリア・ロバーツみたいに、
あわあわのバスタブではしゃぐの。
あの人はリチャード・ギアみたいじゃなくて、
きっとわたしよりもっとはしゃぐの。

頭のてっぺんから泡だらけになって
笑いながらキスしたいな。


それからガスステーションに行って、
車にバキュームをかける。
窓を開けて手を外に出しながらたばこを吸っても、
風で灰が戻ってきて
後ろの座席に積もってる。

とても女の子の車とは思えない。
車じゃ吸わないって決めてたのに、
いつからか平気で吸ってる。
淋しいとたばこの量が増える。

そして、郵便局にあの人からのプレゼントを取りに行く。
やっと届いた小包。
昨日、メールボックスに不在配達の通知が入ってた。

アメリカに来たときのおみやげと、
お菓子がいっぱい。

でも入ってなかったよ。
クリスマス兼バレンタイン兼バースデーのプレゼント。
それから、アメリカで買ってくれたって言ってた
バスタブに入れる「あわあわの素」。

ずっと楽しみにしてるのになあ。

あなたから「あわあわの素」が届いたら、
ハンサムドクターとのデートの日には
絶対使わないからね。

一緒にあわあわのお風呂に入るときまで
取っておくよ。
そんな日、来ないかもしれないけど。


これからお出かけ。
ドクターとデート。

ごめんね。
大好きよ。

一番一番、大好きだよ。
ほんとだよ。




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